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update:2021.01.14 担当:山口 博数
晋書巻五十二
列伝第二十二
郤詵
人物簡介

郤詵(生没年不詳)は字を広基といい、済陰郡単父県の人である。尚書左丞の郤晞の子。博学多才で、並はずれて優れていて、細かいことにはとらわれない性格であった。州郡からの招聘には応じなかったが、済陰太守の文立に賢良直言の士として推挙され、優秀な成績で合格して議郎になった。母の喪に服した後、車騎従事中郎や尚書左丞を歴任した。威厳があり、明解な判断を下したので、声望は非常に高かった。雍州刺史に昇進したが、在職中に卒した。

本文

郤詵は字を広基といい、済陰郡単父県(1)の人である。父の郤晞は尚書左丞(2)であった。郤詵はひろく学び才能豊かで、並はずれて優れていたが、細かいことにはとらわれない性格で、州や郡からの招聘にはいずれも応じなかった。

泰始年間、武帝が賢良直言の士を挙げよと天下に詔勅を下すと(268)(3)、済陰太守の文立(4)が郤詵を推挙し、この選抜に応じさせた。

〔選抜の試験会場で武帝からの〕詔(5)が問うた。「されば古代(6)、徳によって民を従えた時代には、なにごとも単純で分かり易く、法律や礼儀にも煩わしさが無かった(7)。〔夏・殷・周の〕三代の王朝に至って、〔秩序を保つ〕礼儀と〔心を和らげる〕音楽が大いに整ったが、国家の制度もいよいよ煩雑なものとなった。この〔外面の〕文華と〔内面の〕質朴が〔上古と三代において〕変化するが、さて其の理由はどこにあるのであろうか?虞王朝〔の舜〕から夏王朝〔の禹〕へと続く際に、聖にして明なる〔聖人天子の徳〕が受け継がれた(8)が、廃されたもの、付加されたものがあって同じものではなかった。周王朝の政治手法が最早衰えて〔過去のものとなって〕、それでも仲尼(孔子)は周〔のやり方〕に従うのだ(9)とのたまう。それでは旧制を改めることを善しとするのは、何によって正当化されるのか? 〔堯や舜など〕聖王は過去に没してしまったが、その遺制はなおも生きており、〔武力で天下を治める〕覇者(10)が次々と現われて〔政治を〕補佐するのであるが、これで〔帝王の踏むべき〕王道(11)に不足する部分を補完することにならないだろうか?何故、盛りが次第に衰えて、旧に復しはしないのか?それは覇者の徳が浅いせいなのか?めぐり合わせた〔盛りの〕時期というものは、もはや招きよせることが出来ないせいだろうか?なおかつ夷吾(12)は智恵があっても、功績は〔武力統治である〕覇道に止まったのは、何ゆえであろうか?かって昔人の行った政治は、乱れ亡びようとする弊害を断ち切り、不滅の法を建て、風俗を移しかえて〔世の中を善くし〕、刑罰はあっても用いなかったが、どうしてこれが化の盛り〔稔りある統治〕ではないとされようか?何を整備してこれに向えばよいのだろうか?朕が先祖代々の立派な功績を引き継いで、すでに七年(13)におよぶも、人びとは未だ訓戒に従わず、政治の道に発展がない。 〔堯や舜などの〕昔と今をくらべて、何故にこう様子が遠く及ばないないのか?〔この原因を〕明らかにしようとしても及ばず、多くの賢い者達とこれを考えたいと思う、さすれば聞くところの疑問点は何によって見きわめ、正当な発言から優れた主張を得ることが出来ようか?加えるに昨今は西方や北方の周辺民族が領土に侵入し(14)、災害がしばしば起こり(15)、辺境の民は居所を失い流浪し、旅人は難儀しておるが、これは政教〔の訓令〕や刑罰に間違いがあるのか、或いは役人がその任にあらざるのか?これらについて汝の考えを尽くし、残らず論述せよ。上は古の制度を明らかにし、下は現在をあい正せよ。朕が徳を失うところを、よく救い補うべし。また正論を述べて隠すことなかれ。さすればつつしんで拝聴いたさん。」

