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晋書巻三十四
列伝第四
羊祜
人物簡介

羊祜(221〜278)は字を叔子といい、泰山郡南城県(平陽県又は新泰県とする説もある)の人である。代々郡太守である家柄に生まれた。祖父は羊続、父は羊衜であり、羊祜は景献羊皇后の同母弟である。清廉高潔な人柄で、草創期の晋の柱石として活躍した。対呉戦線の前線の総司令官であったが、敵国の呉の人々にも敬慕され、特に呉の司令官・陸抗との友誼は後々まで賞賛されることとなる。官位は征南大将軍・開府儀同三司・都督荊州諸軍事・持節まで至り、南城侯に封じられた。咸寧四年(278)十一月、呉の平定を見ることなく洛陽に於いて病没した。侍中・太傅を追贈された。享年五十八。

本文

羊祜は字を叔子といい、泰山郡南城県の人である(1)。代々二千石(郡太守)の家柄だったが、羊祜に至るまで九代にわたり、みな清廉と徳行で有名であった。祖父の羊続は漢に仕え南陽太守となった。父の羊衜は上党太守となった。羊祜は蔡邕の外孫(娘の子)で、景献皇后(司馬師の妃・羊徽瑜)の同腹の弟であった。

羊祜は十二歳のときに父を亡くしたが、父を思い慕う様は型通りの儀式以上に激しく、叔父の羊耽に対してもとても慎み深く仕えた。かつて汶水(黄河の支流)のほとりを訪れたときのこと、一人の老父と遇ったのだったが、〔老父は〕羊祜にいった、「お前さんには好い相がある、六十歳にならないうちに、必ず天下に大功をうちたてるであろう。」言い終わると去ってしまい、その所在を知る者はいなかった。成長してからは博学でうまく文章をつづることができ、身長は七尺三寸、あごひげと眉が美しく、議論するのが得意だった。郡将の夏侯威は羊祜が並々ならぬ人物だと思い、兄の夏侯覇の娘を羊祜に嫁がせた。〔郡の〕上計吏に挙げられると、州は四度彼を従事・秀才として招き、五府(2)も〔仕官するように〕辞令を出したが、いずれも応じなかった。太原郡の郭奕は羊祜と会い、「羊祜は今日の顔回(3)である」と言った。王沈と一緒に曹爽に招聘された。王沈は仕官することを勧めたが、羊祜は「身を捧げて人に仕えるということを、そうそう軽々しくできようか」といった。曹爽が失脚すると(249)、王沈は以前〔曹爽の〕配下の役人であったことから免職になったのであるが、羊祜にいった、「いつも君が前に言っていた事を覚えていたのだが。」羊祜はいった、「はじめからこうなるとは思っていなかった。」その先見の明を誇らないことはこのようであった。

夏侯覇が蜀に降伏すると(4)、〔夏侯氏と〕姻戚関係にあった多くのものは絶縁を告げたが、羊祜だけはその妻を安心させ、ますます愛情を示し大切にした。やがて母が亡くなり、兄の羊発もまた卒したのだったが、亡き人を慕って痩せ細りながら喪に服すこと十余年、純粋に徳を守って生活し(5)、その様子は儒者のように穏やかで慎み深いものだった。

文帝(司馬昭)が大将軍となり、羊祜を〔属官として〕招いたが、まだ職務に就かないうちに公車(6)によって召し出されて中書侍郎を拝し、まもなく給事中・黄門郎に昇進した。そのころ高貴郷公(曹髦)が文章を作ることを好んだことから、官位についているものの多くが詩賦を献じたのであったが、汝南の和逌は〔高貴郷公の〕意向に逆らったので斥けられた(7)。羊祜は彼らのあいだにあって、〔彼らに対して〕特に親しくすることも疎遠にすることも出来なかったので、見識ある人々は〔羊祜の実直さを〕褒め称えた(8)。陳留王(曹奐)が皇帝になると(260)、関中侯の爵位と領邑百戸を賜った。〔羊祜は〕帝が幼なかったので侍臣となることを希望せず、地方に出て下役人となることを願い出て、秘書監に転任した。五等爵が創設されると(264)、鉅平子に封ぜられ、邑六百戸となった。鍾会は〔文帝に〕寵愛されていたので〔羊祜の優遇を〕ねたみ、羊祜もまた鍾会のことを忌み嫌っていた。鍾会が誅殺されると(9)、相国従事中郎を拝し、荀勗とともに機密のことを受けもった。中領軍にうつると、宿衛の兵を全て指揮し、殿中に直接入ることを許され、兵権を任されて、その任務は内外〔の軍事〕を兼ねた(10)

武帝(司馬炎)が受禅すると(265)、佐命の勲によって、中軍将軍に昇進し、散騎常侍を加官されて、郡公に改封され、領邑三千戸を与えられた。しかし固辞してその封地を受けなかったので、もとの爵位を〔子から〕進めて侯とし、郎中令を設置し、九官の職(11)を整え、夫人に印綬を与えられた。泰始(265〜274)の初め、〔武帝は〕詔を下していった、「そもそも枢要な政務をとりしきり、六職(12)をしっかり治めることは、朝政の基本である。羊祜は道徳に従い清廉にはげみ、その忠信はまじりけがなくすぐれて立派なものであり、文武のことを治め整え、正直な言葉には諂いや憚りなどなく、腹心の立場にあるにも関わらず国家の重大事を仕切らないのは、手を拱いてなにもせずに〔他人に〕委せっきりにして、〔何かあったら他人に〕責任を押し付けようというのではない。〔控えめな人柄なので、でしゃばるのを避けているのである。〕よって羊祜を尚書右僕射・衛将軍とし、もとの営兵(13)を与える。」当時、王祐(14)・賈充・裴秀らはみな前の朝廷(魏)にあって名声・人望があったことから、羊祜はそのつど辞退し、彼らの上位にあることはなかった。

