校勘
〔一〕[示古:024671]爲尚書右僕射 『校文』には「そのとき東莞王[イ由:000479]が右僕射となり、羊[示古:024671]はつまり左僕射となったのである。「帝紀(武帝紀)」及び「司馬[イ由:000479]伝」より明らかである」とある。『[冓斗:013521]注』には「『北堂書鈔』巻五九・『太平御覧』巻九は干宝の『晋紀』を引いて、これらもまた「左」としている」とある。
〔二〕今道路行通 『文選』に掲載されている『譲開府表』は「行」を「未」としており、そのほうが文の意味がより合っている。
〔三〕夏詳邵[豈頁:043614] 「武紀(武帝紀)」は「邵凱、夏祥」としており、『資治通鑑』巻八〇、『冊府元亀』巻四一七もまた「詳」を「祥」としている。
〔四〕呉人戰於其内有憑城之心 『資治通鑑』巻八〇は「呉人内顧,各有離散之心(呉の人々は国内の情況を顧み、みな離散してしまおうという気持ちがある)」としており、「各有離散之心」とする方が、文の意味がより合っている。
(1)[示古:024671]の本貫については、『晋諸公賛』は泰山郡平陽県の人とし、『元和郡県図志』は泰山郡新泰県の人としている。また臧栄緒の『晋書』においても、太(泰)山郡平陽県の人としているものがある。『晋書』「地理志上」にある通り平陽は新泰の旧名であり、それぞれ旧名・新名を用いてはいるがいずれも本伝の記載と異なる。『晋書[冓斗:013521]注』は、本伝で南城としているのは羊[示古:024671]が南城郡に封ぜられたからであろうとしている。
(2)太傅府・太尉府・司徒府・司空府・大将軍府の総称。
(3)顔回は、徳行をもって賞賛された、孔子の一番の高弟である。
(4)夏侯覇は曹氏と親族であったので、曹爽が処刑されると自分の身にも災難が降りかかると思い、蜀へ亡命した。
(5)原文「以道素自居」。「道素」というのは「純朴な徳行」の意であり、「以〜自居」は「〜を旨として生活する」の意。当時の貴族たちは形式としての礼教として儒教を受容していたのに対し、この時の羊[示古:024671]は本当に儒者のように、心の底から母と兄を悼んだということを言っているのであろう。
(6)公車は朝廷さしまわしの車。上書と徴召を司るのが公車司馬令であり、公車によって召し出された人物は、公車司馬令に出頭する。
(7)『三国志』魏書第四「高貴郷公紀」甘露二年五月の条に、和[ユウ:038872]・陳騫らが詩を作るのがぐずぐずと遅かったために担当官吏が罷免するように上奏したところ、高貴郷公は詔勅を下してこれを許させた、とある。
(8)状況として、大方の人は帝に近付き和[ユウ:038872]と疎遠にするのが普通であるが、実直・純朴な羊[示古:024671]にはそれが出来なかった、ということであろう。
(9)景元五年(二六四)、鍾会は蜀を平定した後姜維とともに魏に対し反乱をおこしたが、すぐに誅殺された。
(10)中領軍とは本来近衛兵を統括する役職であるが、「職官志」には、羊[示古:024671]が中領軍であったときに左右の衛将軍・前後左右の四将軍・驍騎将軍の陣営も合わせて統率させたとある。
(11)「九官」とは、国政を司った九つの官職のこと。司空(総理)・后稷(農政)・司徒(教育)・士(訴獄)・共工(百工)・虞(山林沼沢)・秩宗(祭祀)・典楽(音楽舞踊)・納言(上言下達・下言上達)を指す。
(12)「六職」とは、治・教・礼・政・刑・事を司る職官のこと。
(13)本来、将軍が変わっても兵士はそのまま元の将軍府に留まるものであるが、羊[示古:024671]は武帝の信任厚かったために中軍将軍時代に配下であった兵士たちを衛将軍になっても引き続き率いることを許されたのである。
(14)『晋書[冓斗:013521]注』は「王祐は楊駿の腹心であり、魏の名望家ではない。王沈伝・賈充伝などの記述から、ここは王祐ではなく王沈に違いない」と指摘している。
(15)「南夏」は中国南部をさす。
(16)『管子』「立政」に「国に徳義の未だ朝に明かならずして、而も尊位に処る者有れば、則ち良臣進まず。功力の未だ国に見れずして、而も重禄有る者有れば、則ち労臣勧まず。」とあるのをさしている。
(17)殷中興の功臣、傅説の故事による。殷の王武丁が夢に見た聖人をさがしたところ、糧を得るために刑人と共に土木作業に従事していた傅説がその夢の人とそっくりだったので、ついにこれを重く用い宰相とした。
(18)周の文王の賢臣、呂尚(太公望)の故事による。『楚辞』「惜往日」に「呂望は朝歌に於いて屠す(太公望呂尚は朝歌の町で家畜をさばいていた)」とあり、また『史記』「斉太公世家」に「(尚)、漁釣を以って周の西伯を奸む(太公望呂尚は、魚釣りを機会にして周の西伯の知遇を求めた)」とある。
