(1)本伝には馬隆の出自に関する記載はないが、「陳頵伝」や『旧唐書』巻九二・『新唐書』巻一一二「魏元忠伝」には馬隆が「貧賤」の出であるとの記載があり、それに従った。
(2)令孤愚は王淩の外甥で、共謀して時の皇帝である曹芳を廃し、楚王曹彪を帝位につけようとした。事が発覚して王淩は自殺し、すでに病死していた令孤愚は墓を暴かれ、死体は近くの市場で三日間さらしものにされ、印綬・朝服は焼かれ、遺骸は直接土中に埋められた。詳細は『三国志』魏書第二八「王淩伝」参照のこと。
(3)『三国志』魏書第二十八「王淩伝」注に引く干宝『晋紀』に「兗州武吏東平馬隆」とあるので、兗州の武吏である馬隆にとって兗州刺史の令狐愚は上司ということになる。
(4)「武帝紀」によると、泰始五年(269)十二月のことである。
(5)「武帝紀」には、武帝は咸寧五年(279)正月乙丑に馬隆に樹機能を攻撃させ、馬隆はその年の十二月に樹機能を斬り、涼州を平定したとある。
(6)武帝は太煕元年(290)四月に崩じ、恵帝が即位して永煕と改元しており、馬隆が奉高県侯に封じられたのはこの年の正月から四月までの間ということになろう。