update:2005.10.01  担当:菅原 大介
扶風王駿 子暢 [音欠:016139]
人物簡介
 扶風武王司馬駿(二三二?〜二八六)は字を子臧といい、宣帝司馬懿と伏夫人の子である。幼いときから聡明で、八歳で魏帝曹芳の散騎常侍侍講となった。各州都督を歴任し、晋朝が成立すると汝陰王に封じられた。羌族の樹機能の反乱を鎮圧して、扶風王になり、驃騎将軍・開府・使持節・都督雍涼等州諸軍事に昇進した。孝行で学問を好み、文筆も優れていた。朝廷を補佐していた斉王司馬攸が領国への赴任を命じられると、武帝(司馬炎)を諫めたが、受け入れられなかったので発病した。太康七年(二八六)九月、薨じ、大司馬・侍中・仮黄鉞を追贈された。領国ではその死を悲嘆し、碑を建てて司馬駿を偲んだという。

 順陽王司馬暢(?〜三一一?)は字を玄舒といい、扶風武王司馬駿の子である。順陽王に改封されて、給事中・屯騎校尉・遊撃将軍に任命された。永嘉の末に劉聡が洛陽に侵入すると(三一一)、消息不明になった。

 新野荘王司馬[音欠:016139](?〜三〇三)は字を弘舒といい、扶風武王司馬駿の子である。兄の順陽王司馬暢のおかげで新野県公に封じられ、散騎常侍になった。趙王司馬倫の簒奪に際しては、参軍の孫洵の献策に従って斉王司馬冏に味方し、この功で新野郡王に進封し、使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。しかし苛政を行ったため、張昌が反乱を起こした。孫洵の献策に従って許可なしで出兵しようとしたが、愛妾の王綏の慰留で出兵を中止した。その結果、張昌の侵攻を許し、太安二年(三〇三)五月、樊城にて敗死した。驃騎将軍を追贈された。
本文
  扶風武王駿字子臧。幼聰惠,年五六歳能書疏,諷誦經籍,見者奇之。及長,清貞守道,宗室之中最爲儁望。魏景初中,封平陽亭侯。齊王芳立,駿年八歳,爲散騎常侍侍講焉。尋遷歩兵、屯騎校尉,常侍如故。進爵郷侯,出爲平南將軍、假節、都督淮北諸軍事,改封平壽侯,轉安東將軍。咸熙初,徙封東牟侯,轉安東大將軍,鎭許昌。
 扶風武王司馬駿は字を子臧という。幼いときから聡明で、五、六歳で上疏することができ、経籍を暗唱したので、〔彼に〕会う人は奇偉な人物と思った。成長すると、〔人となりが〕清潔堅実でおこないが正しかったので、宗族の中で一番有望視された。魏の景初年間に平陽亭侯に封じられた。斉王曹芳が即位すると(二三九)、司馬駿は八歳で、散騎常侍侍講となった(11)。ほどなく歩兵校尉や屯騎校尉になったが、散騎常侍の官位はもとのままだった。〔平陽〕郷侯に進爵し、地方に出て平南将軍・仮節・都督淮北諸軍事になり、平寿侯に改封されて安南将軍に異動した。咸熙の初めに東牟侯にうつり、安東大将軍に昇進し、許昌を鎮守した。
  武帝踐[β乍:041594],進封汝陰王,邑萬戸,都督豫州諸軍事。呉將丁奉寇芍陂,駿督諸軍距退之。遷使持節、都督揚州諸軍事,代石苞鎭壽春。尋復都督豫州,還鎭許昌。遷鎭西大將軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事,代汝南王亮鎭關中,加袞冕侍中之服。
 武帝が践祚すると(二六五)、汝陰王に進封し、食邑は一万戸で、都督予州諸軍事となった。呉将の丁奉が芍陂に侵攻すると、司馬駿は諸軍を統率して丁奉を撃退した。使持節・都督揚州諸軍事にうつり、石苞に代わって寿春を守った(12)。すぐに都督予州諸軍事に戻って、許昌に帰還した。鎮西大将軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に昇進して、汝南王司馬亮に代わって関中を鎮守し、袞冕侍中の服を加えられた。
