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update:2021.02.11 担当:解體晉書
晋書巻六十一
列伝第三十一
苟晞
人物簡介

苟晞(?〜311)は字を道将といい、河内郡山陽県の人である。若くして司隸部従事となり、司馬冏のもとで諸官の監察を行ったが、司馬冏の失脚とともに免職。後に兗州刺史となって汲桑を破り、撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事に昇進し、東平郡侯に封じられた。永嘉元年(307)に征東大将軍・開府儀同三司・侍中・仮節・都督青州諸軍事・青州刺史に昇進し、東平郡公に昇格した。やがて東海王司馬越と対立し、永嘉五年(311)正月に懐帝から討伐の密詔を受け、三月に大将軍に昇進した。東海王司馬越が薨じ、洛陽が匈奴に手に落ちると、予章王の司馬端を皇太子として奉じて梁国蒙県に臨時政庁を置き、太傅・都督中外諸軍事・録尚書事となった。しかし苛烈な処断を好んだため人心が離れ、石勒に捕らえられて石勒の司馬となったが、一月余りで殺された。

本文

苟晞は字を道将といい、河内郡山陽県の人である。若くして司隸部従事となり、校尉の石鑒は彼を非常に高く評価していた。東海王司馬越が侍中となると、呼ばれて通事令史となり、昇進を重ねて陽平太守となった。斉王司馬冏が政権を補佐するようになると、苟晞は司馬冏の軍事に参じて、尚書右丞を拝任し、左丞へと転じ、諸々の曹を監査したので、八座以下〔の官吏〕(1)はみな恐れはばかって、彼をまともに見ることができなかった。司馬冏が誅殺されると、苟晞もまた連座して免職させられた。長沙王司馬乂が驃騎将軍となると、苟晞を従事中郎とした。恵帝は成都王司馬穎を征討することになると、〔苟晞を〕北軍中候とした。恵帝が洛陽に帰還すると(2)、苟晞は范陽王司馬虓のもとへ逃れ、司馬虓は皇帝の命を受けたとして苟晞に兗州刺史を代行させた。

汲桑が鄴を破ると、東海王司馬越は軍を出し官渡に至らせてこれを討とうとし、苟晞に命じて先鋒とした。汲桑はもとから彼を恐れていたので、城外に柵を築いて守っていた。苟晞は〔城外の柵に〕至る際に、軍を留めて兵士に休息させ、先に単騎をやって〔抵抗して〕ひどい目に遭うか、〔降服して〕丁重に扱われるのとどちらが良いかを伝え示させた。汲桑の兵士たちは震え恐れて、柵を捨てて夜の間に逃げ出し、城壁で堅く守ることにした。苟晞はその九つの塁塞を落とし、ついに鄴を攻略して帰還した。西に出征して呂朗らを討ってこれを滅ぼした。後、高密王司馬泰が青州の賊である劉根を討つことになると、〔苟晞は〕汲桑の以前の将である公師藩を破り、石勒を河北に破ったので、威光が非常に高まり、当時の人は彼を韓信(3)や白起(4)になぞらえた。撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事に昇進し、東平郡侯に封じられ、邑一万戸を賜った。

苟晞は官庁業務に習熟しており、文書や帳簿が山積していても、その裁断は流れるごとくであったので、人々は決して〔彼を〕騙そうとはしなかった。苟晞の従母は彼を頼り、世話を受ける様子も非常に手厚かった。その従母の息子が将軍にしてくれるよう頼むと、苟晞はこれを拒んで言った。「私という人間は、王朝の法律を人に適用するのに寛大でいることはできない。〔それでも〕後悔するようなことは無いのだろうな?」強いて頼んだので、苟晞は督護の職に就かせてやった。後に〔従母の息子が〕法律を犯したため、苟晞は決まりに従ってこれを斬ろうとし、従母が叩頭して許しを求めたけれども聴かなかった。処刑が終わると、喪服に着替えて彼のために声をあげて泣き、涙を流して言った。「貴方を殺したのは兗州刺史〔としての私〕で、弟のために泣いたのは苟道将(苟晞の字)だ。」その法律に従うことはこの通りであった。

