(1)原文は「白豪」。『太平御覧』巻三六四に引く王隠『晋書』などから、「白豪」は「白毫」であろう。白毫とは仏教の如来三十二面相の一つ。釈迦の眉間には、この白毫(白く細い毛)があったという。
(2)八王の乱後期、蕩陰の地で大敗を喫した東海王越は、封地の下邳に帰って再起を図り、恵帝の奪回を目指して長安の河間王顒らに反旗を翻した。ここはそのことを言う。
(3)建興四年(316)十一月乙未、愍帝は匈奴族の漢に降り、その後殺害されるまで一年余り、漢の首都平陽での幽囚生活を余儀なくされた。
(4)原文は「挙哀」。本来は葬式・納棺後に、死者を悼んで声を上げて泣く礼であるという。
(5)東晋の建康は、秦代には秣陵県と呼ばれ、三国時代に呉の孫権が都を移した際に建業と改めた。また、晋に入って建鄴と変わるが、愍帝の諱である「業」を避けて、この時初めて、建康と改めたのである。
(6)『春秋左氏伝』文公十三年の条に、「天生民,而樹之君,以利之也。」とあるのに拠っている。
(7)『荘子』「在宥」に「故君子不得已,臨莅天下,莫若無為。」とあるのに拠っている。
(8)「四聖」を武帝・恵帝・懐帝・愍帝の四人とすることも出来そうだが、『文選』李善注では「四聖謂武帝也。」としており、今はこれによる。
(9)『文選』李善注では「旒」を旗の意に取り、この旗を持つ人によって他の人が動かされることから、実権が臣下の手に渡っていて君主の地位が危ういことを指すという。しかし、五臣注には「旒」は冕旒(冠の玉垂れ)であるとし、細い糸で垂れ下げられた冕旒の玉のような危うさのことであるという。
(10)原文は『欽明文思』。『尚書』堯典に、堯を称える言葉として見える。
(11)原文は『金聲』。『孟子』万章下に、孔子が徳を集大成したことを称えた言葉として見える。
(12)斉の公子の公孫無知は、伯父の僖公に嫡子同様に寵愛されたが、その嫡子が即位して襄公となり、公孫無知を遠ざけようとしたため、彼は反乱を起こした。桓公は、この斉の内乱の最終的な勝利者となり、名宰相管仲の補佐を受けて覇者となった。
(13)原文「麗姫」は、驪戎の女で晋の献公の寵妃、驪姫のこと。驪姫は実子奚斉を晋公に立てようと画策し、国内に混乱を引き起こした。重耳は晋の文公のことで、驪姫の難を逃れて、十九年の亡命生活を送った後、ようやく晋に帰国して君主の位につき、やがて覇者となった。
(14)夏王朝の君主、太康は狩に出た時、有窮の君主である羿に追放され、陽夏の地に没したという。
(15)原文「宗姫」の、姫は周室の姓であり、宗姫とは周王朝を指す。周の幽王は寵妃を后にするため、申皇后と太子の宜臼を廃したが、申皇后の父である申侯が憤って、西夷の犬戎と結んだため、幽王は攻め殺されてしまった。
(16)『尚書』堯典に、「賓于四門,四門穆穆。」とあるのに拠っている。
(17)少康は、古の夏王朝の君主。父帝を殺されたが、よく夏の人民をまとめて再興させたと言われる。また、『文選』五臣注に「夏訓,夏書也。」とあるが、現存する『尚書』の夏の記録の中には、該当しそうなものは見えない。
(18)宣王は古の周王朝の天子。父の厲王が暴虐のために追放されてしまい、事実上周に君主不在の時代が訪れるが、厲王が亡命地で没すると、この宣王が立って周王朝を建て直した。周の詩を収める『詩経』には、宣王を称えるとされる歌がいくつかある。
(19)舜・禹は伝説上の聖王。自身も堯から王位を譲られた舜は、やがて有徳の禹に位を譲った。「由巣」は許由・巣父のことで、堯の時の隠者。どちらも堯から王位を譲り渡されたが拒絶して、身を隠した。
(20)「陽九」とは災厄をいう。陰陽家が数理から割り出したもので、陽厄五と陰厄四とを、合わせて九とした。
(21)この事件は『春秋左氏伝』僖公十五年に見える。「呂郤」は、呂甥・郤乞という晋国の二人の臣の名。
(22)石季龍の名は虎。「石季龍載記」の冒頭に見えるように、唐の太祖(高祖李淵の祖父李虎)の諱を避けて字で呼んでいる。
