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update:2021.02.13 担当:解體晉書
晋書巻六十一
列伝第三十一
劉喬 孫耽 耽子柳
人物簡介

劉喬(249〜311)(1)は字を仲彦といい、南陽郡の人である。魏の侍中劉廙の孫、陳留相劉阜の子。伐呉の際には王戎のもとで活躍し、安衆男に封ぜられ、やがて威遠将軍・予州刺史となると劉弘ともに張昌を討伐した。しかし、東海王越の手になる配置換えを不服として、河間王側につくものの、劉琨らの攻撃を受けて敗北した。たまたま東海王が病没したため、都督予州諸軍事・鎮東将軍・予州刺史に復帰し、まもなく卒した。享年六十三。愍帝の末年に司空を追贈された。

劉耽(生没年不詳)は字を敬道といい、劉喬の孫である。博学で歴史などに明るく、度支尚書などを歴任した。彼の娘婿が桓玄であり、その桓玄が政権を掌握したために、特進・金紫光禄大夫を授けられた。卒すると、左光禄大夫・開府を追贈された。

劉柳(生没年不詳)は字を叔恵といい、劉耽の子である。尚書左右僕射などを歴任した。後には徐州など三つの州の刺史に任命された。卒すると、右光禄大夫・開府儀同三司を追贈された。

本文

劉喬は字を仲彦といい、南陽の人である。その先祖は漢の宗室で、安衆侯に封ぜられ、世襲すること三代を経た。祖の劉廙は魏の侍中であった。父の劉阜は陳留の相であった。劉喬は若くして秘書郎となり、建威将軍の王戎が呼び寄せて参軍とした。伐呉の役において、王戎は劉喬と参軍の羅尚に長江を渡らせ、武昌を破った。帰還すると〔劉喬は〕滎陽令を受け、太子洗馬に移った。楊駿を誅殺した功績によって、爵の関中侯を賜り、尚書右丞を拝任した。賈謐の誅殺に関わったため、安衆男に封ぜられ、昇進を重ねて散騎常侍となった。

斉王司馬冏は大司馬となると、初め、嵇紹は司馬冏に重用されて、〔司馬冏の方が〕いつも階段を降りて彼を迎えていた。劉喬は司馬冏に言った。「裴頠や張華の誅殺の際には、朝廷の家臣は孫秀のことを恐れはばかっていましたので、〔彼からの〕金品を受け取らないわけにはいきませんでした。〔しかし〕嵇紹は今何を恐れて、わざわざ裴家の車牛や張家の奴婢を蓄えているのでしょうか? 楽彦輔(楽広の字)が来た時にも、貴方様は牀を降りることはありませんでしたのに、どうして一人嵇紹にだけ敬意を表すのですか?」司馬冏はそこで〔迎えるのを〕止めた。嵇紹は劉喬に向かって言った。「大司馬(司馬冏)殿はどうして二度と客を出迎えなくなったのですか?」劉喬が言った。「正しい人の忠言があり、貴方のことはわざわざわ出迎えるほどではないと思ったからのようです。」嵇紹が言った。「正しい人とは誰のことですか?」劉喬が言った。「それは遠くないところにいます。」嵇紹は黙ってしまった。

しばらくして、御史中丞に移った。司馬冏の腹心の董艾の権勢が朝廷を傾けるほどになると、百官は決してその意向に逆らおうとしなかった。〔しかし〕劉喬は二十日の間に、董艾の罪を奏上して弾劾すること六度にもなった。董艾が尚書右丞の苟晞にそれとなく劉喬を失職させるように伝えたので、〔劉喬は〕また屯騎校尉になった。張昌の乱が起こると、劉喬は出征して威遠将軍・予州刺史となり、荊州刺史の劉弘とともに共同で張昌を討ち、左将軍に昇進した。

