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update:2021.01.11 担当:えちぜん
晋書巻三十三
列伝第三
王祥 弟覧
人物簡介

王祥(183?〜268)は字を休徴といい、琅邪郡臨沂県の人。漢の諫議大夫王吉の末裔で、祖父の王仁は青州刺史、父の王融は官職に就かなかった。親孝行で知られ、継母の朱氏から虐待を受けたがよく仕えた。徐州刺史呂虔の招聘を受け別駕となって以降、次々に昇進し、高貴郷公(曹髦)の教育を担当した。高貴郷公の死後は太尉・侍中となり睢陵侯に封ぜられた。司馬昭が晋王となり諸侯が晋王の勢力下に入る中、魏朝の朝臣として忠節を尽くした。司馬炎が帝位に就いた後、太保となり睢陵公に封ぜられた。年老いたため、辞職したが、その後も厚遇された。泰始四年(268)、死去。享年八十五(享年八十九の説もある)。元と諡された。

王覧(205〜278)は字を玄通という。王祥の継母の朱氏の子。親孝行・兄弟思いで知られ、母の朱氏の虐待を受ける王祥をよくかばった。王祥が官職に就くのに併せて王覧も官職に就いた後、昇進して光禄大夫となり、即丘子に封ぜられた。病気により辞職したが、殿中の医者を派遣されるなど厚遇された。咸寧四年(278)死去。享年七十三。貞と諡された。王覧の子孫はよく繁栄し、孫の王導は巻六十五に伝がある。

本文

王祥は字を休徴といい、琅邪郡臨沂県の人で、漢の諫議大夫王吉(1)の末裔である。祖父の王仁は青州の刺史であった。父の王融は三公の役所が招聘したが,官職に就かなかった。

王祥の性格はこの上なく親孝行であった。早くに親を亡くし、継母の朱氏(2)は〔王祥を〕可愛がらず、しばしば彼を誹り、これによって父にも嫌われた。牛小屋を掃除させられても、王祥はますますうやうやしくつつしみ深くしていた。父母が病気になった時には、衣服の帯も解かずに〔看病し〕、薬は必ず自分で嘗め〔てから与え〕た。母はかつて(3)生の魚を欲しがった。折しも、天候は寒く氷が張っていた。王祥は衣服を脱ぎ、氷を割って魚を捕ろうとした。〔すると、〕氷はたちまち自然と溶けだし、二尾の鯉が躍りでた。〔王祥は〕これらを持ち帰った(4)。母がまた黄雀の炙りものを食べたいと思った時には、数十羽の黄雀がその網のなかに飛び入ったので、母にそれらを与えた(5)。村里では驚いて、これら〔の不思議な出来事〕は〔王祥の〕親孝行を感じて起こったことだと〔噂〕した。また、丹柰(りんご)が実を付けたときに、母は〔王祥に〕この樹を守るよう命じた。風が吹き雨が降るごとに、王祥はこの樹を抱いて泣いた(6)。その親孝行で純粋な様はこのようであった(7)

漢の末に争乱に遭い、母に寄り添い弟の王覧の手を引いて、廬江へ避難した(8)。隠れ住んで三十年あまり、州郡の命令に応じなかった。母が亡くなると、喪に服して痩せ衰え、杖をついてやっと立てるほどであった(9)。徐州刺史の呂虔が召し文を発して、〔王祥を〕別駕としようとした。王祥は年齢が耳順(六十歳)になろうとしていたので、固辞して受けなかった(10)。王覧はこれ(別駕となること)を勧め、〔出仕する〕ために車を引く牛を用意した。王祥はそこで招聘に応じ、呂虔は徐州の仕事を任せた。その頃、盗賊が蔓延っていたので、王祥は兵士を率いて、しばしば盗賊を討ち破った。州内は落ち着き、政治の改革を大いにおこなった。時に人は歌った。「海と沂水〔のあたり〕の治安がよくなったのも、王祥殿のおかげ。この国が荒れ果てないのも、別駕(王祥)のおかげ(11)。」

