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update:2021.02.08 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
楽平王延祚
人物簡介

楽平王司馬延祚(?〜280)は字を大思といい、文帝司馬昭の子で、武帝司馬炎の異母弟である。子供の頃から重い病気を患っていた。太康元年(280)、楽平王に封じられたが、まもなく薨じた。

本文

楽平王司馬延祚は字を大思といい、子供の頃から重い病気を患っていて、封爵されなかった。太康の初め(1)、次のような詔が下された。「弟の司馬延祚は早くに父(司馬昭)を亡くして世に知られず、私は哀しく思う。幼くして重病を患い、日々病が癒えることを望んでいたが、今は不治の病が進行し、跡継ぎを得る望みもなくなり、〔私の〕心は弟をとても哀れに思う。そこで楽平王に封じる。〔司馬延祚に〕名号を与えさせて、私の心を慰めるためである。」まもなく薨じ(2)、子はなかった。

史臣が言う。平原王〔司馬榦〕は情緒不安定で、世間で彼のことを理解できる者はいなかった。政治が混乱して人々の不安が募り、連年のように争いの起こるときにあって、災禍を離れ、肢体を全うし、このような大いなる福(爵位や俸禄)を受けることができた。その愚人のごとく振る舞うさまは、とうてい常人のまねし得るものではなかった。琅邪王〔司馬伷〕は武功を滞りなく行き渡らせながら、〔おごることなく〕温かみと恭しさでさらに〔武功の〕輝きを増し、扶風王〔司馬駿〕は学問や道徳の教えを広く啓蒙しながら、孝行でさらに〔自らの徳を〕加え、宗室の中でも称賛されたものであった。斉王〔司馬攸〕はかつての前漢の河間献王や後漢の沛献王のように帝の近親として、古聖賢の王道を世に広め、高潔な道徳と正確な論理で高雅な人からも俗悪な人からも称賛され、宰相として名声は高く、諸侯からも尊敬され、天下すべてが帰服した。まもなく地は惑い急迫に至り、文雅はそしられ、馮紞と荀勖は蔓草のような邪悪な策謀を述べて、武皇帝(司馬炎)は子への溺愛から〔策謀を〕強く助長した。そして三公の職務より龍章を奪われ、藩に下ることによって帝都から遠方の地に移されることになり、出発前に憤死したのは本当に惜しいことである。もし天が〔司馬攸〕に満ち足りた寿命を与えてその害を除かせ、皇帝の遺命を奉じ、幼帝を補佐することである負図の託を受け、後継ぎの君主をあらゆる方面から補佐し、国政を適切に治め、もろもろの天意を求め、廃したり興したりするのにふさわしい時機に行い、優れた人物を招聘すれば、ほとんど悪人の跋扈を抑えることができ、どうして八王の権力闘争や五胡の侵入などがおこったであろうか。詩に「人はここで滅んで、邦国は困窮する(3)」とあるが、司馬攸〔の滅亡〕はこの詩が真実であることを明らかにした。「讒言する人は極まりなく、四方の国を乱す(4)」とは、荀勖と馮紞のことをいうのである。

贊に言う。文帝(司馬昭)や宣帝(司馬懿)の子孫はある者は賢人である者は愚人である。扶風王〔司馬駿〕は思い遣りがあり、琅邪王〔司馬伷〕は自分に打ち勝った。司馬澹は凶悪な首領に媚びへつらい、司馬肜は禍の始まりに参加した。司馬榦は物静かで控えめであったが、情緒不安定であった。かの優れた斉献王〔司馬攸〕はきわめて優秀で非凡であった。自分自身で国を治めるのに、文武両道をもって執り行った。木は高く伸びることから折られ、蘭は薫ることから焼かれる〔ように司馬攸も優秀であったことから身が滅んでしまったのである〕。

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