  駿善撫御,有威恩,勸督農桑,與士卒分役,己及僚佐井將帥兵士等人限田十畝,具以表聞。詔遺普下州縣,使各務農事。
 司馬駿は〔民衆を〕心服させるのが上手で、威服と恩恵があり、農業を押し進め、士卒と苦役を分け合い、自分や同僚並びに将帥兵士にいたるまで私有地を十畝に限定し、詳細を上表した。詔がすべての州県に遣わされ、各自が農作業をおこなうことになった。
  咸寧初,羌虜樹機能等叛,遣衆討之,斬三千餘級。進位征西大將軍,開府辟召,儀同三司,持節、都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能、侯彈勃等欲先劫佃兵,駿命平虜護軍文俶督涼、秦、雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及彈勃面縛軍門,各遣入質子。安定、北地、金城諸胡吉軻羅、侯金多及北虜熱冏等二十萬口又來降。其年入朝,徒封扶風王,以[氏一:017027]戸在國界者増封,給羽葆、鼓吹。太康初,進拜驃騎將軍,開府、持節、都督如故。
 咸寧の初めに、羌族の樹機能などが反乱を起こしたので、〔司馬駿は〕兵を討伐に派遣して、三千あまりの首級を挙げた。征西大将軍に昇進し、府を開いて招聘することが許され、儀同三司となり、〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。さらに司馬駿に詔が下され、七千人が派遣されて涼州の守備兵と交代になった。樹機能や侯弾勃たちは先に屯田兵を攻撃しようと企てたが、司馬駿は平虜護軍文俶に命じて涼・秦・雍州の諸軍を率いて各の駐屯地に進軍させて、慰撫させた。樹機能は配下の二十部を遣わし、侯弾勃は後ろ手を縛って投降し、両者は子を人質として差し出した。安定・北地・金城郡の諸胡の吉軻羅・侯金多や北虜の熱冏などは二十万の民衆を連れて帰順した。この年入朝し、扶風王に移封され、さらに国境周辺に住む[氏一:017027]族の戸数を増封され、羽葆・鼓吹を賜った。太康の初めに驃騎将軍に昇進し、開府・〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。
  駿有孝行,母伏太妃随兄亮在官,駿常涕泣思慕,若聞有疾,輒憂懼不食,或時委官定省。少好學,能著論,與荀[豈頁:043614]論仁孝先後,文有可稱。及齊王攸出鎭,駿表諫懇切,以帝不從,遂發病薨。追贈大司馬,加侍中、假黄鉞。西土一聞其薨也,泣者盈路,百姓爲之樹碑,長老見碑無不下拜,其遺愛如此。有子十人、暢、[音欠:016139]最知名。
 司馬駿は親孝行で、母の伏太妃が兄の司馬亮の赴任に従ったとき、司馬駿はいつも涙を流して〔母を〕思慕し、もし病気だと聞くと、心配のあまり絶食し、あるときは官に職務を委ねて母のもとを訪ねた。幼い頃から学を好み、著作をよくし、荀[豈頁:043614]と仁と孝の前後に関して論じ、文章も評判が高かった。斉王司馬攸が任地に赴くことになると、司馬駿は上表して切実に諫めたが、武帝は聞き入れなかったので、病気になって薨じた。大司馬を追贈され、侍中と仮黄鉞を加えられた。西方地域は司馬駿が薨じたと聞くと、泣く者は道に溢れ、民衆は司馬駿のために碑を建てた。長老は碑を見ると拝礼しないことはなかった。司馬駿が死後に遺した仁徳はこのようなものであったのだ。十人の子がいて、司馬暢・司馬[音欠:016139]が最も有名だった。