苟晞は朝廷の政治が日々に乱れている様子を見て、禍が自分に及ぶことを恐れたため、多くの人と交際するようになり、珍しい物を得るといつも都下に住む貴人に贈っていた。兗州は洛陽から五百里離れているので、〔贈り物が〕新鮮でなくなることを恐れ、募集して千里の牛を得ると、連絡をとるごとに朝に出発して夜には帰って来させるようにしていた。

当初、東海王司馬越は苟晞が仇を返そうとしているのを非常に立派だと思ったので、呼び寄せて堂に登らせ、兄弟の契りを結んだ。〔しかし〕司馬越の司馬の潘滔らが説得して言った。「兗州は要衝の地であり、魏の武帝はこの地に拠って漢王室を補佐したのです。苟晞は大きな志を持っていますが、忠義一途の家臣というわけではありませんので、長い間この職にしておくと、心配事が内部から生じることになるでしょう。もし〔苟晞を〕青州に移らせて、〔代わりに〕名誉と称号を手厚くしておけば、苟晞は必ず喜びます。〔そうしておいて〕貴方様自らが兗州を治めて、中華の地を統べて朝廷を守るようになされば、これこそいわゆる、まだ〔問題の〕生じないうちに対策を立て、まだ乱れていないうちに処理するということです。」司馬越はもっともだと考え、苟晞を征東大将軍・開府儀同三司に移し、侍中・仮節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を兼任させ、昇進させて郡公とした。苟晞は部下をたくさん置いていたので、〔管轄下のもとの〕太守や県令を〔信頼する部下と〕入れ替えて、厳しい態度で臨むことで功績を立てさせたので、日々処刑が行われ、流れた血が〔集まって〕川を成していた。人びとは命令に耐えられなくなり、〔苟晞のことを〕呼んで「屠伯(殺戮公)」と言った。

頓丘太守の魏植が流民に迫られ、五・六万人を集めると、兗州をひどく荒らし回った。苟晞は出兵して無塩に駐屯し、弟の苟純に青州を代わりに治めさせたが、処刑〔の過酷さ〕が苟晞にもましてひどかったため、民衆は「小苟は大苟より酷い」と言った。苟晞はついで魏植を破った。

その当時、潘滔や尚書の劉望らは一緒になって苟晞を誣告して、陥れようとしていた。苟晞は怒り、表を奉って潘滔らの首を求め、また司馬越の従事中郎劉洽を軍司としてくれるよう頼んだが、司馬越はどちらも許さなかった。苟晞はそこで率直に言った。「司馬元超(司馬越の字)は宰相となっても公平でなく、天下を乱れさせているのに、苟道将(苟晞の字)たるもの、どうして道に外れたまま彼に仕えていられようか?韓信は衣食の恩恵に我慢できず、婦人の手によって殺された(5)。今、国賊を誅殺し、王室を奉ろうとしているのだから、斉の桓公や晋の文公(6)でもどうして遠い存在だと言えようか!」そこで諸州に文書を飛ばし、自分の功績を誇り、司馬越の罪状を並べ立てた。