秀才(州の長官から推薦された者)として登用された。〔司州河内郡〕温県の長官の官職を授けられ、次々に昇進し大司農となった。高貴郷公(曹髦)が即位した(254)。天子を推戴した功績により、関内侯に封じられた。光禄勳を拝命し、司隸校尉に転任した。毋丘倹討伐に従軍し(255)、領邑を四百戸増し、太常となり、万歳亭侯に封じられた。天子が太学に行かれることになり、王祥を三老に命じた(258)(12)。王祥は南面して几杖の座 (13)に教師としてその座にいた。天子は北面して〔王祥に〕教えを乞い、王祥は明王、聖帝のあり方・君臣の関係・国を治め民を教化する方法の基本を教え、これらを教訓した。〔講義を〕聞く者に学問修養に努力しないものはなかった。

高貴郷公が弑される(臣下に殺される)(260)におよび、朝臣は挙哀の礼(死者のために声をあげて泣く礼)をおこなったが、王祥は号泣して「老臣(わたくし)は〔形式だけの〕礼ではありませぬぞ」と言い、鼻水も涙も混じり合って流していた。〔これを見て〕みな恥じた。しばらくして司空を拝命(260)(14)、太尉に転任し(264)(15)、侍中を加えた。五等爵が設けられ(264)、睢陵侯に封じられた。領邑は一千六百戸となった。

武帝(文帝(司馬昭)の誤り)が晋王となった時(264)、王祥は荀顗とともに謁見に参った。荀顗は王祥に「晋王(司馬昭)は身分が貴く権勢も大きくなった。何曾殿(16)はすでに敬意を尽くしている。これからは拝礼すべきである。」と言った。王祥は「相国は確かに尊貴であるが、魏の宰相である。我等は魏の三公であり、公・王は階級が一つ違うのみで位階はほとんど同じである。どうして天子・三公がいるのに、たやすく人に拝礼ができようか!魏朝を損なう望みは、晋王の徳を欠くこととなる。君子は人を愛するに礼をもってする(17)。私は拝礼をしない。」と言った。殿中に入ると、荀顗は遂に拝礼し、王祥は一人長揖(略式の敬礼)したのみであった。武帝(文帝(司馬昭)の誤り)は「今日、君主が支持されることの重大さを知った!」と言った。

武帝(司馬炎)が天子の位に就く(265)と、〔武帝は王祥を〕太保に任命し、爵位を進めて〔睢陵〕公とし(18)、加えて七官の職を置いた(19)。武帝(司馬炎)は新たに天の命令を聞き、自身の心を虚しくして、正しい発言を聞こうとした。王祥は何曾・鄭沖等とともに、年老いたため参内して謁見することを控えたいと望むと、武帝(司馬炎)は侍中の任愷(20)を派遣し、得失を相談させ、〔その内容は〕これから政治的に問題になることにまで及んだ。王祥は年老いて疲れたので、重ねて辞職を願ったが、武帝(司馬炎)は許さなかった。御史中丞の侯史光(21)は王祥が久しく病に伏しており、参内を怠っているとの理由で王祥の官職を罷免することを願い出た。武帝は詔を発した。「太保元老(王祥)はおこないがすぐれており、朕が頼りにし〔助けを得ることに〕よって政道を優れたものにしているのである。何度か〔王祥が〕願い出た辞職を〔朕が〕聞き入れなかったのだ。これは役人がとやかくいうべきことではない。」遂に侯史光の奏上をとめた。王祥は再三辞職を願い、武帝(司馬炎)は睢陵公(王祥)が官職をやめて私邸に戻ることを許した。位階は太保・太傅と同じとし、三公の右に並ぶものとした。秩禄を賜わるのは以前のままであった。武帝は詔を発した「古の辞職は王侯に仕えないという。今国公を京邑に留め置くが、再び数多く参内を請うことがあってはならない。肘掛けと杖を下賜する。参内せずとも、大事は皆で検討して、王祥を訪ねよ。四頭だての馬車、家一棟、錢百萬、絹五百匹、ねやのとばりとすのこを下賜する。召使い六人を睢陵公の召使いとし、朝廷の騎兵二十人を配置する。睢陵公の子である騎都尉王肇を給事中とし、常にゆったりと親に仕えさせる。また太保(王祥)は高潔にして清素であり、家には軒がない。本府を仮の住まいとし、下賜した家が完成すれば出るがよい。」と言った。

