update:2005.10.01  担当:菅原 大介
琅邪王伷 子覲 澹 繇 漼
人物簡介
 琅邪武王司馬伷(二二七〜二八三)は字を子将といい、宣帝司馬懿と伏夫人の子で、妃は諸葛誕の娘である。若くして評判が高く、晋朝が成立すると東莞郡王に封じられた。鎮東大将軍・仮節・都督徐州諸軍事として衛瓘に代わって下邳に駐留し、咸寧三年(二七七)に琅邪王に改封された。呉平定戦では兵数万を率いて涂中に出撃し、呉帝孫晧は司馬伷のもとに赴いて降伏した。大将軍・開府儀同三司・仮節・都督徐青二州諸軍事に昇進し、宗室の重鎮で呉平定の功績もあったにもかかわらず、謙虚でおごることはなかった。太康四年(二八三)五月、薨じた。享年五十七。

 琅邪恭王司馬覲(二五六〜二九〇)は字を思祖といい、琅邪武王司馬伷の子で、元帝司馬睿の父である。太康四年(二八三)に父の後を継いで琅邪王になり、冗従僕射に任命された。太熙元年(二九〇)二月、薨じた。享年三十五。

 武陵荘王司馬澹(?〜三一一)は字を思弘といい、琅邪武王司馬伷の子である。東武公に封じられ、前将軍・中護軍になった。残酷で嫉妬深く、両親に愛されていた弟の東安王司馬繇を憎んでいて、讒言して失脚させた。趙王司馬倫が簒奪すると領軍将軍に任命されたが、司馬倫が敗北すると遼東国に流された。帰還後、光禄大夫・尚書・太子太傅に任命され、武陵王に改封された。永嘉五年(三一一)五月、東郡にて石勒の攻撃を受けて殺害された。

 東安王司馬繇(?〜三〇四)は字を思玄といい、琅邪武王司馬伷の子である。美しいひげを持ち、博学で意志が強く、人望があった。東安公に封じられ、散騎常侍になった。楊駿の誅殺に功績を挙げて東安王に封じられたが、兄の武陵荘王司馬澹に讒言されて帯方郡に流された。永寧元年(三〇一)に召還されて東安王に復位し、尚書左僕射になった。永興元年(三〇四)八月、成都王司馬穎に怨まれて鄴にて殺害された。

