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晋書巻五十七
列伝第二十七
胡奮
人物簡介

胡奮(?〜288)は字を玄威といい、安定郡臨涇県の人である。魏の車騎将軍・陰密侯の胡遵の子。宣帝司馬懿の遼東討伐に無位無官で従い、帰還後に校尉となり、少しして徐州刺史に遷り、陽夏子に封じられた。その後功績により昇進を重ね、娘が武帝司馬炎の貴人となったこともあり、尚書右僕射まで昇進し、鎮軍大将軍・開府儀同三司を加官された。太康九年(288)二月に卒した。車騎将軍を追贈され、壮侯と諡された。

本文

胡奮は字を玄威といい、安定郡臨涇県の人で、魏の車騎将軍・陰密侯の胡遵の子である。胡奮は大らかで明るい性格で、はかりごとに優れ、若いころから軍事を好んだ。宣帝が遼東を討伐した際、無位無官の身で側に仕え、たいへんもてなしをうけた。帰還すると校尉となり、少しして徐州刺史に遷り、夏陽子に封じられた(1)。匈奴の中部帥の劉猛が反乱を起こすと、驍騎の路蕃にこれを討伐させ、胡奮を監軍・仮節とし、軍を硜(2)の北方に留めさせ、路蕃の後詰めとした。胡奮は劉猛を攻撃してこれを破り、劉猛の配下の将の李恪が劉猛を斬って降伏してきた(3)。功績により次第に昇進し、征南将軍・仮節・都督荊州諸軍事となり、護軍に異動し、散騎常侍を加官された。胡奮の家は代々将軍を出す家柄であったが、老いてから学問を好み、文書を書く能力があった。胡奮はいたるところで名声と功績があり、辺境にあって特に威厳と恩恵とがあった。

泰始の末、武帝は政務を怠って女色に耽り、高官の娘を大いに選び取って六宮を満たし、胡奮の娘は選ばれて貴人となった。胡奮は息子が一人だけいて、南陽王友となったが、早くになくなった。胡奮は娘が貴人になったと聞くと、泣いて「老いぼれめは死なず、二人の子供がいるだけで、息子は墓の中にあり、娘は宮中にいる」といった。胡奮は古くからの臣下であり、娘が貴人となったことで、大いに寵愛された。〔尚書〕左僕射に昇進し(4)、鎮軍大将軍・開府儀同三司を加官された。当時、楊駿は皇后の父親であり、驕り高ぶってうぬぼれていた。胡奮は楊駿に「あなたは娘〔が皇后であること〕をたのんでますます驕り高ぶるのですか? 前代を見渡すに、天子の家と婚姻関係となったもので、いまだに滅んでいない家はありません。ただ早いか遅いかのことです。あなたの振る舞いは、禍を早めるだけです」といった。楊駿が「あなたの娘は天子の家にはいないのか?」というと、胡奮は「私の娘はあなたの娘の召使いに過ぎず、どうして損益をどうこうできましょうか!」といった。当時、人々はみなこのことを危ぶんだ。楊駿はこれを根にもったが、危害を加えることはできなかった。その後胡奮は在官中に卒し、車騎将軍を追贈され、壮と諡された。胡奮の兄弟は六人で、兄の胡広(5)、弟の胡烈はそろって有名であった。

胡広は字を宣祖といい、官位は散騎常侍・少府にまで至った。胡広の子の胡喜は字を林甫といい、また君主を輔導して民衆を救済すると称され、出仕して涼州刺史・建武将軍・仮節・護羌校尉となった。

胡烈は字を武玄(6)といい、将軍となり蜀を討伐した。鍾会が反乱を起こすと、胡烈と諸将はみな閉じこめられた。胡烈の子の胡世元(7)は当時十八歳であったが、士卒の先頭に立って鍾会を攻めて殺害し、遠近に名を馳せた。胡烈は秦州刺史となり、涼州〔で樹機能〕が反乱を起こすと万㪶塠(8)に駐屯したが、異民族に包囲されて救援もなく、殺害された。

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