update:2005.10.27  担当:解體晉書
晋書巻六十五

 列伝第三十五

王導 子悦 恬 洽 協 劭 薈 洽子珣 珉 劭子謐
人物簡介
 王導(276〜339)は字を茂弘といい、光禄大夫王覧の孫、鎮軍司馬王裁の子である。親交のあった琅邪王司馬睿(後の元帝)を支えて、東晋王朝の成立に大きな功績があり、侍中・司空・仮節・録尚書に昇進した。一族の王敦が反乱を起こすと、一時苦しい立場におかれたが、恭順を貫くことで許された。司馬睿の死後は、遺命を受けて明帝・成帝を補佐し、とりわけ成帝からは他に類を見ないほどの礼遇を受けた。咸康五(339)年に薨去した。享年六十四歳。葬儀に与えられた特例も、東晋の臣下で較べられるものがないほどであった。文献と諡された。

 王悦(生没年不詳)は字を長予といい、王導の子である。両親に孝養を尽くして王導にも期待されていた。呉王友や中書侍郎を歴任したが、父より先に亡くなり、王導とその妻曹氏をひどく悲しませた。貞世子と諡された。

 王恬(生没年不詳)は字を敬予といい、王導の子である。兄と王悦と違い、尊大な性格だったので、王導は彼を見ると機嫌を悪くしたという。また囲碁の名手であった。中書令に昇進する際には、王導の辞退により止められた。後に呉国と会稽の内史となり、散騎常侍を加えられた。亡くなると中軍将軍を追贈され、憲と諡された。

 王洽(323〜358)は字を敬和といい、王導の子である。若くして呉郡内史などを歴任したが、中書令の辞令を受けた際には、穆帝直々の要請を受けたものの、結局拝命しなかった。在官中の升平二(358)年に亡くなった。享年三十六歳。

 王協(生没年不詳)は字を敬祖といい、王導の子である。撫軍参軍となり、武岡侯を継いだが、早くに亡くなった。

 王劭(生没年不詳)は字を敬倫といい、王導の子である。丹陽尹などを歴任し、吏部尚書・尚書僕射に移り、建威将軍・呉国内史となった。亡くなると、車騎将軍を追贈され、簡と諡された。

 王薈(生没年不詳)は字を敬文といい、王導の子である。栄誉を求めず、飢饉の際には人々に食事を提供したこともあった。呉国内史などを歴任し、会稽内史に転任して散騎常侍を加えられた。在官中に亡くなると、衛将軍を追贈された。

 王珣(349〜400)は字を元琳といい、王導の孫、王洽の子である。陳郡謝玄とともに桓温の掾となり、将来は「黒頭公」になると称えられた。謝安と仲違いをして一時期不遇であったが、謝安の死後、侍中に移り、孝武帝に信頼されるようになった。王恭が王国宝らに対して再び挙兵すると、衛将軍・都督琅邪水陸軍事となった。隆安四(400)年に病のため職を解かれ、同年五月丙寅に亡くなった。享年五十二歳。車騎将軍・開府を追贈され、献穆と諡された。

 王珉(351〜388)は字を季琰といい、王導の孫、王洽の子である。行書に巧みで、そのためか王献之とも名声が等しかったという。黄門侍郎や侍中などを歴任し、後には中書令を兼任した。太元十三(388)年に亡くなった。享年三十八歳。太常を追贈された。

 王謐(360〜407)は字を稚遠といい、王導の孫、王劭の子である。黄門侍郎や侍中などを歴任し、桓玄に信頼されて中書監に移され、司徒を兼任した。桓玄の簒奪の際には、皇帝の玉璽と冊命の文書を東晋朝廷から取ってくる役目を果たした。桓玄が簒奪すると、武昌県開国公に封じられた。後に桓玄を倒した劉裕を恐れて逃げ出したが、以前に劉裕を誉めたことがあったため、疎んじられることなく職務を任された。義煕三(407)年に亡くなった。享年四十八歳。侍中・司徒を追贈され、文恭と諡された。
本文
  王導字茂弘,光祿大夫覽之孫也。父裁,鎮軍司馬。導少有風鑒,識量清遠。年十四,陳留高士張公見而奇之,謂其從兄敦曰:「此兒容貌志氣,將相之器也。」初襲祖爵即丘子。司空劉寔尋引為東閤祭酒,遷祕書郎、太子舍人、尚書郎,並不行。後參東海王越軍事。
 王導は字を茂弘といい、光禄大夫王覧の孫である。父の王裁は、鎮軍司馬であった。王導は若い頃から品格と識見を備え、その度量も奥深いものであった。十四歳の時、陳留の高名な士である張公という人物が、彼と会って優秀だと思ったので、王導の従兄の王敦に言った。「この子の容貌や意気込みは、将軍や宰相の器といえよう。」初めは祖父の爵位である即丘子を引き継いだ。ついで、司空の劉寔が〔彼を〕招いて東閤祭酒とし、秘書郎・太子舎人・尚書郎へと辞令が移ったが、全て受けなかった。後に東海王越の軍事に入った。
  時元帝為琅邪王,與導素相親善。導知天下已亂,遂傾心推奉,潛有興復之志。帝亦雅相器重,契同友執。帝之在洛陽也,導毎勸令之國。會帝出鎮下邳,請導為安東司馬,軍謀密策,知無不為。及徙鎮建康,呉人不附,居月餘,士庶莫有至者,導患之。會敦來朝,導謂之曰:「琅邪王仁徳雖厚,而名論猶輕。兄威風已振,宜有以匡濟者。」會三月上巳,帝親觀禊,乘肩轝,具威儀,敦、導及諸名勝皆騎從。呉人紀瞻、顧榮,皆江南之望,竊覘之,見其如此,咸驚懼,乃相率拜於道左。導因進計曰:「古之王者,莫不賓禮故老,存問風俗,虚己傾心,以招俊乂。況天下喪亂,九州分裂,大業草創,急於得人者乎! 顧榮、賀循,此土之望,未若引之以結人心。二子既至,則無不來矣。」帝乃使導躬造循、榮,二人皆應命而至,由是呉會風靡,百姓歸心焉。自此之後,漸相崇奉,君臣之禮始定。