  字玄舒。改封順陽王,拜給事中、屯騎校尉、遊撃將軍。永嘉末,劉聰入洛,不知所終。
 司馬暢は字を玄舒という。順陽王に改封されて、給事中・屯騎校尉・遊撃将軍を拝命した。永嘉の末に劉聡が洛陽に侵入すると(三一一)、消息不明になった。

  新野莊王[音欠:016139]字弘舒。武王薨後,兄暢推恩請分國封[音欠:016139]。太康中,詔封新野縣公,邑千八百戸,儀比縣王。[音欠:016139]雖少貴,而謹身履道。母臧太妃薨,居喪過禮,以孝聞。拜散騎常侍。
 新野荘王司馬[音欠:016139]は字を弘舒という。〔扶風〕武王〔司馬駿〕が薨じると、兄の司馬暢は弟に恵んで国を分けて司馬[音欠:016139]を封じることを申し出た。太康中、新野県公に封じる詔が下され、食邑は千八百戸で、儀礼は県王に匹敵した。司馬[音欠:016139]は若くして貴い位に就いたが、身を慎んで道理に従った。母の臧太妃が薨じると、喪中は儀礼以上のおこないをしたので、孝行として有名になった。散騎常侍に任命された。
  趙王倫簒位,以爲南中郎将。齊王冏舉義兵,移檄天下,[音欠:016139]未知所從。嬖人王綏曰:「趙親而強,齊疏而弱,公宜從趙。」參軍孫洵大言於衆曰:〔九〕「趙王凶逆,天下當共討之,大義滅親,古之明典。」[音欠:016139]從之。乃使洵詣冏,冏迎執其手曰:「使我得成大節者,新野公也。」冏入洛,[音欠:016139]躬貫甲冑,率所領導冏。以勳進封新野郡王,邑二萬戸。遷使持節、都督荊州諸軍事、鎭南大將軍、開府儀同三司。
 趙王司馬倫が帝位を簒奪すると(三〇一)、南中郎将に任命された。斉王司馬冏が義兵を挙げ、天下に檄を飛ばしたが、司馬[音欠:016139]はどちらに付くべきかわからなかった。愛妾の王綏は言った。「趙は血縁が近くおまけに強大ですが、斉は遠くておまけに弱小ですから、公は趙に付くべきでしょう。」参軍の孫洵はみんなに向かって大声で言い放った。「趙王は凶悪残虐で、天下がともに趙王を討とうとしているのです。『大義親を滅す』とは、古典によって明らかにされています(13)。」司馬[音欠:016139]はこれに従った。そこで孫洵を司馬冏に遣わした。司馬冏はその手を取って出迎え、そして言った。「私に大節の達成を導いてくれるのは、新野公である。」司馬冏が洛陽に入ると、司馬[音欠:016139]は甲冑を身につけ、配下を率いて司馬冏を先導した。功績によって新野郡王に進封し、食邑は二万戸だった。使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。
  [音欠:016139]將之鎭,與冏同乗謁陵,因説冏曰:「成都至親,同建大勳,今宜留之與輔政。若不能爾,當奪其兵權。」冏不從。俄而冏敗,[音欠:016139]懼,自結於成都王穎。
 司馬[音欠:016139]は任地に赴こうとしていたとき、司馬冏と同乗して御陵に詣でて、そこで司馬冏に言った。「成都王〔司馬穎〕はきわめて近い親族で、ともに大きな功績を挙げたのだから、いまは司馬穎を都に留めて一緒に政治を補佐するべきだろう。もしそのようにできないのだったら、司馬穎の兵権を奪ってしまうべきだ。」司馬冏は従わなかった。まもなく司馬冏が敗北すると、司馬[音欠:016139]は恐れて、自分から成都王司馬穎と結んだ。
  [音欠:016139]爲政嚴刻,蠻夷並怨。及張昌作亂於江夏,[音欠:016139]表請討之。時長沙王乂執政,與成都王穎有隙,疑[音欠:016139]與穎連謀,不聽[音欠:016139]出兵,昌衆日盛。時孫洵爲從事中郎,謂[音欠:016139]曰:「古人有言,一日縱敵,數世之患。公荷藩屏之任,居推轂之重,拜表輒行,有何不可!而使姦凶滋蔓,禍釁不測,豈維翰王室,鎭靜方夏謂乎!」[音欠:016139]將出軍,王綏又曰:「昌等小賊,偏裨自足制之,不煩違帝命,親矢石也!」乃止。昌至樊城,[音欠:016139]出距之,衆潰,爲昌所害。追贈驃騎將軍。無子,以兄子劭爲後,永嘉末沒於石勒。
 司馬[音欠:016139]は施政が厳しく過酷だったので、異民族はすべて怨んだ。張昌が江夏郡で反乱をすると、司馬[音欠:016139]は上表して張昌討伐を願い出た。当時は長沙王司馬乂が政権を握っていたが、成都王司馬穎と仲が悪かったので、司馬[音欠:016139]が司馬穎と策謀を図っていることを疑って、司馬[音欠:016139]の出兵を許さなかったので、張昌軍の勢力は日増しに強くなった。そのとき孫洵は従事中郎だったが、司馬[音欠:016139]に向かって言った。「古人に次のような言葉があります。『一日敵をほしいままにさせておくならば、数世の患となる』(14)と。公は藩屏の任を担い、推轂の重鎮であるのですから、上表して進軍することが、どうして問題がありましょうか!姦賊に勢力を蓄えさせて、禍根を思慮しないのだったら、どうして王室を補佐し、周囲を鎮守していると言えるのでしょうか!」司馬[音欠:016139]が出撃しようとしていると、王綏は言った。「張昌なんかはちっぽけな盗賊で、部下の将軍で十分に制圧できます。皇帝の命令に違反するのをなんとも思わないのは、親に矢石を向けるようなものです!」こうして〔出撃を〕取りやめたのだった。張昌が樊城に至ると、司馬[音欠:016139]は出撃して対峙したが、軍隊は崩壊し、張昌によって殺された。驃騎将軍が追贈された。子がなかったので、兄の子の司馬劭を後継ぎとしたが、〔司馬劭は〕永嘉の末に石勒によって殺された。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
この頁の最初へ

広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー