(このページの先頭)
update:2021.01.11 担当:八頭
晋書巻四十八
列伝第十八
向雄
人物簡介

向雄(?〜283)は字を茂伯といい、河内郡山陽県の人。河内郡の主簿になるが、微罪によって投獄され、司隸校尉の鍾会により獄中から招聘されて都官従事になる。鍾会が誅殺されると、自分の命を省みずに鍾会を埋葬し、そのことで司馬昭から譴責されるが、明快に道理を述べて司馬昭を納得させた。侍中や征虜将軍を歴任して河南尹になり、関内侯を賜った。太康四年(283)、斉王司馬攸が領国への赴任を命じられると、司馬攸を都に留めるよう武帝司馬炎に諫言するが受け入れられず、憤りのために卒した。

本文

向雄は字を茂伯といい、河内郡山陽県の人である。父の向韶は彭城太守であった。向雄ははじめ郡に出仕して主簿となり、太守の王経に仕えた。王経が死ぬと(1)、向雄は死者を弔って哭し、哀しみを極めた。そのため、市場にいた人々はみな〔向雄の真心に打たれて〕心を痛めた。後任の太守となった劉毅は以前に罪がないのに向雄を笞打ちの刑に処し(2)、呉奮が劉毅と交替して太守になると、些細な罪で向雄を牢獄に閉じ込めた(3)。司隸校尉の鍾会は獄中より向雄を召し出して都官従事に任命した。鍾会が死ぬと(4)、葬儀を行おうとする者が一人もいなかったので、向雄は鍾会の遺体を引き取り、埋葬した。このことを知った文帝(司馬昭)は向雄を呼び出すと、彼を責めて言った。「先に王経が死んだとき、そなたは王経を東市で哭して弔ったそうだが、私はそれを罪に問わなかった。今、鍾会は自ら反乱を起こしたのに、また同じように遺体を収めて弔い、埋葬したと聞く。もし、またこのことを許せば、国の法律はどうなるのだ。」向雄は〔答えて〕申し上げた。「いにしえの聖王が〔野ざらしの〕骸骨を〔土で〕おおい隠させ、腐肉を埋めさせたのは、朽ちた骨に仁愛を注いだからでした。その頃、人間の功罪を占うことを先にし、遺体を埋めることを後にしていたでしょうか。今、誅殺はすでに〔鍾会に〕加えられ、法においては完備されました。私は鍾会の恩義に感じて彼の遺体を収め、埋葬したのです。このことによって、礼教を損なうこともありません。これは法律が上(国家)に定まり、〔死者には仁愛を注ぐという〕礼教が下(民衆)に広まることであるのに、〔埋葬を禁じることによって〕このわたくしを生者〔の礼〕にそむかせ、死者〔の恩義〕にもそむかせてまで、生き長らえさせることはないのではありませんか。殿下は枯ちた骨をお怨みになって、野中に捨てられ、将来、仁賢の士に嘆かれることになります。何とも残念ことではありませんか(5)。」〔これを聞いた〕文帝はたいへん喜び、向雄と酒席で言葉を交わし、帰した。

〔後に向雄の〕官位はしだいに上がり、黄門侍郎となった。当時、呉奮と劉毅はともに侍中の官職にあり、〔向雄と〕同じ門下省に所属していたが、向雄はこれまで呉奮や劉毅と言葉を交わそうとしなかった。武帝(司馬炎)はこのことを聞き、向雄に君臣の好(上司と部下の間の親交)を戻すよう命じた。そこで、向雄は仕方なく、劉毅を訪ねて行き、二度お辞儀をして言った。「さきほど勅命を受け、君臣の義(上司と部下の関係)が絶たれました。よろしいですね。」そしてすぐに〔劉毅のもとから〕退いた。武帝はこのことを聞いてたいへん怒り、向雄を問い詰めて言った。「私はそなたに君臣の好を戻すようにと命じたのに、どういうわけで〔わざと反対に君臣の義を〕絶ったりしたのか。」向雄は言った。「いにしえの君子は人を推挙するときは礼にのっとり、人を遠ざけるときも礼にのっとったのでした。今、人を推挙するときはまるで膝を相手につけるぐらいに親しげに応対するのに、人を遠ざけるときはまるで川に突き落とすようなありさまです。私が劉河内(劉毅)に対する反乱軍とならなかっただけでも、もうこれ以上幸運なことはございませんのに、どうして〔劉河内と〕君臣の好をまた戻すことがあるでしょうか(6)。」〔これを聞いた〕武帝は〔向雄の行為を〕容認することにした。

泰始年間、官位が上がり、秦州の刺史になった。赤幢(車の赤い垂れ幕)、曲蓋(役人が外出の際に用いる儀仗の柄の曲がった傘)、鼓吹を貸し与えられ、銭二十万を賜った。咸寧の初め、朝廷に入って御史中丞となり、侍中に昇進し、また地方へ出て征虜将軍となった。太康の初め、河南尹となり、関内侯の爵位を授けられた。斉王司馬攸が封ぜられた領国に赴こうとすると、向雄は〔武帝を〕諌めて申し上げた。「陛下にはご子息と弟君がたくさんいらっしゃいますが、ご評判の高いお方はあまりおられません。斉王が都におられれば、〔皇室にとって〕大きな利益になるのです。〔このことは〕よくよくお考えにならなければなりません。」武帝は〔向雄の意見を〕聞き入れなかった。向雄は固く諌め、武帝の考えに逆らった。向雄は身を起こして立ち上がると、すぐに〔朝廷を〕退出し、とうとう、向雄は憤りのために卒した

弟の向匡は恵帝の治世に護軍将軍となった。

更新履歴
この頁の最初へ