(1)『元和郡縣図志』巻第七に「単父縣、古魯邑也、漢以為縣、属山陽郡。後漢以為候國、属濟陰郡。」及び同注に「漢高祖后呂氏、即単父人。」とある。『論語』「公冶長」に「子謂子賤、君子哉若人」と評された宓子斉は『呂覧 察賢』に「宓子賤治単父、弾鳴琴、身不下堂、而単父治、…」とあり、『水経注』巻二十五「泗水」に「単父縣故城南。昔宓子賤治之治也。孔子使巫馬期観政。…」とある。
(2)『三国職官表』に「尚書右左丞、二人四百石第六品、左丞主臺内禁令、宗廟祠祀、朝儀礼制、選用置吏、紀諸不法、無所廻避。」及び同注に「郤晞。晋書郤詵伝又有侍其裔見元和姓纂」とある。
(3)「武帝紀」に「泰始四年(268)十一月己未、詔王公卿尹及郡國守相、挙賢良方正直言之士。」とある。
(4)「文立伝」に文立は「泰始の初め、済陰郡の太守を拝し、入朝しては太子中庶子となる」とある。また『華陽国志』巻十一「後賢志」に「泰始二年、文立は済陰太守を拝し、武帝が太子を立て、司徒李胤を太傅とし、斉王驃騎将軍を少傅とすると、文立を選んで中庶子にした」とある。
(5)臨時の選挙である賢良の試験は後の制挙であり、制挙に対する策問は天子の詔の形をとる。併し実際に策問を出し、対策を審査するのはやはり尚書であったであろう。宮崎市定『九品官人法の研究』P65、137、143参照。
(6)いわゆる三皇五帝の世のこと。
(7)『論語』「衛霊公第十五」に「無為にして治まる者は、其れ舜か。」とある。
(8)『論語』「泰伯第八」に「巍巍乎たり。舜・禹の天下を有つや。」とある。
(9)『論語』「八佾第三」に「子曰わく、周は二代に監がむ。郁郁乎として文なる哉。吾れは周に従わん。」とある。
(10)春秋時代の斉の桓公に代表される武力で天下を掌握した者のこと。
(11)夏殷周三王の道で、公明正大、無私無偏の治道のこと。『書経』「洪範」に「王道蘯蘯として、黨する無く偏する無く、王道平平として反する無く側する無く、正道正直なり。」とある。
(12)春秋時代の斉の管仲。字は仲、名は夷吾。桓公の宰相になり仲父と称せられ、諸侯を集め天下をまとめて、桓公を覇者にした。
(13)「武帝紀」によると、武帝(司馬炎)は泰始四年(268)十一月に「賢良方正直言の士」を挙げるよう「王公卿尹及び郡国守相」に詔し、翌泰始五年(269)十二月に「勇猛秀異の才」を挙げるよう「州郡」に詔している。洛陽の都の宮城での実際の試験がこの二つの試験の間(269)に行われたとしても、六年前が咸熙元年(264)にあたり、父の晋王司馬昭の世子となった年にも当らない。この七年は未詳。
(14)武帝が後漢末の州郡割拠を鑑み、州郡の兵備を尽く撤去し、地方の力量を薄弱なものとしたので、胡人(周辺民族)が漢人との雑居地で反乱すると、州郡にはこれへの制御力がなかった。当時は西方に羌、氐、北方に鮮卑、羯、匈奴が位置した。
(15)『資治通鑑』巻七十九に泰始四年(268)九月の青、徐、兗、豫四州の大水や同五年(269)二月の青、徐、兗三州の大水、「武帝紀」に同年四月の地震などの災害が相次いで見える。
(16)「策」という問題を書いた札で問われ、策対は漢の武帝が董仲舒を試験した時から始まったとされる。
(17)五人の覇者のことで、斉の桓公や晋の文公など五人が春秋時代の五覇とされる。
(18)『礼記』「楽記」に「礼楽刑政は其の極は一なり。」とあり、『論語』「子路第十三」には「礼楽不興らざれば、則ち刑政中(あた)らず」と刑政に対して礼楽の優位性を説いている。
(19)春秋時代の宋の地(河南省)、斉の桓公が諸侯と会した(BC651)。
(20)当時、施伯(魯の謀臣)は魯候に「管仲(夷吾)は天下の賢人なり、大器なり。楚に在れば楚は意を天下に得、晋に在れば晋は意を天下に得。…必ずや長く魯国の憂いと為る。君何ぞ殺さざるや、その屍を受けざるや」(『管子』「小匡」)と迫り、その二百年ほど後に孔子は「管仲の器は小さいかな。」(『論語』「八佾第三」)と批評した。
(21)「山涛伝」に「初め、陳郡の袁毅嘗て鬲の令と為り、貪濁にして公卿に賂遺し、以て虚誉を求む。亦涛にも絲百斤を遺(おく)る」とある。
(22)「貞固」は、『易経』乾卦「文言伝」に「貞固なればもって事に幹たるに足る」とある。
(23)「正直」は、『書経』「洪範」に「反(そむ)く無く側(そばた)つ無し。王道は正直なり」とある。
(24)「信讓」は、『礼記』「坊記」に「君子は信讓以て百姓に涖む」とある。