帝には呉を滅ぼしたいという望みがあったので、羊祜を都督荊州諸軍事・仮節に任じ、散騎常侍・衛将軍の職務はそれまで通りとした。羊祜は営兵を率いて南夏(15)へ出て守備にあたり、地方に学校を開設し、遠きも近きも生活を安定させ恩恵を垂れたので、非常に長江・漢水一帯の民衆の心をつかんでいた。呉の人々に対しひろく信義を守り、降伏してきたもので〔故郷の呉へ〕帰りたいというものは全て聞き届けてやった。当時、長吏が在官のまま亡くなると、後任のものは〔縁起が悪いと〕嫌がって、前の役所を破壊するものが多くいたのだったが、羊祜は人の生死は天命によるものであり、その居場所によるものではないと考え、書面で統治下に通達し、ひろく〔旧府を破壊するべからずという〕禁制を強化した。呉の石城の守りは襄陽から七百里余り離れたところにあったが、国境周辺を荒らされるたびに、羊祜はその害に悩んだので、とうとう詭計を用いて呉に〔石城の〕守りをやめさせた。このことで国境を見まわる兵士が半分に減ったので、〔守備兵の残りを〕分配して田地八百余頃を開墾し、大いに利益を上げた。羊祜がはじめて〔任地に〕やって来たとき、軍には百日分の兵糧もなかったが、その晩年ごろには十年分の蓄積があった。詔がくだり江北都督が廃止されて、南中郎将が設置され、それが統率する諸々の軍で漢水の東や江夏にあるものは、すべて羊祜の管理下に加えられた。〔羊祜は〕軍中ではいつも軽い皮衣を着て帯をゆるく結んでくつろぎ、よろいをまとわず、鈴閣(官邸)の侍衛のものも十数人に過ぎず、そして狩りや釣りを好んで政務を怠った。かつて夜中に外出しようとしたが、軍司の徐胤が割符を手に持ち営門に立ちはだかっていった、「将軍は万里を督しておられるのです、どうして軽はずみなことが許されましょうか。将軍の安否は、同時に国家の安否でもあります。わたくし胤めが今日死んだ場合に限り、この門は開くでありましょう。〔しかしこのわたくしが生きているかぎりは、ここをお通しするわけにはまいりません。〕」羊祜は居住まいを正して徐胤に過ちを詫び、以後は外出することはまれになった。

後に車騎将軍の位をを加えられ、三公と同じように役所を設け属官を置くことを許された。羊祜は表をたてまつり固辞していった、「臣が伏して恩詔をお聞き申し上げますところ、臣を抜擢して開府儀同三司にするとのことであります。臣は出仕して以来、十数年にもなりますが、任務を朝廷の内外にお受けし、いつも高く重要な地位を極めてまいりました。〔しかしながら〕つねに、臣の智力はにわかに高位に進められるものではなく、いつまでも恩寵を誤って頂戴しているべきではないと思っており、日夜恐れおののき、自分の栄誉をかえって憂いとしております。臣が古人の言葉を聞くに、『仁徳がまだ人々に心服されないうちに高い爵位を賜るようなことになれば、才能ある臣下の出世の道をふさいでしまい、また功績が人々に認められないうちに高禄を食むようなことになれば、功労ある臣下が忠勤を励まなくなる(16)』とあります。今、臣はその身を外戚につらね、〔しかも晋王朝のはじめて興る〕良い時運に巡り合わせておりますが、誡めるべきは過分な恩寵を蒙ることであり、捨てられることを憂えてはおりません。それなのに〔陛下は〕みだりに内々の詔をくだされ、〔地位の〕順序によらずに栄誉をお加えになりました。臣はどのような功績があってこれに堪えることができましょうか、またどのような心があってこれに安んじておられましょうか。臣が高位を辱めたならば、ついで社稷の傾覆がやってまいりましょうから、先祖以来のあばら家を守っていきたいと願いましても、どうしてそれがかないましょう。命に違えば天子の御威光に背くことになり、道理をまげて仰せに従えばこのように〔禍の原因を作ることに〕なります。そもそも、古人は〔己を〕知るもののために本領を発揮する(『晏氏春秋』「内篇雑上」)、大臣の節義というのは、〔自分の能力が足りず〕職責を果たせないならば辞退する(『論語』「季氏篇」)、と聞いております。臣は取るに足らない人物ではありますが、〔いま開府を許される詔を〕いただくに際し、この〔職責を果たせないならば辞退する、という〕節義に従いたいと思います。今、天下が〔晋王朝の〕政化に服してより、すでに八年になろうとしておりますが、席を空しくして賢者を求め、世に隠れ住んでいる身分の低いものをそのままにしないようにしてまいりましたのに、しかし、臣は徳のある者を推挙し功のある者を推薦することにより、臣よりももっと優れたものが多く、まだ登用してないものが少なくないことを陛下にお知らせすることが出来ませんでした。もし有徳者を土木工事などに従事させたまま捨て置き(17)、才能ある者を屠殺場や釣場に隠れたままにしておくようなことがありながら(18)、しかも今朝議が臣を任用してそれを誤りとせず、臣もこの職務にあってそのことを恥としないならば、どうしてその損失が少なくてすみましょうか。臣が高位を忝くして久しいとは申しましても、まだ今日のように文武ともにこの上もない恩寵を賜り、宰相に匹敵するような高位を授かったことはございません。そのうえ臣の見知るところは狭いものでありますが、〔臣の見るところに〕よりますと、今光禄大夫の李憙は節義を守ること高潔で正しく、公の場では表情を改め態度を正しております。光禄大夫の魯芝は潔癖にして欲が少なく、人と和らぎ親しんでもおもねるようなことはありません。光禄大夫の李胤は人柄清らかで明るく、朝廷で高位についております(19)。みな職務に従事して白髪頭となっていますが、常に礼節に従って終始一貫しております。〔李憙らは〕内外の重職を歴任しておりましても、〔その生活は〕貧しく身分が低い家と異ならず、それでもなおこの〔開府儀同三司の〕選には入っておらず、臣がそのうえ彼らを乗り越え〔て重用され〕たならば、どうして天下の期待を充たし、少しでも陛下の明徳を増すことが出来ましょうか(20)。このような訳で心に誓って節義を守り、かりそめにも位を進もうというつもりはありません。今方々への道が行き通い、辺境での任務も多いので、どうか従来の恩賜の職(都督荊州諸軍事)に留め置き、臣を速やかに陣営に戻らせてください。そうせずにここで留まっていては、必ず外患に対して手落ちがありましょう。匹夫の志であっても、奪うことはできません(『論語』「子罕篇」)〔ので、どうか臣の願いをお聞き届けください〕。」しかし聴き入れられなかった。

