(1)牽招については『三国志』魏書第二六「牽招伝」を参照のこと。また『三国志』魏書第二六「牽招伝」注に引く『晋書』によると、牽秀は牽嘉の子。
(2)王愷は魏の蘭陵侯の王粛の子で、文明王皇后の兄弟。「王恂伝」を参照のこと。
(3)荀愷は荀霬の子で、魏の太尉の荀彧の曾孫。母は宣帝司馬懿の娘。「武陔伝」に見える武茂に対するように私怨から人を陥れることがあった。『三国志注』によると、官位は征西大将軍にまで至った。
(4)原文「守士」。「守土」のことと考えられる。守土とは封国に赴いていない王侯が置いた護衛部隊のこと。
(5)この段落は『三国志』魏書第二六「牽招伝」注に引く荀綽『冀州記』と内容が同じ部分が多い。
(6)『晋書斠注』に引く『読史挙正』には「案ずるに『出関』の上の事跡が不明なので、必ず脱漏があるにちがいない。」とある。
(7)「河間王司馬顒伝」では麋晃が派遣された目的は河間王司馬顒を本伝の「迎」ではなく「伐(討伐)」するためとなっているが、原文どおりに訳した。
(8)『資治通鑑』巻八十六によると、牽秀の殺害は光煕元年(306)。『三国志』魏書第二六「牽招伝」注に引く荀綽『冀州記』には「〔牽秀は〕馮翊郡にて殺害された。世間は牽秀の辞賦を鑑賞し、その文才を残念がった。」とあり、牽秀の殺害された場所が本伝と異なる。