(25)「推賢」は、『書経』「周官」に「賢を推し能を譲る。庶官乃ち和す」とある。
(26)学徳ある者。
(27)『礼記』「射義」に「古者(いにしえ)は天子の制は、諸侯歳ごとに献じて士を天子に貢す。天子之を射宮に試み、その容体を礼に比し、その節(ものごし)を楽に比して、中(あた)ること多き者は、祭に与(あづか)ることを得る。その容体を礼に比せず、その節を楽に比せずして、中ること少き者は祭に与ることを得ず。数(しばしば)祭に与るときは、而(すなわ)ち君の慶有り、数祭に与らざるときは而ち君の譲(せめ)有り。数慶有るときは而ち地益し、数譲有るときは而ち地削る。故に曰く、射る者は射て諸侯と為る也」とある。
(28)漢制県吏の二百石から四百石までの者。また一般に六百石以上の者。比較的高い俸禄の下役人。
(29)危険な地に居り、またそれを冒す喩。また『論語』「衛霊公第十五」に「子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は、吾れ蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざる也。」とある。
(30)黄河の水は常に濁り、千年に一度澄む。待つことの出来ぬ喩。また『春秋左氏伝』「襄公八年」に「冬。子駟(しし)曰く。周詩に之有りて曰う。川の清を俟つ。人寿幾何(いくばく)ぞ。」とある。
(31)前の策問では「戎狄」(西方や北方の周辺民族)としている。
(32)「武帝紀」に「泰始四年(268)九月、晋の青・徐・兗・予の四州に大水あり。伊・洛(水)は溢れ河(黄河)に合し、開倉してこれに賑(ほどこ)す。」とあり、また「泰始五年(269)二月、「青・徐・兗の三州に大水あり。」とある。
(33)『孟子』「尽心」に「舜が天子となり、皋陶(こうよう)が士(獄官)たりしとき」とある。
(34)『論語』「先進第十一」に子路の言葉として「由や之れを為(おさ)むるに、3年に及ぶ比(ころおい)には、勇有らしめて且つ方(みち)を知らし可き也」とあり、鄭注に「方は礼法なり」とある。
(35)『孟子』「尽心」に「佚(やす)らかにせんとする道を以て民を使わば、労すと雖も怨みず、生かさんとする道を以て民を殺(しな)さば、死すと雖も殺(しな)す者を怨みず。」とある。
(36)『春秋左氏伝』「宣公十二年」に「それ文(もじ)は、止戈にて武と為る」とある。
(37)『国語』巻三「周語下」に「義は、文の制なり」とあり、注に「義は以て事を宜しきに制断する所也」とある。
(38)『礼記』「王制」に「国に九年の蓄え無きは足らざると曰う。六年の蓄え無きは急なりと曰う。三年の蓄え無きは国それ国に非ざると曰う也。三年耕せば必ず一年の食有り。九年耕せば必ず三年の食有り。三十年を以て通せば凶旱水溢有りと雖ども民に菜色(飢えて蒼くなった顔色)無し。然る後に天子食すを挙げるに楽を以てすと曰う」とある。
(39)頃は田百畝をいい、秦以後六尺四方を歩といい、二百四十歩を畝という。魏晋の時代は一尺が24.12cm。(京大東洋史2『貴族社会』p54)。
(40)議郎は官名。秦以降置かれた。論議を掌る。漢制では秩比六百石。特に賢良方正敦朴の士を任じた。「秀才孝廉の及第者は、漢代同様、郎に任じられたが、郎を監督すべき三署は魏晋以来、三署郎なし(唐六典)だが、実際は三署が廃されただけで、郎は議郎(七品)、中郎(八品)、郎中(八品)と階級名で呼ばれた。」(宮崎市定『九品官人法の研究』)。
(41)『晋書斠注』に引く『通典』巻十四は「衛瓘表して前太子洗馬で済陰郡の人の郤詵、衛国文学講堂に寄止(かりずまい)すること十余年、母亡すに喪帰を致さず、すなわち堂北壁外に棺を下す」とあり、「住んでいた堂」は「衛国文学講堂」としている。この講堂は、或いは『三国志』魏書第一「武帝紀」の「(建安八年)秋七月、令曰:「…其令郡國各脩文學、縣滿五百戸置校官、選其郷之俊造而教學之、庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」にみえる地方の校官(学舎)の一部で、司州頓丘郡の衛県(衛国)にあったものと思える。
