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update:2021.01.11 担当:阿部 将
晋書巻六十
列伝第三十
牽秀
人物簡介

 牽秀(?〜306)は字を成叔といい、武邑郡観津県の人である。魏の雁門太守の牽招の孫で、牽嘉の子。雄弁で文才があり、性格は気性が強くて義理堅かった。司空従事中郎にまで昇進したが、讒言によって罪に問われて免官となり、後に司空の張華の求めに応じて長史になった。張昌討伐に派遣されると、成都王司馬穎のもとに奔り、司馬穎の信頼を得て尚書となった。後に河間王司馬顒の親任を受け、平北将軍となって馮翊に駐屯したが、光煕元年(306)、司馬顒の長史の楊騰に騙されて京兆郡万年県で殺害された。

本文

牽秀は字を成叔といい、武邑郡観津県の人である。祖父の牽招は魏の雁門太守であった(1)。牽秀は博学雄弁で文才があり、性格は気性が強くて義理堅く、二十代で評判を得て、太保の衛瓘や尚書の崔洪に知られた。太康年間に新安令に任命され、徐々に昇進して司空従事中郎となった。武帝の母(文明王皇后)の兄弟である王愷(2)とは日頃からお互いに軽蔑していたが、王愷は司隷校尉の荀愷(3)に牽秀が夜の道路上で高平国守土(4)の田興の妻を乗り物に乗せたことを上奏するよう暗にほのめかした。牽秀はすぐに上表して濡れ衣を着せられたと訴え、王愷の穢れた行いを論じたが、文章は激しく、外戚を譏り咎めた。当時朝臣の多くがその行いを証明したが、牽秀の盛名や名誉はこのことで傷つき、結局罪に問われて免官させられた。後に司空の張華の求めに応じて長史になった(5)

牽秀は男気があり、将帥になることを好んだ。張昌が反乱を起こすと、長沙王司馬乂は張昌討伐に牽秀を派遣したが、牽秀は関から出陣すると、すぐに成都王司馬穎のもとに奔った(6)。成都王司馬穎は長沙王司馬乂を征討すると、牽秀を冠軍将軍とし、陸機・王粹らとともに河橋の戦役を戦った。陸機は戦いに敗れたが、牽秀はその罪を立証し、また黄門の孟玖に媚びへつらい、このため成都王司馬穎にかわいがられた。恵帝が西の長安に行幸すると、牽秀は尚書となった。牽秀が若い頃に都にいたとき、司隷校尉の劉毅が皇帝に上奏するのを見て腕を強く握り感情が高ぶって嘆き、司直の任にあればきっと勧善懲悪ができるし、戦陣にあれば必ず将帥としての勲功を立てるとみずから言ったのだった。〔にもかかわらず〕皇帝の近臣になるにおよんでは、諫言や献策し、失政を糾正するような立派な行動をしたことがあるわけでもなかった。

河間王司馬顒は牽秀をとても親任した。関東の諸軍が皇帝を奉迎すると、牽秀を平北将軍とし、馮翊に駐屯させた。牽秀は司馬顒の部将の馬瞻らとともに司馬顒を助けて関中を守とうとしていると、司馬顒は密かに東海王司馬越に使者を送って〔自分を〕迎えるよう求め、司馬越は司馬顒を迎えるために部将の麋晃らを派遣した(7)。その時牽秀は軍勢を擁して馮翊にいたので、麋晃は思い切って進むことができなかった。河間王司馬顒の長史の楊騰は以前に司馬越軍に応じなかったので、東海王司馬越に討伐されるのを恐れ、牽秀を捕らえて自分の功績にしようと思い、馮翊郡の豪族のさまざまな厳姓の人々とともに司馬顒の命令と詐って、牽秀に戦いを止めさせると、牽秀はこれを信じたので、楊騰は〔京兆郡〕万年県にて牽秀を殺した(8)

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