(1)「職官志」によると、王国には師・友・文学の各一人が置かれた。師は景帝司馬師の諱を避けて「傅」と改められた。友は周の文王や孔子の四友に因んで名付けられた。
(2)『春秋左氏伝』 襄公七年の条によると、春秋時代の晋の公卿の韓無忌が弟の韓起に韓家の家督を譲るための推挙をした際に韓起について「與田蘇游而曰好仁」と述べている。田蘇は晋の賢人。武帝が司馬鑒と燕王司馬機の師と友を高い基準で選んだのは、田蘇のような賢人を側近にして二人の人格を向上させたいという意図があったからである。
(3)梁鄒県は『後漢書』志第二十二「郡国四」によると後漢時代は済南国に属していたので、正しくは「斉」ではなく「済南」とあるべきだが、「斉王攸伝」によると済南郡は太康四年(283)に斉国に併合されているので、こういった表記の混乱が起きたものと考えられる。
(4)「恵帝紀」には、永寧元年(301)十二月に司馬冰は楽安王に封じられたとある。
(5)「斉王冏伝」では司馬冏が敗れた時に司馬冰は楽安王とされていて、本伝と矛盾する。「斉王冏伝」によると、司馬冰は司馬冏が敗れた後に幽閉され、永興の初めに赦されたが、永嘉五年(311)六月に洛陽が陥落すると司馬超ら兄弟とともに劉聡に殺された。