(42)「假葬」は「仮の埋葬」であり、埋葬は土中に穴を掘り、棺をおさめる。それが土で覆われれば塚であり墳となる。『後漢書』巻七十二「董卓伝」の注に「献帝起居注に曰く、冢の戸を開けば、大いに風ふき暴しく雨ふりて、水土は流れ入り、之を抒(くみ)出す。棺向(かたむ)きて入り、輒ち復た風ふき雨ふり、水は郭(かこい)の戸に溢れる。」とあり、『通典』に「将に改葬せんとする者は、吉服にて宅兆を卜し、其の余は葬の宅兆を卜すの儀の如し。窩所(墓穴)に先だち、地の宜しきに隨い、白布の帷幕を張り、南に向け戸を開く。」とあり、また同じく『通典』に「掌事者は柩を壙に下し、…壙戸を掩い、関鑰(かんぬきと錠)を加え,土を復(かえ)す。」とあり、ここで「戸」は、「冢」や「窩所(墓穴)」や「壙(墓穴)」の出入り口の戸を意味している。
(43)「拜哭」とは、哀しみの声をあげて泣きながら(哭)、拝礼を行うものである。段玉裁『説文解字注』では三年の服にある者の拝礼は、身を跪き頭を下げて地にふれ(頓首)、また起きて両手を胸の前にして頭を下げる(空首)の礼とする。 
(44)鶏や蒜は母を葬りなおす際の車馬を求める原資にしたと解釈した。また『晋書斠注』によると、『太平御覧』巻四一二に引く王隠『晋書』は方術を力術と作る。
(45)吏部が六品以下の官の進退を掌り、公府の属僚は府主が辟召するが、参軍は中央から派遣された。前歴とされる議郎や太子洗馬は七品官であり、七品の参軍ならば征東大将軍の属官であると思われる(宮崎市定『九品官人法の研究』p174、225、226)。また『晋書斠注』は『通典』巻十四を引いて、「案ずるに本伝は太子洗馬為ることを言わず、疑うらくは其れ尚書郎の後に徙らんか、伝は征東参軍と為るを言うが、山涛、魏舒は平輿監軍長史と為るを言い、未だ孰れが是か知らず。」としている。
(46)尚書郎、六品官。漢代の尚書は恰も参謀本部の如きもので、尚書郎は自ら政策の立案に當り、草稿をも認めた参謀であったが、魏晋以来、尚書は内閣のようになり、尚書郎は行政部局長、典事はその副で、下に多くの令史、幹を有する中央官庁になったのである。そして多くの部下を有するようになると部局長はその事務を部下に任せて自らは盲判をおすだけの存在と化した(宮崎市定『九品官人法の研究』p284)。
(47)従事中郎。六品官、属官。
(48)『初学記』巻十一に引く王隠『晋書』巻六「郤詵」によると、「郤詵爲尚書左丞。推奏吏部尚書崔洪。洪曰。舉詵丞而還奏我。此謂挽弩自射。詵曰。趙宣子任韓厥爲司馬。而厥以軍法戮宣子。崔侯爲國舉才。我以才見舉。唯官是視。各明至公。何故其言乃至於此。洪聞而悦服之也。」『北堂書鈔』に引く臧栄緒『晋書』巻八「崔洪」によると、「洪薦雍州刺史郤詵代己爲左丞。詵後糾洪。洪謂人曰。我舉郤丞。而還奏我。是挽弩自射也。詵聞曰。崔侯爲國舉才。我以才見用。唯官是視。各明至公。何故私言乃至此。洪聞其言而重之。」
(49)「崔洪伝」には、雍州刺史の郤詵を薦めて己に代え左丞と為すとあり本伝と異なる。後漢の秩録で尚書左丞は四百石、刺史は六百石とあり、刺史の方が上位である。また晋書で累遷、累転は鰻上りの意味で、中間に若干の官があるのを省略した書き方である(宮崎市定『九品官人法の研究』)とすれば、本伝の記載が頷ける。しかし『晋書斠注』には「廿二史攻異二十一曰、案郤詵傳、洪薦詵爲左丞累遷雍州刺史。據此傳、似先爲刺史而後爲左丞矣。」とだけある。
(50)東堂の会送については、『晋書斠注』は『太平御覧』巻五十七に引く臧栄緒『晋書』は「帝、東堂にこれを餞(おく)る」と作るとしている。「孝懐帝紀」に「臨太極殿,使尚書郎讀時令,於東堂聽政.至於宴會,輒與群官論衆務,考經籍。」とありまた、「摯虞伝」に「武帝…(中略)…因詔諸賢良方正直言,會東堂策問,曰」とある。太極殿は魏から起り晋よりは正殿(儀式や政治を行う場所)となるが、東堂とは正寝の東側の堂を言うので、東堂は太極殿の堂室であろう。「宗室伝」に「帝を太極の東堂に於いて哀を挙ぐること三日」とある。 東堂は、西晋では皇帝の聴政、宴会、議論、政治、凶礼、叙勲、策問、会送などに使用されている。
(51)「桂林之一枝」は唐の時代より科挙に及第することを「折桂」という故事となり、また「崑山之片玉」の崑山は中国西方にあるという霊山の崑崙のことで美玉を産出するとされた。『劉子新論』に「崑山の下には玉を以て鳥を抵(う)つ」とあって、物も沢山あれば値打ちがないという諺になった。
(52)州の別駕は、『通典』によると、「漢以来の州の属官で、禄高は百石、州で採用され、解雇された。官名は、刺史の地方巡視に従う時に、別に駅伝の車に乗ったことに由来する。魏晋には将軍職を帯びる刺史が多く、開府の場合は州と府に各、属僚がおり、州には民衆を理す別駕、府には兵を理す長史がいた」という。