病気が重くなると、遺言を著して、子孫に教訓した。「そもそも生があれば死がある。自然の摂理である。私は八十五歳となって、死ぬこと(22)に何の恨みがあろうか。今から遺言を残すので、戒めとしてほしい。私が生まれたときは時代の末期であり、登用され(私の施策を)数々用いられたが、(時政を)補い佐けるだけの功績もなく、身を没するも(受けた恩に)報いることもできなかった。もし気息が絶え(絶命し)たなら、ただ手足を洗うだけでよく、沐浴する必要はない。屍に(新たな)服を用いる必要はなく、皆(もと着ていた)古い衣服を洗い、平時に着ていたもの(を用いるよう)にせよ。下賜していただいた山玄玉佩、衞氏玉棔、綬笥は、亡きがらと共に納めてはならない。西方の北邙山の土はもともと堅いので、かわらいしを使わず、墓を立ててはならない。穴を二丈の深さに掘り、外棺は内棺が入るだけのものを選びなさい。前堂を作ったり、几筵を敷いたり、本箱・鏡箱の器具を置くなどということはぜず、棺の前にはただ寝台を置くだけとせよ。乾飯・乾肉を各一皿、水を一杯(だけ用い)、朝夕の奠(そなえもの)とせよ。すべての家人は葬送の儀式に参加しなくてよく、また小祥・大祥の際にはいけにえを1頭供えるだけでよい。私の指示に違うことがあってはならない!高柴は血の如き涙を流すこと三年であった(23)が、夫子(孔子)は愚(24)だと仰った。閔子は喪を終えた後、琴を弾いたが、その音は切切として哀しかった。(高柴と比べてそれだけであったが、逆に)仲尼は孝と仰った(25)。 つまり哭泣の哀は、日月(の経過する)とともに減殺され、飲食の宜しき(節制)も、自然と決まったものがあるのだ。(むやみやたらと哀しむというのは、却って節度を乱したものなのである)。そもそも、行動を言ってちゃんと実行できれば、それは信の極みである。善いものを推薦し、過ちを退けるのは、徳の至りである。名声を得て親〔の立派さ〕を明らかにするのは、孝が優れているのである。兄弟が仲良く、宗族が仲良くするのは、悌が優れているのである。財産を目の前にして、譲よりすばらしいものはない。この五つのこと(信・徳・孝・悌・譲)は、立派な人になるための根本であって、かの顔回もこれを〔極めることを〕使命としたのである。〔おまえ達(王祥の子等)はこの五つのことについて〕まだ深く考えていないから分からないのであって、深く考えればどうして分からないことがあろうか!〔だからしっかり考えなさい〕(26)」その(王祥の)子供達は皆つつしんで受けてこれらをおこなった。

泰始五年(269)(泰始四(268)年の誤り)(27)薨じた。天子は東園の秘器、朝服一具、衣一襲、錢三十萬、布帛百匹を賜った。時に文明皇太后(28)崩じ、初めて月を越えた。その後、天子は「睢陵公(王祥)のために哀悼の儀式を行い、今に至っている(皇太后の死からずっと喪に服している。)いつもそのために心を痛めるが、結局のところ特別に哀悼の意を述べることができなかった。今ただ泣くだけである。」明年、元と諡された。

王祥が薨じると、その訃報を聞いて駆けつけたのは朝廷の賢者でなければ親しくしていた元の部下たち(29)だけであった。王祥の家の門には、その他の雑多な弔問客の姿はなかった。族孫の王戎(30)は感嘆して「太保(王祥)は清廉なることこの上なしというべきである!」と言った。また、「王祥は正始年間(240〜249)にあって、言葉巧みな人々の一派には入っていなかったが、彼と話をすると理にかなっており非常に清く幽遠であった。まさに徳が言葉をおおい隠していたというものだ!(31)」王祥には五人の子がおり、〔名は〕王肇、王夏、王馥、王烈、王芬である。