恵帝が西方の長安へ遷られると、劉喬は諸州郡とともに挙兵して皇帝の車を〔奪還して〕お迎えすることにした。東海王司馬越が、皇帝の命を受けたと称してして劉喬を安北将軍・冀州刺史に転属させ、范陽王司馬虓に予州刺史を兼任させた。劉喬は、司馬虓は天子が任命したものではないために交代を認めず、軍隊を発して彼を拒んだ。潁川太守の劉輿は司馬虓と慣れ親しかったので、劉喬は尚書に上言して劉輿の罪悪を並べたてた。河間王司馬顒が劉喬の上言を得ると、詔を発して鎮南将軍の劉弘・征東大将軍の劉準・平南将軍彭城王司馬釈に劉喬と共同で力を合わせて許昌に司馬虓を攻撃させた。劉輿の弟の劉琨は兵を率いて司馬虓を救援しようとしたが、到着する前に司馬虓が敗れ、司馬虓はそこで劉琨とともに河北に逃亡した。いくらもしないうちに、劉琨は騎兵五千を率いて黄河を渡って劉喬を攻撃し、劉喬は劉琨の父の劉蕃を脅かして囚人護送車に乗せると、考城に拠って司馬虓を防いだが、兵士たちは敵わずにつぶれてしまった。

劉喬は散り散りになった兵士を再び集めて、平氏に駐屯した。河間王司馬顒は劉喬を鎮東将軍・仮節に昇進させ、その長子の劉祐を東郡太守とし、また劉弘・劉準・彭城王司馬釈らに兵を率いて劉喬を援護させようとした。劉弘は劉喬に手紙を送って言った。「范陽王が貴殿に代わろうとするのを、まさに止めさせようとしています。貴殿は任命を本朝から受けており、地方長官の中に並んで、官職に任命されて〔任地に〕向かい、一緒に王室を盛り立てようとしていたのに、横合いから交代させられそうになったのは、本当に不当だと思います。しかしながら、昔の人も言っていたように、牛を牽いて他人の田を踏み荒らせば確かに罪になりますが、〔もし仕返しにこの田の所有者が〕牛を奪い取ったならば、罰はまた重いものになってしまいます(2)。貴殿は正しいことを守るための怒りが抑えられず、紛争の首謀者となることに甘んじていますが、〔私は〕個人的には誤りだと思っています。何故だと思われますか? 十分に道を治めた人の行動というものは、行動に慎み深さを取るものです。股の下をくぐるような恥辱も(3)、なお屈して人に従っておくべきであり、ましてや交代引継ぎのゴタゴタや、ささいないがみ合いごときではなおさらではないでしょうか! 范陽王は宗室で、あなたは庶民ですが、周の会盟では疏族は親族を隔てないものとされていますから(4)、〔お互いに〕誤りが同じように存在するのであれば、咎めを受けるのはその〔身分的な〕位置によるのです。廉頗と藺相如は取るに足りない戦国時代の武将ですが(5)、それでも押すところはおし、引くところはひいて社稷に利益をもたらしていたのですから、まして名高い士人であればなおさらではありませんか!今、天下は混乱しており、天子もさまよわれている状態で、まことに忠臣義士が心を一つに力を合わせる時なのです。私は本当に愚かな者ですが、過分の国恩を受け、どうかあなたとともに盟主を推戴し、その列伍に連なってひどい賊軍を一掃し、民衆の苦しみを救い、北極星〔たるべき皇帝陛下〕を根源の位置に戻すことができればと願っています。この功はまだ成し遂げられていませんが、〔今ここで〕空中分解してしまうわけにはいきません。〔貴殿には〕よく目をかけて頂き、他の方々以上にお慕いしておりましたので、本心を打ち明かして〔思うところを述べ〕尽くさないではいられませんでした。春秋時代は諸侯が互いに攻撃しあっていましたが、また仲良くする者も多かったものです。どうか貴殿には、以前の恨みを置いて、心変わりしないという足跡を追い、党派でつるむ結びつきを解いて初めの時と同じような情誼を修めて下さいますよう。〔そうすれば〕范陽王もまた以前の過ちを悔い、今後の信義を尊ぼうと思うようになるでしょう。」

