(1)原文は「鉤深致遠」。易の繋辞上に見える言葉。
(2)「后妃伝下」に予章君荀氏として附伝されている。明帝の他、琅邪王裒の生母でもあった。咸康元年(335)に薨去。
(3)「華表伝附華恒伝」では、「督石頭水陸諸軍事」となっている。
(4)この時の詔は、『北魏書』「司馬叡伝附司馬紹伝」に見える。
(5)「五行志下」には、永昌二年(太寧元年の誤り)に、雷が太極殿の柱に落ちたことになっている。
(6)『晋書校文』「巻一・明帝紀」では、この時の卞敦は鎮南将軍・仮節であって、右将軍ではないとする。「卞敦伝」には彼が右将軍についたという記事は見えない。
(7)「王敦伝」・『北魏書』「司馬叡伝」・『資治通鑑考異』巻四に引く『晋春秋』では、いずれも「三万」とする。
(8)『資治通鑑』胡注には「南岸とは、秦淮河の南岸である。」という。秦淮河は、建康の南を流れる防衛・交易上にも重要な河川である。
(9)段秀は段匹磾の弟であるという。ただし、『北魏書』「司馬叡伝」では、「段禿」とする。
(10)『北魏書』「司馬叡伝」では、応詹が反撃に出て破ったとする。
(11)「王導伝」によれば、この際に贈られた劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名の恩典とともに辞退している。また、明帝紀の後の個所でも、王導は司徒として登場している。
(12)「王廙伝附王彬伝 」によれば、王彬らは王敦の親戚であったため、彼らを除名するべきだと考えるものもいたが、それに対する詔では、王導の功労に免じて親族を許すことに決まった。
(13)葬後足掛け三年、二十五か月後に行う祭祀。
(14)「鰥」は老いて妻の無い者。「寡」は老いて夫の無い者。「孤」は親の無い子供。「獨」は子供の無い老人。
(15)『詩経』「大雅篇」に「文王受命作周也,文王在上,於昭于天。周雖舊邦,其命維新。」とあるのに拠っている。
(16)魏晋時代に大臣が政治を議論した場所。
(17)『尚書』「虞書・益稷」に「予違,汝弼。」とあるのに拠っている。
(18)堯舜時代の名臣。稷は農業を司って周の祖先となり、契は教育を司って殷の祖先となった。
(19)「陶侃伝」では、「都督荊雍益梁州諸軍事」とする。
(20)「郗鑒伝」では、「都督徐兗青三州軍事」とする。
(21)「三恪二王」の制度は、周王朝が成立した際、前王朝の子孫に王号を贈って敬ったことから始まったとされる。ただし、二王が直前の二つの王朝の後裔であることに議論はないものの、三恪については、これを二王を遡るさらに三つの王朝とするのか、三つ目の王朝のみなのかで、必ずしも明確とはなっていない。『通典』巻七四に見える西晋武帝の泰始三年(267)の奏文によれば、二王を漢・魏の後裔、三恪を夏・殷・周の後裔として、合計五代の王朝と考えているようであるが、同時代人の杜預が『春秋左氏伝』襄公二十五年に注したところでは、「周王朝は天下を得ると、夏・殷二王の後を封じ、また舜の後を封じて、これを恪と呼んだ」としており、合計三代の王朝と考えている。もっとも、後世へ行くにしたがって、次第に合計三代と考えるほうに収束されていくようである。
(22)元帝が南郊だけを行った記事は、「礼志上」に、太興二年に行ったことが見える。
(23)「四時」は春・夏・秋・冬の四つの季節に、「五郊」は東郊・南郊・中郊・西郊・北郊のそれぞれでおこなう祭祀のこと。
(24)「五嶽」は一般的には、東岳泰山・南岳衡山・西岳華山・北岳恒山・中岳嵩山のことを指す。ただし、時代により多少の出入りがある。「四涜」は黄河・長江・淮河・済水のこと。ただし済水は、その後の黄河の流路変更により消滅した。
(25)「周公」とは、周の文王の子である周公旦のこと。克殷後、封地の魯には趣かずに武王を助け、武王の死後は幼少の成王を補佐して、周の基礎を築いたと言われる。
(26)「霍氏」とは、霍去病の異母弟で、前漢の政治的実力者であった霍光のこと。武帝の遺命を受けて、上官桀らと共に昭帝を補佐した。昭帝の死後は、背徳の昌邑王賀を廃立し、宣帝を即位させるなどの手腕をも揮い、およそ二十年にわたって政権の座にあった。
(27)『論語』「憲問篇」に孔子の言として「君薨,百官總己以聽於冢宰三年」とあるのに拠っている。
(28)『晋書』の目録には「粛宗」とあるが、諸種の『晋書』の本文及び『世説新語』などを参照しても「粛祖」とあって「粛宗」とある例は見えない。常識的には「粛宗」だと思われるが、問題の残る箇所である。
(29)『公羊伝』「哀公十四年」に「撥亂世,反諸正,莫近諸『春秋』。」とあるのに拠っている。
(30)原文は「維揚」。『尚書』第六・禹貢に「淮・海惟揚州。」とあり、「惟」は「維」に通じる。そこで後に「維揚」の二字を取って、揚州の別称とした。
(31)『史記』巻三「殷本紀」に、中丁以来盤庚の前までの九代は争いが絶えず、諸侯でやって来るものが無くなり、これを「九世亂」としているから、このことを指していると思われる。西晋の恵帝以来の混乱を暗示しているのであろう。
(32)堯が亡くなった時、人々は父母が亡くなったようにこのことを悲しみ、三年の間、八音の音楽を止めたと言う。八音は八種の楽器のこと。詳しくは『白虎通』「礼楽篇」などを参照。ここでは東晋の元帝の死を指すと思われる。
(33)『詩経』「大雅篇」に「詒厥孫謀,以燕翼子。」とあるのに拠っている。
(34)「趙璧」は和氏璧の別称。藺相如がこの璧を騙し取ろうとした秦王の罠を逃れ、見事に趙に持ち帰ったことから「完璧」の故事となった。ここでは宝玉のような晋朝の皇統が、東晋に伝えられたことを指すのか。
(35)典故未詳。荊台は楚の著名な高台で、楚の昭王にはここに遊んだことが見える。また、昭王は死して後、伍子胥の復讐に遭い、屍に鞭を加えられている。あるいはこのことを指すのであろうか。だとすれば、暗愚な恵帝により西晋が滅び、その陵墓(太陽陵)が胡族によって破壊されたことを示すのではないか。
(36)原文は「金輝」。晋は金徳の王であるため、このように称す。
(37)『詩経』「大雅篇」に「誕實匍匐,克岐克嶷,以就口食。」とあるのに拠っている。