〔荊州の〕鎮営に戻ると、呉の西陵督の歩闡が城の全てをあげて降伏してきた。呉の将軍陸抗が急激にこれを攻め立てたので、〔武帝は〕詔を下して羊祜に歩闡を迎え入れに行かせた。羊祜は兵五万を率い江陵へ出て、荊州刺史楊肇に陸抗を攻撃させたが、勝つことができず、歩闡はとうとう陸抗に捕えられた。担当の役人が上奏していった、「羊祜は八万余りの兵を統率し、敵の軍勢は三万を越えておりませんでした。〔それにもかかわらず〕羊祜は兵を江陵にとどめ、敵に備えを固めさせました。そして楊肇に一軍でもって要害へ入らせましたが、兵は少なく兵站は遠く、軍兵は挫折して敗北しました。詔命に背き、大臣としてふさわしい行動ではありません。官職を解任し、侯の爵位のまま私邸に帰らせるべきです。」ついに罪によって〔羊祜の〕官位をおとして平南将軍とし、楊肇を免官して庶民とした。

羊祜は孟献子が武牢に陣取ると鄭の人々がこれを懼れ(21)、晏弱が東陽に城を築くと莱子が彼を恐れた(22)故事にならい、進軍して険しい要害の地に拠り、五つの城を築き、肥沃な土地を手に入れ、呉の食糧を奪ったので、石城より西は、ことごとく晋の領有するところとなった。この前後より降伏してくるものが絶えなかったので、いっそう仁徳と信義にみがきをかけ、帰服したばかりのものたちをなつけたが、それでもやはり〔呉を〕併呑しようという志を強く持っていた。呉の人と兵を戦わせるときはいつも、期日を定めて正々堂々と戦い、敵の不意を突くような謀計をなすことはなかった。武将に〔相手を〕いつわる策を進言するものがあると、すぐに芳醇な酒を飲み〔自分が酩酊して〕、進言させないようにした。ある者が呉の二人の子供をさらってきて虜としたが、羊祜は彼らを自宅に送り帰らせた。後に呉の将軍夏詳・邵顗らが降伏してきたとき、〔さきに送り帰してやった〕二児の父もまたその一族を引き連れて一緒に降ってきた。呉の将軍陳尚・潘景が侵攻してくると、羊祜は追いかけてこれを斬り、彼らが節義に殉じて死んだことをたたえ、手厚くかりもがりをしてやった。潘景・陳尚の子弟が棺を迎えに来ると、羊祜は礼を尽くしてかえしてやった。呉の将軍鄧香が夏口を掠め取ると、羊祜は懸賞金をかけて鄧香を生け捕りにし、引き立てられてくると、これを許してやった。鄧香はその恩に深く感じ入り、私兵を引き連れて降伏した。羊祜は軍を出して呉との国境を行軍するとき、穀物を刈り取って兵糧としたが、侵した分についてはすべて計算して、〔それに見合う〕絹を送りその代償とした。人々を集め江水・沔水のあたりで狩りを楽しむときはいつも、きまって晋の領内に止まっていた。もし先に呉の人が手傷を負わせ、そのために晋の兵が捕らえることとなった鳥や獣があると、すべて封をして〔呉の人に〕還してやった。こうして呉の人々はそろって〔羊祜に〕心服し、羊公と称し、名前を用いて呼ぶことはしなかった。

羊祜は陸抗と相対峙し、使者を行き交わせていたのだったが、陸抗は羊祜の徳の大きさを称え、楽毅・諸葛孔明でもかなわないといっていた。陸抗がかつて病気になったとき、羊祜は陸抗に薬を贈り、陸抗もこれを服用して疑うことはなかった。陸抗を諌める者も多かったが、陸抗はいった、「羊祜が人を毒殺したりすることがあろうか!」当時の人々は華元と司馬子反(23)がふたたび今日あらわれたのだといった。陸抗は機会あるごとに守備兵たちに告げていっていた、「相手が専ら徳行につとめ、味方が酷いことばかりを行なっているのであれば、戦わずして降服してしまっているようなものだ。それぞれが持ち場を守るにとどめ、小さな利益を求めてはならない。」孫晧は魏呉の国境が友好関係にあるときいて、そのことで陸抗を詰問した。陸抗はいった、「ひとつの邑やひとつの郷でさえ、信義がなくてはならないのですから、まして大国なら〔信義を重んじるのは〕当然のことでございます。臣がこのように〔信義を守って晋に対することを〕しなかったとしたら、まさしく相手の徳を顕彰するだけのことであり、羊祜にとってはなんの痛手にもなりません。」

羊祜は貞正誠実で私心がなく、心がよこしまな媚びへつらいの輩を憎んだので、荀勗・馮紞らの一味は非常に羊祜のことを恐れ憚っていた。従甥(いとこの子)の王衍がかつて羊祜のもとへやってきて、事情を申し述べたところ(24)、その言葉は甚だするどく聡いものだった。〔しかし〕羊祜はその言い分を認めず、王衍は衣を払って辞去した。羊祜はふりかえって賓客に向かっていった、「王夷甫(王衍)はきっと素晴らしい評判をあげて高い位につくだろうが、しかし風俗を乱し教化をそこなうのも、必ずこの人であろう。」歩闡の戦のとき、羊祜は軍法によりまさに王戎を斬ろうとしたので、王戎と王衍はそろって羊祜のことを恨みに思い、何か言うたびに羊祜のことをひどく謗った。当時の人々はこのことを語っていった、「二王(王戎・王衍)が国政の権柄を握っており、羊公には徳がない(25)。」