 当時、〔後の〕元帝は琅邪王となっており、王導とも以前から親交を深め合っていた。王導は天下がすでに乱れていることを見定めると、ついに〔元帝に〕心を寄せて主君として押し戴き、〔晋朝〕再興の意志を心密かに抱くようになっていた。元帝もまた気品があって振舞いも落ち着いており、〔王導とは〕気心の知れた友人のように息が合っていた。元帝が洛陽にあった時には、王導は常に〔洛陽を離れて〕封国に向かうよう勧めていた。たまたま元帝が下邳に移って治めることになると、王導を招いて安東司馬とし、軍事上の作戦や機密の計画に〔王導が〕関与しないことはなかった。建康に治所を移したところ、〔旧の〕呉の人々は〔元帝に〕従おうとせず、一月あまり経過しても、〔元帝のもとに〕やって来る者がいなかったため、王導はこのことを心配していた。ちょうど王敦が来ていたので、王導は彼に言った。「琅邪王閣下は仁徳の厚い御方ではありますが、その名声がまだまだ軽いのです。〔その点〕兄上の威厳はすでに広まっていますから、どうか助けて頂きたい。」たまたま三月の上巳の日だったので、元帝は自ら禊の様子を見学することにし、肩輿に乗って従者をそなえ、王敦や王導など人望の高い人が皆で騎馬して従うことにした。呉の人の紀瞻や顧栄はどちらも江南の名士であるが、ひそかにこの行列〔の様子〕を窺い、これほどの〔盛大な威儀をそなえている〕様子に皆驚いてしまい、〔人々を〕引き連れあって道端で〔元帝らに〕拝礼することにした。王導は、そこで進言した。「古えの王は、有徳の老人を客人としてもてなし、〔地域の〕風習を見舞って、虚心に人の意見を聞き入れて俊才を招くようにしなかったことなどありませんでした。まして、〔今は〕天下が混乱して全土は分裂し、大業も緒に就いたばかりで早急に人材を獲得しておかなければならない〔時期な〕のですから、なおさらでしょう! 顧栄・賀循はこの地の名士ですから、彼らを〔味方に〕引き入れて〔呉の〕人心を得ておくに越したことはありません。二人が来てさえくれれば、やって来ない者などなくなるでしょう。」元帝はそこで、王導自らに賀循と顧栄のもとへ向かわせたところ、二人とも命に応じてやって来た。このことによって呉の社会はなびくように従い、庶民も心を寄せるようになった。この後、しだいに〔元帝を〕尊び奉るようになり、君臣の礼儀も始めて定まった。
  俄而洛京傾覆,中州士女避亂江左者十六七,導勸帝收其賢人君子,與之圖事。時荊揚晏安,戸口殷實,導為政務在清靜,毎勸帝克己勵節,匡主寧邦。於是尤見委杖,情好日隆,朝野傾心,號為「仲父」。帝嘗從容謂導曰:「卿,吾之蕭何也。」對曰:「昔秦為無道,百姓厭亂,巨猾陵暴,人懷漢徳,革命反正,易以為功。自魏氏以來,迄于太康之際,公卿世族,豪侈相高,政教陵遲,不遵法度,群公卿士,皆饜於安息,遂使姦人乘釁,有虧至道。然否終斯泰,天道之常。大王方立命世之勳,一匡九合,管仲、樂毅,於是乎在,豈區區國臣所可擬議! 願深弘神慮,廣擇良能。顧榮、賀循、紀贍、周玘,皆南土之秀,願盡優禮,則天下安矣。」帝納焉。
 しばらくして洛陽が崩壊すると、中原の人々で混乱を江南の地に避けようとやって来る者が、六・七割にもなり、王導はその中の賢人を採用して、彼らと作戦を練るよう元帝に勧めた。当時、荊州や揚州の地は〔華北と違って〕安らかに治まっており、人口も増えていた。王導は政治を行う時には穏やかに落ち着いているよう務め、常に元帝には私欲に打ち勝って己を磨くように勧めて、君主を助け国家を安泰にしていた。そこで最も信頼されるようになり、〔人々との〕親交も日ごとに深まって、朝野の人々は彼を慕って「仲父」と呼ぶようになった(1)。元帝は、かつてくつろぎながら王導に言った。「あなたは私にとっての蕭何だ(2)。」〔王導が〕答えて言った。「その昔、秦が非道〔な行為〕を行い、庶民は世の乱れに疲れ、大悪人が乱暴を働いていましたので、人々は漢の徳を慕っており、天命を革めて正道に戻すにしても成功を遂げ易かったといえます。〔しかしながら〕魏王朝以来、〔西晋武帝の〕太康年間までの間、大臣や豪族たちは贅沢を誇りあい、政治や道の教えを侮り捨てさって決まりごとに従わなくなっていましたし、諸侯や士人たちは平穏な日々に飽いてしまい、ついには悪人たちに隙に乗じさせて、正しい道を損なうところがあったのです。しかしながら、閉塞状況が極まればそれを打開する方向へと事態が変わっていくのは、天道の常というものです。大王がこの上ない勲功を立てて天下を治めるようになられて初めて、管仲や楽毅もそこに現われたと言うべきで(3)、どうして小さな国の臣下ごときが喩えられることなどありましょうか! どうかお考えを深められ、広く良才の人を採用するようにして下さい。顧栄・賀循・紀瞻・周玘は、皆江南の優秀な人物ですから、どうか厚く礼儀を尽くすようにして下さい。そうすれば天下は治まることでしょう。」元帝は〔その意見を〕受け入れた。
  永嘉末,遷丹楊太守,加輔國將軍。導上牋曰:「昔魏武,達政之主也;荀文若,功臣之最也,封不過亭侯。倉舒,愛子之寵,贈不過別部司馬。以此格萬物,得不局跡乎! 今者臨郡,不問賢愚豪賤,皆加重號,輒有鼓蓋,動見相準。時有不得者,或為恥辱。天官混雜,朝望穨毀。導忝荷重任,不能崇浚山海,而開導亂源,饕竊名位,取紊彝典,謹送鼓蓋加崇之物,請從導始。庶令雅俗區別,群望無惑。」帝下令曰:「導徳重勳高,孤所深倚,誠宜表彰殊禮。而更約己沖心,進思盡誠,以身率衆,宜順其雅志,式允開塞之機。」拜寧遠將軍,尋加振威將軍。愍帝即位,徴吏部郎,不拜。
 永嘉の末年になって、丹楊太守に移り、輔国将軍を加えられた。王導は手紙を送って言った。「その昔、魏武(曹操)は政治に熟達した君主でした。荀文若(荀彧)は功臣の最たるものでしたが、その封爵は亭侯に過ぎません(4)。倉舒(鄧哀王沖)は最愛の子でしたが、贈られたのは別部司馬に過ぎません(5)。このことから全てのことを究めてみれば、その足跡に近付こうとしないでなどいられましょうか! 近頃、郡〔の人々〕を見ていると賢愚や貴賎を問わず、皆に重い称号を与えており、〔彼らは〕しばしば〔高官に見られるような〕儀衛を備えていて、ややもすると〔それが〕標準になっているかのようです。時に〔儀衛を〕備えていないような者がいると、あるいは恥ずかしいと感じているほどです。百官〔の序列〕が乱れているため、朝廷の名声も崩れ落ちようとしています。私は忝くも重任を与えられていますが、山や海を崇めてよく通ずるようにすることができず、さらには混乱のもとを開いて名声と地位を貪り、人として守るべき道を乱すようなことをしていますので、謹んで儀衛や加えて頂いた特権を返上することを、〔まずは手本として〕私より始めさせて頂きたいと存じます。どうか雅なるものと俗なるもので区別をさせて、名士たちが戸惑うことのなきようにして下さい。」元帝が命令を下して言った。「王導は人徳は重いし勲功も高く、私の深く信頼するものであり、本来は特別な礼遇で表彰すべきものである。しかしながら、あらためて自分を抑えて拘らない心を持ち、進んで正しいことを成し遂げようと考え、身をもって人々を従えていこうとしているのであるから、その高尚な志に従い、そうして塞がっていた道〔のように良くない状況〕を打開するための機会とすることを許そう。」寧遠将軍を拝命し、ついで振威将軍を加えられた。愍帝が即位すると、吏部郎として〔都に〕呼び寄せられたが、任命を断った。
