校勘
〔一〕亮及倫別有傳 「亮」の上にはもともと「汝南王亮」と誤っていたが、今は呉本に従う。
〔二〕始置二卿 「卿」はもともと誤って「郷」となっていたが、『通典』巻三一、『通志』巻五六によって改める。
〔三〕假節徐州諸軍事 周家禄の校勘によると、「假節」の下に「都督」が欠落している。
〔四〕[亠臼衣:034299]早薨更以皇子煥爲琅邪王 『冊府元亀』巻二八三は「[亠臼衣:034299]早薨,子哀王安国立,未踰年薨,更以皇子煥爲琅邪王。」と作る。また「琅邪孝王[亠臼衣:034299]伝」はまた「子哀王安国立,未踰年薨。」とする。司馬[亠臼衣:034299]は建武元年(三一七)十月に死去し、司馬煥が後を継いだのは太興元年(三一八)十二月であるから、間の一年間は哀王司馬安国が後を継いで王位に即いていた時期と考えるのが妥当であり、紀伝ともに遺漏がある。
〔五〕文俶 巻三の校勘記を参照のこと。
〔六〕永康初 『晋書校文』によると、司馬[徭系:027856]が復位したのは「恵帝紀」によれば永寧元年(三〇一)9月なので、この「康」の字は「寧」の誤りと思われる。
〔七〕以北平上谷廣[密冉:007255]郡一萬三百三十七戸増燕國爲二萬戸 もともと六千六百六十三戸で封じられていたのだから、一万“三千”三百三十七戸を加えられて、はじめて二万戸という数に合う。「一萬」の下に「三千」の二字が抜けているのだろう。
〔八〕齊王冏表以子幾嗣 労格の校勘によると、「斉王冏伝」によると、司馬冏の子供は三人で、淮南王司馬超、楽安王司馬冰、済陽王司馬英であり、「司馬幾」の名前は見えない。それに「幾」が「機」の後継ぎであるならば、名前が「幾」というのは不自然である。これは伝の誤りではないか。
〔九〕孫洵 『資治通鑑』巻八四では「孫詢」と作る。
〔一〇〕孔洵 「王済伝」、「[广臾:009398]純伝」、『三国志』魏書第一六「倉慈伝」注に引く『孔氏譜』、『冊府元亀』巻四五八、『太平御覧』巻二一九はいずれも「孔恂」と作る。
〔一一〕徴拜大將軍尚書令領軍將軍録尚書事 姚[乃鼎:048318]『惜抱軒筆記』によると、大将軍であったら領軍将軍であるはずがないし、尚書令であったら録尚書事であるはずがない。按ずるに『資治通鑑』巻八三では「徴司馬[月彡:029272]爲大將軍、録尚書事」とするから、この「尚書令領軍將軍」は誤りであろう。
〔一二〕永康二年薨 『諸史考異』によると、「恵帝紀」太安元年(三〇二)五月の条に司馬[月彡:029272]が逝去したとあり、この年は十二月に改元したのであるから、五月はまだ永寧二年である。『[冓斗:013521]注』によると、永康に二年はないので、永寧の誤りと思われる。
〔一三〕加弟徽有射鉤之隙 「徽」は各本は「微」とするが、いまは宋本に従う。『通志』巻八〇も「徽」とする。労格の校勘によると、「淮南王允伝」に見える太子左衛率の陳徽のことである。
(1)原文「露者宜内也」。「露車」と「露者」をかけている。「露者」は貧しくみすぼらしい者(位がないあるいは低いが才能は有る者)を暗に指しているのかもしれない。
(2)原文「行淫穢」。司馬[幹−干+木]の名誉のために付け加えると、これは好事家の噂とも取れるし、また冥婚譚の流入かもしれない。死者をすぐさま葬ることに忍びなく、屍が自然に腐乱するまで埋葬を延期していたところ、好事家がこのような噂を流したのではないか?
