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update:2021.02.11 担当:解體晉書
晋書巻六十一
列伝第三十一
華軼
人物簡介

華軼(?〜311)は字を彦夏といい、平原郡の人である。魏の太尉の華歆の曽孫で、太中大夫の華表の孫で、河南尹の華澹の子。博士として出仕し、江州刺史などを歴任した。礼典を重視して治績も挙げたが、永嘉五年(311)、混乱の中で新たに盟主となった司馬睿による命令を拒否したために対立し、王敦らの攻撃を受けて敗死した。

本文

華軼は字を彦夏といい、平原郡の人である。。魏の太尉の華歆の曽孫である。祖の華表は太中大夫であった。父の華澹は河南尹であった。華軼は若くして優れた才能があり、当時に〔名声が〕聞こえていて、博愛で人を広く受け入れていたため、世論は彼のことを褒めていた。初めは博士となり、昇進を重ねて散騎常侍となった。東海王司馬越は兗州を治めると、〔華軼を〕招いて留府長史とした。永嘉年間には、振威将軍・江州刺史を歴任した。世は騒乱にあったけれども、〔華軼は〕常に儀式作法を崇め、儒林祭酒を置いて道の教えを広めようと考えを述べて言った。「今、大義は廃れ、儀式次第のよるべきものがなく、朝廷では議論が滞るし、これを正すこともできないので、常に悲しみ嘆いています。〔そこで〕どうか特別にこの官職を置いてその事を広めさせるべきです。軍諮祭酒の杜夷は心持ちが奥深く、きっぱりと俗世間から離れており、才学は詳しくかつ広く、素行も好ましいものですので、儒林祭酒に任命してやって下さい。」しばらくして、ゥ賊の討伐を支援するようにとの司馬越の檄文を受け、華軼は前江夏太守陶侃を揚武将軍として派遣し、兵三千を率いて夏口に駐屯させ、援軍の声を挙げさせた。華軼は江州にあってとても恩恵と威光があり、州の豪族とは友人として交際していたので、江南の人々の歓心を買い、放浪中の士人は〔自分の故郷へ〕帰ってくるかのように彼のもとに集まってきた。

当時、天子は孤立して危機にあり、四方は瓦解していた。華軼は天下を正そうという意志を持ち、貢物を送らせて洛陽に入る時は、常に臣下としての節度を失わせなかった。〔そして〕使者に向かって言った。「もし洛陽への道が途絶えていたならば、それを琅邪王のもとへ届けて、私が司馬氏のために行動していることを明らかにするのだ。」華軼は自分が洛陽の使者〔からの任命〕を受けていることから、寿春に監督されることになっても(1)、当時は洛陽がまだ機能していたこともあり、元帝の命令を謹んで受け入れることが出来ないでいた。郡県の人々は多くがこのことを諌めたが、華軼は納得せずに言った。「私はただ〔正式な命令書である〕詔書を見たいと思っているだけだ。」その際、元帝は揚烈将軍周訪に兵を率いさせて彭沢に駐屯して華軼に備えさせることにした。周訪が姑孰を過ぎると著作郎の干宝が会って、どうするのかと尋ねると、周訪が言った。「丞相府は一部の統治権を得ておられるので、彭沢に駐屯するように命令された。彭沢は江州の西の門になる。華彦夏(華軼の字)は天下を憂う真の心があるが、おいそれと他人の指図を受けたくなかったために、近頃ではゴタゴタして仲違いを起こしてしまった。今また理由なく兵士にその門を守らせれば、その溝を決定的にしてしまうだろう。〔しかし〕私が尋陽の故県に駐屯すれば、すでに江州の西にあるわけだし、北方〔の敵〕を防ぐことも出来れば、またお互いに刺激してしまうきらいも無くなるだろう。」ついで洛陽が陥落すると、司空の荀藩が檄を飛ばし、元帝を盟主とするようになった。元帝が政権を代行して上級官僚を入れ替えようとすると、華軼はまた命令に従わなかった。そこで左将軍の王敦に甘卓・周訪・宋典・趙誘らを統率させて華軼を攻撃した。華軼は別駕の陳雄を派遣して彭沢に駐屯させて王敦を防がせ、自分は水軍を編成して外から援護することにした。武昌太守の馮エが湓口に駐屯すると、周訪は馮エを攻撃して破った。前江州刺史の衛展は華軼に礼遇されなかったので、心の中でいつも〔彼に対して〕含むものがあった。そこでこの事態に至ると、予章太守の周広と一緒に〔元帝側に〕内応して、ひそかに華軼を急襲したところ、華軼の軍勢は潰れて安城に逃げ込んだが、〔馮エは〕追撃して彼を斬り、その五人の子をも殺害すると、首を建鄴に送った(2)

それより以前、広陵の高悝は江州に仮住まいしていたところ、華軼が招聘して西曹掾とした。ついで華軼が敗れると、高悝は華軼の二人の子と妻を匿い、何年か苦しい月日を過ごした。ようやく大赦にあうと、高悝は彼らを伴って出頭したので、元帝は褒め称えて彼らを許すことにした。

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