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update:2021.04.18 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
扶風王駿 子暢
人物簡介

扶風武王司馬駿(232?〜286)は字を子臧といい、宣帝司馬懿と伏夫人の子である。幼いときから聡明で、八歳で魏帝曹芳の散騎常侍侍講となった。各州都督を歴任し、晋朝が成立すると汝陰王に封じられた。羌族の樹機能の反乱を鎮圧して、扶風王になり、驃騎将軍・開府・使持節・都督雍涼等州諸軍事に昇進した。孝行で学問を好み、文筆も優れていた。朝廷を補佐していた斉王司馬攸が領国への赴任を命じられると、武帝(司馬炎)を諫めたが、受け入れられなかったので発病した。太康七年(286)九月、薨じ、大司馬・侍中・仮黄鉞を追贈された。領国ではその死を悲嘆し、碑を建てて司馬駿を偲んだという。

順陽王司馬暢(?〜311?)は字を玄舒といい、扶風武王司馬駿の子である。順陽王に改封されて、給事中・屯騎校尉・遊撃将軍に任命された。永嘉の末に劉聡が洛陽に侵入すると(311)、消息不明になった。

新野荘王司馬歆(?〜303)は字を弘舒といい、扶風武王司馬駿の子である。兄の順陽王司馬暢のおかげで新野県公に封じられ、散騎常侍になった。趙王司馬倫の簒奪に際しては、参軍の孫洵の献策に従って斉王司馬冏に味方し、この功で新野郡王に進封し、使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。しかし苛政を行ったため、張昌が反乱を起こした。孫洵の献策に従って許可なしで出兵しようとしたが、愛妾の王綏の慰留で出兵を中止した。その結果、張昌の侵攻を許し、太安二年(303)五月、樊城にて敗死した。驃騎将軍を追贈された。

本文

扶風武王司馬駿は字を子臧という。幼いときから聡明で、五、六歳で上疏することができ、経籍を暗唱したので、〔彼に〕会う人は奇偉な人物と思った。成長すると、〔人となりが〕清潔堅実でおこないが正しかったので、宗族の中で一番有望視された。魏の景初年間に平陽亭侯に封じられた。斉王曹芳が即位すると(239)、司馬駿は八歳で、散騎常侍侍講となった(1)。ほどなく歩兵校尉や屯騎校尉になったが、散騎常侍の官位はもとのままだった。〔平陽〕郷侯に進爵し、地方に出て平南将軍・仮節・都督淮北諸軍事になり、平寿侯に改封されて安南将軍に異動した。咸熙の初めに東牟侯にうつり、安東大将軍に昇進し、許昌を鎮守した。

武帝が践祚すると(265)、汝陰王に進封し、食邑は一万戸で、都督予州諸軍事となった。呉将の丁奉が芍陂に侵攻すると、司馬駿は諸軍を統率して丁奉を撃退した。使持節・都督揚州諸軍事にうつり、石苞に代わって寿春を守った(2)。すぐに都督予州諸軍事に戻って、許昌に帰還した。鎮西大将軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に昇進して、汝南王司馬亮に代わって関中を鎮守し、袞冕侍中の服を加えられた。

司馬駿は〔民衆を〕心服させるのが上手で、威服と恩恵があり、農業を押し進め、士卒と苦役を分け合い、自分や同僚並びに将帥兵士にいたるまで私有地を十畝に限定し、詳細を上表した。詔がすべての州県に遣わされ、各自が農作業をおこなうことになった。

咸寧の初めに、羌族の樹機能などが反乱を起こしたので、〔司馬駿は〕兵を討伐に派遣して、三千あまりの首級を挙げた。征西大将軍に昇進し、府を開いて招聘することが許され、儀同三司となり、〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。さらに司馬駿に詔が下され、七千人が派遣されて涼州の守備兵と交代になった。樹機能や侯弾勃たちは先に屯田兵を攻撃しようと企てたが、司馬駿は平虜護軍文俶に命じて涼・秦・雍州の諸軍を率いて各の駐屯地に進軍させて、慰撫させた。樹機能は配下の二十部を遣わし、侯弾勃は後ろ手を縛って投降し、両者は子を人質として差し出した。安定・北地・金城郡の諸胡の吉軻羅・侯金多や北虜の熱冏などは二十万の民衆を連れて帰順した。この年入朝し、扶風王に移封され、さらに国境周辺に住む氐族の戸数を増封され、羽葆・鼓吹を賜った。太康の初めに驃騎将軍に昇進し、開府・〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。