  晉國既建,以導為丞相軍諮祭酒。桓彝初過江,見朝廷微弱,謂周顗曰:「我以中州多故,來此欲求全活,而寡弱如此,將何以濟!」憂懼不樂。往見導,極談世事,還,謂顗曰:「向見管夷吾,無復憂矣。」過江人士,毎至暇日,相要出新亭飲宴。周顗中坐而歎曰:「風景不殊,舉目有江河之異。」皆相視流涕。惟導愀然變色曰:「當共勠力王室,克復神州,何至作楚囚相對泣邪!」衆收涙而謝之。俄拜右將軍、揚州刺史、監江南諸軍事,遷驃騎將軍,加散騎常侍、都督中外諸軍、領中書監、録尚書事、假節,刺史如故。導以敦統六州,固辭中外都督。後坐事除節。
 晋国が成立すると、王導を丞相軍諮祭酒とした。桓彝は初めて長江を〔南に〕渡った際、〔元帝の〕朝廷が小さくて弱々しいのを見ると、周顗に言った。「私は中原が紛乱ばかりであったから、こちらへ来て命を保とうと考えていたのに、これほどまでに弱々しいようでは、どうして〔命を保つことなど〕成し遂げられるだろうか!」思い悩んで〔何事にも〕楽しめなかった。王導のもとを訪問し、世の中の出来事を思うまま語り合ってから帰ると、周顗に言った。「たった今、管夷吾(管仲)を見てきた。もう心配することなどないぞ(6)。」江南を渡ってきた士人は、休みの日になるといつも、互いに誘い合って新亭に行って宴会をしていた。周顗が宴の途中で嘆いて言った。「〔一見すると〕風景は違っていないようだが、目を上げてみれば〔やはり〕長江と黄河の違いはあるものですな。」〔それを聞くと〕皆、互いに見て涙を流した。ただ王導だけは顔色を変えて言った。「共に王室のために力を合わせて中原を回復すべきなのであって、どうして楚の囚われ人となって互いに泣き合ってなどいられるのですか!」人々は涙を収めて彼に謝った。しばらくして右将軍・揚州刺史・監江南諸軍事を拝命し、驃騎将軍に移り、散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・録尚書事・仮節を加えられ、〔揚州〕刺史は元のままとした。王導は、王敦が六つの州を統治していることから、中外都督については強く辞退した。後に、事件に連座して仮節を除かれた。
  于時軍旅不息,學校未修,導上書曰:
 当時は戦争が止まず、学校〔制度〕も修復できないでいたので、王導は上書して言った(7)
  夫風化之本在於正人倫,人倫之正存乎設庠序。庠序設,五教明,徳禮洽通,彝倫攸敍,而有恥且格,父子兄弟夫婦長幼之序順,而君臣之義固矣。易所謂「正家而天下定」者也。故聖王蒙以養正,少而教之,使化霑肌骨,習以成性,遷善遠罪而不自知,行成徳立,然後裁之以位。雖王之世子,猶與國子齒,使知道而後貴。其取才用士,咸先本之於學。故周禮,卿大夫獻賢能之書于王,〔一〕王拜而受之,所以尊道而貴士也。人知士之貴由道存,則退而修其身以及家,正其家以及郷,學於郷以登朝,反本復始,各求諸己,敦樸之業著,浮偽之競息,教使然也。故以之事君則忠,用之莅下則仁。孟軻所謂「未有仁而遺其親,義而後其君者也」。
 そもそも、教化の本は人としての道を正すことにあり、人の道の矯正は学校を設けることにあります。学校が設けられ、五常の教えが明らかになり(8)、道徳と礼教が行き渡り、不変の道理が秩序付けられ、そうして〔ようやく〕羞恥心と風格を持つようになります。父子、兄弟、夫婦、長幼の序が道理に適うようになり(9)、そうして〔ようやく〕君臣の義も固まるのです。〔これこそ〕『周易』に言っている「家庭の秩序が上手くいくようになって、天下が定まる(10)」ということです。そのゆえに聖王は正しい道へと修養させられて(11)、幼少から教育を受け、心の内に潤いを与えて、学習して天性とし、善に遷って罪を遠ざけるようになっても自らは意識することなく、行いを正して人徳を立て、そうして後に彼を評価して位を授けるのです。王の世継ぎであっても大夫の子弟と列を同じくし、道徳を理解させて後に〔ようやく〕貴くなるのです。良才を取り賢士を用いるには、みな先に学習に基づきます。それゆえに『周礼』では、公卿や大夫が優れた書を王に献上すれば、王は拝礼してこれを受け取るとあり(12)、〔それは〕道理を尊び士人を貴ぶからなのです。人々は、士人の高貴さが道理〔をわきまえているかどうか〕によって定まるのであることを知ったならば、〔ひとまず〕引き下がって自分自身を修養して、〔それを〕家庭に及ぼし、その家庭を正して〔さらにそれを〕郷里に及ぼし、郷里で学を修め、そうして朝廷に登用されると、始めに戻って再び〔修養〕する〔人が現れる〕のです。〔そうなれば〕それぞれが修養して出世することを自分に求め、情に厚く飾らない行為が評判を得るようになり、うわべだけの飾り合いはなくなるでしょうが、〔それは〕教育がそうさせているのです。それゆえに、学習を受けて君主に仕えるようになれば忠義となれますし、教育の成果で下〔の者たち〕に臨めば仁愛でいられるのです。〔これこそ〕孟子が言っている「仁愛を持ちながらその親を打ち捨てたり、道義を知りながらその主君を後回しにするような人はいない(13)」ということになります。
  自頃皇綱失統,頌聲不興,于今將二紀矣。傳曰「三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩」,而況如此之久乎! 先進忘揖讓之容,後生惟金鼓是聞,干戈日尋,俎豆不設,先王之道彌遠,華偽之俗遂滋,非所以端本靖末之謂也。殿下以命世之資,屬陽九之運,禮樂征伐,翼成中興。誠宜經綸稽古,建明學業,以訓後生,漸之教義,使文武之道墜而復興,俎豆之儀幽而更彰。方今戎虜扇熾,國恥未雪,忠臣義夫所以扼腕拊心。苟禮儀膠固,淳風漸著,則化之所感者深而徳之所被者大。使帝典闕而復補,皇綱弛而更張,獸心革面,饕餮檢情,揖讓而服四夷,緩帶而天下從。得乎其道,豈難也哉! 故有虞舞干戚而化三苗,魯僖作泮宮而服淮夷。桓文之霸,皆先教而後戰。今若聿遵前典,興復道教,擇朝之子弟並入于學,選明博修禮之士而為之師,化成俗定,莫尚於斯。
