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update:2021.01.14 担当:徳元 篤之
晋書巻三十五
列伝第五
陳騫 子輿
人物簡介

陳騫(201〜281)は字を休淵といい、臨淮郡東陽県の人である。魏の司徒の陳矯の子である。度量があり、自己の欠点を見せないよう努めた。太守として治績を挙げた後、中央に入って尚書となった。蜀軍の侵攻や諸葛誕の反乱では将軍職を代行して功績を挙げ、後に各地の都督を歴任した。晋朝が成立すると車騎将軍に昇進し、高平郡公に封じられた。咸寧二年(276)、大司馬になった。太康二年(281)十一月、薨じた。享年八十一。太傅を追贈され、武公と諡された。

陳輿(生没年不詳)は字を顕初といい、陳騫の子である。品行方正ではなかったが、実行力はあった。大司農や侍中を歴任したが、叔父・陳稚との訴訟争いを起こして不和になり、河内太守在職中に卒した。

本文

陳騫は臨淮郡東陽県の人である(1)。父の陳矯は魏の司徒であった。陳矯は本来廣陵郡の劉氏の出だったが、母方の実家の陳氏に育てられたので、改姓したのだ。陳騫は思慮深く知謀を備えていた。むかし陳矯が尚書令になった時、侍中の劉曄が魏の明帝に寵愛されていて、陳矯が独断で権力をふるっているとそしったことがあった。陳矯は憂い恐れて、陳騫に相談した。陳騫が言った。「陛下は聡明で知徳があらせられ、父上は大臣でおわします。今もし陛下のお気に召されなかったとしても、三公になれないだけのことです〔何を恐れることがありましょうか〕。」後に案の定明帝は陳矯を許した。陳騫がまだ若かった頃、夏侯玄に侮られた(2)が、様子は普段通りであったので、夏侯玄は陳騫を非凡な人物だとした。

起家して尚書郎となり、中山太守や安平太守を歴任し、両方の郡で立派な治績を挙げた。中央に召し返されて相国司馬や〔相国〕長史や御史中丞になり、尚書となって安国亭侯に封じられた。蜀の賊徒(3)が隴右に攻め込むと、尚書〔の官職〕のままで持節・征蜀将軍となり、賊を破って帰還した。ほどなく諸葛誕が反乱を起こすと、再び尚書〔の官職〕のままで安東将軍となった。寿春を平定すると、使持節・都督淮北諸軍事・安東将軍に任命され、広陵侯に進爵した。都督予州諸軍事・予州刺史に転任し、持節・将軍の位はもとのままとされた。さらに都督江南諸軍事に転任し、都督荊州諸軍事・征南大将軍に異動し、郯侯に封じられた。

武帝(司馬炎)が受禅すると(265)、佐命の勲によって車騎将軍に昇進し、高平郡公に封じられた。侍中・大将軍になり、中央を出て都督揚州諸軍事になり、ほかの官位はもとのままとされ、仮黄鉞となった。呉の枳里城を攻め落とし、涂中の駐屯軍を破ったので、陳騫の兄の子・陳悝は関中侯の爵位を賜った。

咸寧年間のはじめに太尉になり、大司馬に異動した。そこで陳騫は入朝し、武帝に申し上げた。「胡烈、牽弘はいずれも勇敢ではありますが思慮分別がなく、自信過剰であり、辺境を安定させることのできる人材ではないので、やがて国の恥となる失態を犯すでしょう。願わくば陛下はこのことをご理解くださいませ。」そのとき牽弘は揚州刺史であったが、陳騫の命令に従わないことがあった。武帝は二人が仲違いをしていてお互いにそしっているのだと思い、そこで牽弘を召し返し、彼が戻るとすぐに涼州刺史に任命した。陳騫はひそかに嘆息し、〔二人が〕必ずしくじるだろうと思った。はたして二人は後に羌族や戎族との和親を損ない、どちらも攻められて死亡した。長年にわたる討伐の末、ようやく平定することができたが、武帝はこのことを悔やんだ。