郤詵が問いに答えた。「伏して思いますのに、陛下は聖徳をもって君臨なされながら、なおひろく採用せんとお考えになり、賢正の士をお招きになったのですが、臣等は見識に乏しく、大問をお下しされるには〔力量〕不足ではございます。それでいささか内心に惑うものがありますが、なおこの身を宮城のお庭に運びましたからには、強いて励み努めるのみでございます。伏して陛下の策書(16)を拝読いたしますと、ご下問の志の深いことを知らされました。 臣が聞きますのは、大昔〔の堯や舜などの天子〕は徳の高い賢人を推してその位を譲ったといい、〔民を感化する〕教えを同じくし〔人としての〕徳目は一つであり、そのためなにごとも単純で分かり易く、民が教化されました。〔夏・殷・周の〕三代の王朝に至って、後世が代々受け継ぎましので、そのため法律や礼儀は煩雑になりましたが、そうしたのちに秩序が保たれました。 虞王朝〔の舜〕と夏王朝〔の禹〕は互いに親しくも、その受け継ぎには廃されたもの、付加されたものがあって同じものでなかったのは、帝王としての道が異なったのではなく、弊害の出ているところを直そうとして別なものになったのであります。 周王朝はまさに〔虞王朝と夏王朝〕二代の流れをくみ、虚飾の極まりを継承し、〔秩序を保つ〕礼儀と〔心を和らげる〕音楽とは致すところを尽くし、国家の制度のすじみちを極め、その法律や礼儀は詳らかに備わっており、仲尼〔孔子〕が時をえらんで、周〔のやり方〕に従うのだとのたまわれたのは、異論とは申せません。 臣が聞きますのは、〔堯や舜など〕聖王の教化は礼儀と音楽が先にあり、〔斉の桓公など〕五覇(17)は行政と刑罰に力をそそいで盛んになったといいます。礼儀と音楽への教化が深ければ、行政と刑罰は浅く用いてすみます(18)。これに励めばよろしくも小さな平安であるに過ぎず、これを怠れば盛りは次第に衰えてしまいます。由るところの路はもともと近くにあり、それ故に補佐するところの働きは同じではありません。しかし斉の桓公は葵丘(19)〔に諸侯を集めて談合したこと〕でこれ〔由るところの路〕を外し、〔智恵があっても〕夷吾(20)は〔桓公という〕小さな器に入り込み、その功績が覇道に止まったのも、また然るべきではなかったでしょうか。

