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update:2012.02.25 担当:菅原 大介
晋書巻三十八
列伝第八
楽平王延祚
人物簡介

 楽平王司馬延祚(?〜280)は字を大思といい、文帝司馬昭の子で、武帝司馬炎の異母弟である。子供の頃から重い病気を患っていた。太康元年(280)、楽平王に封じられたが、まもなく薨じた。

本文

樂平王延祚字大思,少有篤疾,不任封爵。太康初,詔曰:「弟祚早孤無識,情所哀愍。幼得篤疾,日冀其差,今遂廢痼,無復後望,意甚傷之。其封爲樂平王,使有名號,以慰吾心。」尋薨,無子。

楽平王司馬延祚は字を大思といい、子供の頃から重い病気を患っていて、封爵されなかった。太康の初め(1)、次のような詔が下された。「弟の司馬延祚は早くに父(司馬昭)を亡くして世に知られず、私は哀しく思う。幼くして重病を患い、日々病が癒えることを望んでいたが、今は不治の病が進行し、跡継ぎを得る望みもなくなり、〔私の〕心は弟をとても哀れに思う。そこで楽平王に封じる。〔司馬延祚に〕名号を与えさせて、私の心を慰めるためである。」まもなく薨じ(2)、子はなかった。

史臣曰:平原性理不恒,世莫之測。及其處亂離之際,屬交爭之秋,而能遠害全身,享茲介福,其愚不可及已!琅邪武功既暢,飾之以温恭,扶風文教克宣,加之以孝行,抑宗室之可稱者也。齊王以兩獻之親,弘二南之化,道光雅俗,望重台衡,百辟具瞻,萬方屬意。既而地疑致逼,文雅見疵,紞勖陳蔓草之邪謀,武皇深翼子之滯愛。遂乃褫龍章於袞職,徙侯服於下藩,未及戒塗,終於憤恚,惜哉!若使天假之年而除其害,奉綴衣之命,膺負圖之託,光輔嗣君,允釐邦政,求諸冥兆,或廢興之有期,徴之人事,庶勝殘之可及,何八王之敢力爭,五胡之能競逐哉!詩云「人之云亡,邦國殄瘁」,攸實有之;「讒人罔極,交亂四國」,其荀馮之謂也。

史臣が言う。平原王〔司馬榦〕は情緒不安定で、世間で彼のことを理解できる者はいなかった。政治が混乱して人々の不安が募り、連年のように争いの起こるときにあって、災禍を離れ、肢体を全うし、このような大いなる福(爵位や俸禄)を受けることができた。その愚人のごとく振る舞うさまは、とうてい常人のまねし得るものではなかった。琅邪王〔司馬伷〕は武功を滞りなく行き渡らせながら、〔おごることなく〕温かみと恭しさでさらに〔武功の〕輝きを増し、扶風王〔司馬駿〕は学問や道徳の教えを広く啓蒙しながら、孝行でさらに〔自らの徳を〕加え、宗室の中でも称賛されたものであった。斉王〔司馬攸〕はかつての前漢の河間献王や後漢の沛献王のように帝の近親として、古聖賢の王道を世に広め、高潔な道徳と正確な論理で高雅な人からも俗悪な人からも称賛され、宰相として名声は高く、諸侯からも尊敬され、天下すべてが帰服した。まもなく地は惑い急迫に至り、文雅はそしられ、馮紞と荀勖は蔓草のような邪悪な策謀を述べて、武皇帝(司馬炎)は子への溺愛から〔策謀を〕強く助長した。そして三公の職務より龍章を奪われ、藩に下ることによって帝都から遠方の地に移されることになり、出発前に憤死したのは本当に惜しいことである。もし天が〔司馬攸〕に満ち足りた寿命を与えてその害を除かせ、皇帝の遺命を奉じ、幼帝を補佐することである負図の託を受け、後継ぎの君主をあらゆる方面から補佐し、国政を適切に治め、もろもろの天意を求め、廃したり興したりするのにふさわしい時機に行い、優れた人物を招聘すれば、ほとんど悪人の跋扈を抑えることができ、どうして八王の権力闘争や五胡の侵入などがおこったであろうか。詩に「人はここで滅んで、邦国は困窮する(3)」とあるが、司馬攸〔の滅亡〕はこの詩が真実であることを明らかにした。「讒言する人は極まりなく、四方の国を乱す(4)」とは、荀勖と馮紞のことをいうのである。

贊曰:文宣孫子,或賢或鄙。扶風遺愛,琅邪克己。澹諂凶魁,肜參釁始。榦雖靜退,性乖恒理。彼美齊獻,卓爾不群。自家刑國,緯武經文。木摧於秀,蘭燒以薫。

贊に言う。文帝(司馬昭)や宣帝(司馬懿)の子孫はある者は賢人である者は愚人である。扶風王〔司馬駿〕は思い遣りがあり、琅邪王〔司馬伷〕は自分に打ち勝った。司馬澹は凶悪な首領に媚びへつらい、司馬肜は禍の始まりに参加した。司馬榦は物静かで控えめであったが、情緒不安定であった。かの優れた斉献王〔司馬攸〕はきわめて優秀で非凡であった。自分自身で国を治めるのに、文武両道をもって執り行った。木は高く伸びることから折られ、蘭は薫ることから焼かれる〔ように司馬攸も優秀であったことから身が滅んでしまったのである〕。

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