当時、懐帝は司馬越の専権を憎んでいたので、苟晞に詔して言った。「朕が不徳なばかりに、戦いがしばしば起こっており、上は宗廟〔のご先祖様〕を煩わせることを恐れ、下は民衆の困窮を悲しんでいる。〔今こそ〕地方官に頼って、国の藩屏となってもらうべきだと考えている。貴方の威徳は盛んに輝き、公師藩や汲桑を誅殺し、劉喬や呂朗を逃げ降らせ、魏植の徒党に対してはまた誅殺して除いており、どうして高い識見と優れた判断でないといえようか。〔だから〕朕は委ね任せて成果を得ようと思う。加えて、王弥や石勒は社稷の憂いなっているので、詔して六つの州を委ね統治させた。それなのに貴方は謙遜して小さな節義を考え、大命を手遅れにさせているが、〔こんなことでは〕国と憂いを同じくするとは言えないのである。今再び詔が送られたならば、檄を六つの州に飛ばして、共同で大きな行動を起こし、国難を取り除いて朕の意向をかなえよ。」苟晞はまた諸々の将軍や州郡の長官に文書を送って言った。「天の巡りが行き悩み、禍が盛んに起こり、劉元海(劉淵の字)は汾陰の地に反逆を起こし、石世龍(石勒の字)は三魏の地に反乱を始めて、中華の王土を侵略し、鄴都を覆して塞をその近くに築き、兗州予州を恐れさせ、三人の刺史を殺害し、二人の都督を殺し、郡太守や高級官僚の被害は何十人にもなり、民衆は土地を離れてさまよわされ、血みどろの苦しみを味わっている。私こと苟晞は、浅薄な者にもかかわらず国の重責を担うことになった。そのため、海浜の地に軍を留め、曹州衛州で態勢を整えていた。かたじけなくも詔を受け、関東の地を任せられ、諸軍を監督統率し、詔の命令を謹んで引き受けることになった。今月の二日を期して西の黎陽を統べ、即日滎陽太守丁嶷の通知を得たところ、李惲や陳午らが懐の諸軍を救出して羯族と戦ったが、みな破り散らされたという。懐城はすでに落ち、河内太守の裴整は賊軍に捕らえられてしまった。護衛の臣が欠け足りなくなって、天子さまが災難を蒙られ、宗廟の危うさは卵を積み重ねる行為よりひどくなっている。〔私は〕知らせを受けた日、憂い嘆いてため息を繰り返していた。私は思う、古えの王が人徳ある人物を選んで、官服を与えて用いたのは、藩屏として王室を固め、居城を破壊されることがないようにするためであったと。そのために、政治を補佐する臣下が強くなくても、斉の桓公は楚の国を詰問し、宋の襄王は狄を苦しめたし、晋の文公は征討を行ったのである。そもそも皇室を助け奉り、力を朝廷のために発揮することは、たとえ危機的な状況に陥ったといっても、大義のためとして甘んずるところである。その上、それぞれの地方長官は皆愛顧を受けているのであるから、人の義として力を合わせ尽くし、国の恩に報いるべきである。私は軍事に秀でているわけではないけれども、最初に軍隊を進め、馬に秣を食わせ糧食をまとって地方の将軍〔の合流〕を待つつもりである。私と誓いを同じくする者であれば誰でも、ともに救出に赴くべきであろう。目覚しい名節を立てる好機は、この行軍にこそあるのだ。」

ちょうど王弥は曹嶷を派遣して琅邪を破り、北進して斉州の地に侵攻した。苟純は城を守っていたが、曹嶷の軍勢はますます意気盛んになり、軍営が数十里にも連なった。苟晞が帰還し、城壁に登って相手の様子を眺めると、〔賊軍には〕恐怖の色が見えたので、賊軍と連戦し、その度に彼らを破った。後には精鋭を選んで賊と大いに戦ったが、たまたま大きな風が塵を巻き上げたために、苟晞はついに破れ、城を捨てて夜中に逃走した。曹嶷が追撃して東山に至ると、部下の兵士はみな曹嶷に降伏してしまった。苟晞は単騎で高平に逃れ、食糧倉庫を押さえると、〔それを元手に〕数千人を〔兵士として〕集めた。

