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update:2021.03.21 担当:解體晉書
晋書巻六
帝紀第六
明帝
人物簡介

明帝司馬紹(299〜325、在位322〜325)は字を道畿といい、元帝司馬睿と予章君荀氏の子である。皇太子であった時から、反乱を起こした王敦軍に決戦を挑もうとする気性であったが、永昌元年(322)に皇帝に即位した後の短い在位期間は、まさしくその対王敦戦に費やされたのであった。太寧二年(324)七月に念願の王敦軍を打ち破ったものの、翌太寧三年(325)閏八月には彼も後を追うように崩じた。享年二十七。武平陵に葬られ、廟号は粛宗とされた。

本文

明皇帝の諱は紹、字は道畿であり、元皇帝の長子である。幼いころから聡明で、元帝から特別に寵愛されていた。〔僅か〕数歳の頃、元帝と膝をつき合わせて坐っていた時、ちょうど長安からの使者がやって来たので、〔元帝は〕明帝に尋ねて言った。「お前は太陽と長安とどちらが遠いと思うか?」〔明帝が〕答えて言う。「長安が近いです。太陽の辺りからやって来たと言う人を聞いたことがありませんから、〔わざわざ行って見るまでもなく、ここで〕そのままにしていても分かります。」元帝は、これは優れた答えだと思った。翌日、官僚たちと宴会を開いて、また、このことを尋ねてみた。〔明帝が〕答えて言う。「太陽が近いです。」元帝は顔色を変えて言った。「どうしてこの前の答えと違うのか?」〔明帝が〕答えて言った。「目を挙げれば太陽は見えますが、長安は見えませんから。」こうして、ますます〔元帝は〕彼を優れていると思うようになった。

建興(313〜316)の初め、東中郎将の官職を受けて、広陵を鎮守した。元帝が晋王となると(317)、晋王太子となった。元帝が皇帝位につくと(318)、皇太子となった。〔明帝の〕性格は、この上なく孝行であって、文武の才能を持ち、賢人を敬って客を愛し、詩文もよくしていた。当時の名臣であった王導・庾亮・温嶠・桓彝・阮放たちを始めとして、皆と親しく交際していた。かつて聖人の虚実合わせた心について論じあったが、王導たちは〔明帝を〕負かすことが出来なかった。また、武芸も習得しており、よく将士をねぎらった。当時は東晋王朝も威儀盛んで、遠近の者は心を寄せていたのである。

王敦の乱が起こり(322)、朝廷の軍が敗北してしまうと、明帝は〔皇太子である自分が〕将士を率いて決戦を挑もうと考え、車に乗って今にも出発しようとしていたが、中庶子の温嶠が強く諌めて、剣を抜いてむながいを断ち切ってしまったので、ようやく諦めた。王敦は以前から、明帝がはかりしれない武徳と知略を備え、朝野からこぞって敬い信頼されていたので、〔彼のことを〕不孝であると謗って〔皇太子の位から〕廃位させたいと思っていた。〔そこで〕百官を大いに集めておいてから、温嶠に尋ねて言った。「皇太子はいったい何の徳をもって誉め称えられているのか?」〔王敦は〕声音も顔色もともに厳しく、絶対に答えさせようとしていた。温嶠が答えて言った。「人の隠れ持っているものを引き出し、遠くの者を懐け近付かせる(1)ということは、そもそも見識の乏しい者がはかり知るところではありません。礼の観点から皇太子殿下を拝察させていただけば、孝だと誉め称えることが出来ましょう。」集まった者はみな、真にその通りだと思い、王敦の謀略はついに止められたのであった。永昌元年(322)閏月己丑、元帝が崩じた。庚寅、太子が皇帝位につき、大赦し、生母の荀氏(2)を尊んで、建安郡君とした。

太寧元年(323)春正月癸巳、黄色い霧が四方を覆い、建康の地に火事が起こった。李雄がその将である李驤・任回を遣わして台登の地を荒らし回り、将軍の司馬玖がここに死んだ。越嶲太守の李釗・漢嘉太守の王載が、郡を率いて反乱を起こし、李驤に降ってしまった。