東海王司馬越がいよいよ劉喬を討とうとすると、劉弘はまた司馬越に手紙を贈って言った。「おりよく聞きましたところでは、私の州将(劉喬のこと)を思うままに挙兵させて范陽王を追い出し、今にも彼を討とうとされているとのこと、誠に異議〔を抱く者〕を明らかにし、禍を思い止まらせる最適の処置だと思います。しかしながら、私は実行すべきではないと考えます。何故でしょうか?今、北極星がその場所を離れ〔てしまうように〕、皇帝陛下が〔本来あるべき場所から〕お遷りになられ、諸侯たちは大義をかかげて王室のために作戦を立てていますし、私の州将は国から重い恩義を受け、地方の将領に並べさせて頂いているのですから、また太鼓を打ち鳴らして軍事に従い、力を合わせて身命をささげる時だと思います。しかしながら、范陽王が彼に代わろうとすると、私の州将は従いませんでした。交代が不当であることから、ただ曲がったものを正そうとして行き過ぎ(6)、さらには罪〔となる行為〕まで仕出かしてしまっただけなのです。その昔、斉の桓公は帯がねに射当てられた仇を許して管仲を宰相とし、晋の文公は袖口を斬られた恨みを忘れて勃鞮を近付けました(7)。このことを今と較べますとどうでしょうか!また、君子は自らの過ちには厳しく、人には咎めを緩くするものです(8)。現在、邪まな臣下が権力を好き勝手にして朝廷を困窮させており、このことは四海の人がみな危ぶんでいることですから、個人的な恨みを許して共同で公けの大義をとり、恥も過ちも許して我慢しがたいことを耐え、大逆無道〔への対処〕こそ優先して〔皇帝陛下を〕お迎えすることを急ぎ、小さな恨みにこだわって大きな道徳を忘れないようにするべきだと考えます。仮にも思いやりの心を大事にして共同で任された領域をはっきりさせ、旗を連ねて進軍し、それぞれが臣下としての節義を果たすよう努めたならば、私の州将も必ず胸襟を開いて受けた恩に報いるでしょう。まことに一時の誤りを思って、かっと怒りを発し、韓盧と東郭が互いに困らせあって山犬や狼に捕らえられてしまうようなことをする必要などないと言うべきです(9)。私は庶民ではありますが、不相応なほどの任を担っていますから、真に閣下が内外〔の勢力〕をみなまとめて王室を盛んにして頂きたいと願っており、仲間同士で危害を加えあうことは恥ずかしく思っていました。考えるところをあれこれと献言してみましたが、閣下がそのことを考えてくださるよう願っています。」また表を奉って言った。「范陽王司馬虓は予州刺史の劉喬に代わろうとしましたが、劉喬は挙兵して司馬虓を追い出し、〔さらに〕司空・東海王の司馬越は劉喬が命令に従わないので征討しようとしています。私が思いますには、劉喬は格別の大恩を受けて州刺史〔の地位〕におり、自ら今の世に功績を立てて国難に従おうと考えて、その他の罪や欠点もありません。それゆえ、范陽王に彼に代わらせようとしたのは、代わらせることの方が間違っています。しかしながら、劉喬としても司馬虓の過ちを理由にして強硬な態度ばかりで討伐まで行うことはできないはずで、本当は衆目の注視するところで処刑してその不敬を懲らすべきでした。ただし、最近では紛争が相次いで起こり、疑いからくる禍もあちこちに生じていますので、猜疑心が王侯たちの間に生じ、災難が宗室の子供たちにも及んで、権力が朝廷より強くなり、反逆か従順かが成功するか失敗するかによって決まってしまい、今日の夜には忠義とされたものが明日の朝には反逆だとされ、対立して互いに戦争の首謀者となってしまっていますが、有史以来、骨肉の争いがこれまでにないほどひどくなってしまうのを恐れています。私はこのことを悲しみ、心を痛め心配しているのです。今、国境地帯では防備のたくわえがなく、中原には財物の空乏が起こっています。しかし、股肱の臣下は国のあり方を考えず、専ら出世の遅速を競い、互いに傷つけあって被害がますますひどくなり、親しい間柄でさえ壊れるようになっています(10)。万が一、えびすどもが虚に乗じて変を起こしたならば、これはまた猛虎が互いに戦い合って、卞荘子に漁夫の利を与えた話のようなものです(11)。私は速やかに詔を発して、司馬越らに詔してお互いの猜疑心を解かせ、それぞれの局面を守らせるべきだと考えます。これより以後、詔書を受けずに勝手に兵馬を起こす者がいれば、天下がともに討伐するでしょう。『詩経』にも『誰が熱いものを掴んでおいて、濯がないでいられよう?(12)』というように、もし本当にこれを清め濯げば、きっと焼け爛れるような苦しみはなく、永遠に泰山のような安定を保てるでしょう。」

