(1)王経は、甘露五年(260)に魏帝高貴郷公曹髦が司馬昭の専横に対する武装蜂起を企図した際、侍中の王沈と散騎常侍の王業とともに宮中に召集されて曹髦に武装蜂起について相談された。王経は思いとどまるよう説得したが、曹髦は結局武装蜂起した。王沈と王業は司馬昭にもとに赴いて通報したが、王経は宮中に留まったため、曹髦に連座して誅殺された。『三国志』魏書巻四「高貴郷公紀」及び裴注に引く『漢晋春秋』等を参照のこと。
(2)この部分と後段の劉毅との君臣の好についての部分は『世説新語』巻三「方正第五」にも同様の記述があるが、『世説新語』では太守は「劉毅」ではなく「劉淮」となっていて、注に引く『晋諸公賛』には「劉淮は字を君平といい、沛国杼秋県の人である。若くして清く正しいとして称賛され、河内太守、侍中、尚書僕射、司徒と累進した。」とある。労格『晋書校勘記』によると、『世説新語』の今本の「劉淮」は「劉準」の誤りであるとのこと。「劉毅伝」には劉毅が河内太守や侍中になったという記述がないこともあり、本伝の「劉毅」は正しくは「劉準」とすべきであると考えられるが、原文に従って「劉毅」のまま訳す。
(3)『世説新語』巻三「方正第五」注によると、向雄の投獄は生贄の牛の多くが向雄の護送中に猛暑のため死んだことによるものとのこと。
(4)鍾会の死については、『三国志』魏書巻二十八「鍾会伝」を参照のこと。
(5)原文「殿下讎枯骨而捐之中野,爲將來仁賢之資,不亦惜乎!」。「資」は「咨」に通じているため「咨」の「嘆く」という意味で訳した。この向雄の進言については『三国志』魏書巻二十八「鍾会伝」注に引く『漢晋春秋』に同様の記事があり、この文章は「百歳之後,為臧獲所笑,豈仁賢所掩哉?」と対比できるため、この文章の文脈を本文の訳に参考にした。
(6)この向雄の発言は『礼記』「檀弓篇下」の「穆公問於子思曰:『爲舊君反服、古與。』子思曰:『古之君子、進人以禮、退人以禮。故有舊君反服之禮也。今之君子、進人若將加諸膝、退人若將隊諸淵。毋爲戎首、不亦善乎。又何反服之禮之有。』」という一節を念頭に置いているものと考えられる。「戎首」は「旧主に軍事的反乱を起こす首謀者」という意味で訳したが、「軍の司令官」という意味もある。この段落も前述の『世説新語』巻三「方正第五」に同様の記述がある。「劉河内於臣不爲戎首,」の部分は「臣於劉河内不爲戎首,」というように、「臣」と「劉河内」が本伝とは逆転していて、この方が意味が通じ、本伝の記述が編集の際に「臣」と「劉河内」の順序を誤った可能性があるため、『世説新語』を参考に訳した。また「劉河内於臣不爲戎首,」は「劉河内が私にとって軍の司令官でなかったことは、」や「劉河内は、私が部下の時に、(王経や鐘会と同じように)反乱軍の首謀者とならなかったことは、」といった訳も考えられる。