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update:2021.01.16 担当:Hiroto
晋書巻五十七
列伝第二十七
陶璜
人物簡介

陶璜(生没年不詳)は字を世英といい、丹楊郡秣陵県の人である。呉の交州刺史の陶基の子。呉に仕えて高官を歴任し、晋の交阯太守楊稷らを降伏させ、交州刺史に任じられた。呉が晋に降伏した後もそのまま交州刺史として長く南方にあり、民衆に慕われた。在官中に卒した。

本文

陶璜は字を世英といい、丹楊郡秣陵県の人である。父の陶基は呉の交州刺史となった。陶璜は呉に仕えて高官を歴任した。

孫晧の時代(1)、交阯太守の孫諝(2)は欲が深く暴虐で、民衆に憎まれていた。ちょうどその時察戦の鄧荀(3)がやって来て、ほしいままに孔雀三千羽を徴発し、秣陵に送ったが、民衆はすでに遠方への労役に苦しんでおり、みな反乱しようと思った。郡の役人の呂興は孫諝と鄧荀を殺害し、郡を挙げて帰服した。武帝は呂興を安南将軍・交阯太守に任命した(4)。まもなく〔呂興は〕功曹の李統に殺害され、武帝は代えて建寧郡の人である爨谷を交阯太守とした。爨谷もまた死ぬと、さらに巴西郡の人である馬融を派遣してこれに代わらせた。馬融が病気のため卒すると、南中監軍の霍弋はさらに犍為郡の人である楊稷を馬融に代えて派遣し、将軍の毛炅、九真太守の董元、牙門将の孟幹・孟通・李松・王業(5)・爨能(6)らと、蜀より交阯に出撃し、呉軍を古城で撃破し、大都督の脩則、交州刺史の劉俊(7)を斬った(8)。呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守として派遣し(9)、楊稷を防がせ、分水で戦った。陶璜は敗れ、退却して合浦を保持したが、二人の将を失った。薛珝は怒り、陶璜に「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか?」といった。陶璜は「それがしは思ったことが実行できず、諸軍は互いに従わず、だから敗戦に至ったに過ぎません」といった。薛珝は怒り、軍を退却させ帰還しようとした。陶璜は数百人の兵で董元に夜襲をかけ、宝物をぶんどり、船に積んで帰還した。薛珝は陶璜に謝り、陶璜に交州を治めさせ、前部督とした。陶璜は海路より出撃して不意をつき、まっすぐに交阯に到着し、董元はこれを防いだ。諸将が戦おうとすると、陶璜は必ず垣根の内側に伏兵がいるだろうと疑い、後ろに長戟の兵をならべておいた。軍が少し接近すると、董元は偽りの退却をし、陶璜がこれを追撃するとはたして伏兵が出現したが、長戟の兵がこれを逆撃し、董元らを大いに破った。以前に得て船上にあった宝物の錦数千匹を扶厳の賊の頭目の梁奇に贈り、梁奇は一万人余りを率いて陶璜を助けた。董元には勇将の解系がいてともに城内にいたが、陶璜は弟の解象を誘い、手紙を解系に与えさせ、また解象を陶璜の馬車に乗せ、軍楽隊を従えて行ったりした。董元らは「解象でさえこのようなのだから、解系はそむくに違いない」といいあった。そこですぐに解系を殺害した。薛珝・陶璜は結局交阯を陥落させた(10)。呉はそこで陶璜を起用して交州刺史とした。

陶璜は計略の持ち主で、貧窮な者を救い、施しを好み、よく人心を得ていた。滕脩がしばしば南方の賊を討伐したが制圧できずにいた。陶璜は「南岸〔の賊〕はわれわれの塩鉄をたのみとしており、断じて市場の取引を許してはならない。そうすればみな〔武器を〕壊して農具とするだろう。このようにすること二年で、一戦で滅ぼすことができよう」といった。滕脩はこれに従い、ついに賊を撃破した。