 近頃では朝廷の綱紀が失われ、太平を祝う声も聞こえてこなくなって、今日までに〔もはや〕二紀にもなろうとしています(14)。伝えにも「三年のあいだ礼を行わなければ、礼は必ず壊れるし、三年のあいだ音楽を奏しなければ、音楽は必ず潰えてしまう(15)」と言っていますが、ましてこれほどまでに〔途絶した時間が〕長くなっていればなおさらでしょう! 先任者たちは手を組み合わせる敬礼の仕方を忘れ、後任たちはただ軍鼓の響きを聞くことだけを考えるようになってしまい、戦争は毎日のように続けられ、祭礼用の器具は整えられることなく、先王の道からはますます遠ざかり、軽佻浮薄な風俗がついに盛んになってしまっており、根本を正し末節を止める理由と言われている状況ではなくなっています。殿下は類い稀れな資質によって、災禍の時運が続いても、礼儀と音楽と征伐で中興を支え成し遂げられました。誠にどうか昔の制度や計画で天下を治め、学業制度を整えて後進たちを訓育し、〔さらに〕これを進めて道義を教えて、文武の道が落ちていたのを再び興し、祭祀の儀礼が分からなくなっていたのを再びはっきりとさせるようにして下さい。今日では胡族が勢力盛んで、晋朝の恥辱もまだ雪ぐことができておらず、忠臣や義士が腕を強く握り締めて悲しみ嘆く原因ともなっています。かりにも礼儀が固まり、素直な気風がしだいに現れるようになれば、教化に感じるものは深く、恩徳を受けるものも多くなるでしょう。帝王の決まりが欠けていたのを再び補い、朝廷の綱紀が緩んでいたのをあらためて張りなおせば、獣のような心の者も過ちを改め、欲深い人も気持ちを抑えるようになって、ひりくだっていながら四方の夷狄を下し、帯を緩めて〔くつろいで〕いながら天下が従ってくれるようになるでしょう。〔だとすれば〕その道を採ることが、どうして難しいでしょうか! それゆえに有虞氏(舜)は武の踊りを舞って三苗を教化し(16)、魯の僖公は学校を作って淮水の夷狄を従えるようになったのです(17)。斉の桓公や晋の文公の覇業は(18)、みな先に教化して、その後に戦っていたのです。今もし古えの教えに従って道徳と教化を復活させ、朝廷の子弟を選んでみな学校に入れて、博学で礼儀を修めた人を選んで彼らの先生としたならば、教化が成功して風俗も定まること、これに勝ることなどありません。
  帝甚納之。
 元帝はこの進言を非常に納得して採用した。
  及帝登尊號,百官陪列,命導升御牀共坐。導固辭,至于三四,曰:「若太陽下同萬物,蒼生何由仰照!」帝乃止。進驃騎大將軍、儀同三司。以討華軼功,封武岡侯。進位侍中、司空、假節、録尚書,領中書監。會太山太守徐龕反,帝訪可以鎮撫河南者,導舉太子左衛率羊鑒。既而鑒敗,抵罪。導上疏曰:「徐龕叛戾,久稽天誅,臣創議征討,調舉羊鑒。鑒闇懦覆師,有司極法。聖恩降天地之施,全其首領。然臣受重任,總録機衡,使三軍挫衄,臣之責也。乞自貶黜,以穆朝倫。」詔不許。尋代賀循領太子太傅。時中興草創,未置史官,導始啓立,於是典籍頗具。時孝懷太子為胡所害,始奉諱,有司奏天子三朝舉哀,群臣一哭而已。導以為皇太子副貳宸極,普天有情,宜同三朝之哀。從之。及劉隗用事,導漸見疏遠,任真推分,澹如也。有識咸稱導善處興廢焉。
 元帝が帝位に登って官僚を傍に従えるようになると、王導に命じて元帝の寝台に上がって一緒に座らせようとした。王導は強く辞退したが、〔命令が〕再三にわたったので言った。「もし太陽が降りてきて万物と同じようにしていたら、人々はどうやって光を浴びればよいというのですか!」元帝はそこで〔命令を〕止めた。驃騎大将軍・儀同三司に昇進した。華軼を討った功績により、武岡侯に封じられた。位を侍中・司空・仮節・録尚書に進め、中書監を兼任した。たまたま太山太守の徐龕が反旗を翻したので、元帝は〔王導に〕河南の地を守護できる者はいないかと尋ねると、王導は太子左衛率の羊鑒を推挙した。まもなく羊鑒が敗北して罪を受けることになった。王導は上疏して言った。「徐龕が反逆しましたが、しばらく征伐を延ばしていましたので、私は征討策を建議して羊鑒を推薦しました。〔しかしながら〕羊鑒は暗愚に臆病で軍隊を全滅させてしまい、担当官は極刑を主張していました。〔幸いにも〕陛下の恩恵が天と地に降り注がれて、羊鑒の首だけは全うすることが出来ました。しかしながら、私は大事な任務を受けて重要な官庁を束ねていながら、朝廷の軍隊を敗北させてしまったのですから、〔これらは〕私の責任です。どうか私自ら官職を下げて朝廷の官僚たちを納得させて頂けるようお願いいたします。」詔して許さなかった。ついで賀循に代わって太子太傅を兼任するようになった。当時は中興も緒に就いたばかりで、まだ史官を置いていなかったので、王導が始めて〔史官を〕立てるよう申し上げ、そこで書籍がたいへん具わるようになった。時に孝懐太子が胡族に殺害されて、初めて喪に服すことになったところ、担当官は天子は三日間声を挙げて哀悼を表し、臣下たちは一回悲しみの声を上げるだけでよいと奏上した。〔しかし〕王導は皇太子は天子に付き従うものであって、全ての人が〔その死に対して〕感じるところがあるだろうから、〔臣下たちも〕三日間の哀悼を同様に行うべきだと述べた。〔そこで〕王導の意見に従った。劉隗が権勢をふるうようになると、王導はしだいに疎んじられるようになったが、情勢に逆らわず分を守り、心安らかな様子であった。識者は皆、王導が順境にも逆境にも上手く身を処していることを褒め称えた。
  王敦之反也,劉隗勸帝悉誅王氏,論者為之危心。導率群從昆弟子姪二十餘人,毎旦詣臺待罪。帝以導忠節有素,特還朝服,召見之。導稽首謝曰:「逆臣賊子,何世無之,豈意今者近出臣族!」帝跣而執之曰:「茂弘,方託百里之命於卿,是何言邪!」乃詔曰:「導以大義滅親,可以吾為安東時節假之。」及敦得志,加導守尚書令。初,西都覆沒,海内思主,群臣及四方並勸進於帝。時王氏強盛,有專天下之心,敦憚帝賢明,欲更議所立,導固爭乃止。及此役也,敦謂導曰:「不從吾言,幾致覆族。」導猶執正議,敦無以能奪。