 淮陵元王司馬漼(?)は字を思沖といい、琅邪武王司馬伷の子である。趙王司馬倫の討伐では王輿とともに宮廷に討ち入って孫秀らを攻め殺し、淮陵王に封じられた。後に宗正・光禄大夫に昇進し、薨じた。
本文
  琅邪武王伷字子將,正始初封南安亭侯。早有才望,起家爲寧朔將軍,監守鄴城,有綏懷之稱。累遷散騎常侍,進封東武郷侯,拜右將軍、監兗州諸軍事、兗州刺史。五等初建,封南皮伯。轉征虜將軍、假節。武帝践阼,封東莞郡王,邑一萬六百戸。始置二卿,〔二〕特詔諸王自選令長。伷表讓,不許。入爲尚書右僕射、撫軍將軍,出爲鎭東大將軍、假節、徐州諸軍事,〔三〕代衛瓘鎭下邳。伷鎭御有方,得將士死力,呉人憚之。加開府儀同三司,改封琅邪王,以東莞益其國。
 琅邪武王司馬伷は字を子将という。正始の初めに南安亭侯に封じられた。若い頃から才能があり評判が高かったので、起家して寧朔将軍となり、鄴城を監督し、民衆を安撫させ心服させることに優れていると高く評価された。散騎常侍などを歴任して東武郷侯に進封し、右将軍・監兗州諸軍事・兗州刺史を拝命した。五等爵が創設されると(二六四)、南皮伯に封じられ、征虜将軍・仮節になった。武帝が践祚すると(二六五)、東莞郡王に封じられ、食邑は一万六百戸だった。初めて二卿が置かれ、特別に詔して諸王はみずから〔諸県の〕令・長を選べることにした。司馬伷は上表して辞退したが、許されなかった。中央に入って尚書右僕射・撫軍将軍になり、地方に出て鎮東大将軍・仮節・〔都督〕徐州諸軍事になり、衛瓘に代わって下邳を守った。司馬伷は四方を鎮圧統御し、将兵に最大限の力を発揮させたので、呉から恐れられた。開府儀同三司を加えられ、琅邪王に改封され、東莞国も加増された。
  平呉之役,率衆數萬出涂中,孫晧奉箋送璽綬,詣伷請降。詔曰:「琅邪王伷督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪相劉弘等軍逼江,賊震懼,遣使奉僞璽綬。又使長史王恆率諸軍渡江,破賊邊守,獲督蔡機,斬首降附五六萬計,諸葛靚、孫奕等皆歸命請死。功勳茂著,其封子二人爲亭侯,各三千戸,賜絹六千匹。」頃之,并督青州諸軍事,加侍中之服。進拜大將軍、開府儀同三司。
 呉平定戦では兵数万を率いて涂中から出撃し、孫晧は箋を奉り璽綬を送って、司馬伷のもとに出向いて降伏を乞うた。詔にはこうあった。「琅邪王司馬伷は配下を統率して、涂中より兵を連ね、賊同士の連絡を阻止した。また琅邪相の劉弘らに軍を進めて長江に迫らせたところ、賊はふるえおののき、使者を遣わして偽の璽綬を奉った。さらに長史の王恆に諸軍を率いて長江を渡らせ、賊の辺境軍を破った。そして督の蔡機を生け捕り、斬殺したり降伏させたものが五、六万を数えた。諸葛靚や孫奕らはみな帰順して死を願い出た。功績はあきらかであり、子二人を封じて亭侯とし、各三千戸〔を与え〕、絹六千匹を賜う。」しばらくして督青州諸軍事を兼任し、侍中の服を加えられた。さらに大将軍・開府儀同三司に昇進した(4)
  伷既戚屬尊重,加有平呉之功,克己恭儉,無矜滿之色,僚吏盡力,百姓懷化。疾篤,賜牀帳、衣服、錢帛、秔粱等物,遣侍中問題焉。太康四年薨,時年五十七。臨終表求葬母太妃陵次,并乞分國封四子,帝許之。子恭王覲立。又次子澹爲武陵王,繇爲東安王,漼爲淮陵王。
 司馬伷はもともと宗族で尊重されていたことに加えて、呉を平定する功績があったが、自我を抑えて恭倹で、おごる様子もなかったので、官僚や官吏は力を尽くし、民衆は心服した。危篤になると、〔皇帝は〕牀帳・衣服・金銭や絹織物・うるちやあわなどを下賜し、侍中を遣わして病状を見舞わせた。太康四年(二八三)に薨じ、享年五十七だった。臨終に際して上表して母の太妃陵のかたわらに葬られることを求め、さらに国を分けて四人の子供を封じてもらうことを願い出た。皇帝はこれを許した。子の恭王司馬覲が後を継いだ。また次子の司馬澹は武陵王に、司馬繇は東安王に、司馬漼は淮陵王になった。

  字思祖,拜冗従僕射。太熙元年薨,時年三十五。子睿立,是爲元帝。中興初,以皇子裒爲琅邪王,奉恭王祀。裒早薨,更以皇子煥爲琅邪王。〔四〕其日薨,復以皇子昱爲琅邪王。咸和之初,既徙封会稽,成帝又以康帝爲琅邪王。康帝即位,封成帝長子哀帝爲琅邪王。哀帝即位,以廢帝爲琅邪王。廢帝即位,以会稽王攝行琅邪國祀。簡文帝登阼,琅邪王無嗣。及帝臨崩,封少子道子爲琅邪王。道子後爲会稽王,更以恭帝爲琅邪王。恭帝既即位,琅邪國除。
 司馬覲は字を思祖といい、冗従僕射に任命された。太熙元年(二九〇)に薨じ、享年三十五歳だった。子の司馬睿が後を継いだが、これが元帝である。〔元帝の〕中興のはじめに皇子・司馬裒を琅邪王として、恭王の祭祀を受け継がせた。司馬裒が早くに薨じると、さらに皇子・司馬煥を琅邪王とした。その日に薨じたので、また皇子・司馬昱を琅邪王とした。咸和のはじめ、すでに会稽に移封していたが、成帝(司馬衍)はまた康帝(司馬岳)を琅邪王とした。康帝が即位すると(三四二)、成帝の長子哀帝(司馬丕)を琅邪王とした。哀帝が即位すると(三六一)、廃帝(司馬奕)を琅邪王とした。廃帝が即位すると(三六五)、会稽王に琅邪国の祭祀を代行させた。簡文帝(司馬昱)が帝位に即くと(三七一)、琅邪王に跡継ぎはいなかった。簡文帝が崩ずる間際になって、少子の司馬道子を琅邪王に封じた。司馬道子は後に会稽王になり、さらに恭帝(司馬徳文)を琅邪王とした。恭帝が即位するにおよんで(四一八)、琅邪国は廃止された。

