(1)原文「鄭沖字文和,滎陽開封人也,起自寒微,卓爾立操,清恬寡欲,耽玩經史」。滎陽郡は、晋になってからの地名。三国時代は「司州河南尹開封県」である。
王隠『晋書』に「物事を究め通暁する才能があり、〔性格は〕清廉で欲が少なく、好んで経史を論じた。」とある。(『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
(2)原文「郷曲之譽」。郷里で役人となることを指すか。
『漢書』司馬遷伝に「私は若い頃、学問に優れているわけではなかったので、長らく郷里の名誉を得ることがなかった。」とある。(『漢書』巻六十二「司馬遷伝」)
(3)原文「不加禮」。「加礼」は、礼を以て接待をすること。ここでは州・郡の役人が鄭沖を役人として招聘に来なかったとした。
(4)原文「及魏文帝爲太子」。『三国志』魏書第二「文帝紀」に「(建安)二十二年(217)、魏の太子となる」とある。
(5)原文「莅職無幹局之譽」。「莅職」は、「職に莅(のぞ)む」と訓読し、職務を掌ること。「幹局」は中心となって事を処理する器量のこと。政治の実務を執り行う才能には恵まれなかったということか。
(6)原文「簞食縕袍,不營資産」。『論語』雍也篇に「一簞食,一瓢飲」とある。顔回が粗末な食事や住まいを厭うことがないことを孔子が誉めている。(『論語』雍也第六)
また、王隠『晋書』に「粗末な衣服でも、気に病むことはなかった。」とある。(『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
(7)原文「轉散騎常侍、光祿勳」。王鳴盛『十七史商榷』四十八に「考えるに、鄭沖の論語集解が正始年間に作成した序には、『光禄大夫臣鄭沖』とあり、今に伝わる鄭沖伝には『散騎常侍、光禄勲に転任した』とあって『光禄大夫』と言っていないのは史文の省略である。」とある。(『晋書斠注』)
『三国志』魏書第四「三少帝紀」・『資治通鑑』巻七十五には「嘉平三年(251)十二月、光禄勲の鄭沖を司空に任命した」とある。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」・『資治通鑑』巻七十五)
(8)原文「嘉平三年,拜司空。」。鄭沖が司空に任命されたのは、嘉平三年(251)十二月の事である。訳注(7)参照。
(9)原文「及高貴郷公講尚書,沖執經親授,與侍中鄭小同倶被賞賜。」。鄭沖が賞賜を賜ったのは、正元二年(255)九月の事である。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(10)原文「俄轉司徒。」。鄭沖が司徒に転任したのは、甘露元年(256)十月の事である。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(11)原文「拜太保」。鄭沖が太保に任命されたのは、景元四年(263)十二月庚戌(12月19日)の事である。(『三国志』魏書第四「三少帝紀」)
(12)原文「時文帝輔政,平蜀之後,命賈充、羊祜等分定禮儀、律令,皆先諮於沖,然後施行。」。『世説新語』に「賈充は初めて律令を定めるにあたり、羊祜と共に太傅である鄭沖に相談した。」とある。(『世説新語』政事第三6)
『続晋陽秋』に「その昔、文帝は荀勗・賈充・裴秀等に礼儀・律令を分担して制定するよう命じると、皆まず鄭沖に相談し、その後施行した。」とある。 (『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
(13)原文「李憙」。李憙は字を季和といい、并州上党郡銅鞮県の人である。『晋書』巻四十一に伝がある。
(14)原文「侯史光」。 侯史光は字を孝明といい、徐州東莱郡掖県の人。『晋書』巻四十五に伝がある。
(15)原文「三俊」。「三儁」ともいう。『漢語大詞典』では、例文でこの箇所を引き「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。
(16)原文「斷金」。『易経』繋辞上に「二人が同じ心であるならば、金属を断ち切ることができる」とあり、この事から金属を断ち切ることができるくらい友情が固いことをいう。
(17)原文「天秩有禮,五服五章哉!」。『尚書』皐陶謨第四に「天秩有禮。自我五禮。有庸哉。同寅協恭。和衷哉。天命有徳。五服五章哉。」とあり、原文の二句は共に『尚書』に存在するが、「天命有徳。五服五章哉。」を誤って引用したものと推測する。この箇所の訳は「天は徳のある者の階級を示すために、天子・諸侯・大夫・士・庶人の五種類の服装制度を制定し、徳行の違いを五種類に分けて示した」となる。武帝(司馬炎)は、晋建国に功績のあった五名(鄭沖・何曾・荀顗・王沈・羊祜)やその親近者に褒美を取らせるせるにあたり、自らを天になぞらえて引用したものと思われる。
(18)原文「明年薨」。「武帝紀」に、「(泰始十年(274))閏月癸酉(閏1月11日)、太傅・寿光公鄭沖が薨じた。」とある。
(19)原文「追贈太傅」。武帝(司馬炎)が即位した時に、太傅に任命されており、生前の官職を再び追贈されている。同様の事例が「何劭伝」にある。
(20)原文「成,奏之魏朝」。『論語注疏』序の邢昺の疏に「正始年間(239〜248)にこの五人が共に論語集解を献上した。」とある。