(1)劉喬は予州刺史任官中に卒したとあり、呉廷燮『晋方鎮年表』によれば、永嘉五年(311)に予州刺史に就任し、まもなく閻鼎という人物に官職が移ったとあるので、同年に亡くなったと推定できる。この時に六十三歳だったとあるので、魏の嘉平元年(249)生まれとなる。
(2)『春秋左氏伝』「宣公十一年」に同様の文章が見える。
(3)前漢建国の功臣である韓信が、股の下をくぐらされる恥辱を耐え忍んだことを指す。
(4)『春秋左氏伝』「隠公十一年」に「周之宗盟,異姓爲後」とあるのを踏まえている。
(5)いずれも戦国趙の将軍。「刎頚の交わり」として二人の交流は有名。
(6)『後漢書』巻四十九「仲長統伝」に同様の表現が見える。
(7)斉の桓公・晋の文公はいずれも春秋の覇者。管仲らは、もともと桓公や文公の対抗馬に仕えていたため、その命を付け狙った事があった。
(8)『論語』「衛霊公篇」にある言葉。
(9)『戦国策』「斉策三」に韓子盧という犬と東郭逡という兎が、互いに山中を追い回しているうちに、疲れ果てて二匹とも亡くなってしまったという話がある。
(10)『漢書』巻五十一「鄒陽伝」に同様の表現が見える。
(11)春秋魯の大夫卞荘子は、忠告を受け入れて、二頭の虎が互いに争い合って、傷つくのを待ってから、二頭とも易々と殺したという。ここでは、東海王と劉喬を虎に、四夷を卞荘子に見立てている。したがって、原文「猛獣」は避諱。
(12)『詩経』「大雅」桑柔の詩である。
(13)当時の三史は、『史記』『漢書』と『東観漢記』である。
(14)『詩経』「大雅」桑柔の詩に「匪用其良,覆俾我悖」とある。
(15)『春秋左氏伝』「昭公十三年」に「王曰『余殺人子多矣。能無及此乎。』」とある。