(19)原文「立身在朝」。『文選』巻三十七に掲載されている「譲開府表」には、李憙を評する言葉に「正身在朝(身を正して朝廷にいる)」とあり、この文の方が意味がよく通ると思える。
(20)原文「少益日月」。「日月」は君后に喩えて言う言葉。
(21)孟献子は春秋魯の大夫仲孫蔑のこと。『春秋左氏伝』「襄公二年」に、孟献子が鄭を威圧するため虎牢に城を築くように進言したことが記されている。本文中、「虎牢」を「武牢」としたのは、唐の太祖(高祖李淵の祖父)である李虎の名を諱んだためであろう。
(22)晏弱は春秋斉の名宰相晏嬰の父。莱子は当時の莱の君主共公。晏弱が東陽に城を築いたことについては、『春秋左氏伝』「襄公二年」「襄公六年」にある。
(23)華元は春秋宋の人、司馬子反は楚の公子側のこと。司馬は役職名である。二人が敵同士でありながら互いに欺かなかったというエピソードが『春秋左氏伝』「宣公十五年」に見られる。
(24)『晋陽秋』には、王衍の父の王乂が免官されたとき、十七歳だった王衍が継母のいとこの羊[示古:024671]の元へ事情を申し立てに行ったが、羊[示古:024671]はその言い分を認めなかった、とある。
(25)原文「羊公無徳」。『漢晋春秋』には「二王當朝,世人莫敢稱羊公之有コ(二王が朝廷で権勢を誇り、人々はあえて羊公の有徳を称するものがなかった)」とある。
(26)原文「阿童復阿童」。「わらべやわらべ」というニュアンスの呼びかけの言葉。王濬の小字なである「阿童」とかけられている。
(27)原文「不畏岸上獣」。臧栄緒の『晋書』「羊[示古:024671]伝」及び『晋諸公別伝』は、この部分を「不畏岸上虎」としている。本『晋書』では唐の太祖である李虎の名を諱んで、「獣」の字に改められたのであろう。
(28)堯の丹水の伐・舜の三苗の征はともに異民族討伐。後に述べられているように、当時の論者の主張は「まずは徳を修めて呉が自然に服すのを待つ」というものであったが、堯舜のような聖帝でも兵を動かして武力によって服させているのであるから、今呉を降すのに武力を用いることは何ら問題はない、と言っているわけである。
(29)原文「無有内外」。国境の守りを破ってしまえば都まで一気に攻められる、つまり長江の防衛線さえ抜けば、後は外辺守備と内地の守備などない、ということを言っているのであろうか。
(30)相というのは、王国や侯国に置かれた長官のこと。王国はひとつの郡を領地とし、侯国はひとつの県を領地とした。
(31)『史記』「留侯世家」に、劉邦が張良の功績を賞して斉の国の三万戸を自由に択ばせようとしたとき、張良は三万戸を辞退し、留の万戸を望んで許されたというエピソードがある。留は、劉邦と張良が出会った地でもあり、そのため張良はこの地を望んだとされる。
(32)『資治通鑑』巻八〇「晋紀・咸寧三年」にも「故特見申於分列之外」とあり、胡三省は「『見申』とは、彼に爵位の辞退をゆるし、彼の志が発揮できることを言う。『分列』とは、封地を与えること・爵位につけることである。」と注釈をいれている。
(33)台輔は三公・宰相の称。
(34)宰相として入朝してしまうと、地方の責任者として軍を督することが出来なくなってしまうためである。
(35)本来「長」というものが国から任命されて派遣されるものであるのに、自分たちの中から選び出してそれに服すということは、「公」よりも「私」の繋がりに忠誠を誓うことであり、羊[示古:024671]はその風潮をひどく嫌っていたのでこう言ったのである。
(36)疎広(疏広)は漢の宣帝に召され太子太傅となった人物。少傅であった兄の子疎受とともに仕えたが、功名が立てられてからも朝廷に残っていれば後悔するといって、二人して辞職を願い出た。その身の処し方が、人々から賢人であると賞賛された。この故事が「骸骨を乞う」の出典である。
(37)魏の時代には、荊州の州治は宛であった。
(38)『春秋左氏伝』「桓公十七年」に「疆場の間は、慎みて其の一を守り、而して其の虞らざるに備える(国境地帯では、慎重に自領を守り、予想外の事態に備えるものである)」とあるのを指している。
(39)稷・契は唐虞(堯と舜)の時代の二名臣。稷は農業を司り、契は教育を司ったといわれる。
(40)東園は少府に属し、陵墓内の器物や葬具を作る役所である。東園の秘器はここで作った棺以下の葬具のこと。漢代には、諸王・功臣・大臣などが死んだ時、東園の秘器を賜るのが例であった。
(41)伯夷・叔斉は殷の孤竹君の二人の子で、父が弟の叔斉に後を継がせようとしたがともに譲って国を去った。殷が周に滅ぼされてたとき、周を不義としてその粟を食べることを拒み、首陽山に隠れ住んで、とうとう餓死した。
