(1)文脈からすると武帝が皇帝になった直後の泰始元年(265)に詔が出されたような感じを受けるが、泰始四年(268)に崩じた文明王皇后がすでにこの世にいないことが詔に明記されていて、司馬兆が城陽王に追封されたのは泰始五年(269)11月であるので、この詔は泰始五年(269)に出されたものと考えられる。
(2)「武十三王伝」によると、「景度」は字であり、司馬景のこと。司馬景は城陽王に封じられた翌年の泰始六年(270)に薨じ、懐王と諡された。
(3)「武十三王伝」によると、司馬憲は泰始九年(273)に薨じ、殤王と諡された。
(4)「武十三王伝」によると、司馬祗は泰始九年(273)に三歳で薨じ、沖王と諡された。
(5)「武帝紀」によると、咸寧三年(277)八月。「武十三王伝」によると、司馬遐は永康元年(300)に二十八歳で薨じ、康王と諡された。