懐帝がまた苟晞に密詔を与えて司馬越を討伐させようとすると、苟晞は再度上表して言った。「殿中校尉の李初が来て、詔を承りましたが、〔陛下の困窮を知って〕心が引き裂けそうです。東海王司馬越は宗室であることから朝廷の政治を執るようになりましたが、よこしまな人物に任せて良くない一党を優遇し、前長史の潘滔・従事中郎の畢邈・主簿の郭象らに天下の大権を操らせ、刑罰も恩賞も自分〔の気持ち〕次第に行うようになりました。尚書の尚書何綏・中書令の繆播・太僕の繆胤・黄門侍郎の応紹は、みな詔勅で陛下自らが抜擢なされた者たちですが、潘滔らが勝手に罠を仕掛けて、ひどい処刑〔の罪〕に陥れてしまいました。鎧を着て宮廷に臨んで、陛下の弟君を誅殺し、護衛を滅ぼしては勝手に民衆の中に自分の一党を広めたのです。魏植を尊び奉って逃亡者を招き寄せ、州郡を壊滅させました。王都への道は隔絶し、地方からの貢ぎ物は絶え、宗廟には祭祀のもてなしが欠けてしまい、陛下にまで食事の量を控えて頂かなくてはならない欠乏状態にあります。鎮東将軍の周馥・予州刺史の馮嵩・前北中郎将の裴憲は、みな朝廷が空洞化し、権臣が専制するようになり、難事の発生も間近いと考えましたので、それぞれが軍馬を率いて皇帝の御輿をお迎えし、王室を栄えさせて臣下としての礼を尽くそうと思っています。しかし、潘滔や畢邈らは司馬越にせまって関外に出、勝手に臨時政庁を立てて公卿らに移ってくるようにせまり、好き放題に詔令を作って兵士に略奪させて住民から貪り取っていますので、屍が重なって道をふさぎ、さらしっ放しの骨が野に満ちている有様です。ついには地方の将軍に職を失わせ城内を寂れさせ、淮予の地に問題が起こって塗炭の苦しみに陥らせたのです。私は憤りましたけれども、東方の奥地を守る身で〔どうしようもありませんで〕したが、詔を承って以後は兵士を激励し、鎧をまいて長駆して倉垣に駐屯しました。すると即日、司空・博陵公の王浚から書を受けましたが、殿中中郎の劉権が詔をもたらして王浚と私に共同で兵を挙げるようにとの仰せであったと聞きました。そこで先鋒に征虜将軍の王讃を派遣してただちに項城に至らせ、司馬越に頭を打ち付けて謝罪して政権を返し、潘滔らを斬って首を送るよう伝えました。どうか陛下におかれましては宗室の臣下のことをお許しになられ、司馬越が封国に帰ることをお認めくださいますように。その他の切迫した状況も、なにとぞ度量を広くもって受け入れてくださいませ。そうして詔を書いて地方の将軍に示し、正義の行動を明らかにして下さい。揚烈将軍閻弘に歩騎五千を派遣して、宗廟をお守りするようにします。」

〔永嘉〕五年(311)、懐帝はまた苟晞に詔して言った。「太傅(司馬越)はよこしまな人物を信用し、兵を恃んで権勢を独占して、内に対しては朝廷の決まりごとを遵奉せず、外に対しては地方州郡と力を合わせようとしないため、ついに胡族たちをはびこらせてあちこちで乱暴を働かせてしまっている。留軍の何倫は官庁から掠め取り、公主を略奪して賢士を殺害し、天下を惑わしており、聞くに堪えない。彼は親族ではあるけれども、九伐を明らかにしておかなくてはならない。詔が到着した日には天下に宣言して、みな揃って行動を起こし、斉の桓公や晋の文公の功績を全て貴方に〔実現してもらうよう〕委ねることにする。良いと思ったことを尽くして大きな戦略を上手く建ててくれるよう願っている。〔もし〕道中で留められるようなことがあれば、古い練り絹に〔この詔の内容を〕書き写しておいて、〔朕の〕親筆の方で事情を示すがよい。」苟晞が表して言った。「詔を承りましたが、私に征討を任せられ、桓公や文公に喩えて下さり、紙も練り絹も備えて下さりましたので、伏して拝読し、ひざまづいては驚いて心も動転して恐れ惑っております。近頃、宰相が専制して、へつらいの人に任せ、内は朝廷の威を好き勝手にし、外は庶民を傷つけて、偽りの詔で思いのままに征討を行い、ついには反逆を図って兵士に略奪を行わせ、官庁を踏み荒らしています。前司隸校尉の劉暾・御史中丞の温畿・右将軍の杜育はみな攻め脅かされました。広平・武安公主は先帝のお残しになられた方でしたが、みな辱められました。節義にもとるひどい乱逆も、この度よりひどいことはなかったでありましょう。そこで謹んで先の詔を奉じて諸軍を配分し、王讃を派遣して陳午ら将兵を率いて項に至らせ、つつしんで天罰を加えさせて頂くつもりです。」

