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update:2007.01.30 担当:阿部 将
晋書巻六十
列伝第三十
孫旂
人物簡介

 孫旂(?〜301)は字を伯旗といい、楽安郡の人。潔く物静かであった。衛尉にまで昇進したが、武器庫の火災で免官になり、後に平南将軍になった。子の孫弼らが趙王司馬倫の奸臣の孫秀と結託したため、趙王司馬倫が簒奪すると自分の意に反して車騎将軍・開府に任命された。永寧元年(301)、趙王司馬倫が敗死すると、襄陽太守の宗岱に斬り殺された。

本文

孫旂字伯旗,樂安人也。父歴,魏晉際爲幽州刺史、右將軍。旂潔靜,少自修立。察孝廉,累遷黄門侍郎,出爲荊州刺史,名位與二解相亞。永熙中,徴拜太子詹事,轉衞尉,坐武庫火,免官。歳餘,出爲兗州刺史,遷平南將軍、假節。

孫旂は字を伯旗といい、楽安郡の人である。父の孫歴は魏晋交替の時代に幽州刺史・右将軍となった。孫旂は潔く物静かであり、若くして身を正しく修めた。孝廉に推され、黄門侍郎にまで昇進し、地方に出て荊州刺史となり、名声と地位は二解(解系・解結兄弟)に並ぶほどであった。永熙年間に太子詹事を拝命し、衞尉に異動になったが、武器庫の火災で処罰され(1)、免官になった。一年あまりして、地方へ出て兗州刺史になり、平南将軍・假節に移った。

旂子弼及弟子髦、輔、琰四人,並有吏材,稱於當世,遂與孫秀合族。及趙王倫起事,夜從秀開神武門下觀閲器械。兄弟旬月相次爲公府掾、尚書郎。弼又爲中堅將軍,領尚書左丞,轉爲上將軍,領射聲校尉。髦爲武衞將軍,領太子詹事。琰爲武威將軍,領太子左率。皆賜爵開國郡侯。推崇旂爲車騎將軍、開府。

孫旂の子の孫弼と〔孫旂の〕弟の子の孫髦・孫輔・孫琰の四人は、みな優秀な官吏として、当時の人々から褒め称えられたが、あろうことか〔同姓だが別族の〕孫秀を一族に入れた。趙王司馬倫が挙兵したとき、夜に孫秀に従い神武門を開け、武器を調べた。孫兄弟は一か月間で相次いで公府の掾や尚書郎となった。また孫弼は中堅将軍になり、尚書左丞を兼任し、上将軍に昇進し、射声校尉を兼任した。孫髦は武衞将軍になり、太子詹事を兼任した。孫琰は武威将軍になり、太子左率を兼任した。皆が開国郡侯の爵位を賜った。尊崇されて孫旂は車騎将軍・開府となった。

初,旂以弼等受署僞朝,遣小息回責讓弼等,以過差之事,必爲家禍。弼等終不從,旂制之不可,但慟哭而已。及齊王冏起義,四子皆伏誅。襄陽太守宗岱承冏檄斬旂,夷三族。

当初、孫旂は孫弼らがもとで〔司馬倫が建てた〕正統でない朝廷の官位を受けたので、年若い子の孫回を遣わして、度が過ぎると、必ずや孫家に禍が及ぶと孫弼らを責め咎めた。孫弼らはついに従わなかったが、孫旂は彼らを制することができず、ただ慟哭するのみであった。斉王司馬冏が挙兵するに及び、〔孫弼ら〕四子はみな誅殺された。襄陽太守の宗岱(2)は斉王司馬冏の檄書を受けて孫旂を斬り、三族を滅ぼした。

弟尹,字文旗,歴陳留、陽平太守,早卒。

 〔孫旂の〕弟の孫尹は字を文旗といい、陳留、陽平太守を歴任するが、早くに卒した

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