(1)畢卓の父・畢諶は『三国志』魏書第一「武帝紀」に登場する東平県の人の畢諶と同一人物の可能性があるが、両者は本籍が違い、また東平県の人の畢諶は中書郎になったという記述もない。盧弼『三国志集解』でも両者を別人と考えており、現時点では別人と考えたほうが妥当かと思われる。なお、『世説新語』「任誕篇第二十三」注に引く『晋中興書』では畢卓の本籍は単に「新蔡」としている。『三国志』魏書第一「武帝紀」によると、東平県の人の畢諶は曹操の旗揚げ直後に兗州別駕となったが、反乱軍に妻子が捕らえられ、曹操から「お前の家族のところへ行ってやれ」と言われると、一旦は断ったものの、直後に逃亡した。反乱が平定された後、許されて魯国の相となったという。
(2)このエピソードは『晋中興書』からの引用だが、細部が異なる。「酒の管理人は畢卓だと分からなかったので縛っておいた」「縛った人間を主人に見せるとなんとまあ畢吏部どのであったので…」となっており、日時が経過していない。吏部という官職名をわざわざ出したのは、「吏部郎という役人様が盗み飲みの犯人でしたよ、なんとまあ」という三面記事的なおかしさを出すための文飾か。なお、この話は蒙求にも採られ、中国の酒好きに知られており、酒宴の時のゲーム「酒牌」の画題にもなっている。
(3)「拍浮」は森三樹三郎によれば「手足をばたつかせながら泳ぐ」ことであるという(森三樹三郎『世説新語』平凡社中国古典文学大系9)。古く明治の文人中村正直は「ウチウカビ」と訓じている。
(4)『世説新語』「任誕篇第二十三」にも同様の記述がある。