 王敦が反旗を翻すと、劉隗は元帝に〔王導を含む琅邪〕王氏一族を全て誅殺すべきだと勧めたので、時勢を論ずる者たちはこのために心の中で警戒するようになった。王導は兄弟子供など一族の二十余人を引き連れて、毎朝官庁まで出向いて処罰を待った。元帝は、王導が忠義心をもともと持っていることを分かっていたので、〔犯罪者と対するわけではないことを示すために〕特別に以前と変わらぬ礼服を着用して、彼らを招き入れて会見した。王導が頭を地に付けて謝罪して言った。「逆臣や悪党はいつの世でも無かったことはありませんが、今日まさか親しい私の一族から出てこようとは思いもいたしませんでした!」元帝は裸足で歩いていって彼の手をとると言った。「茂弘(王導の字)よ、今こそ皇帝の統帥権(19)をあなたに託そうと思っていた〔だけな〕のに、何を言い出すのだ!」そこで詔して言った。「王導は大義のために私情を絶つこととしたので、私が安東将軍だった時の節を彼に貸し与えようと思う。」王敦は〔朝廷の実権を奪い取るという〕野望を実現すると、王導に尚書令代行〔の職〕を加えた。当初、長安が壊滅状態になると、天下の人は君主〔の登場〕を願い、群臣や四方〔の諸侯たち〕はみな元帝に即位を勧めた。当時王氏は勢力が盛んで、天下を好きなように動かそうという気持ちを抱いていたので、王敦は元帝が賢明〔な人物〕であることを恐れて、あらためて即位させる人物を議論し直そうと思っていたが、王導が〔王敦の意見に〕強く言い争ったので中止されたのであった。この戦役が起こると、王敦は王導に言った。「私の意見に従わなかったから、危うく一族皆殺しに遭うところだったではないか。」王導はそれでも〔元帝を廃位させるべきではないという〕正しい意見を支持していたため、王敦は無理に変えさせることができなかった。
  自漢魏已來,賜諡多由封爵,雖位通徳重,先無爵者,例不加諡。導乃上疏,稱「武官有爵必諡,卿校常伯無爵不諡,甚失制度之本意也」。從之。自後公卿無爵而諡,導所議也。
 漢魏以来、諡号を賜る場合はたいてい封爵によっており、官位が高く人徳の厚い人物でも、生前に爵位が無ければ前例に従って諡号を加えなかった。王導がそこで上疏して述べた。「武官には爵位があるので必ず諡号が贈られましたが、大臣や近臣〔などの文官〕は爵位が無いので諡号が与えられません。〔これでは〕著しく制度の本意を損なっているというものです。」この意見に従った。後に公卿で爵位が無くても諡号が貰えるようになったのは、王導が建議したことによるのである。
  初,帝愛琅邪王裒,將有奪嫡之議,以問導。導曰:「夫立子以長,且紹又賢,不宜改革。」帝猶疑之。導日夕陳諫,故太子卒定。
 当初、元帝は琅邪王裒を寵愛していたために、嫡子〔の司馬紹〕を廃する議案を出そうと考え、王導に意見を求めることにした。王導が言った。「そもそも嫡子を立てる場合には年長によるものとされています。その上に、司馬紹殿は賢明な方でもあるのですから、改めるべきではありません。」元帝はそれでもこのことを迷っていた。〔そこで〕王導は昼となく夜となく諌言したので、太子はついに〔司馬紹に〕定まった。
  及明帝即位,導受遺詔輔政,解揚州,遷司徒,一依陳群輔魏故事。王敦又舉兵内向。時敦始寢疾,導便率子弟發哀,衆聞,謂敦死,咸有奮志。及帝伐敦,假導節,都督諸軍,領揚州刺史。敦平,進封始興郡公,邑三千戸,賜絹九千匹,進位太保,司徒如故,劍履上殿,入朝不趨,讚拜不名。固讓。帝崩,導復與庾亮等同受遺詔,共輔幼主,是為成帝。加羽葆鼓吹,班劍二十人。及石勒侵阜陵,詔加導大司馬、假黄鉞,出討之。軍次江寧,帝親餞于郊。俄而賊退,解大司馬。
 明帝(司馬紹)が即位すると、王導は〔元帝の〕遺命を受けて政治を補佐することになり、揚州刺史を解かれて、司徒へと移ったが、〔これは〕全て陳群が魏を補佐した故事によるものである(20)。王敦が再び挙兵して、朝廷に対して軍を進めた。その時、王敦は当初から病に伏せていたので、王導はそこで子弟を引き連れて哀悼の儀式を行った。人々は〔このことを〕耳にして、王敦は死んだのだと思い込み、みな勇気を出せるようになった。明帝は王敦を討伐しようとすると、王導に節を貸し与えて諸軍を都督させ、揚州刺史を兼任させた。王敦の乱を平定すると、封爵を始興郡公に進め、邑三千戸と絹九千匹を贈られ、位を太保に進めて司徒は以前のままとした。剣履上殿入朝不趨賛拝不名〔の特権〕を許された。〔しかし、王導は〕強く辞退した。明帝が崩御すると、王導はまた庾亮らと同じく遺命を受けて、共同で幼い主君を補佐することになったが、この幼主が成帝である。羽葆鼓吹、班剣二十人を加えられた。石勒が阜陵に進行すると、詔して王導に大司馬・仮黄鉞を加え、出陣して石勒を討たせようとした。軍が江寧に駐屯すると、成帝は自ら郊外で見送りの宴を催した。しばらくして賊軍が退却したので、大司馬を解かれた。
  庾亮將徴蘇峻,訪之於導。導曰:「峻猜險,必不奉詔。且山藪藏疾,宜包容之。」固爭不從。亮遂召峻。既而難作,六軍敗績,導入宮侍帝。峻以導徳望,不敢加害,猶以本官居己之右。峻又逼乘輿幸石頭,導爭之不得。峻日來帝前肆醜言,導深懼有不測之禍。時路永、匡術、賈寧並説峻,令殺導,盡誅大臣,更樹腹心。峻敬導,不納,故永等貳於峻。導使參軍袁耽潛諷誘永等,謀奉帝出奔義軍。而峻衛御甚嚴,事遂不果。導乃攜二子隨永奔于白石。
 庾亮はいよいよ蘇峻を召しだそうと考え、このことに対して王導から意見を求めた。王導が言った。「蘇峻は疑い深いので、きっと詔を受け入れないだろう。それに木の密生した山というのは悪いところも覆い隠してくれる〔と言われている〕のだから(21)、〔今まで通り、地方に置いて〕彼を包み込んでおいた方が良いでしょう。」強く言い争って承服しなかった。庾亮はついに蘇峻を召しだした。まもなく難事(蘇峻の乱)が起こり、朝廷の軍隊が敗退すると、王導は宮廷に入って成帝の側に付き従うことにした。蘇峻は王導の人望を考えて、あえて害を加えることはせず、なお本官では自分より上席に置いておいた。蘇峻はまた天子に迫って石頭に御幸させようとしたが、王導がこれに言い争ったので成功しなかった。蘇峻は日ごとに成帝の面前にやって来て汚らしい言葉を吐くので、王導は不測の事態が起こるのをひどく心配していた。その頃、路永・匡術・賈寧はみな蘇峻を説得して、王導を殺して大臣を全て誅殺し、あらためて腹心を〔その地位に〕据えようとしていた。〔しかし〕蘇峻は王導を敬って〔進言を〕聞き入れず、そのために路永たちは蘇峻に対して疑問を持つようになった。〔そこで〕王導は参軍の袁耽にひそかに路永らに誘いをかけさせ、成帝を奉じて正義の軍隊のもとへ逃げ出そうと計画していた。しかし蘇峻の警護が極めて厳しかったので、計画は結局成し遂げられなかった。王導はそのために二人の子を連れて、路永に従って白石へと逃れた。
