(1)魏帝曹芳は即位したとき八歳なので、司馬駿は曹芳と同年齢と思われる。
(2)ここでは簡単に書かれているが、実は諸葛誕の反乱に続く淮南の大戦乱に発展した可能性もあった事件である。泰始四年(268)、合肥侵攻を命じられた丁奉は石苞に偽りの手紙を送って、疑惑を煽りたてた。すると晋帝司馬炎は羊祜の説得も聞かずに石苞の反乱を確信し、密かに司馬望に石苞追討を命じた。そのとき、石苞から招聘されていた孫鑠は許昌に至ったとき、旧知の司馬駿のもとを訪ねた。すると司馬駿は同郷のよしみから石苞追討の密命を孫鑠に教え、石苞のもとに向かうのを断念させようとした。しかし孫鑠は石苞のもとに駆けつけ、石苞に兵を解いて抵抗しないことを進言した。石苞はその献策に従ったので、ことなきを得たのであった。結局、丁奉の侵攻も司馬駿によって撃退され、丁奉の計略は石苞を都督揚州諸軍事から解任させるだけに終わった。詳しくは「石苞伝」・「孫鑠伝」・『三国志』呉書第十「丁奉伝」を参照のこと。
(3)原文「大義滅親,古之明典」。「大義滅親」は国家の大義のために親子の私情を断ち切ることで、『春秋左氏伝』隠公四年の条に見える衛の石碏の故事によっている。衛の州吁が桓公を殺して簒奪すると、石碏は策略を用いて州吁とともに共謀者の自分の子の石厚をも殺し、大義を明らかにした。
(4)原文「一日縱敵,數世之患」。『春秋左氏伝』僖公三十三年の条によっている。




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