時に河間王司馬顒はさかんに関東〔の司馬越の軍勢〕を拒んでおり、劉喬を恃んで支援させようとしたが、彼の進言を聞き入れることはなかった。東海王司馬越は全国に檄を飛ばし、兵士三万を率いて、いよいよ関に入って皇帝の車を迎え入れるため、軍を蕭に駐屯させようとしたので、劉喬は恐れ、子の劉祐を派遣して司馬越を蕭県の霊壁で防がせた。〔しかし〕劉琨は兵を分けて許昌に向かわせ、許昌の人がこれを迎え入れてしまった。劉琨が滎陽から兵を率いて司馬越を迎え、劉祐〔の軍勢〕と遭遇すると、〔劉祐の〕兵士たちは壊乱して殺された。劉喬の軍勢もついに逃げ散じ、〔彼は〕五百騎とともに平氏に逃亡した。

恵帝が洛陽に戻ると、大赦があり、司馬越はまた上表して劉喬を太傅軍諮祭酒とした。司馬越が薨ずると、また劉喬を都督予州諸軍事・鎮東将軍・予州刺史とした。任官中に卒し、六十三歳であった。愍帝の末年になって、司空を追贈された。子の劉挺は潁川太守となった。劉挺の子に劉耽がいる。

劉耽は字を敬道という。若くして品行が良く、義に高いことで賞賛され、一族に期待されていた。博学で、詩・禮・三史(13)に明るかった。度支尚書〔など〕を歴任し、散騎常侍を加えられた。官職にあって公平で廉潔慎重、臨んだ仕事では顕著な功績をたてていた。桓玄は劉耽の娘婿である。桓玄が政権を補佐するようになると、劉耽を尚書令とし、侍中を加えようとしたが、任命を受けなかったので、改めて特進・金紫光禄大夫を授けられた。しばらくして卒し、左光禄大夫・開府を追贈された。劉耽の子に劉柳がいる。

劉柳は字を叔恵といい、また名望があった。若くして清官に登用され、尚書左右僕射を歴任した。当時、右丞の傅迪は広く書物を読むことを好んでいたが、その意味を理解していなかった。劉柳はただ『老子』を読むだけだったので、傅迪は常に彼を軽んじていた。劉柳が言った。「あなたは読書〔量〕が多いけれども、理解したところがないのだから、〔単なる〕書物入れとでも言うべきだろう。」当時の人は、その言葉を重んじた。〔外任に〕出て徐州・兗州・江州の三つの州の刺史となった。卒すると、右光禄大夫・開府儀同三司を贈られた。劉喬の弟の劉乂は始安太守となった。劉乂の子の劉成は丹陽尹となった。

史臣が言う。周浚は道をもとに人を見抜き、周馥は為政の見識に非常に優れ、華軼は行動に礼経〔の作法〕のことを考え、劉喬は志が誠実であり、そうして内外〔の官職〕を歴任し、みな手柄を立てることができた。しかしながら、祖宣(周馥)は遷都を建策したものの、東海王といがみ合い、彦夏(華軼)は天子のことを気にかけていたけれども、罪を琅邪王に対して犯してしまい、悪名をこうむって見せしめの処刑を加えられたのであり、どうして悲しまないでいられようか! 以前にもし左袵〔する胡族〕に伊川で離れ、右社を淮水流域に建て、方城の険しさに拠って、楚地域全体の資源を使って呉越の兵士を選び鍛えて、淮水や沿海の穀物を水運していったならば、たとえ天に永遠の命運を祈ることはできなくとも、なお危難を脱して滅亡を遅らせるには十分であっただろう。ああ!「その良い臣を用いずして、かえって私を誤らせてしまった(14)」というのは、このことを言うのだろう。苟晞は卑しく貧しい身から飛び抜けて、位は総大将にあったけれども、職を離れる〔進退についての〕功は立てられず、欲深い欠点がすでに明らかとなって、世龍(石勒)に手を貸し、人を屠り殺すに至ったのであり、それは「人を殺すことが多ければ、此に至らないでいられるだろうか(15)」ということなのだ!

賛に言う。開林(周浚)は文才があり、そうして高官に登って敵を制して勝つ功績を上げ、徳化を長江岸に行き渡らせた。華軼は以前から主君を尊び、周馥もまた勤王であったが、時勢に背いて罪を得、天意に合わず良くない〔最期を遂げた〕。劉喬は紛争の首謀者となってしまい、処世の態度を知らなかった。道将(苟晞)は軍を発し、名声も高く上がったけれども、欲深さが聞こえており、忠実に励むことを評価されなかった。

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