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晋書巻五十七
列伝第二十七
馬隆
人物簡介

馬隆(生没年不詳)は字を孝興といい、東平郡平陸県の人である。貧しく身分の低い家の出身だったが(1)、若くして智勇にすぐれていた。異民族の樹機能が涼州を攻めると、自ら志願して兵を選抜し、武威太守として討伐に赴き、樹機能を斬り、涼州を平定した。馬隆が西平郡を治めている間は異民族は侵入しようとしなかった。平虜護軍・西平太守・東羌校尉となり、奉高県侯に封じられた。長年にわたり威信を隴右に轟かせたが、讒言により一時召し出された。しかし異民族が再び蠢動したため復職し、在官中に卒した。

本文

馬隆は字を孝興といい、東平郡平陸県の人である。若くして智謀と武勇があり、好んで名誉や節義を立てた。魏の兗州刺史の令孤愚が〔太尉の王淩と共謀した〕事件がもとで罪になり誅に伏すと(2)、州では進んで〔遺骸を〕引き取ろうとする者はまったくいなかった。馬隆は下級武官であるのを令孤愚の食客と偽り称して(3)、私財を投じて埋葬し、三年の喪に服し、松・柏を並べて植え、礼が終わると家へ帰った。州はこれを美談とした。馬隆は武猛従事を代行した。

泰始年間(4)、これから呉を討伐しようという際に、武帝は詔勅を下し「呉・会稽の地はまだ平定されておらず、勇猛の士を得て武功をなすべきである。以前から人材を推挙する法があったとはいえ、まだすぐれた才を持つ者を推挙しつくすには十分ではない。あまねく州郡に告ぐ。勇壮で異才のあるもの、才力の傑出している者がいれば、すべてその名前を報告せよ。(朕は)その優秀なものを選んで、任用しよう。もしすぐれた人物がいたなら、制限なく取りたてよ」といった。馬隆の才能は良将として十分であるとして、兗州は推挙した。少しして司馬督に昇進した。