咸寧(275〜280)の初め、征南大将軍・開府儀同三司に叙任され、独断で人材を用いることをゆるされた。もともと、羊祜は呉を討伐するには必ず上流の勢いを借り〔て長江の流れに乗り川を下って攻め〕るべきだと考えていた。さらにそのころ呉に童謡があったが、それは「阿童や阿童(26)、刀をくわえて泳いで川を渡りなさい。岸の上にいる獣は怖くはないが(27)、ただ水中の龍には気をつけなさい」というものだった。羊祜はこれを聞いていった、「これこそつまり、きっと水軍に手柄があるということで、あとはただその名に見合うものを考えればよいだけである。」ちょうどその時益州刺史の王濬が中央に召されて大司農となって、〔それを聞いた〕羊祜は水軍の統率を任せるべき人物を知ることとなり、王濬はそのうえ小字を阿童といったので、上表して王濬を留めて監益州諸軍事とし、龍驤将軍の位を加え、ひそかに水軍を整備させ、流れに順って呉へ攻めこむ計画を立てた。

羊祜はよろいを整え兵卒を訓練し、戦の準備をゆき渡らせた。ここにいたって天子に上書していった、「先帝(司馬昭)は天道にしたがい時節に応じて、西に巴蜀を平定し、南に呉会(呉)と和平を結びましたので、国内は休息することができ、万民は平和を楽しんでおります。しかるに呉はくり返し信義に背き、国境の防備の仕事がかわるがわるおこされております。そもそも時のめぐり合わせは天の授けるところであると申しましても、功業は必ず人の力によってなされるものであり、一度は大挙して〔呉を〕掃滅することをしなければ、民衆の役務は休まる時がありません。また〔呉を討伐することは〕先帝の勲功を盛んにし、自然のままの教化を完成させるためのものでもあります。ゆえに堯は丹水の伐を行ない、舜は三苗の征を行ないましたが、それらはことごとく天地を静め、戦を止めさせ人々を和ませたものなのです(28)。蜀が平定された時、天下の人々は今こそ呉を併呑して亡ぼすべきであるといいましたが、それ以来十三年、〔十二支〕一周にして、平定の機会はふたたび今日にあります。論者は常に、呉楚は道をわきまえていれば後から降服してくるし、礼儀を知らなければまず逆らうから、今はすなわち様子を見る時であるといいます。〔しかし〕まさに今こそ天下を統一すべきで、昔と同じに喩えることは出来ません。そもそも道義に則った論は、どれも臨機応変に対処したことがなく、それゆえにとるべき方策がたくさんあっても、ただただ道義に則った方策のみに決定しようとするのです。おおかた険阻をたのみにしているものは、思うに敵にとっても〔その利点は〕同じ事であり、力が足りていれば自然と守りが固まるものです。仮に〔互いの軍の〕軽重が等しくなく、強弱の勢いが異なれば、智謀の士であっても計略を立てる余地がなく、そして険阻を守り通すことは出来ません。蜀の国は、険阻なことこの上なく、高い山は雲虹にとどき、深い谷は底が見えないほどで、馬を縛って引き上げ車を綱で吊り上げ、そうしてようやく道を通ることが出来るといった有り様だったので、ひとりが戟をとれば千人でもこれに当たる事は出来ないと誰もが言ったものでした。〔しかし蜀平定の〕兵を進める日になってみると、まったく国の守りはなく、将を斬り旗を奪い取り、野に棄てられた死骸は数万にものぼり、勝ちに乗じて蜀を片っ端から収めてゆき、あっというまに成都にたどりついたのですが、〔それでも〕漢中の諸城はみな鳥が巣箱の中にこもったようにあえて出てはきませんでした。どの城も戦意がなかったわけではなく、本当に抗戦するための力が足らなかったのです。劉禅が降服してしまうと、それぞれの砦はみな散り散りになって退散しました。今、長江・淮水の難所は剣閣ほどの難所ではなく、天然の要害は岷・漢〔の山々〕ほど厳しくなく、孫晧の横暴は劉禅よりも甚だしいものであり、呉の人々の苦しみは〔蜀政権下の〕巴蜀の人々よりもひどいものであります。そのうえ我が大いなる晋の兵たちは、昔より数が多く、兵糧の蓄えや武具の装備も、以前より充実しております。今ここで呉を平定しなくては、これからもお互いに武力とたのみとして守りを固め、軍役に服している民衆は役務に苦しみ、日々武器を用いて攻め合うことになるでしょうが、〔そうした〕一進一退を続けていては、〔やがて国力も疲弊するため〕長続きしませんので、よろしく今こそ〔呉を〕平定し、天下を統一すべきです。今もし梁州・益州の兵を率いて水陸両面から〔呉へ〕攻め下り、荊楚の諸軍を進めて江陵に行かせ、わたくし平南将軍羊祜の率いる軍と豫州の軍はただちに夏口へ向かい、徐州・揚州・青州・兗州の軍はそろって秣陵に向かい、太鼓と旗によって敵を疑わせ、種々の方略をめぐらして敵を欺けば、一方の隅を領するにすぎない呉など、天下の晋兵に当たって、軍勢はばらばらになり、その防備はみなあわただしく〔不完全なものに〕なりましょう。巴郡と漢中の奇兵がそのがら空きになったところを衝き、一ヶ所でも破れれば、君主から臣下・民衆まで震動することでありましょう。呉が長江を盾に国をなすさまは、内も外もなく(29)、東西数千里は、国境の守りによって持ちこたえていますが、向かうところの相手が強大であるので、休まることがありません。孫晧は感情のおもむくままに勝手をし、家臣に対し疑い深く、功ある臣下や高い位にある将軍はふたたび信頼をかちえることが出来ず、それゆえに孫秀らはみな〔孫晧のことを〕恐れて〔わが方に〕降服して参ったのです。朝廷では将が疑心暗鬼になり、野にあって士は困窮し、王朝を守っていく計画も、決まった方針もありません。平時でさえ去就を思い悩んでいるくらいですから、いざ戦になったときには、必ず内応するものがありましょう、結局は力を合わせて死を賭して戦うことが出来ないであろうことは、すでに分かっていることです。呉の風俗は性急であるので、長い間持ちこたえることができず、弓弩や戟・楯などの武具は中華のものより劣り、その長ずるところはただ水上戦のみであります。ひとたび国境を越え〔てその領内に入〕れば、長江はすでに要害たりえず、〔相手が〕しりぞいて城壁と濠を守れば、それは得意なものを捨て去り不得意なもの(持久戦)を採り上げることになります。しかも官軍は深く攻め込み、軍には節義を尽くそうという思いがあるのに対し、呉軍は自分の領内で戦うので、城を恃みとする気持ちがあります。このようであるなら、我が軍は時を待たずして、必ず勝つでありましょう。」武帝はこの意見に深く納得した。