二月、元帝を建平陵に葬り、明帝は裸足で歩いて陵墓へ向かった。特進の華恒を驃騎将軍・都督石頭水陸軍事とした(3)。乙丑、黄色い霧が四方を覆った。丙寅、霜が降りた。壬申、また霜が降り、穀物を駄目にしてしまった。

三月戊寅朔、改元し、前殿に出御したが、饗宴の礼は止めて、楽器を掛けたものの演奏はさせなかった。丙戌、霜が降り、草を殺した。饒安・東光・安陵の三県に火災が起こり、七千余家を焼き、死者は一万五千人に及んだ。石勒が下邳を攻め落したので、徐州刺史の卞敦は退いて盱眙を守った。王敦が『皇帝信璽』一体を献じてきた。王敦はいよいよ帝位簒奪を実行しようとし、朝廷が自分を〔中央に〕呼び寄せるように遠回しに伝え、明帝はそこで自ら詔を書いて(4)、彼を呼び寄せた。

夏四月、王敦が〔長江を〕下って来て于湖の地に駐屯し、司空の王導を司徒に転任させ、自らは揚州牧を得た。巴東監軍の柳純が王敦に殺された。尚書の陳眕を都督幽平二州諸軍事・幽州刺史とした。

五月、建康に洪水が起こった。李驤らが寧州を荒らし回り、刺史の王遜が将の姚岳を遣わして、堂狼の地で防ぎ戦い、これを大いに破った。梁碩が交州を攻め落とし、刺史の王諒がここに死んだ。

六月壬子、皇后に庾氏を立てた。平南将軍の陶侃が参軍の高宝を遣わして、梁碩を攻撃し、これを斬って、首を建康に送った。陶侃の位を征南大将軍・開府儀同三司に進めた。

秋七月丙子朔、太極殿の柱が震えた(5)。この月、劉曜が陳安を隴城に攻めて、これを滅ぼした。

八月、安北将軍の郗鑒を尚書令とした。石勒の将である石季龍(虎)が青州を攻め落とし、刺史の曹嶷が殺害された。

冬十一月、王敦がその兄で征南大将軍の王含を征東大将軍・都督揚州江西諸軍事とした。軍国費が乏しくなったので、刺史以下にそれぞれ差を設けて米を徴発した。

二年(324)春正月丁丑、明帝は朝廷に臨んでも、饗宴の礼を止め、楽器を掛けたが演奏はさせなかった。庚辰、刑期五年以下の者を赦した。方術士の李脱が、怪しげな書物を著して民衆を惑わしたので、建康の市で斬られた。石勒の将である石虎が兗州を荒らし回ったので、刺史の劉遐は彭城から退いて泗口を守った。

三月、劉曜の将である康平が、魏興の地を荒らし回り、南陽にまで及んだ。

夏五月、王敦が詔勅と偽って、その子の王応を武衛将軍とし、兄の王含を驃騎大将軍とした。明帝が親しく信頼していた常従督の公乗雄・冉曾が、ともに王敦に殺されてしまった。