  及賊平,宗廟宮室並為灰燼,温嶠議遷都豫章,三呉之豪請都會稽,二論紛紜,未有所適。導曰:「建康,古之金陵,舊為帝里,又孫仲謀、劉玄徳倶言王者之宅。古之帝王不必以豐儉移都,苟弘衛文大帛之冠,則無往不可。若不績其麻,則樂土為虚矣。且北寇游魂,伺我之隙,一旦示弱,竄於蠻越,求之望實,懼非良計。今特宜鎮之以靜,群情自安。」由是嶠等謀並不行。
 賊軍が平定されると、宗廟や宮廷が全て灰燼に帰してしまったので、温嶠が予章に遷都するよう建議し、三呉(呉・呉興・会稽)の豪族たちは会稽に遷都するよう願い、二つの案で論争が起こって納得いく結論がでなかった。王導が言った「建康は古えの金陵であり、もともと皇帝の居所とされていました。また孫仲謀(孫権)や劉玄徳(劉備)が二人とも王者の住まいだと述べた〔とも言われています〕。古えの帝王は、豊かであったり貧しかったりということで都を遷したわけでは必ずしもありません。かりにも衛の文公の白布の冠〔の心意気〕を広めるつもりであれば、遷っても駄目だという地はありえません(22)。もしその麻を紡がないつもりなのであれば(23)、安楽の地であっても無意味になることでしょう。その上、華北の盗賊たちは命を保っており、我らの隙を窺っているのですから、一旦でも弱みを見せて蛮越の地に逃れ、そこで威望や実力を望んだとしても、おそらく良策とはいえません。今は特にこの地を安静に治めて、人々の感情を穏やかにさせるべきです。」これによって温嶠らの計画は、いずれも実行されなかった。
  導善於因事,雖無日用之益,而歳計有餘。時帑藏空竭,庫中惟有綀數千端,鬻之不售,而國用不給。導患之,乃與朝賢倶制綀布單衣,於是士人翕然競服之,綀遂踴貴。乃令主者出賣,端至一金。其為時所慕如此。
 王導は状況ごとの対応に優れており、日常の利益は〔ほとんど〕なくても、年会計となると余裕があった。当時、国庫が尽きそうになっており、倉の中はただ麻布の織物が数千端あるだけで、この布を売ろうとしても買い手がつかなかったので、国費が賄えなかった。王導はこのことを心配し、そこで朝廷の人士たちと共に麻布で単衣を作っ〔て、みなで着用し〕たので、士人たちは突如として競い合ってこの服を身に着けようとするようになり、麻布〔の価格〕がついには高騰してしまった。そこで担当官に命じて〔倉の中の麻布の織物を〕売り出させたところ、端ごとに一金にもなった。その当時から羨望されていた様子はこの通りであった。
  六年冬,蒸,詔歸胙於導,曰:「無下拜。」導辭疾不敢當。初,帝幼沖,見導,毎拜。又嘗與導書手詔,則云「惶恐言」,中書作詔,則曰「敬問」,於是以為定制。自後元正,導入,帝猶為之興焉。
 〔咸和〕六(331)年の冬、蒸〔の祭り〕があり、詔して神に供えた肉を王導に与えようとして言った。「跪いて拝礼する必要はない。」王導は病気を理由にあえて反対しなかった。当初、成帝は幼かったので、王導に会うと常に拝礼していた。また、常に王導に手紙を送る時は、〔成帝〕自ら筆をとる場合は「惶恐して言わく」と記し、中書に書かせる場合は「敬して問う」と記させ、そうして〔この書き方が〕決まりごとになっていた。〔成長して〕後の元日で王導が入ってきても、成帝はなお彼のために姿勢を起き上がらせていた。
  時大旱,導上疏遜位。詔曰:「夫聖王御世,動合至道,運無不周,故能人倫攸敍,萬物獲宜。朕荷祖宗之重,託於王公之上,不能仰陶玄風,俯洽宇宙,亢陽踰時,兆庶胥怨,邦之不臧,惟予一人。公體道明哲,弘猶深遠,勳格四海,翼亮三世,國典之不墜,實仲山甫補之。而猥崇謙光,引咎克讓,元首之愆,寄責宰輔,祇増其闕。博綜萬機,不可一日有曠。公宜遺履謙之近節,遵經國之遠略。門下速遣侍中以下敦喩。」導固讓。詔累逼之,然後視事。
 時に大きな日照りが起こったので、王導は上疏して位を譲ろうとした。〔そのため〕詔して言う。「そもそも聖王の御世というものは、動きは最上の道徳に合致し、運勢には上手くいかないことがないという。それゆえに人の道は秩序付けられ、万物が上手く行くのである。朕は祖宗の重い使命を荷って、王公の〔さらに〕上(天子の位)を託されたものの、仰いで無為による教化を喜ばしく思うことも、俯いて宇宙を潤わせることもできず、日照りが長く続いて万民が怨恨を抱くようになっているが、国の不幸はただ予一人に〔責任が〕ある。あなたは正道を行って道理に通じ、その広大なさまは深遠で勲功は四海にいたり、三代を補佐して国家の制度を潰えさせなかったのは、実に仲山甫がこれを補佐したようなものである(24)。それなのにみだりに謙虚さを崇めて、責任を負って〔位を〕譲ろうとしている。〔もし、私がその申し出を認めて〕君主の過失の責任を宰相に押し付けるようでは、ただその過ちを増やすばかりになってしまう。〔その上にあなたが〕一切の政務に通暁しているからには、一日として〔職務を〕おろそかにすることはできないのである。あなたには、どうか謙譲の徳を行うなどという些細な節義を捨てて、国を治める遠大な計略に従っていただきたい。門下省は速やかに侍中以下の者を派遣して〔王導に〕言い聞かせなさい。」〔それでも〕王導は強く辞退した。〔そこで〕詔して度々彼に迫り、そうして後に〔ようやく〕職務をとらせることが出来た。
  導簡素寡欲,倉無儲穀,衣不重帛。帝知之,給布萬匹,以供私費。導有羸疾,不堪朝會,帝幸其府,縱酒作樂,後令輿車入殿,其見敬如此。
 王導は素朴で欲に乏しく、倉庫には穀物の蓄えがないし、衣服も絹を重ね着するようなことはなかった。成帝はこのことを知ると、布一万匹を与えて、王導個人の費用に充てさせた。王導は持病を持っており、朝廷での会見に堪えられなくなると、成帝は彼の府まで御幸して、思う存分酒を飲んで音楽を演奏させ〔て見舞いをし〕、後には車に乗って宮殿に入ることを許した。その敬われることはこれほどであったのである。