秦州・涼州がたびたび〔異民族に〕敗れると、羊祜はふたたび上奏していった、「呉が平定されれば、西方の異民族は自然とおさまります。とにかく速やかに大いなる功業を成し遂げるべきです。」しかし論者には賛成しないものが多かったので、羊祜は嘆いていった、「世の中には思い通りにならないことが、つねに十のうち七八はある。だから〔ただでさえ物事は予想通りに進まないのに〕決断すべき時に決断しなかったり、天の与える機会を受け取らなかったりという〔決定的チャンスを逃すような〕ことがあれば、その当事者は後になって後悔しないことがあろうか。」

その後、泰山郡の南武陽・牟・南城・梁父・平陽の五県を南城郡として、羊祜を南城侯に封じ、相を設置し(30)、郡公と同じくするよう詔がくだされた。羊祜は辞退していった、「昔張良は留の万戸を頂戴したいと願いましたが、漢の高祖(劉邦)はその志を奪うことはしませんでした(31)。臣は先帝(司馬昭)から鉅平〔子の爵位〕をいただいておりますのに、みだりに重い爵位をかたじけなくすれば、役人たちの謗りを招くことになります。」固辞して拝さず、帝はこれを聞き入れた。羊祜は官位を進められるたびに、いつも心を空しくしてへりくだる態度を貫き、真心は顕著にあらわれていたので、特別に彼の封爵の外において〔才能を〕発揮させられた(32)。それゆえ名声と徳行は遠くまで伝わり、朝廷の人々も民間人もともに〔羊祜のことを〕仰ぎ見、高位にある人々は評議して、台輔(33)となるべきだとした。帝はちょうどそのとき天下をひとつにまとめようという志があり、東南の任務を羊祜に任せていたので、そのためこの議論を止めさせた(34)。羊祜は二王朝(魏・晋)で種々の職をうけもち、国家の大政を司り、政治上変更する事柄については、必ず彼に意見が求められたが、権勢と私利の追求には、一切関わらなかった。その良計や正論は、すべて原稿を焼き捨てたので、そのために世間に知られることはなかった。大概の場合、誰かを推薦して出世させても、〔推薦された〕人々はみなその理由(羊祜が推薦してくれたこと)を知らなかった。ある人が羊祜はあまりに注意深すぎるというと、羊祜はいった、「なんということを言うのだ。そもそも進み出ては膝詰めで密談し、退出しては言葉を誤魔化すものであり、君臣の間が密かでないことへの誡めについて、それがゆきわたっていないことを私はひたすら恐れる。〔だから上書の草稿は全て焼き捨てるのである。〕賢才を推挙し非凡な人を採用することが出来なければ、どうして人を見る目のないことを恥じずにいられようか。そのうえ公の朝廷にあって爵位を拝したのに、個人的にお礼の言葉を受けたりすることは、私の受け入れないところである。〔つまり、自分の推薦した人物が万一不適切であって、それを謗られるのは恥であるし、また、公の立場で推薦したのに私的に恩義を感じられるのは、徒党を組む原因になってしまうから、自分が推挙してもそれを明かす事はしないのである。〕」

羊祜の娘婿がかつて羊祜に勧めていった、「陣営を設置したら、〔その陣営の中から〕リーダーを選び出させるのは、〔陣営の結束が固まり〕よいことではありませんか。」羊祜は黙って答えず、〔娘婿が〕退出してから諸人にいった、「彼はその一を知って二を知らないということができる。人臣たるものが私を優先させて公に背くのは、大きな誤りである。おまえたち、私のこの意見をよく理解するように(35)。」かつて従弟の羊琇に手紙を送っていった、「もはや国境の事も定まり、今となっては角巾(隠者の服)をかぶり東へ行き、故郷に帰り、棺を納める塚を作るべきである。卑しい身をもって高い位についていたら、どうしてその過分な待遇を責められずにすもうか。疎広こそ我が師なのだ(36)。」

羊祜は山水を好み、景色を楽しむ時はいつも、必ず峴山に登り、酒盛りをして詩を詠い、一日中飽きることがなかった。かつて世の中をはかなんで歎息し、振りかえって従事中郎鄒湛たちにいった、「天地万物が出来た時から、この山は存在していた。今までに賢く事物に通じた人や優れた士で、ここに登り遠くを望んだ、私や君たちのようなものはたくさんいたのだ。みな名が埋もれ消えて伝わらず、私はそのことが悲しくてならない。もし死後にも知覚があるならば、彼らの魂魄もいまなおきっとここへ昇るだろうに。」鄒湛はいった、「あなたさまは徳は天下をおおい、なさることは先賢に従っておられ、よき評判と立派な威儀がありますので、きっとこの山とともにその名が伝わりましょう。わたくし湛らがごとき輩のこととなると、まさにあなたさまがおっしゃった通り〔名も消えゆくのみ〕でありましょう。」

羊祜は敵国の呉を討伐するに際して功績があったので、〔帝が〕爵位をすすめ封土を増やそうとしたところ、〔羊祜は〕舅子(母の兄弟の子)の蔡襲に爵位を賜りたいと願ったので、詔勅を下し蔡襲を関内侯に封じ、邑三百戸を与えた。