策に申された「滅ぶことのない本を建て、風俗を移しかえて〔世の中を善くし〕、天下〔の民〕を心うちとけなごませるには、何を整備してこれに向えばよいのだろうか?」につきましては、臣は人物を選んで官吏にすることより大事なことはないと思います。現在の定法に統一性がないのではなく、官僚の能力に優劣があって実績が異なるので、ある時はそのために〔国が〕栄えたり、ある時はそのために衰退したりいたしますが、これはおよそ人が政治を大きくすることができるのであって、政治が人を大きくするのではないからなのです。 人をさておいて政治を行うは、勤め励んだとしても何の益がありましょうか?臣が昔と今を観て、その美し悪しをいささか考えますに、昔の人は相共に〔才智、徳行の〕賢人を求め、今の人は爵位を求めております。昔は人を官吏にするのに、君はその責任を上にもとめ、臣下はこれを下から推挙し、人物を得れば賞し、人を誤れば罰しますので、どうして賢人を求めないですみましょうか!今は人を官吏にするのに、父兄がこれを營み、親戚がこれを助け、付け届け(21)が有れば〔その道は〕通り、無ければ塞がり、どうして爵位を求めないですみましょうか! 賢人は仮に出世を求めても、出世は道を修めるなかにあり、窮するのは義を失うなかにありとして、それゆえ静止して待っているのです。かりにも爵位を求めることが出来るのは、進んで取るから得られるのであり、機会を逃すと失なうので、それで運動をして手に入れるのです。運動すれば必ず競争になり、競争すれば必ず徒党をくみ、徒党をくめば必ず偽りや欺きがあり、偽りや欺きがあれば必ず良否の真実が失われ、まことと嘘が交錯して、主君は聴くところを惑い、不正のものの集まるところとなります。 静かにおることは正道を固守しており(22)、正道を固守すれば正直であり(23)、正直であれば誠と謙譲があり(24)、誠と謙譲があれば賢人を推挙し(25)、賢人を推挙して誇らず、相手にはへりくだって飽くことがありませんので、主君は聴くところを明かとし、その徳が発揮されるところとなります。それ故ここをよく静止すれば、昼日中であっても枕を高くし(安心して眠って)も人は自らを正しくしますし、動きを禁ずることが出来なければ、朝早くから晩遅くまで(勤められても)を重ねても、世の中は一つになりません。 そのうえ愚者も智恵者も無く、みな高官に思いをよせ、表面は正しさで飾り、内面には邪心を蔵しておるので、邪な人か正しい人かは接しても判らないのです。任命が正しい人ならば、多くの正しい人が益々至り、もし邪な人ならば、また多くの邪な人が集まります。総べてはその類を増やすものであって、誰がよくこれを止めることが出来ましょうか!それ故に国を亡ぼし御代を失うのは、多くの邪な人が集った所で無かったことはこれまでにありません。 まさに物事が初めて生ずるのは、必ずひそかに始まるのであって、ひそかに継続すれば、その終わりは著しいものです。天地もにわかには〔冬や夏の〕寒暑をなせません、人主(天子)も亦にわかには盛衰をなせません。それ故に寒暑は春、秋よりはじまり、盛衰は得るもの失うものより起るのです。 当今の世は、仕える者に関所や橋〔などの関門〕が無く、邪門が開かれています。朝廷は賢人を責め求めず、正しい路が塞っています。得るもの失うもの源は〔ひそかなれど〕、何とその〔結果は〕甚だしいものとなるのでしょうか! ここで賢人を責め求めるとは、互いに〔賢人を〕推挙させることで、関所や橋は、このことを互いに守らせるのであります。賢人を推挙しなければ過ちとし、守っていることに信用出来なければ罰を与えます。それ故に古(いにしえ)は諸侯が必ず士(26)を推薦し、推薦しなければ(領地や官職などを)削り落とし、推薦しても適格でなければ亦削り落とすのです。(27)やはり士は見分け難いもので、適任でなかったとしても過ちとしては軽いのです。責めなければならないとしたら、知らなかったことを強調し、適任でなかったことを罰するのは、その軽い過ちを深めることになり、恕(思いやり)ではありません。 そのうえ天子は諸侯に対しては、忠純の臣ならざる義があれば、この点を責めるのです。施政の道では、しかし見逃しても、それ(責めること)を乱用しないのです。現今は皆このように反対であるのは、どうしたことでしょう?やはり賢者は天地の要めであり、万物の頭であるので、この事は急ぎのことであり、それ故に乱用して賢者を得るとしても、見逃して賢者を失うことでは無いのです。現今は全くそうではなく、世間の大方の者は、各自まぎれないことを行うだけなのです。 それ故にその才能も行いも共に期待出来ず、役所の勤めでは政事をかき乱し、私生活では汚くけしからんものであります。この頃の長吏(28)には特にこういった憂いが多く、逃亡して懸賞のかかる者もおり、捕縛されて絞殺される者もおります。よく深く心卑しく地位を我が物とする、これを登用した者を誰が知らないでしょうか?獸の子を檻から出る、罪ある者を誰が知らないでしょうか?呑舟の魚を網から漏らすことさえ、どうしてこれ以上の過(あやまち)といえましょうか!人びとにとって利益とは、水火をも踏まんばかりのもの(29)です。 前の人がしくじっても、後の人は復た起き上がる、連綿として終わることがなければ、誰がこれを止めましょう?風流を日に競そうを、誰がこれを憂いましょう?いま聖思(天子)が未明から夜遅くまで努め労されても、政事を行わせる者が、いつもこの類ならば、御世をうるわしく教化し世の中の平和を望んだとしても、ただ河清を待つ(30)のと同じことでございます。もしこれを改善しようとするなら、賢人登用の規則を創り、関所や橋として〔それをすすめる〕備えを厳しくすべきです。 其の制度が確立して、初めて人びとは行動を慎みいい加減にはせず、それで賢者も知ることができるのです。賢人を知ったうえで試用すれば、官吏に人を得ます。官吏に人を得るときは、事に秩序が得られ、事に秩序が得られれば、各々におさまりがつき、各々におさまりがつくときは、則ち物みな繁栄し、人々は相い助け、和らぎ楽しむ気風が起こるのです。こうして過ちを寡くして刑罰から遠のき、恥を知り禮に近づくことが、すなわち不滅の法を建て、風俗を移しかえて〔世の中を善くし〕、刑罰はあっても用いることのない理由であります。