六月、王敦はいよいよ朝廷に向けて挙兵しようとしていたが、明帝は密かにこのことを知ったので、巴滇地方の駿馬に乗って微行し、于湖の地に到着すると、密かに王敦の陣営を視察して帰ろうとした。〔王敦の〕軍の兵士で、明帝〔の姿を見て、これ〕は普通の人ではないと疑う者がいた。また、王敦はちょうど昼寝をしていたが、夢に太陽が〔王敦の〕陣営を取り囲むのを見て、驚いて起き上がって言った。「これはきっと、黄色いひげをした鮮卑のやつが来たに違いない。」明帝の生母である荀氏は、〔北の果てにある〕燕・代地方の人であったが、明帝の容姿は母方に似て、ひげが黄色かった。王敦はそれで、明帝のことをこう言ったのである。そこで、五騎の騎兵に捜索させ、明帝を追いかけさせた。明帝もまた馳せ逃げていたが、〔途中で〕馬が糞をすると、これに水を注いでおいた。旅館で食べ物を売っている老女を見つけると、七宝〔で、きらびやかに飾った〕鞭を彼女に与えて言った。「後で騎兵がやって来たら、この鞭を見せてやって下さい。」しばらくすると追っ手がやって来て、老女に尋ねた。すると老女が言った。「もう、随分遠くへと行ってしまったことでしょう。」そこで、例の鞭を騎兵たちに見せてやった。五人の兵士は、〔鞭のきらびやかな作りに感嘆し〕順番に鑑賞しているうちに、長い時間そこに留まってしまった。また、馬糞が冷えているのを見つけて、これはもう本当に遠くへ行ってしまったに違いないと考え、追跡を諦めた。明帝はぎりぎりのところで逃げ去ることが出来たのである。

丁卯、司徒の王導に大都督・仮節を加え、揚州刺史を兼ねさせ、丹楊尹の温嶠を中塁将軍とし、右将軍の卞敦(6)とともに石頭を守らせた。光禄勲の応詹を護軍将軍・仮節・督朱雀橋南諸軍事とし、尚書令の郗鑒に衛将軍・都督従駕諸軍事を兼ねさせ、中書監の庾亮に左衛将軍を兼ねさせ、尚書の卞壼に中軍将軍を兼ねさせた。平北将軍・徐州刺史の王邃、平西将軍・予州刺史の祖約、北中郎将・兗州刺史の劉遐、奮武将軍・臨淮太守の蘇峻、奮威将軍・広陵太守の陶瞻らを呼び戻して、建康を守らせることにした。明帝は中堂に軍営を置いた。

秋七月壬申朔、王敦はその兄である王含や、錢鳳・周撫・鄧岳ら、水陸五万(7)を派遣して、〔秦淮河の〕南岸(8)に至らせた。温嶠は、軍営を秦淮河の北に移動させ、〔秦淮河に架かる橋の〕朱雀桁を焼き、その鉾先を挫いた。明帝は自ら六軍を率いて、進んで南皇堂に軍営を置いた。癸酉の日の夜になって、壮士を募り、将軍の段秀(9)・中軍司馬の曹渾・左衛参軍の陳嵩・鍾寅ら武装兵千人をやって渡河させ、〔相手の〕態勢が整わないうちに奇襲をかけた。夜明けになって、越城で戦い、大いにこれを破り、先鋒の将である何康を斬った。王敦は憤り悔しがって死んでしまった。前宗正であった虞潭が会稽の地で正義の兵を挙げた。沈充が一万余人を率いて、王含らと合流し、庚辰、陵口の地に塁塞を築いた。丁亥、劉遐・蘇峻らが精兵一万人を率いてやって来たので、明帝は夜謁見し、これをねぎらい、将士にそれぞれ〔褒美を〕賜った。義興の人である周蹇が、王敦の任命した太守の劉芳を殺し、平西将軍の祖約が、王敦の任命した淮南太守の任台を寿春の地から追い出した。乙未、賊軍は秦淮河を渡り、護軍将軍の応詹が建威将軍の趙胤らを率いて防ぎ戦ったが、情勢は芳しくなかった。賊軍が宣陽門に到達すると、北中郎将の劉遐・蘇峻らは、南塘の地から横撃して、これを大いに破った(10)。劉遐はまた、沈充を青渓の地に破った。丙申、賊軍は軍営に火を放って、夜中に逃亡した。