呉の者が弋陽・江夏を荒らし、人民を略奪すると、〔帝は〕詔を下して侍臣に書簡を届けさせて羊祜が賊を追討しない真意を詰問させ、それとともに州治を移して元通りにしようとした(37)。羊祜はいった、「江夏は襄陽から八百里の先にあり、敵がやってきたことを知ったときには、敵が去ってしまってからまたすでに日数が経ってしまっている。歩兵の軍が今さら行ったところで、どうしてこれを救うことができようか。軍隊を無駄に疲れさせることで責任を逃れるのは、おそらく正しい措置ではないであろうと思われる。昔魏の武帝(曹操)が都督を設置した時も、それらはみな州治に近かったようで、〔州の中心地から遠い場所では〕形勢によってこちらについたり背いたりしていた。国境地帯にあっては、一方は向こう一方はこちらと、慎重に守るにとどめよというのは、古のよき教えである(38)。もし州治を移したなら、敵は何時ともなく出てくるであろうし、また州の恃みとするべきところも〔州治と都督のどちらであるのか〕分からないであろう。」使者は詰問することが出来なかった。

羊祜は病気になり、入朝することを求めた。洛陽に到着すると、景献皇太后(司馬師の妃・羊祜の姉・羊徽瑜)の喪中であり、哀しみ嘆くことこの上なかった。〔帝は〕内々の詔で諭し、病をおして引見させたが、車に乗ったまま入殿し、下車して拝礼することをしないでよいと命じ、〔羊祜は〕礼を尽くして待遇された。天子の側に座ると、呉を討つ計画を面と向かって述べた。帝は〔羊祜が〕病であることから、いつも入殿させるのはよくないと考え、中書令の張華を遣わしてその計画を問わせた。羊祜はいった、「今御主君には禅譲のよろこびはあっても、〔天下統一の〕功績と仁徳は未だあらわれていない。呉では人民を苦しめるむごい政治が行なわれており、戦わずに勝つことができる。天下をひとつにまとめ、教育を盛んにすれば、主君は堯・舜(古の聖王)に肩を並べ、臣下は稷・契(39)と同じになり、後々の世のよき手本となるだろう。この機会を捨て置くようなことをして、もし不幸にも孫晧が死に、呉があらためてよき君主を立てたならば、たとえ百万の軍勢であっても、長江を越えることはできないだろうから、後の憂いとならないはずがない。」張華はその計画に心から賛成した。羊祜は張華にいった、「我が志を成し遂げるのは、君である。」帝は羊祜に床にありながら諸将を統率させようとしたが、羊祜はいった、「呉を手に入れるには臣自らが行くことを必要とはしません、ただ平定された後に、どうか〔善政を敷くために〕陛下の御心を煩わされますように。〔呉平定の〕功績と名誉は、臣が強いて占めようとするところではありません。もし事が成れば、伝え授けるべきことがありますので、どうかその〔後任となるべき〕人物をよく審査して選び出してください。」

病がますます篤くなったので、杜預を推挙して自ら退任した。まもなく卒したが、時に五十八歳であった。帝は喪服にて哭礼を行ない、ひどく哀しんだ。この日は寒さが激しく、帝の涙は鬚と鬢の毛を濡らし、すべて凍りついた。南方の庶民は市を立てる日に羊祜が亡くなったことを聞き、慟哭しないものはなく、市を開くことをやめ、巷には泣き声が溢れかえった。呉の国境を守っていた将士もまた羊祜の死のために泣いた。その仁徳が人々の心を動かすことはこのようであった。〔帝は〕東園の秘器(40)、朝服一揃い、銭三十万、布百匹を賜った。詔していった、「征南大将軍南城侯羊祜は、純粋な心で徳行を行ない、〔世を〕思う心はどこまでも清らかであった。はじめは〔魏の〕朝廷内で官に就き、〔朕が〕天命を受けて即位する時期にあっては、誠意に満ちあふれた心で王事を補佐し、〔晋の朝廷に〕入っては機密事項を統括し、出ては地方を治めた。当然大いなる勲功を成し遂げ、いつまでも朕が身を輔けるはずであったのに、にわかに亡くなってしまい、羊祜を思うと悲しさと懐かしさで胸がいっぱいである。侍中・太傅の位を追贈し、持節はもとのままとせよ。」

羊祜は清廉潔白に身をたて、着る物は質素であり、支給された俸禄は、あまねく九族に分け与えたり、兵士たちに賞賜として与えたので、家には余分な財産がなかった。南城侯の印綬を柩に入れさせないように遺言した。従弟の羊琇らが羊祜の日頃の志を述べ、先祖の墓の隣に葬ることを願った。帝は許さず、城から十里のところにある陵の近くに一頃の葬地を賜り、諡して成〔侯〕といった。羊祜の遺体が〔都を〕去っていくとき、帝は大司馬門の南までついて見送った。羊祜の甥の斉王司馬攸が、羊祜の妻が侯礼に従って棺に納めることはしないつもりであることを上表したので、帝は詔していった、「羊祜は〔南城侯の爵位を〕ずっと固く辞退してきたので、その志を奪うことはできない。身は没しても謙譲の心あり、後に残した節操はますます激しくあるが、これは伯夷・叔斉が賢人と称された理由であり(41)、季子が節義を全うした理由である(42)。今本来の封地(43)にもどることを許し、よって〔羊祜の〕高く麗しき様を彰かにせよ。」

昔、文帝(司馬昭)が崩じたとき、羊祜は傅玄にいった、「三年の喪は、身分が高くとも服喪を遂げるものであり、天子から〔庶民まで〕皆に共通するものである。それなのに漢の文帝はこれを止め、礼を破り義をそこない、〔私は〕いつも残念に思い嘆息している。今主上(司馬炎)は生まれながらにして孝心があふれ、曾参・閔子騫(44)のような性質がおありであるから、喪服を取り去ったとしても、喪礼を行いなさるであろう。実際に喪礼が行われるのならば、喪服を脱ぐことに何の意味があろうか。そういうわけであるから、もし漢・魏の悪い取り決めを改め、古代の聖王の法をまた行ない、それによって人々の風習を手厚く教化して、美徳を百代に示せば、なんと善いことであろうか。」傅玄はいった、「漢の文帝は世が衰えあさはかになっていて、国君の喪を行うことが出来なかったので、そのためにこれをやめたのです。やめてから数百年して、にわかに旧制に復すのは、難しいことです。」羊祜はいった、「天下に礼を及ぼすことが出来なくても、それでも主上に服喪を行なっていただくほうが、まだよいのではないだろうか。」傅玄はいった、「主上が〔葬礼を〕やめず天下の人々がやめるのであれば、ただ父子の礼のみがあって、君臣の礼はもはやないということであり、三綱の道(君臣・父子・夫婦の道)が廃れることになります。」羊祜はそれ以上言うのをやめた。