陳騫は若い頃から度量があり、(瑕瑾を気にしない)度量の深さがあり、至る所で功績を挙げた。賈充、石苞、裴秀らとともに皇帝の股肱の臣となったが、陳騫の知恵と度量は彼らに勝っていて、賈充らも自分達では〔陳騫に〕及ばないと考えていた。

たびたび地方長官の地位にあって、下々のものに慕われた。すでに位は人臣を極め、年齢は職を辞する七十歳を過ぎたので(4)、隠居しようと思った。咸寧三年(277)に朝廷に参内することを求め、よって骸骨を乞うた。袞冕の服を賜り、次のように詔が下された。「陳騫は建国の功臣にして徳望のある老臣であり、東夏(5)を統治し、遠大な功績を広めて、呉会地方(孫呉)を〔併合して中国全土を〕統一しようとした。しかし、苦慮する問題はいまだ解決せず、つねづね丁寧な上奏をなし、辺境のことで苦労を重ねた。いま〔陳騫が〕都に留まるのを許し、前の太尉府を大司馬府とし、祭酒二人を増設し、〔陳騫の〕旗下に司馬、官騎を置き、大車・鼓吹はみな元のままとし、近衛兵百人、廚田十頃、廚園五十畝、廚士十人、(前太尉府にある)日常的に使う調度品はもとのまま与えることとする。また乗輿と輦(6)を支給し、宮中に出入りする時に鼓吹を加え、漢の蕭何の故事のごとくせよ。」陳騫はしばしば病と称して職を辞去しようとしたところ、次のように詔が下された。「陳騫は徳を践み道を論じ、朕の助けとするものである。ましてや(陳騫の)謀り事を頼りに、政績を弘めんとした矢先である。今とかわらず政務を執ってもらわねばならぬ。散騎常侍を遣わして我が意を伝えさせよ。」陳騫はすぐさま家に帰ってしまったので、〔武帝は〕詔を下し、さらに侍中を遣わして府に戻るよう懇ろに諭させた。それでも〔陳騫は隠居を〕強く願い出ると、この願いを許され、位は太保・太傅と等しく、三公の上にあり、肘掛けと杖、朝廷に参内しないこと、馬四頭立ての座乗する車(7)を賜り、高平公として家に帰した。武帝は陳騫が譜代の功臣で徳望のある老臣であるため、たいへん丁重に礼遇した。また陳騫は病気なので、輿に乗って昇殿することを許した。

陳騫は平素より直言する性格ではなかったが、武帝には傲慢に語らった。皇太子に会えば丁重に敬ったので、当時の人たちはこれをへつらいだと思った。弟の陳稚は陳騫の子・陳輿を怒って争い、ついには陳騫の子供たちのけがれた行い(8)を告発したので、陳騫は弟を流刑に処すよう上表したが、このため世間の人から譏りを受けた。

太康二年(281)(9)薨じ、享年八十一。袞服に着替えさせてから棺に入れられ、太傅の位を贈られ、武〔公〕と諡された。葬儀に際しては、武帝は大司馬門で葬儀に臨み、柩を仰ぎ見て涙を流し、葬礼は大司馬の石苞の故事(10)に倣った。子の陳輿が爵位を嗣いだ。

陳輿は字を顕初といい、散騎侍郎、洛陽県令に任命され、黄門侍郎になり、将校左軍、大司農、侍中を歴任した。叔父〔の陳稚〕と訴訟争いを起こして不和になり、地方に出て河内太守となった。陳輿は品行方正ではなかったが、実行力はあった(11)。まもなく卒し、子の陳植、字は弘先が後を嗣いだ。官位は散騎常侍にまで至った。〔陳植は〕卒し、子の陳粹が後を嗣いだ。〔陳粹は〕永嘉年間に殺され、孝武帝が陳騫の玄孫に爵位を嗣がせた。〔陳騫の玄孫は〕卒し、弟の子・陳浩之が後を嗣いだ。宋が受禅し(420)、国を除かれた。

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