(1)『芸文類聚』巻四十八「職官部四」に引く曹嘉之『晋紀』には、史曜、字は季茂とある。
(2)「何充伝」に見える「祖の何惲」が、おそらくこの何惲であろうと考えられるところから、本籍は廬江郡灊県。廬江郡は「地理志下」に揚州に属すとある。
(3)『春秋公羊伝』「荘公一九年」に「聘礼 大夫は命を受けても辞を受けない。境を出でて以って社稷を安んじ国家を利するべき有らば、則ちこれを専らにするも可なり」とある。
(4)原文は「克譲」。『尚書』「堯典」に「允恭克譲」とあるのによる。
(5)原文は「謙光」。『周易』「謙」に「謙,尊而光,卑而不可踰」とあるのによる。
(6)「王濬伝」に、この時の王濬の上表文が載録されている。これ以後、王渾に較べて出自の低い王濬は、大官に睨まれたためか、何度か処罰されそうになっている。
(7)「武帝紀」によると、太康十年(289)に司馬允は淮南王となり、「淮南忠壮王允伝」によると、この時に都督揚江二州諸軍事になっている。呉廷燮『晋方鎮年表』によれば、都督揚州諸軍事は太康十年(289)に代わっているので、周浚は同年に亡くなったものと推定できる。
(8)「周顗伝」では「武城侯」としている。
(9)周の文王の子、周公旦のこと。兄の武王の死後は、幼い成王を補佐して政治を行い、後世聖人として尊崇された。ここでは自ら即位するのではなく、補佐に回って治績を著す人物の例として挙げている。
(10)いずれも中国古代の聖人。彼らの治世は理想的な時代であった、と考えられている。
(11)『春秋左氏伝』「文公十八年」に「渾敦、窮奇、檮杌、饕餮」の四人の名が見える。但し、『尚書』堯典に見える「共公、驩兜、三苗、鯀」と結びつける説などもある。
(12)高宗は殷の武丁の廟号。武丁は三年ものを言わなかったというが、あるひ聖人を得たという夢を見て、目覚めた後、その聖人を探したところ、それが傅説であったという。
(13)宣王は周の第十一代の王。尹吉甫や召伯虎らの支援を得て、周の中興を成し遂げたとされる。
(14)桓公は春秋時代の斉の君主で、春秋五覇の筆頭に数えられる。管仲はその宰相で、『管子』の著者であるとされる。
(15)文公は春秋時代の晋の君主で、春秋五覇の一人。趙衰らに補佐された。「范」が誰を指すのか不明だが、咎犯のことか。
(16)原文は「垂拱受成」。『尚書』「武成篇」に「垂拱し、而して天下治まる」とあるのによる。
(17)原文は「國蠹」。『春秋左氏伝』「襄公二二年」に「〔御叔〕不可使。而傲使人,國之蠹也」とあるのによる。
(18)太公望以来の斉は康公の時に、田和によって奪われた。それ以後、戦国時期まで活躍した斉はこの田氏によるものである。
(19)王莽は前漢を奪って「新」を建国した人物。ただし、新はすぐに滅ぶことになる。
(20)光武帝は後漢の建国者劉秀のこと。もとは南陽郡の豪族であった。
(21)諸葛亮は三国蜀の宰相。蜀の初代皇帝劉備亡き後、その子の劉禅を補佐した。
(22)伊尹は、殷開国の王である湯王に仕えた名臣。
(23)「王敦伝」に、王応は王敦の兄の王含の実子であるが、男の子の無かった王敦が彼を養子にしていたことが見える。
(24)『資治通鑑』巻九十三によると、周嵩が殺害されたのは太寧二年(324)。
(25)戴若之の名は淵。唐の高祖李淵の諱を避けて字で呼んでいる。「戴若之伝」に「賊が平定されると、右光禄大夫・儀同三司を冊贈され、諡して簡といった」とある。
(26)「譙閔王承伝」に「王敦の乱平定後に、車騎将軍を贈られた」とある。
(27)「周顗伝」に「元帝の中興が成ると、吏部尚書となった」とある。
(28)「周顗伝」に、「太興(318〜321)の初めに、あらためて太子小傅を拝任した」とある。なお、この時の太子が後の明帝である。
(29)不詳。「后妃伝下」に、成帝の妃となった章太妃周氏という人物が見えるが、「選を以って入る」とあるように、出自が低いようであるから、汝南周氏ではないのであろう。その他には、それらしい記述は見出せていない。
(30)原文は「惡直醜正」。『春秋左氏伝』「昭公二十八年」に「惡直醜正,實蕃有徒」とあるのによる。
(31)原文は「撥亂反正」。『春秋公羊伝』「哀公十四年」に「撥亂世,反諸正,其近諸春秋」とあるのによる。
(32)「甘卓伝」に「太寧中(323〜325)、驃騎将軍を追贈され、諡して敬といった」とある。
(33)「王澄伝」によれば、王澄は王敦の挙兵以前に殺されているが、乱の後、部下であった桓稚の上表がもとで「本官に復され、諡して憲という」とある。
(34)「嵇紹伝」に、蕩陰の戦いで敗れた朝廷の軍の中で、嵇紹はただ一人恵帝を身をもってかばい、死んでいったという。その際、嵇紹の血飛沫を浴びた恵帝は、彼を思い、血のついた衣を洗わせなかった。
(35)「周顗伝」に「王敦が死んだ後、左光禄大夫・儀同三司を追贈され、諡して康といい、祀るのに少牢をもってした」とある。
(36)殷(商)は、湯王以前に八度、湯王から盤庚が殷の地に遷るまでに五度遷都したといわれている。
(37)岐山は現在の陝西省岐山県の東北にある山。周は古公亶父の時、岐山の麓の周原に移り、以後周は栄えていくことになった。
(38)『春秋左氏伝』「僖公九年」に「公家之利,知無不爲,忠也」とあるのによる。
(39)「孝懐帝紀」によると、周馥の敗北は永嘉五年(311)で、『資治通鑑』巻八十七は周馥の死を同年とする。
(40)「華譚伝」によると、華譚は上司の揚州刺史の劉陶と不仲で、彼のために獄に下されたが、周馥の働きで免れ出ることができたとある。