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update:2021.02.08 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
楽安王鑒
人物簡介

楽安平王司馬鑒(?〜297)は文帝司馬昭の子で、武帝司馬炎の異母弟である。晋朝が成立すると、楽安王に封じられた。元康年間に使持節・都督予州軍事・安南将軍になった。元康七年(297)、薨じた。

本文

楽安平王司馬鑒は字を大明といい、最初は臨泗亭侯に封じられた。武帝が践祚すると(265)、楽安王に封じられた。武帝は司馬鑒と燕王司馬機のために師と友(1)を高い基準で選び、次のように詔を下した。「楽安王司馬鑒と燕王司馬機は二人とも〔皇子の中で〕年長なので、師と友の指導や助言を受けて、明経や儒学を習得し、正義の行動や節約をし、〔人から〕畏敬されるようにすべきである。昔韓起が田蘇と交遊して善を好んだように、必ずそういった(田蘇のような)人物を得るべきである(2)。」

泰始年間に越騎校尉を拝命した。咸寧の初めに斉国の梁鄒県を増封され(3)、まもなく領国に赴き、侍中の服を着た。元康の初めに〔中央に〕呼び戻されて散騎常侍・上軍大将軍になり、射声校尉を兼任した。まもなく使持節・都督予州軍事・安南将軍に移り、清河王司馬遐に代わって許昌を守ることになったが、病気のため〔許昌に〕赴かなかった。元康七年(297)に薨じ、子の殤王司馬籍が王となった。〔司馬籍が〕薨じると、子がなかったので、斉王司馬冏は〔自分の〕子の司馬冰に司馬鑒の系譜を継がせた。済陰郡一万一千二百一十九戸を広陽国と改めて、司馬冰を広陽王の地位に就けた(4)。司馬冏が敗れると、〔司馬冰は広陽王を〕廃された(5)

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