羊祜が著したところの文章と作ったところの老子伝は、ともに世間で読まれた。襄陽の百姓は峴山の羊祜がいつも宴をひらいて楽しんでいたところに碑を建立し廟を立てて、四季ごとに供え物をして祭った。その碑を仰ぎ見て涙を流さないものはなく、杜預はそこでこの碑を「堕涙の碑」と名付けた。荊州の人々は羊祜のためにその名を呼ぶことを避けて、家屋については〔戸を使う代わりに〕門を用いて呼び、戸曹のことを改めて辞曹といった(45)

羊祜は開府儀同三司となってから長年のあいだ、遠慮して士人を招聘せず、はじめて官吏を任命しようとしていたところ、たまたまちょうど亡くなってしまったので、官を授けることができなかった。そこで〔羊祜に招かれた〕属官の劉儈・趙寅・劉弥・孫勃らは杜預のところへやってきて上書していった、「昔間違って〔官吏として〕選出され、かたじけなくも属官に加え入れられ、みなみな前の征南大将軍羊祜殿とともに庶事にあずかる機会を得ました。羊祜殿は私心なく徳行を行ない、品行優れて清らかで奥深く、徳は高くとも態度はへりくだり、地位は高くとも行いは慎み深くおありでした。前には御詔を受け、ここへ来てからは南夏を鎮撫し、すでに開府儀同三司に任ぜられていたうえに、さらに大将軍の称号を加えられました。しかしその地位は儀同三司であったとはいえ、その制度を行うことはありませんでした。今に至るまで天下は〔羊祜殿を〕渇望し、多くの俊才が仰ぎ慕ってまいりました。羊祜殿の家の門をくぐったものは、貪欲なものは反対に清廉になり、気の弱いものは志を立て、伯夷・柳下恵(46)らの固い志操であっても、羊祜殿に優るものではありません。〔羊祜殿が〕この国境を鎮めて以来、政化は長江・漢水一帯にゆきわたり、謀は表へ出さず計策を遠くめぐらし、国境を切り拓き、諸々の取り決めたところのものは、みな道理に則っていました。公のために働くことを志して、命を賭して仕事に励み、はじめて四人の掾を招聘しましたが、まだやって来ないうちに〔羊祜殿は〕亡くなってしまいました。そもそも賢才を推挙し国に報いることは、台輔(羊祜のこと)の大きな任務であり、微賎なもの〔で才能のあるもの〕を探し出して登用することは、また台輔のかねてからの志であり、道半ばにして弊れることは、また台輔の残念がることでありました。謙譲の徳をふみ行うこと長年にわたったのに、晩年の望み(士を招いたこと)を果たせず、だからこのように遠近のものが羊祜殿のために悼み悲しむのであります。昔、召伯が休息をとったところでは、甘棠の樹にまで〔人々の〕敬愛が及びました(47)。韓宣子が遊んだところでは、〔韓宣子が愛でた〕木が育てられました(48)。このようにその人を思えば、〔思いは〕その樹にまで及ぶものでありますから、まして今生きている招聘された者を、すぐに定めにのっとって放棄するべきでありましょうか。事の次第を上申し、すでに属官で到着しているものをそのまま用いて下さいますようお願い申し上げます。」杜預は上表していった、「羊祜は開府しても部下の役人をそなえず、そのきわだった謙譲は、明らかにされるべきであります。病をおして士を招いたところ、〔その者たちが〕やって来ないうちに亡くなってしまいました。家には後継ぎがなく、役所には命によって任じられた士がなく、このあたりの人々は、いたみ憂いて名残惜しく思うのであります。そもそも死後の扱いをおろそかにせず、先祖の祭りを尽くせば、〔人々もそれに感化されて〕人情風俗は厚くなるものであり(49)、漢の高祖(劉邦)は四千戸の封地を惜しまなかったので、趙の人々の心を安んじました(50)。このことについて話し合っていただきたく思います。」〔武帝は〕詔を下してこれを許さなかった。

羊祜が卒してから二年して呉が平定され(280)、群臣が祝賀を述べたところ、帝は杯を持ちつつ涙を流していった、「これは羊太傅の功績である。」〔呉〕平定の功績により、策書によって羊祜の廟に報告し、蕭何の故事(51)にならって、夫人を〔万歳郷君に〕封じた。その策にいう、「皇帝が謁者杜宏を遣わして故侍中・太傅の鉅平成侯羊祜に告げていう。昔、呉は恭順しない態度をとり、天険に拠って帝号を僭称し、国境はひらかれないまま、長い年数が経過した。羊祜は南夏に任務を授けられ、その危難を静めることを心に思い、外には王化を広め、内には朝廷の運営に参画し、徳をあきらかにして誠心誠意を心掛けたので、長江・漢水周辺の人民はなつき、〔羊祜の〕行いには立派な資質があり、謀にはありったけの策略があった。しかし、おおいなる天はあわれみを賜らず、その志はとげられず、朕はわが心に哀悼と痛恨の思いを抱いていた。ようやくあまねく諸将に命じ、天の討伐の軍をおこし、戦は時を待たずして、一度の征討で〔呉を〕滅ぼし、昔日の〔羊祜の〕計画と、割符を合わせたように同じであった。そもそも功績を賞して苦労を忘れないのが、国のあるべき道であるから、宜しく封土を加増し、それで以前の命令を尊重し(52)、度々羊公の高き謙譲の性質に違え〔て爵位・封邑を加え〕るべきである。今、夫人の夏侯氏を万歳郷君に封じ、食邑として五千戸を与え、また帛(絹織物)一万匹と穀類一万斛を与える。」

羊祜が五歳であった頃のこと、ある時、おもちゃにする金の輪を取ってくれるよう乳母に頼んだ。乳母はいった、「お坊ちゃん、以前はそんな物をお持ちでなかったでしょう。」羊祜はすぐに隣人である李家の東の垣の桑の木立の中に行き、金の輪を探し出した。李家の主人が驚いていった、「これは死んだ私の子供が無くしたものだ、何で持っていくのか。」乳母が主人に詳しく話すと、李氏は驚き〔亡き子供のことを思い出して〕悲しみ嘆いた。当時の人々はこれを不思議がり、李家の子供はつまり羊祜の前身なのだといった。また墓地の相を占うことが得意なものがいて、羊祜の先祖の墓には帝王の気があり、もしこれを掘ってしまうと後継ぎが無くなるだろうといったが、羊祜はとうとうそれを掘ってしまった(53)。占い師はそれを見て、「それでもまだ腕折れの三公が出るだろう」といったが、はたして羊祜はとうとう馬から落ちて腕を折り、位は三公(太傅は三公の上に位置する)になったが子は無かった。

帝は羊祜の兄の子羊曁を後継ぎとしようとしたが、羊曁は父が亡くなっているので他家の跡取りとなることが出来ないと断った。帝はまた羊曁の弟羊伊を羊祜の後継ぎとしようとしたが、また詔をうけたまわらなかった。帝は怒り、二人とも捕えて免職にした。太康二年(281)、羊伊の弟羊篇を鉅平侯とし、羊祜の後嗣とした。羊篇は清廉謹慎に官位を歴任したが、所有していた牛が官舎で子牛を産むので、昇進を辞退してここに留まった。官位は散騎常侍までのぼったが、年若くして卒した

孝武帝(東晋九代・司馬曜)は太元中(376〜396)(54)、羊祜の兄の玄孫の子羊法興を鉅平侯とし、邑五千戸に封じた。〔羊法興は〕桓玄の一派であったために誅殺され、領国を没収された。尚書祠部郎の荀伯子が上表してこのことについて訴えていった、「臣は、咎繇の後嗣が滅んだために臧文仲が深く歎き(55)、伯氏が封邑を奪われたために管仲がその仁を称されたと聞いております(56)。功績が大きければ百代の後まで滅ばないべきであり、功のないものをみだりに賞しても先祖の廟を崇めることはできません。故の太傅・鉅平侯羊祜は曇りなき徳と道理に通じた賢をそなえ、国民の仰視の対象となり、創業の天子の補佐に加わった勲と、呉平定を成功させた功がありましたが、しかし後継ぎがなく、先祖の祭りはすたれております。漢は蕭何の国家功業の功績を以って、それゆえ子孫が絶えた家を継がせましたが(57)、私は〔羊祜の後の〕鉅平侯の封は〔蕭何の〕酇国と同じようにするべきと存じます。故の太尉・広陵侯陳準は賊の司馬倫に与して、淮南〔王の司馬允〕に禍をもたらし、逆賊に付き従い利益をはかり、わが中華を侵しました。西晋王朝が政治と刑罰の施行を誤ってしまい、中興の東晋王朝はそのために〔広陵国を〕剥奪しませんでした。今、王道は一新されました以上、どうしておおいに善悪を判断しないでよいでしょうか。よろしく広陵国は除くべきだと思います。故の太保衛瓘は本来の爵位は菑陽県公でしたが、無道にも殺されてしまったので(58)、爵位を進め、はじめ蘭陵郡公を追贈され、また〔後を継いだ孫の衛璪は〕江夏郡公にうつされました。西晋王朝の名臣には、道理に合わない最後を迎えさせられたものが多くおりますのに、衛瓘は特別な功績や徳行なくして、ひとり偏った賞賜を受けております。よろしくその郡封を除き去り、ふたたび菑陽の邑に封じたならば、与奪に秩序を持たせ、善悪をはっきりさせることができましょう。」結局聞き届けられず賞罰は行われなかった。

羊祜の前母(59)は、孔融の娘であり、兄の羊発を生み、〔羊発の〕官は都督淮北護軍まで昇った。かつて、羊発と羊祜の同母兄である羊承がともに病にかかったが、羊祜の母(蔡氏)は両方を生き延びさせることは不可能だと判断して、ひたすらに羊発の面倒を見たため、〔羊発を〕救うことはできたが、羊承はとうとう死んでしまった。

羊発の長子の羊倫は高陽の相となった。羊倫の弟の羊曁は陽平太守となった(60)。羊曁の弟の羊伊は、はじめ車騎将軍賈充の掾となり、後に平南将軍・都督江北諸軍事を歴任し、宛に駐屯して、張昌に殺されてしまったため、鎮南将軍を追贈された。羊祜の伯父の羊祕は、官位は京兆太守までなった。〔羊秘の〕子の羊祉は魏郡太守となった(61)。羊秘の孫の羊亮は、字を長玄といい、才能豊かではかりごとが多かった。彼と付き合うものは、必ず偽って真心を尽くすふりをして、人々はみな彼の心を得たと言っていたが、全くそういうことはなかった。初め太傅楊駿の参軍となったが、当時京兆には窃盗が多かった。楊駿はさらに法を重くしようとし、百銭を盗んだものは死刑に処すことについて、役人たちに話し合うよう求めた。羊亮はいった、「昔、楚の江乙の母は布をなくしたとき、盗みを令尹のせいにしました(62)。あなたがもし無欲であれば、盗みは自然となくなるに違いありません、どうして法を重くしようなどとおっしゃるのですか。」楊駿は恥じ入って〔法を重くするのを〕止めた。栄転を重ね大鴻臚となった。時に恵帝は長安にいたが、羊亮は関東の人々とともに謀に参加し、心中不安だったので、并州に出奔したところ、劉元海(淵)に殺されてしまった。羊亮の弟の羊陶は徐州刺史となった。

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