当初、司馬越は苟晞と懐帝の間に謀りごとがあるのではないかと疑い、成皐間に騎兵を巡回させておき、苟晞の使いを捕らえると、果たして詔令や朝廷の書が得られたので、ついに激しく疑念と仲違いを起こすようになった。司馬越は外任に出て予州を治めて苟晞を討とうとし、また檄を飛ばして苟晞の罪悪を言い、従事中郎の楊瑁をやって兗州〔刺史〕として、徐州刺史の裴盾と共同で苟晞を討った。苟晞は騎兵に河南尹の潘滔を捕らえさせ、潘滔が夜中に逃げ出すと、尚書の劉曽・侍中の程延を捕らえてこれを斬った。たまたま司馬越が薨じて裴盾が敗北すると、苟晞に詔して大将軍大都督・督青徐兗予荊揚六州諸軍事とし、邑二万戸を増やし、黄鉞を加え、以前の官職(青州刺史)は元のままとした。

苟晞は首都圏の飢饉が日々に甚だしくなり、賊の攻撃が次々とやってくるようになっていたので、上表して遷都するように請い、従事中郎の劉会に船数十艘と護衛五百人を率いさせ、穀千斛を献上して皇帝を迎えさせることにした。〔しかし〕朝廷の臣下には意見の異なる者も多かった〔ため、実行できなかった〕。しばらくして首都が陥落すると、苟晞と王讃は倉垣に駐屯した。予章王の司馬端と和郁らが東の苟晞のもとへ逃げ込んできたので、苟晞は官僚たちを率いて司馬端を尊んで皇太子とし、臨時政庁を置いた。司馬端は皇帝の命を受けたとして、苟晞に太子太傅・都督中外諸軍・録尚書を兼ねさせ、倉垣より移って蒙城に駐屯させ、王讃を陽夏に駐屯させた。

苟晞は卑しく貧困な身分から世に出て、位は総大将に至って志を満たし、奴婢は千人ばかり、侍妾は数十人にもなって、終日連夜家の外に出ることなく、刑罰や法律を酷く厳しくして、気分の赴くまま欲望のままに過ごしていた。遼西の閻亨は文書で強く諌めたところ、苟晞は怒って彼を殺してしまった。苟晞の従事中郎明預は病んで家にいたところにこの話を聞き、病床の身をおして車で向かい、苟晞を諌めて言った。「晋朝は百六の数に遭い、危難の時に当たっていたところ、あなたさまが自ら政治の大方針を立てられて、国家のために暴虐を取り除こうとされておられたはずです。閻亨は優れた士でしたのに、どうして罪なくしてにわかに殺してしまったのですか!」苟晞は怒って言った。「私が自ら閻亨を殺したのだから、どうして他人事に関わって病いの身を車に乗って来て〔わざわざ〕私のことを罵るのか!」左右の者たちはこのために恐れ戦いたが、明預は言った。「あなたさまが礼に法って仕えられていたからこそ、私も礼を尽くそうと思っていたのです。〔しかしながら〕今あなたさまは私のことをお怒りになりました以上、遠近の者があなたさまに怒りを抱くのをどうすることができましょうか!昔、尭や舜が上にいた時には、穏やかに処することで栄えました。桀王や紂王が上にあるようになると、悪逆な処し方のために〔国を〕滅ぼしてしまいました。天子でさえこのようでありますのに、まして人臣であれば〔処し方に注意するのが〕当然でありましょう! どうかあなたさまにはしばらくお怒りを置かれて、私の発言を考えてみてください。」苟晞は決まり悪げな様子であった。これより人びとの心は次第に〔苟晞のもとから〕離れ、必要な人材が集まらなくなった。加えて疫病と飢饉が起こったので、その将の温畿や傅宣はみな彼に反旗を翻した。石勒は陽夏を攻めて王讃を滅ぼすと、馬を馳せて蒙城を襲撃し、苟晞を捕らえた。〔そして彼に〕職を与えて司馬としたが、一月余りで苟晞を殺してしまった。苟晞には息子がおらず、弟の苟純もまた殺害された。

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