(1)「武帝紀」によると、太康九年(288)二月、尚書右僕射・陽夏侯の胡奮が卒したとあり、本伝の「夏陽」は「陽夏」の誤りと思われる。
(2)『晋書斠注』は「硜」は「陘」とするべきではないかと指摘している。
(3)「北狄伝」によると、武帝は何楨を持節として派遣して劉猛を討たせ、何楨が李恪を誘い、劉猛を殺害させたとある。
(4)「武帝紀」によると、前述のように、太康九年(288)二月に尚書右僕射・陽夏侯の胡奮が卒したとあり、本伝の「左僕射」という記載とは一致しない。「武帝紀」には、太康六年(285)正月戊辰に征南大将軍の王渾を尚書左僕射とし、太煕元年(290)正月己巳に尚書左僕射の王渾を司徒としたとあるので、本伝の「左僕射」は「右僕射」の誤りと思われる。
(5)『三国志』魏書第二十八「鍾会伝」注に引く『晋諸公賛』では、胡広は胡奮の弟となっている。
(6)『三国志』魏書第二十八「鍾会伝」注に引く『晋諸公賛』では、胡烈の字は「玄武」とある。兄の胡奮の字が玄威、弟の胡岐の字が玄嶷であることから考えると、おそらく「玄武」が正しいと思われる。
(7)『三国志』魏書第二十八「鍾会伝」注に引く『晋諸公賛』には、胡世元の名は淵とある。本伝では、唐の高祖(李淵)の諱を避けて字で記載されている。
(8)「武帝紀」・「禿髪烏狐載記」・「赫連勃勃載記」にはすべて「万斛堆」とあるので、「万斛堆」が正しいと思われる。