当初、涼州刺史の楊欣が羌族との和を失ったとき、馬隆は「必ず敗れるだろう」と述べた。ほどなく楊欣は異民族に殺害され、河西への道は断絶した。武帝はいつも西方のことを心配し、朝廷で嘆いて「誰かわしのために異民族を討伐し、涼州への道を通じることができる者はいないのか」といったが、朝臣たちに答える者はいなかった。馬隆は進み出て「陛下がもし臣を用いましたなら、これを平定できます」といった。武帝が「必ず賊を滅ぼすのなら、どうして用いないことがあろう。さて、卿の方略はどのようなものであるか?」というと、馬隆は「陛下がもし臣を用いるのであれば、臣が自任するところをお聞き入れくださるべきです」といった。武帝が「どうやって?」というと、馬隆は「臣に勇士を三千人、出身や身分を問わず募集させてください。これを率いて太鼓を鳴らし堂々と西へ進軍し、陛下の威徳を与えたなら、異民族どもがどうして滅びないことがありましょうか!」といった。武帝はこれを聴き入れ、馬隆を武威太守とした。高官たちは口をそろえて「六軍は既に多く、州郡の兵も多く、ただこれらを用いればいいのであって、勝手気ままに賞を設けて〔兵を〕募集するのは法を乱すのでよろしくありません。馬隆はつまらぬ将軍で道理に合わぬ説を述べていますが、聴くべきではありません」といったが、武帝は聴き入れなかった。馬隆は三十六鈞の弩、四鈞の弓を引くことのできる者に限って募集し、標的を立てて試射させた。こうして早朝から昼までに三千五百人を得て、馬隆は「十分である」といい、そうしてみずから武庫へ行き、武器を選ぶことを求めた。武庫令は馬隆と怒り争い、御史中丞は上奏して馬隆を弾劾した。馬隆は「臣は戦場で命を投げだし、そして受けた恩に報いるのが当然であります。武庫令はそれなのに魏の時代の朽ちた武器を支給し、もう用いることは不可能であります。陛下は臣に賊を滅ぼさせようとお思いではないのですか」といった。武帝はこれを聴き入れ、さらに三年分の軍資を支給した。馬隆はそこで温水を西に渡った。異民族の樹機能らの衆は万を数え、ある者は要害を利用して馬隆の前方をさえぎり、ある者は伏兵を設けて馬隆の後方を遮断した。馬隆は八陣図にのっとり偏箱車を作り、広いところでは鹿角車で陣営の外側をめぐらせ、狭い道では木の屋根を作って車の上にかけて、戦いつつ前進し、弓矢の及ぶところ、弦の響きに応じて敵は倒れた。隙をついて奇謀を用い、敵の不意をついて出没した。ある時、狭い道で磁鉄鉱が積み重なっていて、賊は鉄の鎧を着ていたので前に行くことができずにいた。馬隆の兵はみな犀の皮の鎧を着て〔磁力に〕妨げられず、賊はみな神のようだと思った。遠くまで転戦し、殺傷した賊は千を数えた。馬隆が西へ行ってから音信が途絶えたので、朝廷ではこれを心配し、ある者はもう馬隆は死んだのだといった。その後馬隆の使者が夜に到着すると、武帝は手をうって喜び笑った。翌朝、武帝は群臣を召しだして「もし卿らの言葉に従っていれば、秦・涼の地はなかったであろう」といった。そして次のような詔勅が下された。「馬隆は正規ではない少数の兵をもって困難を顧みずに奮戦し、危険を冒してよく成し遂げた。仮節・宣威将軍とし、赤幢・曲蓋・鼓吹を加える。」馬隆は武威郡に到着すると、異民族の部族長の猝跋韓・且万能らが一万余の集落を率いて帰順してきた。前後の誅殺したり降伏した者の数は万を数えた。さらに率善戎の没骨能らとともに樹機能と大いに戦い、樹機能を斬り、涼州はその結果平定された(5)。朝議で馬隆の将士に褒賞を加えることにしようとしたが、役人は「馬隆の将士はみな以前に高い爵位を加えられており、さらに授けるべきではない」と上奏した。衛将軍の楊珧は反論して「前に精鋭を選んでおきながら爵位を少しの者にしか与えなかったのは、ただ誘ったと思われるだけです。いま馬隆の全軍だけが勝利し、西方の地は安寧を得ましたが、以前に〔爵位を〕授けたことで今後の功績をさえぎってしまうのは都合がよくありません。みなお聴き入れになり、はっきりさせることで信義を明らかにすべきです」といった。そこで楊珧の意見に従い、爵位を賜い俸給を加え、〔功績によって〕おのおの差があった。

太康の初め、朝廷は西平郡が荒廃していたので復興させるべきだと、馬隆を平虜護軍・西平太守とし、精兵を率いさせ、さらに牙門の一軍を与え、西平郡に駐屯させた。当時〔西平郡の〕南の異民族の成奚がいつも辺境の患いとなっており、馬隆は到着すると、軍を率いてこれを討伐した。異民族は険阻な地に拠って防戦したので、馬隆は兵に農具を担がせ、これから田を耕すようにさせた。異民族は馬隆が討伐をする気ではないと思い、守備の兵はしだいに油断した。馬隆は異民族に備えがないと見ると、進軍してこれを撃破した。馬隆が西平郡を治めている間は、異民族は侵入しようとはしなかった。

太煕の初め(6)、馬隆は奉高県侯に封じられ、東羌校尉を加えられた。十余年にわたり、威信は隴右に聞こえわたった。当時略陽太守であった馮翊郡の人である厳舒は楊駿と親しく、ひそかに馬隆に取って代わろうとはかり、「馬隆は年老いて耄碌し、異民族を服従させられない」とそしり、そこで馬隆を召し出し、厳舒が鎮撫することになった。すると氐・羌が集結し、民衆は驚き恐れた。朝廷は関中・隴の地が再び乱れるのを恐れ、厳舒を免官し、馬隆を復職させた。馬隆は在官中に卒した

子の馬咸が後を継いだが、馬咸もまた勇猛であった。成都王司馬穎が長沙王司馬乂を攻めた際、馬咸を鷹揚将軍とし、兵を率いさせ河橋の中州に駐屯させたが、馬咸は司馬乂の部将の王瑚に敗れ、戦死した。

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