(42)季子は春秋呉の人で呉王寿夢の第四子。季札。彼が賢かったので寿夢は王位を彼に伝えようとしたが、季子は頑として受けなかった。
(43)前段に「南城侯[示古:024671]」とある通り、羊[示古:024671]が南城侯をかたくなに辞退していたにも関わらず朝廷では南城侯扱いにしていたことは、羊[示古:024671]の「棺には南城侯の印綬を入れないように」という遺言からも分かる。ここでの「本封」とは鉅平侯のことであり、そのために呉が平定された際の羊[示古:024671]の廟への報告では「鉅平成侯[示古:024671]」となっているのである。
(44)曾参・閔子騫はともに孔子の門人で、孝をもって称された。
(45)上古音から中古音(魏晋期の発音)では、[示古:024671]と戸の発音が同じであったとされている。したがって、「[示古:024671]」と発音することを避けるために「門」や「辞曹」といった言葉に改めたのである。
(46)柳下恵は春秋魯の大夫・士師。『孟子』「尽心章句下」では伯夷・柳下恵を百世の末までも人々の師になる聖人として称え、「伯夷の清廉潔白な遺風を聞くと、頑貪な男も清廉になり、いくじなしも志を立てる」「柳下恵の寛容な遺風を聞くと、薄情な者でも人情に厚くなり、度量の狭い者でも寛大になる」としている。
(47)『詩経』「召南・甘棠篇」に、周の召公の善政に感じた人民が、召公が下に宿った甘棠の木を大切にしたという故事が歌われている。そのことから、「甘棠之愛」というのは善政者を思慕する情の切なることの喩えになった。
(48)『春秋左氏伝』「昭公二年」に、晋の韓宣子(韓起)が魯へ挨拶に行ったときのことが記されているが、季氏の邸宅での宴席で、韓宣子が庭の美しい木をほめたところ、季武子(季宿)は「私は必ずこの木を大切に育てて、あなたのお心を忘れないようにしましょう。」と言って甘棠の詩をうたい韓宣子を称えたとある。
(49)『論語』「学而篇」の曾子の言葉に「慎終追遠,民徳帰厚矣。」とあるのを引いているのであろう。
(50)『史記』「陳[豕希:036404]伝」及び『漢書』「高帝紀」に見える。
(51)このことは『史記集解』の「孝文本紀」の部分に見える。
(52)「前命」は、おそらく以前に下していた「功労をきちんと評価する」といった主旨の詔を指していると思われるが、いつの詔であるかははっきりしない。
(53)「帝王の気」というのは、子孫から帝王が出るという瑞兆であり、それは晋王朝が倒されることに他ならない。王朝からの疑いを恐れ、また自らの子孫が晋王朝を倒すことを嫌った羊[示古:024671]は、子孫が絶えるという予言にもかかわらず墓を掘って、王朝への忠誠を示したのである。
(54)『芸文類聚』巻五十一に引く『晋中興書』は泰元二年(三七七)としている。
(55)『春秋左氏伝』「文公五年」に、魯の大夫臧文仲が六と蓼の二国が滅亡したのを聞いて慨歎した話が記されている。咎[ヨウ:027856]は皐陶のことであり、六の祖先がその皐陶である。
(56)『論語』「憲問篇」に、管仲が斉の大夫・伯氏の駢邑三百戸を取り上げそれでもなお一生怨みの言葉を吐かせなかったということについて、孔子は管仲の公明正大な処置を称えている。
(57)『史記』「蕭相国世家」に、蕭何の後嗣は四代の後、罪を得るものが出て絶えてしまったが、天子はまた蕭何の後裔を探し出して[贊β:039752]侯を継がせた、とある。
(58)[王懽:021357]は賈皇后・楚王[王韋:021107]らとの権力闘争で、皇帝廃立の濡れ衣をきせられて汝南王亮とともに殺された。
(59)前母とは父の先妻のこと。
(60)『通典』巻六十に見える王渾の上奏文に「并州刺史羊曁」とあり、『晋書[冓斗:013521]注』では「羊曁は陽平太守を経て并州刺史となったのだが、史書が記しそこねたのであろう」としている。
(61)『越縵堂日記』に、「羊秘と羊祉はともに羊続の子であり、『晋書』「羊[示古:024671]伝」の記述は誤っている」とある。
(62)『芸文類聚』巻八十五に引く『列女伝』に次の話が記されている。「江乙が戦国・楚の恭王の元で国都・郢の大夫であった時、王宮で盗難があったので令尹(上卿で政治を司る最高の官位)に罰せられて斥けられたことがあった。後、江乙の母も布を盗まれたので、王にまみえ、『昔、孫叔敖(楚の名相)が令尹となると人々は道に落ちているものも拾わなかった。今、盗賊が横行するのは政治責任者の令尹の罪である』と訴え、ふたたび江乙を登用させた。」よって、刑罰を重くするのではなく孫叔敖のように身を修めて民の規範となるように、というのが羊亮の進言の主旨であろう。

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