  石季龍掠騎至歴陽,導請出討之。加大司馬、假黄鉞、中外諸軍事,〔二〕置左右長史、司馬,給布萬匹。俄而賊退,解大司馬,復轉中外大都督,進位太傅,又拜丞相,依漢制罷司徒官以并之。冊曰:「朕夙罹不造,肆陟帝位,未堪多難,禍亂旁興。公文貫九功,武經七徳,外緝四海,内齊八政,天地以平,人神以和,業同伊尹,道隆姫旦。仰思唐虞,登庸雋乂,申命群官,允釐庶績。朕思憑高謨,弘濟遠猷,維稽古建爾于上公,永為晉輔。往踐厥職,敬敷道訓,以亮天工。不亦休哉!公其戒之!」
 石季龍(石虎)が騎兵で略奪して歴陽に至ると、王導は出陣してこれを討たせてくれるよう要請した。大司馬・仮黄鉞・中外諸軍事を加えられ、左右の長史・司馬を置き、布一万匹を贈られた。しばらくして賊軍が退却すると、大司馬を解き、また中外大都督に転任して、位を太傅に進め、また丞相を拝命し、漢の制度に従って司徒の官を止めて丞相職に併せることとした。〔その任命の〕冊に言う。「朕は早くから不幸にも帝位に登ることとなったが、いまだに問題の多さに堪えられず、禍や世の乱れがあまねく興ってしまっている。あなたは文では九功を統べており(25)、武では七徳を成し遂げて(26)、外に向かっては四海をまとめ、内に対しては八政を整えている(27)。〔そのおかげで〕天地は穏やかに、人々の心は和やかになっており、業績は伊尹と同じく、道徳は周公より高いものである(28)。仰いでは尭・舜を慕って(29)、俊才を登用して百官に任命し、諸々の職務を上手く行かせている。朕はその深謀に頼り、普く救済する遠大な計画を思って、古えの例を考えてあなたを上公となして永く晋の補佐としようと思う。進んでこの職に臨み、謹んで道の教えを広めて、天の職務を助けるわけである。また立派でないことがあろうか! あなたはこのことを胸に刻んでおくように!」
  是歳,妻曹氏卒,贈金章紫綬。初,曹氏性妬,導甚憚之,乃密營別館,以處衆妾。曹氏知,將往焉。導恐妾被辱,遽令命駕,猶恐遲之,以所執麈尾柄驅牛而進。司徒蔡謨聞之,戲導曰:「朝廷欲加公九錫。」導弗之覺,但謙退而已。謨曰:「不聞餘物,惟有短轅犢車,長柄麈尾。」導大怒,謂人曰:「吾往與群賢共游洛中,何曾聞有蔡克兒也。」
 この年、妻の曹氏が亡くなり(30)、金章と紫綬を贈られた。もともと曹氏は嫉妬深い性格で、王導は非常に彼女のことを恐れていたので、ひそかに別館を建てて、〔そこに〕多くの妾を置いていた。〔しかし〕曹氏が〔このことを〕知ってしまい、〔自分でその館へ〕向かおうとした。王導は妾が辱めを受けることを恐れて、慌ただしく車を用意させたが、それでもまだ〔曹氏より到着が〕遅れることを心配して、持っていた麈尾の柄の部分で牛を叩き急かしながら進んだ。司徒の蔡謨がこのことを聞きつけ、王導をからかって言った。「朝廷ではあなたに九錫を加えようとしているそうです。」王導はからかわれているとは覚らず、ただ控え目に辞退するばかりであった。蔡謨が言った。「他の物は聞いていませんが、ただ轅の短い犢車と柄の長い麈尾があるようですよ(31)。」王導は激しく怒って〔別の〕人に言った。「私が以前に名士たちと共に洛陽で遊学していた時には、何がどうして、蔡克に子供がいるなどとは聞いたこともなかったものだ。」
  于時庾亮以望重地逼,出鎮於外。南蠻校尉陶稱間説亮當舉兵内向,或勸導密為之防。導曰:「吾與元規休㥻是同,悠悠之談,宜絶智者之口。則如君言,元規若來,吾便角巾還第,復何懼哉!」又與稱書,以為庾公帝之元舅,宜善事之。於是讒間遂息。時亮雖居外鎮,而執朝廷之權,既據上流,擁強兵,趣向者多歸之。導内不能平,常遇西風塵起,舉扇自蔽,徐曰:「元規塵汚人。」
 時に庾亮は人望が厚く門地も〔琅邪王氏に〕迫っており、外任に出て統治していた。南蛮校尉の陶称は秘密裏に庾亮に挙兵して〔建康に〕軍を進めるよう説得し、一方で王導には庾亮の挙兵に備えるよう勧めていた。王導が言った。「私と元規(庾亮の字)とは、喜びも患いも同じ〔ように感じている仲〕であり、落ち着いて話し合うことで、小賢しい者の讒言を絶てばよいのである。それゆえ、もし君の言う通り、元規が〔軍隊を率いて〕やって来るのならば、私は〔隠者の〕頭巾を被って家に帰るだけで、また何を恐れることがあるだろうか!」また、陶称に手紙を送って、庾亮は成帝の義理のおじに当たるから、彼によく仕えるようにと伝えた。こうして〔二人の間での〕讒言はついに止んだ。当時、庾亮は外任にあったけれども、朝廷の実権を握って〔長江の〕上流〔で、いつでも速やかに建康に攻め下ることのできる地〕に拠点を置き、強力な軍隊を擁していたので、取り入ろうとする者の多くが彼の下へと集まった。王導は内心穏やかでなく、いつも西風が塵を巻き上げるのに出会うと、扇を挙げて顔を覆いながらゆっくりと言った。「元規の塵は人を汚す。」
  自漢魏以來,群臣不拜山陵。導以元帝睠同布衣,匪惟君臣而已,毎一崇進,皆就拜,不勝哀戚。由是詔百官拜陵,自導始也。
 漢魏以来、臣下たちは皇帝の陵墓を参拝していなかった。王導は、元帝が地位に拘らない親交を結んでくれて、単なる君臣の間柄だけではなかったので、常にずっと〔元帝陵に〕崇め登っていたので、みな参拝して〔その死の〕悲しみに耐えられなくなっていた。それによって百官に詔して陵墓を〔正式に〕参拝させるようになったが、これは王導から始まったのである。
  咸康五年薨,〔三〕時年六十四。帝舉哀於朝堂三日,遣大鴻臚持節監護喪事,賵襚之禮,一依漢博陸侯及安平獻王故事。及葬,給九游輼輬車、黄屋左纛、前後羽葆鼓吹、武賁班劍百人,中興名臣莫與為比。冊曰:「蓋高位以酬明徳,厚爵以答懋勳;至乎闔棺標跡,莫尚號諡,風流百代,於是乎在。惟公邁達沖虚,玄鑒劭邈;夷淡以約其心,體仁以流其惠;棲遲務外,則名雋中夏,應期濯纓,則潛算獨運。昔我中宗、肅祖之基中興也,下帷委誠而策定江左,拱己宅心而庶績咸熙。故能威之所振,寇虐改心,化之所鼓,檮杌易質;調陰陽之和,通彝倫之紀;遼隴承風,丹穴景附。隆高世之功,復宣武之績,舊物不失,公協其猷。若乃荷負顧命,保朕沖人,遭遇艱圮,夷險委順;拯其淪墜而濟之以道,扶其顛傾而弘之以仁,經緯三朝而蘊道彌曠。方頼高謨,以穆四海,昊天不弔,奄忽薨殂,朕用震慟于心。雖有殷之殞保衡,有周之喪二南,曷諭茲懷! 今遣使持節、謁者僕射任瞻錫諡曰文獻,祠以太牢。魂而有靈,嘉茲榮寵!」