丁酉、明帝は宮殿に帰り、大赦を行い、ただ王敦の徒党だけは許さなかった。そこで諸将を〔四方に〕分けて派遣し、残党を追撃させ、尽くこれを平らげた。司徒の王導を始興郡公に封じ、邑三千戸、絹九千匹を与えた。丹楊尹の温嶠を建寧県公に封じ、尚書の卞壼を建興県公に封じ、中書監の庾亮を永昌県公に封じ、北中郎将の劉遐を泉陵県公に封じ、奮武将軍の蘇峻を邵陵県公に封じ、それぞれに邑千八百戸、絹五千四百匹を与えた。尚書令の郗鑒を高平県侯に封じ、護軍将軍の応詹を観陽県侯に封じ、それぞれに邑千六百戸、絹四千八百匹を与えた。建威将軍の趙胤を湘南県侯に封じ、右将軍の卞敦を益陽県侯に封じ、それぞれに邑千六百戸、絹三千二百匹を与えた。その他の者も、それぞれ様々に褒賞を受けた。

冬十月、司徒の王導を太保・司徒兼任としようとして(11)、太宰・西陽王の司馬羕に太尉を兼ねさせ、応詹を平南将軍・都督江州諸軍事・江州刺史とし、劉遐を監淮北諸軍事・徐州刺史とし、庾亮を護軍将軍とした。詔を下して、王敦の一族の子らには、全く責任を問わないことにした(12)。この時、石勒の将である石生が洛陽に駐屯したので、予州刺史の祖約は退いて寿春を守った。

十二月壬子、明帝は建平陵を訪れて、大祥の礼(13)を行った。梁水太守の爨亮・益州太守の李逷が、興古の地を率いて反乱を起こし、李雄に降った。沈充のもとの将である顧颺が、武康の地で反乱を起こし、城邑を攻撃して焼いたので、州県〔の軍〕が討ってこれを斬った。

三年(325)春二月戊辰、三族を滅ぼす刑罰を復活させ、ただ女性には及ばないこととした。

三月、幽州刺史の段末波が亡くなり、弟の段牙に継がせた。戊辰、皇子の司馬衍を皇太子とし、大赦を行い、文武の官僚に位二等を増し、大いに酒宴を開くこと三日、鰥寡孤独(14)には帛を一人につき二匹与えた。癸巳、処士であった臨海の任旭・会稽の虞喜を召し出して、ともに博士とした。

夏四月、詔して言った。「大事初めて定まり、天命もここに新しくなった(15)。太宰・司徒以下の者に命令して、都坐(16)に至って政道を議論することに参加させ、諸々の残すべきところや改めるべきところを考え、全て正しいところになるよう努めさせよ。」また詔して言った。「直言を容れ、公正な者を引き立てたのは、賢明な者が私の下に集まってくれるよう願ったからである。私が間違ったことをするとお前たちが正してくれるというのは(17)、堯舜の君臣関係にも似たものである。私は暗愚な者ではあるが、出来ることなら、耳に逆らうような諌言でも拒むことの無いようにしたい。稷・契の任(18)、君たちはこれを担ってくれ。どうか皆でともにこれに努めようではないか。」己亥、雹(ひょう)が降った。石勒の将である石良が兗州を荒らし回ったので、刺史の檀贇が力戦したが、ここに死んでしまった。将軍の李矩らがともに手勢を破られて帰って来たため、石勒は司・兗・予の三州の地を尽く陥落させた。

五月、征南大将軍の陶侃を征西大将軍・都督荊湘雍梁四州諸軍事(19)・荊州刺史とし、王舒を安南将軍・都督広州諸軍事・広州刺史とした。

六月、石勒の将である石虎が、劉曜の将である劉岳を新安の地に攻め、これを落とした。広州刺史の王舒を都督湘州諸軍事・湘州刺史とし、湘州刺史の劉顗を平越中郎将・都督広州諸軍事・広州刺史とした。ひどい日照りがあり、正月から雨が降らないまま、この月に至った。

