(1)「宣帝紀」によると、嘉平二年(250)正月である。
(2)原文「大臠」。権力のことを暗に示している。
(3)原文「阿衡」。殷の名宰相・伊尹の官職。転じて宰相の代名詞にもなった。
(4)原文「公室」。春秋戦国時代の諸侯の一族や政権を指す。
(5)『春秋左氏伝』成公一五年の条によれば、宋の司馬の蕩沢が公子肥を殺害すると、右師の華元は晋に出奔した。後に華元は宋に戻って蕩沢を討った。『春秋左氏伝』に見える華元の言葉は次の通りである。「我爲右師,君臣之訓,師所司也。今公室卑而不能正,吾罪大矣。不能治官,敢頼寵乎。」蔡克が華元の故事を引用したのは、司馬肜が華元と同じく「師」であったからだろう。
(6)楽挙は「楽呂」とも作る。宋の司寇。楽毅や楽広の先祖ともいう。
(7)『春秋左氏伝』成公二年の条に次のようにある。「君子謂華元樂舉於是乎不臣。」華元と楽挙は宋の文公の生前にはそのおこないを諫めず、文公の死後は厚葬したので、不臣と譏られたのである。
(8)校勘に見えるほかに、『三国志』魏書巻二十二「陳泰伝」裴注に引く『陳氏譜』には「陳徴」とある。
(9)原文「射鉤」。君主に即位するため帰国途中の斉の桓公を管仲が待ち伏せして矢を鉤に当てた故事から、逆らったことによって旧怨があることをいう。
(10)この故事はほかには見えない。
(11)『春秋左氏伝』宣公三年の条には次のようにある。趙盾は君主の晋の霊公が無道の君主だったのでたびたび諫めたが聞き入れられなかった。そこで出奔したが、国境を越える前に一族の趙穿が霊公を弑殺したので、引き返してきた。すると太史の董狐は「趙盾がその君を弑殺した」と史書に記した。 趙盾は正卿で、国境を越えないうちに戻ってきながら、殺害者を罰していないから君主弑殺の責任は趙盾にあるという論理なのである。これを聞いた孔子は両者を讃えながら、趙盾が国境を越えなかったことを惜しんだ。
(12)「武陵威王晞伝」によると、司馬晞は桓温にその武才を煙たがられて、讒言に遭い、新安郡に流されたのである。




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