(1)『晋書斠注』は、『北堂書鈔』巻五十四に引く臧栄緒『晋書』・『太平御覧』巻三八六に引く王隠『晋書』ではみな「呉彦」としているが、「呉」は「吾」の誤りだろうとしている。「王濬伝」でも誤って「呉彦」としている。
(2)『太平御覧』巻三八六に引く王隠『晋書』には、吾彦は膂力が虎に匹敵したとある。
(3)『三国志』呉書第三十三「孫晧伝」注に引く干宝『晋紀』には、吾彦は流れてきた木片を孫晧に示し「晋にはきっと呉を攻撃するはかりごとがあり、建平郡の軍隊を増やしたほうがよいでしょう。建平が降伏しなければ、最後まで思い切って長江を渡ったりはできないでしょう」といったが、孫晧は聞きいれなかったとある。「王濬伝」にもほぼ同様の記載がある。
(4)「王濬伝」によると、晋は羊祜(呉征伐の際は既に死去していた)が呉の間諜を捕らえ、この鉄鎖の様子を知っており、船の前に長さ十余丈、大きさ数十囲のたいまつを作り、鉄鎖を焼いてとかし、進軍したという。
(5)陸雲のこの言葉は、以前に吾彦が武帝から陸喜・陸抗の二人について質問された際に「道義があり人から仰がれ慕われるということでは、陸抗は陸喜に及びません」と答えたことを指しているものと考える。陸抗は本文中にも述べるように陸機・陸雲兄弟の父であり、陸喜は陸抗の父である陸遜の弟の陸瑁の子である。
(6)「侯史光伝」によると、姓が侯史、名が光で、字が孝明である。そうすると、この部分は「侯史孝明」となるはずだが、「史」の文字が抜けてしまっている。
(7)『北堂書鈔』巻五十四に引く臧栄緒『晋書』には「徴拝爲秋卿」とある。「陶璜伝」には吾彦は交州刺史のまま卒したとあり、本伝の記載とは一致しない。