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update:2021.04.18 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
琅邪王伷 子覲
人物簡介

琅邪武王司馬伷(227〜283)は字を子将といい、宣帝司馬懿と伏夫人の子で、妃は諸葛誕の娘である。若くして評判が高く、晋朝が成立すると東莞郡王に封じられた。鎮東大将軍・仮節・都督徐州諸軍事として衛瓘に代わって下邳に駐留し、咸寧三年(277)に琅邪王に改封された。呉平定戦では兵数万を率いて涂中に出撃し、呉帝孫晧は司馬伷のもとに赴いて降伏した。大将軍・開府儀同三司・仮節・都督徐青二州諸軍事に昇進し、宗室の重鎮で呉平定の功績もあったにもかかわらず、謙虚でおごることはなかった。太康四年(283)五月、薨じた。享年五十七。

琅邪恭王司馬覲(256〜290)は字を思祖といい、琅邪武王司馬伷の子で、元帝司馬睿の父である。太康四年(283)に父の後を継いで琅邪王になり、冗従僕射に任命された。太熙元年(290)二月、薨じた。享年三十五。

武陵荘王司馬澹(?〜311)は字を思弘といい、琅邪武王司馬伷の子である。東武公に封じられ、前将軍・中護軍になった。残酷で嫉妬深く、両親に愛されていた弟の東安王司馬繇を憎んでいて、讒言して失脚させた。趙王司馬倫が簒奪すると領軍将軍に任命されたが、司馬倫が敗北すると遼東国に流された。帰還後、光禄大夫・尚書・太子太傅に任命され、武陵王に改封された。永嘉五年(311)五月、東郡にて石勒の攻撃を受けて殺害された。

東安王司馬繇(?〜304)は字を思玄といい、琅邪武王司馬伷の子である。美しいひげを持ち、博学で意志が強く、人望があった。東安公に封じられ、散騎常侍になった。楊駿の誅殺に功績を挙げて東安王に封じられたが、兄の武陵荘王司馬澹に讒言されて帯方郡に流された。永寧元年(301)に召還されて東安王に復位し、尚書左僕射になった。永興元年(304)八月、成都王司馬穎に怨まれて鄴にて殺害された。

淮陵元王司馬漼(生没年不詳)は字を思沖といい、琅邪武王司馬伷の子である。趙王司馬倫の討伐では王輿とともに宮廷に討ち入って孫秀らを攻め殺し、淮陵王に封じられた。後に宗正・光禄大夫に昇進し、薨じた。

本文

琅邪武王司馬伷は字を子将という。正始の初めに南安亭侯に封じられた。若い頃から才能があり評判が高かったので、起家して寧朔将軍となり、鄴城を監督し、民衆を安撫させ心服させることに優れていると高く評価された。散騎常侍などを歴任して東武郷侯に進封し、右将軍・監兗州諸軍事・兗州刺史を拝命した。五等爵が創設されると(264)、南皮伯に封じられ、征虜将軍・仮節になった。武帝が践祚すると(265)、東莞郡王に封じられ、食邑は一万六百戸だった。初めて二卿が置かれ、特別に詔して諸王はみずから〔諸県の〕令・長を選べることにした。司馬伷は上表して辞退したが、許されなかった。中央に入って尚書右僕射・撫軍将軍になり、地方に出て鎮東大将軍・仮節・〔都督〕徐州諸軍事になり、衛瓘に代わって下邳を守った。司馬伷は四方を鎮圧統御し、将兵に最大限の力を発揮させたので、呉から恐れられた。開府儀同三司を加えられ、琅邪王に改封され、東莞国も加増された。

呉平定戦では兵数万を率いて涂中から出撃し、孫晧は箋を奉り璽綬を送って、司馬伷のもとに出向いて降伏を乞うた。詔にはこうあった。「琅邪王司馬伷は配下を統率して、涂中より兵を連ね、賊同士の連絡を阻止した。また琅邪相の劉弘らに軍を進めて長江に迫らせたところ、賊はふるえおののき、使者を遣わして偽の璽綬を奉った。さらに長史の王恆に諸軍を率いて長江を渡らせ、賊の辺境軍を破った。そして督の蔡機を生け捕り、斬殺したり降伏させたものが五、六万を数えた。諸葛靚や孫奕らはみな帰順して死を願い出た。功績はあきらかであり、子二人を封じて亭侯とし、各三千戸〔を与え〕、絹六千匹を賜う。」しばらくして督青州諸軍事を兼任し、侍中の服を加えられた。さらに大将軍・開府儀同三司に昇進した(1)

司馬伷はもともと宗族で尊重されていたことに加えて、呉を平定する功績があったが、自我を抑えて恭倹で、おごる様子もなかったので、官僚や官吏は力を尽くし、民衆は心服した。危篤になると、〔皇帝は〕牀帳・衣服・金銭や絹織物・うるちやあわなどを下賜し、侍中を遣わして病状を見舞わせた。太康四年(283)に薨じ、享年五十七だった。臨終に際して上表して母の太妃陵のかたわらに葬られることを求め、さらに国を分けて四人の子供を封じてもらうことを願い出た。皇帝はこれを許した。子の恭王司馬覲が後を継いだ。また次子の司馬澹は武陵王に、司馬繇は東安王に、司馬漼は淮陵王になった。