(3)原文「汝勿效白女兒」。「白女」とは趙王司馬倫の母・柏夫人のことを指し、その子ということで趙王司馬倫を暗に示しているのではないか。また中林史朗氏から『旧唐書』巻九八や『新唐書』巻一一三などに宦官を「白者」とする用例があることから「白女兒」は宦官のことを指すのではないかという趣旨のご教示をいただいた。つまり趙王司馬倫を宦官扱いしているということである。また「白女兒」を「役者(白化粧をした女のようなやつ)」とする説もあるとも中林氏から教えられた。いずれにせよこの「白女兒」という言葉から司馬[幹−干+木]の趙王司馬倫に対する軽蔑が見て取れる。
(4)「武帝紀」太康三年(二八二)十二月の条には「鎭東大將軍琅邪王[イ由:000479]爲撫軍大將軍」とあるが、周家禄の校勘に見えるように「撫軍」は誤りであろう。「職官志」には、大将軍就任は太康元年(二八〇)とある。また就任と同時に大将軍は三司の下位に置かれ、司馬[イ由:000479]の死後、また三司の上位となった。
(5)。「恵帝紀」によると、司馬澹の死は永嘉五年(三一一)五月である。
(6)「恵帝紀」元康元年(二九一)三月の条および『資治通鑑』巻八二には、尚書左僕射・東安王になったことが見えるだけである。
(7)「諸葛恢伝」によると、諸葛[青見:042575]の姉は琅邪王の妃になった。司馬[徭系:027856]の母の諸葛太妃である。
(8)「恵帝紀」によると、永寧元年(三〇一)九月である。
(9)「恵帝紀」によると、永興元年(三〇四)八月である。
(10)原文「以北平上谷廣[密冉:007255]郡一萬三百三十七戸増燕國爲二萬戸」。校勘記では「三千」という二字の欠落を疑っているが、以前に燕国に加えられた漁陽郡が三千戸であった可能性もある。
(11)魏帝曹芳は即位したとき八歳なので、司馬駿は曹芳と同年齢と思われる。
(12)ここでは簡単に書かれているが、実は諸葛誕の反乱に続く淮南の大戦乱に発展した可能性もあった事件である。泰始四年(二六八)、合肥侵攻を命じられた丁奉は石苞に偽りの手紙を送って、疑惑を煽りたてた。すると晋帝司馬炎は羊[示古:024671]の説得も聞かずに石苞の反乱を確信し、密かに司馬望に石苞追討を命じた。そのとき、石苞から招聘されていた孫鑠は許昌に至ったとき、旧知の司馬駿のもとを訪ねた。すると司馬駿は同郷のよしみから石苞追討の密命を孫鑠に教え、石苞のもとに向かうのを断念させようとした。しかし孫鑠は石苞のもとに駆けつけ、石苞に兵を解いて抵抗しないことを進言した。石苞はその献策に従ったので、ことなきを得たのであった。結局、丁奉の侵攻も司馬駿によって撃退され、丁奉の計略は石苞を都督揚州諸軍事から解任させるだけに終わった。詳しくは「石苞伝」・「孫鑠伝」・『三国志』呉書第一〇「丁奉伝」を参照のこと。
(13)原文「大義滅親,古之明典」。「大義滅親」は国家の大義のために親子の私情を断ち切ることで、『春秋左氏伝』隠公四年の条に見える衛の石[石昔:024287]の故事によっている。衛の州吁が桓公を殺して簒奪すると、石[石昔:024287]は策略を用いて州吁とともに共謀者の自分の子の石厚をも殺し、大義を明らかにした。
(14)原文「一日縱敵,數世之患」。『春秋左氏伝』僖公三十三年の条によっている。
(15)「宣帝紀」によると、嘉平二年(二五〇)正月である。
(16)原文「大臠」。権力のことを暗に示している。
(17)原文「阿衡」。殷の名宰相・伊尹の官職。転じて宰相の代名詞にもなった。
(18)原文「公室」。春秋戦国時代の諸侯の一族や政権を指す。
(19)『春秋左氏伝』成公一五年の条によれば、宋の司馬の蕩沢が公子肥を殺害すると、右師の華元は晋に出奔した。後に華元は宋に戻って蕩沢を討った。『春秋左氏伝』に見える華元の言葉は次の通りである。「我爲右師,君臣之訓,師所司也。今公室卑而不能正,吾罪大矣。不能治官,敢頼寵乎。」 蔡克が華元の故事を引用したのは、司馬[月彡:029272]が華元と同じく「師」であったからだろう。
(20)楽挙は「楽呂」とも作る。宋の司寇。楽毅や楽広の先祖ともいう。
(21)『春秋左氏伝』成公二年の条に次のようにある。「君子謂華元樂舉於是乎不臣。」華元と楽挙は宋の文公の生前にはそのおこないを諫めず、文公の死後は厚葬したので、不臣と譏られたのである。
(22)校勘に見えるほかに、『三国志』魏書巻二二「陳泰伝」裴注に引く『陳氏譜』には「陳徴」とある。
(23)原文「射鉤」。君主に即位するため帰国途中の斉の桓公を管仲が待ち伏せして矢を鉤に当てた故事から、逆らったことによって旧怨があることをいう。
(24)この故事はほかには見えない。
(25)『春秋左氏伝』宣公三年の条には次のようにある。趙盾は君主の晋の霊公が無道の君主だったのでたびたび諫めたが聞き入れられなかった。そこで出奔したが、国境を越える前に一族の趙穿が霊公を弑殺したので、引き返してきた。すると太史の董狐は「趙盾がその君を弑殺した」と史書に記した。 趙盾は正卿で、国境を越えないうちに戻ってきながら、殺害者を罰していないから君主弑殺の責任は趙盾にあるという論理なのである。これを聞いた孔子は両者を讃えながら、趙盾が国境を越えなかったことを惜しんだ。
(26)「武陵威王晞伝」によると、司馬晞は桓温にその武才を煙たがられて、讒言に遭い、新安郡に流されたのである。

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