秋七月辛未、尚書令の郗鑒を車騎将軍・都督青兗二州諸軍事(20)・仮節として広陵を鎮守させ、領軍将軍の卞壼を尚書令とした。詔して言った。「三恪二王(21)〔のように、前代の王朝の祭祀を継続させる制度〕は、代々に重んじられてきたものであり、滅びたるを興し絶えたるを継ぐことは、政治の道の先務とされるところである。また、宗室の賢明な者で、大晋の天命を受ける際に大功があった者や、晋が天命を受けるのを補佐した臣で、大きな徳を有して賢明であり、三代(宣帝・文帝・武帝)にわたって帝業を支えることに携わり、〔晋王朝が成立すると〕開国公・侯の封土を与えられ、泰山や黄河が永遠であるのと同じように永続させると誓われた者の中で、子孫が皆絶えてしまい、祭祀が伝えられなかったなどのことがあれば、非常に悲しく思う。諸君らは、〔こうした者の後裔で〕跡を継がせるべき者を詳しく議論して、〔朕に〕上言せよ。」また詔して言った。「天地を祀ることは、帝王の大事な職務である。〔しかし〕中興以来、ただ南郊だけを行い(22)、いまだに北郊を行っていない。〔それに〕四時五郊の儀礼(23)もみな復興させてはいない。五嶽・四涜・名山・大川(24)で祭祀の典礼に載っていて山川の神を祀るべきものも、全て廃絶してしまい、これを復興させていない。そこで諸君らは、古例をもとにして、祭祀の次第を明らかにせよ。」

八月、詔して言った。「その昔、周の武王は殷を討つと、比干の墓を祀り、漢の高祖は趙を通ると、楽毅の後裔を探し出したというように、過去のことを遡って誉め称えたのは、将来に〔この徳行を〕勧めるためである。呉の時(222〜280)の将軍や宰相などの名賢の子孫で、よく家訓を守り継ぎ、また忠孝と仁義の心を持って、心を静めて自分の志操を守っているけれども、〔今はまだ〕名声の聞こえていない者がいたならば、州郡の中正はすみやかにその名を上言し、〔野に賢人を〕遺すことがないようにせよ。」

閏月、尚書左僕射の荀崧を光禄大夫・録尚書事とし、尚書の鄧攸を尚書左僕射とした。壬午、明帝は病に罹り、太宰・西陽王の司馬羕、司徒の王導、尚書令の卞壼、車騎将軍の郗鑒、護軍将軍の庾亮、領軍将軍の陸曄、丹楊尹の温嶠を呼んで、ともに遺詔を受けさせ、太子(司馬衍)を補佐させた。丁亥、詔して言った。「昔から死というものがあるのは、賢人聖人だろうと同じことであり、長生と夭折や困窮と栄達といったことも、〔結局は死を迎えるということでは〕同じなのであって、どうしてまた、特別に悲しむほどのことであろうか!朕は病床にあることが長く、常に不慮のことを考えていた。仰いでは、祖宗の帝業を〔自分が〕十分に継承することが出来ず、大恥も雪げないままで、民衆はひどい苦しみを味わっていることを思い、ただ〔このことが〕嘆き悲しむ理由なのである。朕が亡くなった日には、いつもの服を着せて棺に納め、全て先回の〔元帝の〕例に従って、出来る限り簡素に済ませ、民衆を煩わすような飾り立ては、どのようなものもしてはならない。〔太子の〕司馬衍は幼弱の身で、みだりに重責を担うことになった。〔そこで〕忠義で賢明な人に任せ、〔彼を〕教え諭してもらって、〔立派に〕成長させてもらおうと思う。その昔、周公は成王を補佐し(25)、霍氏は孝昭帝を養育し(26)、その義は昔の史書に著され、その功は二つの王朝(周と漢)においてそれぞれ第一等となったのであるから、どうして重臣たる者の〔取るべき〕道でないと言えようか?ここに居並ぶ公卿たちは、みな当代の名望家である。敬しんで〔朕の〕遺命を聴き、任せられた重責を担い、心を合わせて友誼を結び、王室のために力を尽くしてくれ。諸地方の軍を率いて守備に当たっている人や、刺史・将軍・太守といった人は、みな朕の牙城であって、外に向かって帝業を成就させ、変事が内外に起こったとしても、ただ一つ(国境防備)に力を尽くしてくれている。だから、もしこうした任務に当たってくれる人がいなければ、誰が遊牧の胡族から防ぎ守ってくれるというのか?喩えてみれば、〔内朝と外朝の臣下とは〕唇と歯のようなもので、互い助け合っているのである。〔だから〕どうか割符を合わせたかのように心を一つに協力し、素晴らしい世の美を思い、〔胡族を〕捕らえ挙げることを目標とせよ。諸侯卿士は己の職の総裁を宰相に任せ(27)、幼い者(司馬衍)を守り助け、苦しみから広く世の人を救い出し、永遠に祖宗の霊を九天の上に安んじさせてくれたならば、朕は地下に没したとしても、黄泉に恨みを残すことは無いだろう。」