(23)大川富士夫「東晋・南朝時代における山林叢沢の占有」(『六朝江南の豪族社会』雄山閣出版、1987年所収)によれば、本来国家の所有として占有することが許されないはずの山林叢沢も、六朝においては豪族に蚕食され続けたのである。今回の禁令緩和は、豪族の占有する山林叢沢から締め出された人々に対して、生活安定のために、国家が立ち入りを禁じていた山林を部分的に開放するという、山林叢沢の本来の理念に沿ったものであった。しかし、実行力が伴わないために、かえって新たに開放した山林叢沢を豪族に占有させる絶好の機会を与えてしまった可能性が高い。その後も、成帝の時には山林叢沢占有を棄市の罪にしていたことなど、表面上は厳格な態度を取り続けたが、実際には空文化していたと言った方が良い。やがて、宋の孝武帝の時になると、官品を規準として占有を公式に認める方針へと転換せざるを得なくなった。
(24)校勘に指摘する字句の問題もあるが、仮に南嶽のままとした場合、この時代の南嶽は後世に言う衡山ではなくて霍山である。南嶽が霍山から衡山へ移ったのは、隋の開皇年間のことであるという。
(25)おそらくは、宿願である中原回復を達成するため、長江を渡って北伐を開始することを言うのであろう。
(26)銭大昕『諸史拾遺』によれば、晋の制度では王国の長官が内史であり、郡の長官は太守である。丹陽は王国ではないので、内史ではないとする。また「地理志下」や「薛兼伝」では、丹陽太守から尹に転じたことになっている。
(27)諌鼓と謗木に分かれ、どちらも堯舜の世に存在していたとされる。諌鼓は要望があることを太鼓を叩いて知らせ、謗木(誹謗木ともいう)は要望を木簡等に書いて箱に投ずるのだという。
(28)『三国志』魏書第三「明帝紀」に、平望館を聴訟館に改めた、とある。裁判を執り行ない、皇帝自ら決裁をすることもあるようで、『晋書』中でも武帝や明帝が決裁を行った記事が見える。西晋には存在したが、東晋王朝にはこの時まで存在していなかったということであろう。
(29)『史記』巻七十七「魏公子列伝」に、漢の高祖は幼い時から信陵君が賢人であったことを聞かされ、皇帝になってからは大梁を通り過ぎる度に、信陵君を祀ったという記事が見える。
(30)柳下恵の姓名は展禽。春秋の時、柳下の地に封ぜられ、恵と諡された。
(31)呉起は戦国初期の兵法家で、『呉子』の著者とされる。魯、魏と仕えたが、魏の武侯に疎んじられたため、楚に向かい、悼王のもとで法制改革を断行。楚で力を振るっていた貴族群を抑え、君主権を強化した。
(32)古代中国の東北塞外の地に住んでいた謎の民族。石鏃を使用していたのが特徴であるらしく、古くからしばしば中国にも石鏃を献じている。両晋南北朝期には六回に渡って南朝に来朝した記事が見えるが、これが古代民族から続いた本当の粛慎人であったとは考え難い。
(33)諱は孟母。「后妃伝」に立伝されている。元帝が琅邪王であった頃からの后であるが、二人の間に男の子は無く、永嘉六年(312)にすでに亡くなっている。
(34)「王浚伝」・「石勒載記」等では、「段末柸」とする。
(35)「天文志中」の中華書局本校勘記〔二五〕によれば、この年の二月に癸亥の日はなく「三月癸亥、日の中に黒点があった」の記事が錯綜したものであるという。
(36)戴若思の名は淵。『晋書』「戴若思伝」の冒頭に見えるように、唐の太祖李淵の諱を避けて字で呼んでいる。
(37)「張茂伝」では、「呉興内史」とする。
(38)「石勒載記」では「琅邪内史」とする。
(39)『景定建康志』巻十九には、この時、元帝が池の中に杯を投げ捨てたとあり、それにちなんで「覆杯池」と名付けられた池が存したという。
(40)王隠『晋書』や『宋書』巻二十七「符瑞志上」では、二つの酒樽ではなく、二つの口を持った一つの樽を作ったことになっている。
(41)『太平御覧』巻九八に引く孫盛『晋陽秋』では、小吏の牛氏の名を牛欽としている。また、『北魏書』「司馬叡伝」では冒頭に牛金の子であるとする。『困学紀聞』巻十三によると、元帝の父が牛氏であるという説は梁の沈約に始まって、北斉の魏収はそれに拠り、さらに唐代の正史『晋書』編纂の際にもこの説を取ったのだという。しかし、王隠『晋書』や孫盛『晋陽秋』の中にすでに記述が見えている以上、沈約起源説は成り立たない。
(42)『詩経』「小雅篇」に見える歌。周の八代目の厲王が追放されると、後の匈奴にあたる異民族が侵入して、都に迫った。そのような中で、新たに宣王が即位し、尹吉甫に命じて征伐させたという。この「六月」の歌は、この時の宣王の征伐を誉め称える歌であるとされている。
(43)『詩経』「小雅篇」に見える歌。厲王の一件で周が衰え、人民が離散したが、宣王は彼らの心を繋いで呼び戻すことに成功した。この「鴻雁」の歌は、この時の宣王を誉め称える歌であるとされている。