当初、霍弋は楊稷・毛炅らを派遣するに際し、ともに誓約して「もし賊が城を包囲して百日にならないで降伏したら、一家眷属を誅殺する。もし百日を過ぎて援軍が到着しなかったら、私がその罪を引き受けよう」といった。楊稷らは城を守備して百日にならないうちに兵糧が尽き、降伏を願い出たが、陶璜はこれを許さず、兵糧を与えて守備させた。諸将はそろって諫めたが、陶璜は「霍弋はすでに死んでおり、楊稷らを救うことができないのは間違いなく、ぜひともその約束の期日が満たされ、しかるのちに降伏を受け入れるべきである。〔そうすることで〕彼らを無罪にでき、われわれは義があるということになり、国内的には民衆を教え導き、対外的には隣国〔の民衆〕をなれ親しませることになり、なんとよいことではないか!」といった。楊稷らは〔百日の〕期日が終わり、食糧も底をついたが、援軍はやって来ず、そこで降伏を受け入れた(11)。脩則は以前に毛炅に殺されていたが(12)、脩則の子の脩允が陶璜に従って南征しており、城が降伏すると、脩允は〔父脩則の〕仇を討つことを願ったが、陶璜はそれを許さなかった。毛炅は密かに陶璜を襲撃しようと計画したが、事が発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ、責めて「晋の賊め!」というと、毛炅は声を荒げて「呉の狗め! なにが賊じゃ?」といった。脩允が毛炅の腹を割き「また賊が働けるというのか、どうか?」というと、毛炅はなおも罵って「わしの目的はお前の孫晧めを殺すことだ、お前の父親は、なんと死んだ狗であろう!」といった。陶璜はそのまま楊稷らを捕らえ、そろって送還した。楊稷は合浦まで来て発病して死んだ(13)。孟幹・爨能・李松らが建鄴に着くと、孫晧は殺害しようとした。ある者が孫晧に「孟幹らは主君に仕えて忠であり、許して辺境の将軍の職務につかせるのがよいでしょう」と勧めたので、孫晧はその進言に従い、彼らを臨海郡に移そうとした。孟幹らは北(晋)に帰ろうと思っており、東に移されて遠のくことを心配した。呉の人々は蜀の側竹の弩を愛好しており、〔孟幹らは〕これを作ることができるといい、孫晧は〔孟幹らを建鄴に〕留めて兵器製作部局につけた。のちに孟幹は逃亡して都に着いたが、李松・爨能らは孫晧に殺された。孟幹は呉討伐の計を述べ、武帝はそこで厚く恩賞を加え、日南太守とした。これよりさき、楊稷を交州刺史とし、毛炅を交阯太守としたが、印綬が届かないうちに敗北したので、そこで楊稷に交州刺史を追贈し、毛炅および李松・爨能の子をそろって関内侯とした。

九真郡の功曹の李祚が郡を保持して〔晋に〕帰服していたので、陶璜は将軍を派遣して攻撃させたが、勝つことができなかった。李祚の舅の黎晃が従軍していて、李祚に勧めて降伏させようとした。李祚はそれに答えて「あなたは呉の将、私は晋の臣下、ただ力を尽くしてこの職務に従事するだけです」といった。季節が変わり、そうしてから攻め落とすことができた。孫晧は陶璜を使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。武平・九徳・新昌は土地が険阻で、異民族は強くて荒々しく、代々従わなかったが、陶璜はこれを征討し、〔武平・九徳・新昌の〕三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。孫晧は陶璜を召し出して武昌都督とし、合浦太守の脩允を陶璜と交代させた。交州の人々が何度も陶璜を留任させるように願い出て、そこで〔陶璜を交州へ〕戻らせた。

孫晧は晋に降伏すると、手ずから手紙を書き、陶璜の息子の陶融を派遣して陶璜に帰順するよう命令した。陶璜は数日間涙を流し、使者を派遣して印綬を洛陽に送った。武帝は詔勅を下して陶璜をもとの職に復帰させ、宛陵侯に封じ、あらためて冠軍将軍とした。

