(1)「文立伝」によれば、譙周の門人のうち、文立が顔回に、陳寿が子游に、李虔が子夏に、羅憲が子貢に、それぞれ擬されていた。顔回・子游・子夏・子貢はいずれも孔子の高弟。
(2)『三国志』蜀書第十一「霍峻伝」の注に引く『襄陽記』では、閻宇は右大将軍となっている。当時、蜀で大将軍であったのは姜維である。
(3)鍾会と鄧艾はともに蜀討伐を命じられた。蜀が降伏すると、鍾会は鄧艾を讒言によって陥れ、軍勢を手中に収めて自立しようとしたが失敗して殺害された。鄧艾は鍾会が死ぬと部下に助け出されたが、衛瓘の派遣した軍勢に殺害された。事は、『三国志』魏書第二十八「鄧艾伝」「鍾会伝」に詳しい。
(4)『三国志』蜀書第十一「霍峻伝」の注に引く『襄陽記』によれば、羅憲が入朝したのは泰始三年(267)の冬のことである。
(5)『三国志』蜀書第十一「霍峻伝」の注に引く『襄陽記』によれば、羅憲は陵江将軍(『襄陽記』では淩江将軍)に任命された際に万年亭侯に封じられ、泰始元年(265)に西鄂県侯に改封されており、死後に追封されたという本伝の記述とは一致しない。
(6)『三国志』蜀書第十一「霍峻伝」の注に引く『襄陽記』によれば、泰始四年(268)の三月のことである。
(7)『華陽国志』巻八「大同志」には、羅尚は一名を仲、字を敬真と記載されている。
(8)「恵帝紀」によれば、趙廞が反乱を起こしたのは永康元年(304)十二月のことである。
(9)『華陽国志』巻八「大同志」によれば、羅尚が死去したのは永嘉四年(310)七月のことである。