(1)『三国志』魏書第二十二「陳矯伝」の注によると、「『晋書(三国志の注を作った裴松之の生きた六朝宋の時代に存在した王隠撰などの各種の『晋書』のいずれか)』を調べた所、陳騫の字は「休淵」であった」といい、また『世説新語』「方正篇」の注に引く『晋陽秋』によると、やはり「陳騫の字は「休淵」であった」という。唐代に編纂された『晋書』に陳騫の字が記されていないのは、恐らく唐代の人が唐の高祖・李淵の諱の「淵」を避けたためと思われる。
(2)『世説新語』「方正篇」の注に引く『名士伝』によると、夏侯玄と陳本(陳騫の兄)が陳本の母の前で酒宴をしていると、陳騫が外から帰ってきて宴会をしている部屋に入ってきた。すると夏侯玄が席を立って「同席するのは構わないが、礼を乱してはならない」と言ったとされている。
(3)原文「蜀賊」。蜀軍のこと。魏を正統とするため蜀軍を「賊」と表現していると思われるが、『十七史商榷』によれば、唐では魏を正統、蜀を賊とみなす必要はないため、おそらくこの「蜀賊」という表記は魏晋の時代の記述の残存部分で訂正し漏らした部分であり、『晋書』にはこのような未改訂の部分が散見するとのことである。
(4)原文「年踰致仕」。『礼記』「曲礼上第一」に「大夫七十而致事」(大夫は七十歳で職務を返上する)とあるので、「致仕」は「官職を辞する」という意味であると同時に、「七十歳」を示す熟語と考える。この文の直後に咸寧三年(277)と記載されているが、この時点で七十歳過ぎと考えると、「元康二年(292)に薨じ、享年八十一だった。」という記事とは計算が合わなくなる。だが、「武帝紀」には陳騫が太康二年(281)十一月に薨じたという記事があり、これに従えば咸寧三年(277)時点で、七十歳を越える。そのため、ここでの「致仕」は「七十歳」という意味も含まれていると考える。
(5)原文「東夏」。中国東部のこと。
(6)原文「乗輿輦」。「乗輿」は「天子の乗る車」という意味のほかに「諸侯の乗る車」という意味もあり、ここでは後者の「諸侯の乗る車」を指すと考えられる。「輦」も乗り物で、女性が乗ることが多かった。
(7)原文「安車駟馬」。「安車」とは古代の座乗する車のことで、年老いた高官や婦人が乗用する。高官が退職するときなどに与えられ、普通は一頭立てであるが、特別に四頭立ての物もある。「駟馬」は一乗の車につける四頭の馬のこと。
(8)原文「騫子女穢行」。「穢行」は「淫らな行為、醜悪な行為、勝手気ままな行為」の意味があり、正しくない行為に対する幅広い表現。「子女」は「息子と娘」と考えて「子供たち」と訳したが、六朝時代には「子女」は「娘」のみを指す用例があり、その用例から解釈すると「陳騫の娘の淫らな行い」とも訳すことができる。
(9)原文「元康二年」。「武帝紀」太康二年の条により「太康二年」の誤謬と考える。
(10)「石苞伝」によると、「石苞は泰始八年に薨じた。帝は朝堂で喪を発し、棺・朝服・衣・銭三十万・布百匹を賜った。葬儀の際には、旗指物・曲蓋・追鋒車・鼓吹・介士・大車を給わり、これらの事はみな魏の司空陳泰の故事に倣ったもので、帝は東掖門外まで車駕に乗って見送った。咸寧の初め、詔勅を下して石苞等を王業を補佐した勲功によって饗食の礼に名前を列した。」という事である。恐らく「石苞の故事に倣った」というのは天子自らが親しく死者を見送った事を言っているのであろう。
(11)原文「而有力致」。「致」を「致す」の意でとって訳のようになった。