司馬駿は親孝行で、母の伏太妃が兄の司馬亮の赴任に従ったとき、司馬駿はいつも涙を流して〔母を〕思慕し、もし病気だと聞くと、心配のあまり絶食し、あるときは官に職務を委ねて母のもとを訪ねた。幼い頃から学を好み、著作をよくし、荀顗と仁と孝の前後に関して論じ、文章も評判が高かった。斉王司馬攸が任地に赴くことになると、司馬駿は上表して切実に諫めたが、武帝は聞き入れなかったので、病気になって薨じた。大司馬を追贈され、侍中と仮黄鉞を加えられた。西方地域は司馬駿が薨じたと聞くと、泣く者は道に溢れ、民衆は司馬駿のために碑を建てた。長老は碑を見ると拝礼しないことはなかった。司馬駿が死後に遺した仁徳はこのようなものであったのだ。十人の子がいて、司馬暢・司馬歆が最も有名だった。

司馬暢は字を玄舒という。順陽王に改封されて、給事中・屯騎校尉・遊撃将軍を拝命した。永嘉の末に劉聡が洛陽に侵入すると(311)、消息不明になった。

新野荘王司馬歆は字を弘舒という。〔扶風〕武王〔司馬駿〕が薨じると、兄の司馬暢は弟に恵んで国を分けて司馬歆を封じることを申し出た。太康中、新野県公に封じる詔が下され、食邑は千八百戸で、儀礼は県王に匹敵した。司馬歆は若くして貴い位に就いたが、身を慎んで道理に従った。母の臧太妃が薨じると、喪中は儀礼以上のおこないをしたので、孝行として有名になった。散騎常侍に任命された。

趙王司馬倫が帝位を簒奪すると(301)、南中郎将に任命された。斉王司馬冏が義兵を挙げ、天下に檄を飛ばしたが、司馬歆はどちらに付くべきかわからなかった。愛妾の王綏は言った。「趙は血縁が近くおまけに強大ですが、斉は遠くておまけに弱小ですから、公は趙に付くべきでしょう。」参軍の孫洵はみんなに向かって大声で言い放った。「趙王は凶悪残虐で、天下がともに趙王を討とうとしているのです。『大義親を滅す』とは、古典によって明らかにされています(3)。」司馬歆はこれに従った。そこで孫洵を司馬冏に遣わした。司馬冏はその手を取って出迎え、そして言った。「私に大節の達成を導いてくれるのは、新野公である。」司馬冏が洛陽に入ると、司馬歆は甲冑を身につけ、配下を率いて司馬冏を先導した。功績によって新野郡王に進封し、食邑は二万戸だった。使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。

司馬歆は任地に赴こうとしていたとき、司馬冏と同乗して御陵に詣でて、そこで司馬冏に言った。「成都王〔司馬穎〕はきわめて近い親族で、ともに大きな功績を挙げたのだから、いまは司馬穎を都に留めて一緒に政治を補佐するべきだろう。もしそのようにできないのだったら、司馬穎の兵権を奪ってしまうべきだ。」司馬冏は従わなかった。まもなく司馬冏が敗北すると、司馬歆は恐れて、自分から成都王司馬穎と結んだ。

司馬歆は施政が厳しく過酷だったので、異民族はすべて怨んだ。張昌が江夏郡で反乱をすると、司馬歆は上表して張昌討伐を願い出た。当時は長沙王司馬乂が政権を握っていたが、成都王司馬穎と仲が悪かったので、司馬歆が司馬穎と策謀を図っていることを疑って、司馬歆の出兵を許さなかったので、張昌軍の勢力は日増しに強くなった。そのとき孫洵は従事中郎だったが、司馬歆に向かって言った。「古人に次のような言葉があります。『一日敵をほしいままにさせておくならば、数世の患となる』(4)と。公は藩屏の任を担い、推轂の重鎮であるのですから、上表して進軍することが、どうして問題がありましょうか!姦賊に勢力を蓄えさせて、禍根を思慮しないのだったら、どうして王室を補佐し、周囲を鎮守していると言えるのでしょうか!」司馬歆が出撃しようとしていると、王綏は言った。「張昌なんかはちっぽけな盗賊で、部下の将軍で十分に制圧できます。皇帝の命令に違反するのをなんとも思わないのは、親に矢石を向けるようなものです!」こうして〔出撃を〕取りやめたのだった。張昌が樊城に至ると、司馬歆は出撃して対峙したが、軍隊は崩壊し、張昌によって殺された。驃騎将軍が追贈された。子がなかったので、兄の子の司馬劭を後継ぎとしたが、〔司馬劭は〕永嘉の末に石勒によって殺された。

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