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update:2021.01.11 担当:阿部 将
晋書巻六十
列伝第三十
孟観
人物簡介

 孟観(?〜301)は字を叔時といい、渤海郡東光県の人である。性格は沈着剛毅であり、若くして読書を好み、天文を理解した。賈后の楊駿誅殺の謀略に加担など政治情勢に巧みに迎合して積弩将軍にまで昇進し、上谷郡公に封じられた。斉万年の反乱では討伐軍の司令官に抜擢されて斉万年を生け捕り、反乱を鎮圧して西北の異民族を威服させた。右将軍にまで昇進したが、永寧元年(301)、趙王司馬倫が簒奪すると司馬倫に臣従し、司馬倫が敗死すると永饒冶令の空桐機に斬り殺された。

本文

孟観は字を叔時といい、渤海郡東光県の人である。若くして読書を好み、天文を理解した。恵帝が即位すると、次第に昇進して殿中中郎となった。賈后は姑と嫁の礼儀に背き、密かに楊駿を誅殺して〔楊〕太后を廃することを望んだので、楊駿が思うままに権力をふるっているのに乗じて、それを恵帝に讒言し、さらに人を使って孟観にそれとなく〔賈后の意図を〕遠回しに伝えさせた。楚王司馬瑋が楊駿を討とうとした際には(291)、孟観は賈后の意を受けて詔を大きな声で読み上げ、はなはだ事実でないことを事実であるように言って〔楊駿の罪を〕でっち上げた。楊駿が誅殺されるに及び、孟観は黄門侍郎となり、特別に〔恵帝に〕信任されていた四十人を〔部下として〕与えられた(1)。積弩将軍に昇進し、上谷郡公に封じられた。

氐族の首領の斉万年が関中で反乱を起こし、その軍勢は数十万にもなり、諸将の敗戦が相次いだ。中書令の陳準と中書監の張華は、「関中にいる趙・梁の諸王は、帝室に連なる身分のため、〔戦争に勝とうと〕進んで功績を求めようとせず、〔さらに悪いことに、戦争で負けるという〕失敗をしても〔皇帝一家のために処罰されることはないと考えて、朝廷から〕罰されることをおそれず、〔そのため〕軍卒は多くても役に立っておりません。周処が敗北したのはまさにこのためで、指揮官と兵卒の心は離ればなれになっており、〔これでは〕敵に勝つのは難しいといえます。孟観は沈着剛毅であり、文武の才があるので、孟観に斉万年を討伐させましょう」と申し述べた。孟観が率いていた宿衞兵はみな俊敏勇敢であり、さらに関中の士卒を統率し、〔孟観自身の〕身体に矢や石が当たりながら、大きな戦闘を十数回して、すべて勝利し、斉万年を生け捕り、氐族や羌族を威圧して服従させた。東羌校尉に異動し、〔中央に〕召還されて右将軍を拝命した。

 趙王司馬倫が帝位を簒位すると(301)、孟観が著しい功績があったことから、安南将軍・監河北諸軍事(2)・仮節を代理し、宛に駐屯した。孟観の子の孟平は淮南王司馬允の前鋒将軍となり、司馬倫を討とうとして、戦死した。孫秀は孟観が兵力を握って外にいるため、孟平は司馬允の兵に殺害されたとうそを言い、〔孟平に〕積弩将軍を追贈して孟観を安心させた。義軍が数多く決起すると、多くの者が孟観に斉王司馬冏に応じるように勧めたが、孟観は〔天文を見ると〕紫宮や帝坐の星に異変がないので(3)、司馬倫こそがこの天の状況に対応して安泰であると思い、ついに衆議に従わずに司馬倫を守った。恵帝が復位すると、永饒冶令の空桐機は孟観の首を斬って洛陽に送り、そして三族を滅ぼした。

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