(1)原文「將發夕」。「發夕」は宿舎を離れる、の意。一説には夕方に出発して夜をかけて行くことを指すともいわれているが、ここでは実際に行動を起こしたのは夜明け頃であるので、前者の意であろう。
(2)司馬懿の逝去は嘉平三年(251)8月のことである。また、『晋書斠注』に引く『廿二史攷異』は、「宣帝の死は、晋書の本紀には全て『崩』と記されており、ここで『薨』となっているのは後人が書き改めたものであろう」としている。
(3)伊尹は殷の賢相。伊陟はその息子でまた賢相であった。
(4)『三国志』呉書第三「孫亮伝」には、「三月、諸葛恪が魏討伐に向かい、四月に合肥新城を包囲したが、疫病の大流行により兵卒の大半が死に、八月に兵をまとめて帰還した」と記されている。
(5)『三国志』魏書第九「夏侯玄伝」によると、李豊らの事件があったのはこの年(嘉平六年)二月のこととされている。
(6)『三国志』魏書第九「夏侯玄伝」によると、舎人の名前は王羕となっている。
(7)『魏氏春秋』には、李豊が「お前たち父子は悪心を抱き、社稷をひっくり返そうとしている。わしの力が足りず、うち滅ぼせなかったのが、残念だ。」と言ったと記されている。
(8)「糾虔天刑」の語は『国語』「魯語下」にある。韋昭の注には、「糾は察(ただす、取り調べる)である。虔は敬(つつしむ)である。刑は法である」とある。
(9)周勃は前漢の創業の功臣。呂后が崩じたとき、呂氏一族の陰謀を抑えて、陳平とともにこれを誅した。このとき、禁衛軍に向かい、「呂氏たらんものは右袒せよ、劉氏たらんものは左袒せよ。」と叫んで、禁軍の動揺を防いだ。
(10)霍光は前漢の名相で驃騎将軍霍去病の異母弟。貧民救済中心の彼の政策を嫌った上官桀らは霍光を除こうと謀るが、昭帝はかえって上官桀らを除き、ますます霍光を信任した。
(11)原文「縦其醜虐」。「虐」は「いじめ、むごい扱い」の意である。しかし『三国志』魏書第四「斉王紀」注に引く『魏書』では「縦其醜謔」となっており、後文の内容から「謔」つまり「おどけ、たわむれ」と解釈した方が適当と考え、それに従った。
(12)湯王の崩御後、その孫太甲が無道で逢ったため、伊尹は太甲を桐宮に放逐した。三年の後太甲の悔悟を知り、伊尹は彼を呼び帰し、再び天子の位につけた。
(13)昌邑王賀は前漢の武帝の子・昌邑哀王髀の子で、昭帝の崩後、後嗣がなかったために霍光らに迎えられて嗣立されたが、品行が悪く、即位から二十七日にして廃された。霍光らは後に宣帝(武帝の長子の孫)を迎えた。
(14)合陽君は永寧太后の母・杜氏。『三国志』は「郃陽君」としている。
(15)『三国志』魏書第四「斉王紀」注に引かれている『魏書』によると、龐煕が諌めたのは張美人の件ではなく、「お側付きの家来と天子が手を繋ぐのは穏当ではない」という別件だとされている。また、「またも龐煕をはじきでお撃ちなさり」というのは、『魏書』ではこれ以前に曹芳が令孤景をはじきで撃ったことが記されており、それをうけてのことと思われる。『晋書』に記されるときに、令孤景の件だけが削られ「またも」の部分が残ったため、このような文章になったのだろう。
(16)この上奏文は、『三国志』魏書第四「斉王紀」注に引かれている『魏書』に、全文掲載されている。
(17)原文「於昭穆之序爲不次」。昭穆というのは廟の順位の名前で、昭は廟の順序で祖廟の左手にあるもの、穆は祖廟の右手にあるものである。宗廟の制によると、古来、太祖の廟は中央に位置し、二世・四世…の廟は太祖廟の左手に列してこれを昭といい、三世・五世…の廟は右手に列してこれを穆といったという。
(18)『詩経』「小雅・鹿鳴之什・鹿鳴」には「視民不恌、君子是則是傚」とある。一説には「視」は古の「示」の字ともいわれる。
(19)本文中では九月癸巳となっているが、『三国志』魏書第四「高貴郷公紀」によると十月のことである。十月癸巳は八日にあたる。
(20)周の宣王は周王朝中興の祖。幼時に父の厲王國人に逐われたが、賢臣召公の家に匿われ、長じてから王位についた。賢相、仲山甫と尹吉甫の輔けを受け、周室を中興した。
(21)原文「日昃憂勤」。昼食を摂らずに昼過ぎまで働く骨折りのことを「日昃之労」という。
(22)伊尹のことついては注(15)参照。周公旦は文王の子で武王の弟。武王をたすけて紂を討ち、武王が崩じると成王の政を輔佐し、諸々の反賊を取り除いた。また原文「蔑以尚焉」において、「蔑」は古語で、現代中国語の「没有(〜ない)」の意。
(23)顔回・冉求はともに孔子の弟子。顔回は徳行・学問で知られた孔子の第一の高弟。冉求は人柄がすこぶる謙譲であったという。
(24)顓頊・帝嚳はともに五帝の一。緑図・柏招はそれぞれの師である。
(25)「離經辯志」は『礼記』「学記」に見られる言葉。ただし、礼記の原文では「離經辨志」となっている。
(26)「天文志下」妖星客星の条には、幅数丈、長さは天にとどくほどの白い気体が南斗六星のかたわらに出たとある。それについて、王粛(王朗の子)は「あなどり・恨みの徴である、東南に乱が起こるであろう」といった。その予言の通り、翌年二月に毋丘倹・文欽が淮南で反乱した。
(27)『三国志』魏書第二八「毋丘倹伝」には、夜のあいだに逃げ出した毋丘倹は配下にも見捨てられ、小弟の毋丘秀と孫の毋丘重だけを連れて水辺の草の中にひそんでいたところ、安風津都尉の配下の民である張属に射殺されたとある。
(28)「九命之禮」とは、天子が諸侯に賜う九等の命のことである。『周礼』「春官・大宗伯」に、「一命職を受け、二命服を受け、三命位を受け、四命器を受け、五命則を賜い、六命官を賜い、七命国を賜い、八命牧となり、九命伯となる」とある。「不敢受九命之禮」というのは、司馬懿が「伯(覇に通じ、諸侯のかしら)」となるのを辞したことをさしている。
(29)原文「誠以太祖常所階歴也」。「階」は階位をつける、「歴」は次位に列すと解釈し、「階歴」を「一段へりくだる」と解釈した。
(30)曹操の諡は武皇帝、曹丕の諡は文皇帝である。また、司馬懿は当初文公と諡されていた。この司馬昭の上表により、司馬懿は宣文公と改められ、司馬師は忠武公と諡された。