策に申された「昨今は東方や北方の周辺民族(31)が領土に侵入し、災難(32)がしばしば下るが、或いは任命に人を得ていないのか?何ゆえにこのようになったのか?」につきましては、臣は南方や東方の周辺民族が夏(中国)を乱したとき、〔舜はその臣の〕皋陶(33)を司法官としたと聞いておりますが、これは現象を改善するために、その根元対策を優先したものです。 まことに賢人を任命すると政治には恵みがあり、有能な人を用いると刑には思いやりがあります。政治に恵みがあれば、しもじもはその施しを慕い、刑に思いやりがあれば人々はその胆力に懐きます。施しは人々の財産を殖やし、胆力は心を結びます。それゆえ人々は普段の生活の時には、資産が足りて禮の道(34)をわきまえ、(事に当って)行動する時には、上に親しみ懐いて勇気を持とうとします。利益を思い害を除き、生きる道(35)を図ってくれる者へは、たとえ死んでも疑わず、安楽な道を苦労してくれる者へは、たとえ疲れても怨みません。 それゆえに命令を授けることができ、力を尽くすことができ、戦えば勝ち、攻めれば城を抜くのです。こういったことで善人は徳を慕って安心して事に従い、惡人は恐れて跡をくらまします。戈を止める〔の二字〕で武となり(36)義の実は〔節制するという〕文徳にあります(37)。もっぱら賢人を任命してその後は何ら患うことはないのです。大水や日照りの類の災害は、〔天がもたらして〕自ずと起きる節理でございます。 そこで昔は三十年耕せば必ず十年の蓄えがあったもので(38)、堯や湯王のとき災害に遭っても民が困らなかったのは、備えがあったからなのです。昨今は風雨が時ならずに頻りではありますが、万国に考えますと、或いは国境に土地を相接しながら、豊作不作と同じでなかったり、或いは百畝の相連なった田にあっても(39)、出来不出来があって流れを異にしておりますが、固より天が必ずしも人に害をなすわけでなく、人が実際のところ均しい苦労を出来ないからです。人が失敗するのに、そのせいを天に求めるのは、役人が役目を怠って勤めないからであり、庶民が仕事始めに時を違えるのであり、人の志が定まって豊年となるような理由ではありません。宜しく人事を勤めるのみであります。

臣は誠に愚かで粗野であり聖なる今上朝廷にお答え申し上げるに充分ではなく、それでもこれを朝廷に提出しましたのは、胸中の思いを出して献上せんとしたのですが、臣は十分でないことをはばかるのでございます。道理明かな言葉でないと糾されて道理明かな言葉のものを招かれるなら、臣はそれも結構であり、それで言葉は粗野ですが隠しはしませんでした。対策(論文試験)が上級にとられ議郎(40)に任じられた。母の死にあい職を去った。

郤詵の母は病いにあって、車の無いことを苦にしていたが、亡くなろうとするとき、柩を載せていく車はいらないと言い残した。 家の貧しさに馬を買いもとめる余裕も無かったので、そこで住んでいた堂(41)の北側の壁の外に仮に埋葬し(その塚の入口の)戸を開いておいて(42)、朝夕、拝哭(43)を行った。鶏を飼い、蒜(ノビル或いはニンニク)を植え、その育成法を極めつくした。(44)喪にあって三年を過ごし、馬八匹を入手し柩を〔車に〕乗せて塚まで運び、〔自ら〕土を背負って墳墓をこしらえた。それがまだ完成しないうちに、召されて征東參軍(45)となった。尚書郎(46)に昇進し、車騎從事中郎(47)に転任した。

吏部尚書の崔洪が郤詵を推薦して尚書左丞とした。しかしその職務にあっては、ある事で崔洪が官吏として罪を犯したと告発しており、崔洪は郤詵を怨んだ。郤詵は私心無く正しいことをしたのだと、これを退けたが、この話は崔洪傳にある。崔洪はそれを聞いて自分を恥じたという。(48)

その後、次第に昇進して雍州刺史となった。(49)太極殿の東堂に集って送別をしたおり、武帝が郤詵に質問した、(50)「卿(そなた)は〔この度の栄転に〕自分を如何ように思うておるかね?」郤詵は答えて言った、「臣は賢良に推挙されて対策の試験では、全国で一番の成績でした。さすれば桂の林のほんの一枝か、崑山の石ひとつほどに過ぎません。(51)」帝は笑うしかなかった。侍中が郤詵の官職を罷免するよう上奏したところ、武帝が答えた、「吾はあれと戯れただけじゃ、いぶかることもあるまい。」郤詵は職務では威厳があり明解な判断を下したので、天下になかなかの声誉を得た。在官のまま卒した。子の郤延登は、州の別駕(52)になった。

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