  武陵荘王澹字思弘。初爲冗従僕射,後封東武公,邑五千二百戸。轉前將軍、中護軍。性格忌害,無孝友之行。弟東安王繇有令名,爲父母所愛,澹惡之如讐,遂譖繇汝南王亮,亮素與繇有隙,奏廢徙之。趙王倫作亂,以澹爲領軍將軍。澹素與河内郭俶、俶弟侃親善。酒酣,俶等言張華之冤,澹性酗酒,因並殺之,送首于倫,其酗虐如此。
 武陵荘王司馬澹は字を思弘という。はじめ冗従僕射になり、後に東武公に封じられ、食邑は五千二百戸だった。前将軍・中護軍になった。性格は嫉妬深く、親兄弟に対する孝行はなかった。弟の東安王司馬繇は有名で、両親から愛されていた。〔そのため〕司馬澹は弟を仇のように憎んでいて、ついには汝南王司馬亮に司馬繇を讒言した。司馬亮はもともと司馬繇と仲が悪かったので、司馬繇を廃立することを上奏した。趙王司馬倫が乱を起こすと(三〇一)、司馬澹を領軍将軍にした。司馬澹はもともと河内郡の郭俶・郭侃兄弟と親交があった。酒を飲んで興じていると、郭俶らは張華の冤罪を訴えたが、司馬澹は酒乱だったので、郭俶らを殺して、首を司馬倫のもとに送ったのだった。司馬澹の残虐さはこのようなものであった。
  澹妻郭氏,賈后内妹也。初恃勢,無禮於澹母。齊王冏輔政,澹母諸葛太妃表澹不孝,乞還繇,由是澹與妻子徙遼東。其子禧年五歳,不肯隨去,曰:「要當爲父求還,無爲倶徙。」陳訴歴年,太妃薨,繇被害,然後得還。拜光祿大夫、尚書、太子太傅,改封武陵王。永嘉末爲石勒所害,子哀王喆立。喆字景林,拜散騎常侍,亦爲勒所害。無子,其後元帝立皇子晞爲武陵王,以奉澹祀焉。
 司馬澹の妻の郭氏は賈后の義理の妹だった。当初は権勢をたのんで、司馬澹の母に失礼な振る舞いが多かった。斉王司馬冏が政権を掌握すると司馬澹の母の諸葛太妃は司馬澹の不孝を上表して、司馬繇の帰還を求めたので、司馬澹とその妻子は遼東に移住させられた。子の司馬禧は五歳だったが、一緒に行くことに納得せずに言った。「父のために帰還を求めるべきで、一緒に移住するべきではない。」長年訴え続け、太妃が薨じ、司馬繇が殺害されると、ようやく帰還できた。光禄大夫・尚書・太子太傅に任命され、武陵王に改封された。永嘉の末(5)に石勒によって殺され、子の哀王司馬喆が後を継いだ。司馬喆は字を景林といい、散騎常侍に任命されたが、〔父と同じく〕石勒によって殺された。子がなく、後になって元帝は皇子の司馬晞を武陵王として、司馬澹の祭祀を受け継がせた。

