(1)原文「漢諫議大夫吉」。王吉(?〜前48)は字を子陽といい、琅邪郡皋虞県の人。前漢の諫大夫。(『漢書』列伝巻七十二「王吉伝」)
諫議大夫は官名。天子の過失をいさめる役。秦代に諫大夫を置き、後漢に初めて諫議大夫を置いた。
王吉は前漢の人であるため「諫議大夫」ではなく正しくは「諫大夫」である。
(2)原文「繼母朱氏」。『王祥世家』によると、王祥の実母は、兗州山陽郡高平県の薛氏。継母の朱氏は揚州廬江郡の出身で、王覧の実母。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(3)原文「常」。「嘗」に通ずる。「かつて・以前に」の意味で訳した。
(4)原文「母常欲生魚,時天寒冰凍,祥解衣將剖冰求之,冰忽自解,雙鯉躍出,持之而歸。」氷が解けだし魚が躍り出るという話は、孫盛の『雑語』にもある。(『三国志』魏書第十八「呂虔伝」裴松之注)
孫盛の『晋陽秋』では、たまたま氷が割れているところがあって、そこから魚が飛び出したとあり、若干のニュアンスの違いがある。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(5)原文「母又思黄雀炙,復有黄雀數十飛入其幙,復以供母。」黄雀がその網の中へ飛び込んでくる話は、蕭広済の『孝子伝』にもあり、継母の為に奔走する王祥を讃えている。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(6)原文「有丹柰結實,母命守之,毎風雨,祥輒抱樹而泣。」継母が王祥に木を守らせた話は、『世説新語』・蕭広済の『孝子伝』にもある。どちらの書も実を結んだのは「丹柰」ではなく「李」である。「丹柰」は『大漢和辞典』によると、「林檎の一種。べにりんご。からなし。朱柰。」とあり、李ではない。『孝子伝』では、継母が木に抱きついて泣いて夜を明かした王祥を見て、不憫に思ったと記している。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(7)『世説新語』には継母が王祥を殺そうとする話もある。(『世説新語』徳行第一14)
(8)原文「漢末遭亂,扶母携弟覽避廬江」。訳注(2)参照。廬江は継母朱氏の出身地である。
(9)原文「隱居三十餘年,不應州郡之命。母終,居喪毀瘁,杖而後起。」孫盛の『雑語』には、三十年余り継母を養い、継母が死去した後、仕官したとある。(『三国志』魏書第十八「呂虔伝」 裴松之注)
虞預の『晋書』には、継母が死去したことで体調を崩し、仕官しなかったとある。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
虞預の『晋書』にある「陵遲不仕」の「陵遲」は次第に衰える意味であろう。徐震堮の『世説新語校箋』ではこれを「淹滯之意」として、優れた才能を持ちながら下位にとどまる意味としている。優れた才能を持ちながら仕官していないだけでなく、虐待を受けてもなお継母を養い、彼女の死後は喪に服して体調を崩したとした方が、王祥の親孝行ぶりをよく伝えているように思われる。
(10)原文「徐州刺史呂虔檄爲別駕,祥年垂耳順,固辭不受。」呂虔は字を子恪といい、兗州任城郡の人。曹操・曹丕・曹叡の三代に渡って仕えた。(『三国志』魏書第十八「呂虔伝」)
「垂」は「なんなんとす」と訓読する。今にもそうなろうとするの意味。
「耳順」は60歳の意味。(『論語』為政第二)
王祥が別駕に就任した時の年齢について、虞預の『晋書』は60歳になろうとする頃としている。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
王隠の『晋書』では、50歳を過ぎてからとしている。(『三国志』魏書第十八「呂虔伝」)
銭大昕の『廿二史考異』では、呂虔が徐州刺史であった時期から考えると、王祥が別駕に就任したのは40歳前後であるとし、60歳で就任したのは、司州河内郡温県の長官であったとしている。(徐震堮『世説新語校箋』)
(11)原文「海沂之康,實頼王祥。邦國不空,別駕之功。」「沂」を固有名詞としているため、「沂水」と解釈した。盗賊は船を操り、海沿いや川沿いの民に被害を与えていたと考える。「海沂」で「海辺」の意味でとれば、海沿いだけとなる。盗賊が船を自在に操るのであれば、海・川の双方で暴れていたと考えるのがやはり妥当か。
虞預の『晋書』にもこの歌がある。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(12)原文「天子幸太學,命祥爲三老。」「太學」は修己治人の道を教える最高学府。天子・公卿・大夫の子、および民の俊秀なものを入学させた。「三老」は教化を掌る人。