司馬覲は字を思祖といい、冗従僕射に任命された。太熙元年(290)に薨じ、享年三十五歳だった。子の司馬睿が後を継いだが、これが元帝である。〔元帝の〕中興のはじめに皇子・司馬裒を琅邪王として、恭王の祭祀を受け継がせた。司馬裒が早くに薨じると、さらに皇子・司馬煥を琅邪王とした。その日に薨じたので、また皇子・司馬昱を琅邪王とした。咸和のはじめ、すでに会稽に移封していたが、成帝(司馬衍)はまた康帝(司馬岳)を琅邪王とした。康帝が即位すると(342)、成帝の長子哀帝(司馬丕)を琅邪王とした。哀帝が即位すると(361)、廃帝(司馬奕)を琅邪王とした。廃帝が即位すると(365)、会稽王に琅邪国の祭祀を代行させた。簡文帝(司馬昱)が帝位に即くと(371)、琅邪王に跡継ぎはいなかった。簡文帝が崩ずる間際になって、少子の司馬道子を琅邪王に封じた。司馬道子は後に会稽王になり、さらに恭帝(司馬徳文)を琅邪王とした。恭帝が即位するにおよんで(418)、琅邪国は廃止された。

武陵荘王司馬澹は字を思弘という。はじめ冗従僕射になり、後に東武公に封じられ、食邑は五千二百戸だった。前将軍・中護軍になった。性格は嫉妬深く、親兄弟に対する孝行はなかった。弟の東安王司馬繇は有名で、両親から愛されていた。〔そのため〕司馬澹は弟を仇のように憎んでいて、ついには汝南王司馬亮に司馬繇を讒言した。司馬亮はもともと司馬繇と仲が悪かったので、司馬繇を廃立することを上奏した。趙王司馬倫が乱を起こすと(301)、司馬澹を領軍将軍にした。司馬澹はもともと河内郡の郭俶・郭侃兄弟と親交があった。酒を飲んで興じていると、郭俶らは張華の冤罪を訴えたが、司馬澹は酒乱だったので、郭俶らを殺して、首を司馬倫のもとに送ったのだった。司馬澹の残虐さはこのようなものであった。

司馬澹の妻の郭氏は賈后の義理の妹だった。当初は権勢をたのんで、司馬澹の母に失礼な振る舞いが多かった。斉王司馬冏が政権を掌握すると司馬澹の母の諸葛太妃は司馬澹の不孝を上表して、司馬繇の帰還を求めたので、司馬澹とその妻子は遼東に移住させられた。子の司馬禧は五歳だったが、一緒に行くことに納得せずに言った。「父のために帰還を求めるべきで、一緒に移住するべきではない。」長年訴え続け、太妃が薨じ、司馬繇が殺害されると、ようやく帰還できた。光禄大夫・尚書・太子太傅に任命され、武陵王に改封された。永嘉の末(2)に石勒によって殺され、子の哀王司馬喆が後を継いだ。司馬喆は字を景林といい、散騎常侍に任命されたが、〔父と同じく〕石勒によって殺された。子がなく、後になって元帝は皇子の司馬晞を武陵王として、司馬澹の祭祀を受け継がせた。

東安王司馬繇は字を思玄という。最初は東安公に任命され、散騎黄門侍郎を経て、散騎常侍になった。美しいひげを持ち、性格は剛毅で、声望があり、博学多才で、親孝行であり、喪に服している間は礼を尽くした。楊駿誅殺の際には(291)、司馬繇は雲龍門を守って、諸軍を統率した。この功績によって右衛将軍に任命され、射声校尉を兼任した。東安王に昇格し、食邑は二万戸で、侍中を加官され、典軍大将軍を兼任し、右衛将軍の任は従来のままだった。尚書右僕射に転任し、散騎常侍を加官された(3)。この日、誅殺や恩賞された三百余人は、すべて司馬繇の思惑によるものだった。東夷校尉文俶の父・文欽は司馬繇の外祖父・諸葛誕(4)に殺されたので、司馬繇は文俶が母の一族に災いをなすことを危惧して、同じ日罪がないにもかかわらず文俶を誅殺したのだった。

司馬繇の兄・司馬澹は汝南王司馬亮にたびたび司馬繇を誣告していたが、司馬亮は聞き入れなかった。ここにいたって司馬繇が賞罰を独断でおこなっていると、司馬澹は怨恨から司馬繇を譏ったところ、司馬亮はこの言葉に惑わされて、司馬繇を免官にし、公の爵位で家に戻らせた。背逆の言葉があったので、爵位を廃して帯方郡に流された。永康の初めに(5)、司馬繇を召還して、復位させた。宗正卿になり、尚書にうつり、〔尚書〕左僕射になった。恵帝が成都王司馬穎を討伐したとき(304)、司馬繇は母の喪中で鄴にいて、司馬穎に軍隊を解散して投降することを勧めた。恵帝が敗北すると、司馬穎は司馬繇を恨んで、殺害したのだった(6)。後に琅邪王司馬覲の子・長楽亭侯司馬渾を東安王として、司馬繇の祭祀を受け継がせた。まもなく薨じ、国は廃止された。

淮陵元王司馬漼は字を思沖という。最初は広陵公に封じられ、食邑は二千九百戸だった。左将軍や散騎常侍を歴任した。趙王司馬倫が帝位を簒奪すると(301)、三王が挙兵し、司馬漼は左衛将軍の王輿とともに孫秀を攻め殺し、こうして司馬倫を廃した。功によって淮陵王に進封し、中央に入って尚書になり、侍中を加官され、宗正・光禄大夫に転任した。薨じ、子の貞王司馬融が後を継いだ。〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。宋が受禅すると(420)、国は廃止された。

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