(1)『三国志』呉書第三十三「孫休伝」によると、呉の永安五年(262)に察戦を交阯へ派遣して孔雀と大豬を調達させ、永安六年(263)五月に交阯郡の役人の呂興らが反乱を起こし、太守の孫諝を殺害したとあり、本伝にある「孫晧の時代」というのは誤りと思われる。
(2)『華陽国志』巻四「南中志」では「孫靖」としている。
(3)『三国志』魏書第四「陳留王紀」では「鄧句」としている。
(4)『三国志』魏書第四「陳留王紀」には、魏の咸煕元年(264)九月辛未に元帝曹奐が詔して呂興を使持節・都督交州諸軍事・南中大将軍に任じ、定安県侯に封じており(辞令が届く前に呂興は部下に殺害されたが)、本伝で晋の武帝司馬炎が任命したとあるのとは異なる。
(5)『資治通鑑』巻七十八や『華陽国志』巻四「南中志」では「王素」としている。
(6)『華陽国志』巻四「南中志」では「爨熊」としている。
(7)『華陽国志』巻四「南中志」では「劉峻」としている。なお、『晋書斠注』は王業(王素)・劉俊(劉峻)については字形が似ているので誤ったのであろうとし、爨能(爨熊)については脱字であろうと述べている。
(8)『三国志』呉書第三十三「孫晧伝」によると、呉の宝鼎三年(268)のことである。
(9)『三国志』呉書巻第三十三「孫晧伝」によると、呉の建衡元年(269)十一月、監軍の虞汜と威南将軍の薛珝と蒼梧太守の陶璜を荊州から、監軍の李勖と督軍の徐存を建安から海路をとらせ派遣し、合浦へ赴かせ交阯を攻撃させようとした。なお、李勖と徐存は建安からの道が滞り、勝手に軍を帰還させたため、一族は誅殺された。
(10)『三国志』呉書第三十三「孫晧伝」によると、虞汜と薛珝と陶璜らが交阯を陥落させたのは、呉の建衡三年(271)のことである。
(11)『華陽国志』巻四「南中志」によると、城中は食糧がつき、病・餓死する者が大半であった。
(12)『華陽国志』巻四「南中志」によると、古城での戦いで、毛炅は自らの手で脩則を殺害した。
(13)『華陽国志』巻四「南中志」によると、楊稷は合浦で発病し血を吐いて死に、首は秣陵に送られ、その死体は海に棄てられた。
(14)原文「又南郡去州海行千有餘里」。「南」の前に「日」の字が抜けているのと考えられるので、「日」の字を補って訳した。
(15)范熊や林邑については「林邑国伝」に詳しい。
(16)「吾彦伝」には吾彦は交州刺史の交代を求め、召し出されて大長秋で卒したとあり、本伝の記載とは一致しない。
(17)「成帝紀」・「蘇峻伝」によると、咸和二年(327)十二月のことである。