戊子、明帝は東堂において崩じた。年は二十七、武平陵に葬られ、廟号を粛祖(28)とした。明帝は聡明で決断力もあり、物事の道理にも通じていた。当時は、兵変や毎年の飢饉が起こり、死者や病人は半数を超えていた。〔国家の〕疲弊もすでに甚だしく、事態は困難を極めていた。時あたかも王敦は、君主を恐れさせるような威勢を恃んで、帝位を窺おうとさえしていたのである。明帝は困難な状況下にも力量を蓄え、弱きをもって強きを制しようと、一人密かに作戦を練って、凶作のような危機をも治め清めた。改めて荊・湘などの四州を授けるのに、長江上流の勢力を分割するようにして、乱れた世を治め正し(29)、本を強くし、末を弱くしたのであった。国を受け継いで日は浅かったとはいえ、整えた制度は大いなるものであった。

史臣が言う。揚州の地(30)が天下となると、辺り一帯に大水が流れ、楚江の地では常に戦が起こり、方城は敵に向かっていたため、誠の〔立派な〕宰相や将軍を推挙せざるを得ず、そうして軍隊を統率したのである。〔水戦用の〕樓船が万を数えるほどあり、〔掌握する〕兵が王室の〔兵士の〕倍といった状況で、その有利な地位にあっても良からぬ心を抱かないのは、周公旦その人〔ぐらい〕である。威権は外に借りなければならず、不和が内に起こって、あちらに従順な軍隊があっても、こちらには強力な軍団の援護が得られない〔という状況であった〕。商は九乱に遭い(31)、堯は八音を止めたが(32)、明帝が大政を受け継いだのは、ちょうどこれと同じような状況の時においてである。戦略を掌中にめぐらし、大晋の御旗を長江岸に立てて、敵の残党を掃討すると〔一人残らず打ち倒し〕、まるで秋の野原の〔荒涼とした景色の〕ようであった。喪服を脱ぎ去って戦場を進み、悪党を斬って御陵の門に拝礼した。〔地方軍閥の〕威権を削り、州領域は長江・漢水方面において細分され、先人の過ちを繰り返さず、子孫代々のために計略を立てた(33)。その後七十余年して、ついに桓玄の害に遭うことになった。〔その時〕ある人は言った。「興亡は時の運であり、上流の勢いを止めることにはないのである。」どうして計略の立て方が違わないのに、これを用いる者が異なることなどあろうか。

贊に言う。傾いた天が害を起こし、猛獣〔のような輩〕が災いをもたらした。琅邪の子に、仁義の心が集まり来った。趙の璧を奉じ行き(34)、荊台に鞭を命じた(35)。雲は北の暗さを見やり、長江は南に開かれることを願った。〔劉琨のいる〕晋陽は敵を防ごうとし、〔前涼の張氏のいる〕河西は領土を全うした。胡族の侵略で苦しんだと言っても、大自然の心は背かなかった。三方に馬車を馳せ回らせれば、諸々の蛮族は朝廷の勢威になびき従った。天命は繁栄の日を取り戻そうとし、晋室の光輝(36)は高く明らかに記録された。明帝は幼少の頃から才知優れ(37)、軍令も適切であった。王莽の首を朝には市に掲げ、董卓のへそを夜には燃やす。その徳は〔王莽や董卓を滅ぼすのと同じほどには〕至らなかったが、その余風は誉め称えるべきであろう。

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