王肇は妾の子であった。王夏は早くに卒し、王馥が爵を嗣いだ。咸寧年間(275〜280)の初め、王祥の家はとても貧しかったために、絹三百匹を賜った。〔天子は〕王馥を上洛太守に任命した。卒して諡を孝という。〔王馥の〕子の王根が跡を嗣ぎ、散騎郎となった。王肇は仕えて始平太守となった。王肇の子の王俊は守太子舍人であり、永世侯に封ぜられた。王俊の子の王遐は鬱林太守である。王烈、王芬は共に幼き頃から名を知られ、王祥に愛された。〔この〕二人の子は同じ頃に死んだ。死ぬ前に王烈は故郷に帰って葬むることを望み、王芬は都に留まって葬むることを望んだ。王祥は涙を流して「故郷を忘れないのは仁である。故郷に恋々としないのは、達である。どうやら私の二人の子には仁と達が備わっているようだ。」と言った。

王覧は字を玄通という。母の朱氏は王祥に辛くあたった。王覧は年が数歳であるにもかかからず、王祥と会ってむち打たれ、その度に泣いて抱き合った。十五歳を越え、〔王覧は〕しばしば彼の母を諫めると、ややその虐待が止んだ。朱氏はしばしば無理な事を王祥に命じたが、そのたびに王覧は王祥と共におこなった。また虐待は王祥の妻にも及んだが、王覧の妻もまた、駆けつけて共におこなった。朱氏はこれ(王覧夫妻が王祥夫妻と共に苦しむこと)を思って止めた(32)。王祥が父を失った後、ようやく〔王祥の〕良い評判がたった。朱氏は深くこのことを恨み、密かに酖(ちん。毒を盛った酒)を王祥に送った。王覧はこの事を知って、直ちに駆けつけて酒を取った。王祥はその中に毒があると疑い、〔王覧と〕争って与えなかった。朱氏は急いで奪ってこれをひっくり返した。その後、朱氏が王祥に食事を与える時には、その度に王覧は先に毒味をした。朱氏は王覧を殺してしまうことをおそれて、とうとう止めた。

王覧はよく父母に仕え、兄弟仲良く、うやうやしくつつしみ深い性格で、名声は王祥に次ぐものだった。王祥が官職に就くのをきっかけに、王覧もまた本郡の招聘に応じた。しだいに司徒西曹掾・清河太守に転任した。五等爵が設けられ(264)、即丘子に封ぜられた。邑は六百戸であった。泰始の末年に弘訓少府に任命されたが、(泰始九年(273)に)職掌がなくなった際には(33)、太中大夫に転任した。そのさい秩禄と賜与は弘訓少府の時と同じであった。咸寧年間(275〜280)の初めの頃、天子は「王覧は若くして徳行を極め、仁に従い義をおこない、正しく飾らない様を変えないことは成人してもますます変わらなかった。これにより、王覧を宗正卿とする。」と言った。しばらくして、病気のために天子へ辞職を願い出た。天子はこれを許し、太中大夫を引退させた。銭二十万、ねやのとばり・敷物を賜り、殿中の医者を派遣して、診療させ薬を与えた。後に光祿大夫に転任し、門には行馬(門外に設けた馬つなぎの柵)を設置した。

咸寧四年(278)卒し、時に年七十三歳であった。諡は貞という。〔王覧には〕六人の子がおり、〔名は〕王裁、王基、王會、王正、王彦、王琛である。

王裁は字を士初といい,撫軍長史であった。王基は字を士先といい,治書御史であった。王會は字を士和といい,侍御史であった。王正は字を士則といい,尚書郎であった。王彦は字を士治といい,中護軍であった。王琛は字を士湲といい,國子祭酒であった。

その昔、呂虔は佩刀(腰に帯びる刀)を持っていた。職人がこれを見たところ、必ず三公の地位に登るためには、この刀を身につけなければならないと言った。呂虔は王祥に「もしその人(ふさわしい人)でなければ、刀は害をなすかもしれない。君には三公・四輔を務めるだけの才能がある。だから〔この刀でその〕助けとしないか」と言った。王祥は固辞したが、〔呂虔は〕これ(佩刀を与えること)を強いたため、受け取った。王祥が死ぬ間際に、佩刀を王覧に授けて、「おまえの子孫はかならず繁栄する。この刀(をもつ)に充分つりあう。」王覧の子孫は代々優れた人物が多く、江左の地(長江下流の南岸)で繁栄した。王裁の子の王導については、別に伝(巻六十五)がある。

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