王祥が三老に任命されたのは甘露三年(258)のことである。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(13)原文「几杖」。ひじかけと杖。皆老人を養う物。「几杖座」老人のため特に設けた座のこと。
(14)原文「頃之,拜司空」。王祥が司空となったのは、景元元年(260)のこと。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(15)原文「轉太尉」。王祥が太尉となったのは、咸煕元年(264)のことである。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(16)原文「何侯」。何曾のこと。(『綱鑑易知録』施意周注)
何曾は字を穎考といい、陳国陽夏県の人。『晋書』列伝第三に伝がある。
(17)原文「君子愛人以禮」。『論語』陽貨篇の子游の言葉「君子學道則愛人」を踏まえているものと思われる。(『論語』陽貨第十七)
(18)原文「武帝踐阼,拜太保,進爵爲公」。『太平御覧』巻四九六に『王祥別伝』を引用している。「晋が禅譲を受けた時、朝廷の者で喜びを表さないものはなかったが、王祥の様子は喜んでいないようであった。当時の人は王祥は深く恨んでおり、物故者を葬送するような気持ちだったと言った。」(『晋書斠注』)
(19)原文「加置七官之職」。「職官志」に、武帝(司馬炎)が即位した時、同じ日に八名の者が官職に任命されたとある。「七官之職」は王祥を除く七名もそれぞれ官職に就いたということと思われる。
(20)任愷は字を元褒といい、徐州楽安郡博昌県の人。『晋書』列伝第十五に伝がある。
(21)侯史光は字を孝明といい、徐州東莱郡掖県の人。『晋書』列伝第十五に伝がある。
(22)原文「啓手」。『論語』泰伯篇の曾子の言葉「啓予足!啓予手!」を踏まえているものと思われる。死ぬことの美称。(『論語』泰伯第八)
(23)原文「高柴泣血三年」。高柴は字を子羔という。子皐とも言う。春秋時代の衞の人。孔子の弟子。(『史記』仲尼弟子列伝第七)
「泣血」は血が音を立てないで流れるように声を立てないで涙を流して泣くこと。後世、親の喪に服する意に用いられた。
高柴が三年もの間、喪に服したことは、『礼記』檀弓上に見える。(『礼記』檀弓上)
(24)原文「夫子謂之愚」。『論語』先進篇の「柴也愚」を踏まえている。(『論語』先進第十一)
(25)原文「閔子徐喪出見,援琴切切而哀,仲尼謂之孝。」閔子は閔損のこと。字は子騫。春秋時代の魯の人。孔子の弟子。(『史記』仲尼弟子列伝第七)
閔子騫が喪を終えて琴を弾いた故事は『毛詩正義』檜羔裘詁訓傳第十三にある。(『毛詩正義』国風 檜国四篇 素冠鄭氏箋)
また、「仲尼謂之孝」は『論語』先進篇の「子曰、孝哉閔子騫。」を踏まえている。(『論語』先進第十一)
(26)原文「未之思也,夫何遠之有!」。『論語』子罕篇の「子曰、未之思也、夫何遠之有哉。」を踏まえている。(『論語』子罕第九)
(27)原文「泰始五年薨」。「武帝紀」では、王祥の薨去は泰始四年(268)とある。(「武帝紀」)
また、本伝中にも王祥の薨去は文明皇太后の崩御の翌月であったとあり、「文明王皇后伝」にも、泰始四年(268)に皇后が崩御したとある。(「文明王皇后伝」)
王隠の『晋書』にも泰始四年(268)、89歳で薨去したとあり、「泰始五年」は誤り。(『三国志』魏書第十八「呂虔伝」)
『晋書斠注』では、王隠の『晋書』が89歳で薨去したとしているのを、「恐らく誤り」としている。
(28)文明皇太后は王粛の子で、諱を元姫という。徐州東海郡郯県の人。『晋書』列伝第一后妃上に伝がある。(「文明王皇后伝」)
王粛は王朗の子。『三国志』魏書第十三「王朗伝」の中に伝がある。
(29)原文「故吏」。以前に使っていた下役人のこと。魏晋南北朝時代には上司と部下は特別な恩義関係があった。
(30)王戎 (234〜305)は字を濬沖といい、徐州琅邪郡臨沂県の人。竹林の七賢の一人。『晋書』列伝第十三に伝がある。
(31)原文「祥在正始,不在能言之流。及與之言,理致清遠,將非以徳掩其言乎!」。『世説新語』にもこれと同様の言葉が王戎の言葉としてある。(『世説新語』徳行第一19)
(32)原文「朱屡以非理使祥,覽輒與祥倶。又虐使祥妻,覽妻又趨而共之。朱患之,乃止。」孫盛の『晋陽秋』にも同様の話がある。(『世説新語』徳行第一14 劉孝標注)
(33)原文「職省」。「武帝紀」に泰始九年(273)「秋七月…、罷五官左右中郎將、弘訓太僕、衛尉、大長秋等官(秋七月…、五官左右中郎将・弘訓太后の太僕・衛尉・大長秋などの官職を廃止した)。」とあり、この時に「弘訓少府」も廃止されたものと思われる。(「武帝紀」)