呉が平定されたので、広く州郡の兵を減らそうとした。陶璜は上言して「交州は遠い国土の果てであり、一方は険しく切り立っており、ことによると幾度も通訳を重ねて話し、山・海が連なり続いています。さらに日南郡は州から海路を行くこと千里余りで(14)、林邑とはわずか七百里を隔てるだけです。異民族(林邑)の頭目である范熊は代々支配を逃れて賊を働き、自称して王となり(15)、しばしば民衆を攻撃しています。また隣接する扶南は、多くの異民族が入り交じり、徒党が互いにたよりあって、険阻であることをたのんで従いません。かつて呉に従っていた時代、しばしば叛逆して侵攻し、郡県を攻め破って役人を殺害しました。臣は足の萎えた馬のように劣った才能をもって、その昔故国に採用され、片田舎を守備して南にあること十年余りになります。前後にわたり征討してその頭目を斬ったとはいえ、深山に入り洞穴に隠れ、なおも逃れ隠れている者がおります。また、臣の統率する兵士はもともとは七千人余りでしたが、南方の地は高温多湿で毒気が多く、加えて連年の征討で死亡して減少し、現在いるのは二千四百二十人です。いま天下は一つとなり、服従しないと思うものはおらず、鎧を束ねて刃物を溶かし、礼節と音楽につとめるべきです。しかしこの州の人間は、義を知る者が少なく、安楽をいやがり、好んで禍や乱を起こします。また、広州の南岸は、ぐるぐるめぐること六千里余りですが、従属しない者が五万戸余りいて、桂林にも束縛されない者どもがまた一万戸います。役所の労役に従う者にいたっては、わずかに五千家余りです。二州(交州・広州)は唇と歯のような密接な関係にあり、軍隊だけがこれを鎮められるのです。また、寧州の興古郡は上流に隣接していますが、交阯郡から千六百里の距離にあり、水路・陸路ともに通じており、たがいにささえ守りあっています。州の兵をきりつめて減らし、ただ空っぽということを示すのは、まだよろしくありません。そもそも兵乱は急に起こるものであります。臣は亡国の余であり、意見は採り上げるに足りませんが、陛下の聖恩は広く厚く、むやみに才能を飾って抜擢してくださり、罪過を払い除き、あらためて地方の任務をお授けになり、恥辱を除いて目をかけていただきました。目を拭って見方をあらため、命を投げ出すことを誓い、そうすることで受けた恩に報いようと思い、事に臨んで経験して見るところを、つつしんで道理もわからぬのに述べる次第です」といい、また「合浦郡は土地が石が多く土質が硬くて痩せており、農地を持つ者はなく、民衆はただ真珠を取ることを生業とし、商人が往来し、真珠を米と交換しています。それなのに呉の時代、民衆が私有して美しい真珠がちりぢりになるのを心配し、真珠を禁じることたいへん厳しく、禁止されて往来が途絶えたので、人民は飢え苦しみました。また徴発する量がやたらに多いので、いつもきまりの量を充足することができません。いま、どうか高品質な真珠の三分の二、中品質の真珠の三分の一を納め、それ以外の粗悪な真珠の上納は免除ください。十月から二月までで上質な真珠を採取しない時期は、昔のように行商が往来することをお許しください」といった。武帝はこれをすべて聴き入れた。

陶璜は南方にあること三十年、異国に威厳と恩恵とを示した。卒すると、州を挙げて大声をあげて泣き、愛情の深い親の喪を行うようであった。朝廷はそこで員外散騎常侍の吾彦を陶璜の代わりとした。吾彦が卒すると、また員外散騎常侍の顧祕を吾彦の代わりとした(16)。顧祕が卒すると、交州の人々は顧祕の子の顧参に迫って交州を治めさせた。顧参はまもなく卒し、顧参の弟の顧寿は交州を治めることを求めたが、交州の人々は聴き入れなかった。顧寿はかたく交州を治めることを求め、ついに交州を治めた。顧寿はそこで長史の胡肇らを殺害し、また帳下督の梁碩を殺害しようとしたが、梁碩は逃走してまぬがれ、兵を挙げて顧寿を討ち、顧寿を捕らえ、顧寿の母に引き渡して鴆毒で殺害させた。梁碩はそこで陶璜の子の蒼梧太守の陶威を迎えて交州刺史とした。陶威は在職中たいへん民衆の人心を得て、三年して卒した。陶威の弟の陶淑、子の陶綏は、のちにそろって交州刺史となった。陶基から陶綏にいたる四代で、交州刺史となった者は五人であった。

陶璜の弟の陶濬は、呉の鎮南大将軍・荊州牧となった。陶濬の弟の陶抗は、太子中庶子となった。陶濬の子の陶湮は字を恭之といい、陶湮の弟の陶猷は字を恭豫といい、そろって有名であった。陶湮は臨海太守・黄門侍郎にまでなった。陶猷は宣城内史となり、王導の右軍長史となった。陶湮の子の陶馥は于湖令となり、韓晃に殺害され(17)、廬江太守を追贈された。陶抗の子の陶回には、別に伝がある。

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