  東安王繇字思玄。初拜東安公,歴散騎黄門侍郎,遷散騎常侍。美鬚髯,性剛毅,有威望,博學多才,事親孝,居喪盡禮。誅楊駿之際,繇屯雲龍門,兼統諸軍,以功拜右衛將軍,領射聲校尉,進封郡王,邑二萬戸,加侍中,兼典軍大將軍,領右衛如故。遷尚書右僕射,加散騎常侍。是日誅賞三百餘人,皆自繇出。東夷校尉文俶父欽爲繇外祖諸葛誕所殺,〔五〕繇慮俶爲舅家之患,是日亦以非罪誅俶。
 東安王司馬繇は字を思玄という。最初は東安公に任命され、散騎黄門侍郎を経て、散騎常侍になった。美しいひげを持ち、性格は剛毅で、声望があり、博学多才で、親孝行であり、喪に服している間は礼を尽くした。楊駿誅殺の際には(二九一)、司馬繇は雲龍門を守って、諸軍を統率した。この功績によって右衛将軍に任命され、射声校尉を兼任した。東安王に昇格し、食邑は二万戸で、侍中を加官され、典軍大将軍を兼任し、右衛将軍の任は従来のままだった。尚書右僕射に転任し、散騎常侍を加官された(6)。この日、誅殺や恩賞された三百余人は、すべて司馬繇の思惑によるものだった。東夷校尉文俶の父・文欽は司馬繇の外祖父・諸葛誕(7)に殺されたので、司馬繇は文俶が母の一族に災いをなすことを危惧して、同じ日罪がないにもかかわらず文俶を誅殺したのだった。
  繇兄澹屡構繇於汝南王亮,亮不納。至是以繇專行誅賞,澹因隙譖之,亮惑其説,遂免繇官,以公就第,坐有悖言,廢徙帶方。永康初,〔六〕徴繇,復封,拜宗正卿,遷尚書,轉左僕射。惠帝之討成都王穎,時繇遭母喪在鄴,勸穎解兵而降。及王師敗績,穎怨繇,乃害之。後立琅邪王覲子長樂亭侯渾爲東安王,以奉繇祀。尋薨,國除。
 司馬繇の兄・司馬澹は汝南王司馬亮にたびたび司馬繇を誣告していたが、司馬亮は聞き入れなかった。ここにいたって司馬繇が賞罰を独断でおこなっていると、司馬澹は怨恨から司馬繇を譏ったところ、司馬亮はこの言葉に惑わされて、司馬繇を免官にし、公の爵位で家に戻らせた。背逆の言葉があったので、爵位を廃して帯方郡に流された。永康の初めに(8)、司馬繇を召還して、復位させた。宗正卿になり、尚書にうつり、〔尚書〕左僕射になった。恵帝が成都王司馬穎を討伐したとき(三〇四)、司馬繇は母の喪中で鄴にいて、司馬穎に軍隊を解散して投降することを勧めた。恵帝が敗北すると、司馬穎は司馬繇を恨んで、殺害したのだった(9)。後に琅邪王司馬覲の子・長楽亭侯司馬渾を東安王として、司馬繇の祭祀を受け継がせた。まもなく薨じ、国は廃止された。

  淮陵元王漼字思沖。初封廣陵公,食邑二千九百戸。歴左將軍、散騎常侍。趙王倫之簒也,三王起義,漼與左衛將軍王輿攻殺孫秀,因而廢倫。以功進封淮陵王,入爲尚書,加侍中,轉宗正、光祿大夫。薨,子貞王融立。薨,無子。安帝時立武陵威王孫蘊爲淮陵王,以奉元王之祀,位至散騎常侍。薨,無子,以臨川王寶子安之爲嗣。宋受禪,國除。
 淮陵元王司馬漼は字を思沖という。最初は広陵公に封じられ、食邑は二千九百戸だった。左将軍や散騎常侍を歴任した。趙王司馬倫が帝位を簒奪すると(三〇一)、三王が挙兵し、司馬漼は左衛将軍の王輿とともに孫秀を攻め殺し、こうして司馬倫を廃した。功によって淮陵王に進封し、中央に入って尚書になり、侍中を加官され、宗正・光禄大夫に転任した。薨じ、子の貞王司馬融が後を継いだ。〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。宋が受禅すると(四二〇)、国は廃止された。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
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