 咸康五(339)年に薨去し、六十四歳であった。成帝は朝廷において三日のあいだ哀悼の意を表し、大鴻臚に節を持たせて葬儀を執り行わせ、車馬や衣服を与える礼は全て漢の博陸侯(霍光)や安平献王(司馬孚)の故事に従った(32)。葬儀になると、九本の垂飾りの輼輬車に〔皇帝専用の〕黄色い傘と垂れ幕飾りを付けて、前後の羽葆鼓吹・武賁班剣百人を提供し、中興の名臣でも〔この特例に〕較べられるものはいなかった。哀冊文に言う。「そもそも高い位というのは美しい徳に酬いたものであり、厚い爵位というのは大きな功労に答えたものである。棺桶を閉じて功績を決める時になっても、〔王導の〕爵号に勝るものはなく、百代に飛び抜けた雅やかさというものは、彼のもとに帰しているのだ。あなたのことを思い返すに、脱俗にして雑念がなく、洞察力に極めて優れ、落ち着いた性格で心を律し、仁を行うことでその恩恵を広めたのである。仕事以外のことに楽しんでも名声が中華の間に傑出し、時勢に応じて世俗を離れても密かな計画をひとりでめぐらしていた。その昔、我が中宗(司馬睿)・粛祖(司馬紹)が中興の基礎を築かれた時には、〔皇帝自らは〕帳を降ろして書物を読んで〔学習するだけで、実際の政治は王導を〕信用して、江南を平定し、〔皇帝は〕手をこまねいて〔王導を〕信頼することで、数々の治績は全て上手くいった。それゆえに威信の振るうところでは残忍な人も心を改め、教化の響くところでは凶悪な人でも性格を変えさせることができたのである。陰陽の和を調えて常に守るべき道を貫き、遼東と隴西も教化を受け、丹穴〔のような僻遠の地〕も懐き慕うようになった(33)。上古の〔人々が成し遂げた〕功績よりも高く、宣帝(司馬懿)や武帝(司馬炎)の治績を回復して、古えの制度を失うことなく、あなたはその計画を整えた。皇帝の遺命を荷って朕のような幼い者を助け、困難に遭っても順境と逆境に逆らうことなく順応し、その滅亡を救って道理を広め、その転覆を支えて仁を広め、三代の朝廷に統治を行って奥深い道はいよいよ明らかになろうとしているようであった。〔それゆえに〕いよいよこれから〔王導の〕高遠な計画に頼って四海を安んじようと思っていたのに、天は憐みをかけて下さらず、にわかに亡くなってしまったので、朕は心が痛むほど悲しんでいる。殷が伊尹を失い(34)、周が周公と召公を無くしたといっても(35)、どうして〔今の〕この気持ちに喩えられるだろうか! 今、使持節・謁者僕射の任瞻を遣わして諡号を贈って文献とし、〔牛・羊・豚の犠牲を全て備えた〕太牢によって祀らせようと思う。魂となっても心があるのであれば、この栄誉を喜んでくれ!」
  二弟:穎、敞,少與導倶知名,時人以穎方温太真,以敞比鄧伯道,並早卒。導六子:悦、恬、洽、協、劭、薈。
 二人の弟、王穎と王敞がいた。若くから王導とともに名を知られ、当時の人は王穎を温嶠と較べ、王敞を鄧攸と比べたが、二人とも早くに亡くなった(36)。王導には六人の息子、王悦・王恬・王洽・王協・王劭・王薈がいる。
  悦字長豫,弱冠有高名,事親色養,導甚愛之。導嘗共悦弈棊,爭道,導笑曰:「相與有瓜葛,[冉β]得為爾邪!」導性儉節,帳下甘果爛敗,令棄之,云:「勿使大郎知。」
 王悦は字を長予といい、二十歳の頃には高い名声があった。親にはその気持ちを推し量るように仕えていたので、王導は彼をとても可愛がっていた。王導は以前に王悦と囲碁を打ち、布石を争うようになると、王導は笑って言った。「お互いに瓜と葛〔のように親しい間柄〕であるのに、どうしてそんなことができるんだ!(37)」王導は倹約性で、帳下が果物を腐らせると、これを捨てさせて言った。「大郎(王悦)には知らせるな。」
  悦少侍講東宮,歴呉王友、中書侍郎,先導卒,諡貞世子。先是,導夢人以百萬錢買悦,潛為祈禱者備矣。尋掘地,得錢百萬,意甚惡之,一皆藏閉。及悦疾篤,導憂念特至,不食積日。忽見一人形状甚偉,被甲持刀,導問:「君是何人?」曰:「僕是蒋侯也。公兒不佳,欲為請命,故來耳。公勿復憂。」因求食,遂噉數升。食畢,勃然謂導曰:「中書患,非可救者。」言訖不見,悦亦殞絶。悦與導語,恒以慎密為端。導還臺,及行,悦未嘗不送至車後,又恒為母曹氏襞斂箱篋中物。悦亡後,導還臺,自悦常所送處哭至臺門,其母長封作篋,不忍復開。
 王悦は若くして皇太子に学問を教え、呉王友・中書侍郎を歴任したが、王導より先に亡くなり、貞世子と諡した。以前、王導は人が百万銭で王悦を買い取ろうとする夢を見たので、ひそかに祈祷者を揃えていた。まもなく地を掘ったところ、銭百万が出てきたので、ひどくうらめしく思って全て仕舞い込んでおいた。王悦の病が篤くなると、王導は心配で堪らなくなり、何日も食事が喉を通らなかった。突然、一人の体格がとても大きく、鎧を着て刀を持ったものが現れたので、王導は尋ねた。「あなたは誰ですか?」〔その人が〕言った。「僕は蒋侯だ。あなたの子の体調が優れないので、命乞いをしてやろうと思って来たのだ。あなたはもう心配しなくてもよい。」そのため食事を求め、ついに数升分も食べてしまった。食事が終わると、出し抜けに王導に言った。「中書〔侍郎である王悦〕の病は、救える物ではなかったようだ。」言い終わると見えなくなり、王悦もまた亡くなってしまった。王悦は王導と話す際には、常に注意〔して聞くように〕することから始めていた。王導が〔自宅から〕官庁に戻ろうと出かける際には、王悦が〔王導の〕車の後に来て見送らないようなことはなかった。また、常に母の曹氏のために箱の中の物を整理整頓していた。王悦が亡くなって後、王導は官庁に戻る際、王悦がいつも見送ってくれていた所から泣きながら城門に辿り着くほどだったし、その母は長いあいだ箱を閉じたままにしてしまい、また開けてみるということに堪えられなかった。
  悦無子,以弟恬子琨為嗣,襲導爵丹楊尹,卒,贈太常。子嘏嗣,尚鄱陽公主,歴中領軍、尚書。卒,子恢嗣,義熙末,為游撃將軍。
 王悦には息子がなかったので、弟の王恬の子の王琨を後継ぎとし(38)、王導の爵位である丹楊尹を継いで、亡くなると太常を贈られた。子の王嘏が継いで、鄱陽公主を娶り、中領軍・尚書を歴任した。亡くなると、子の王恢が継ぎ、義煕の末年に游撃将軍となった。
  恬字敬豫。少好武,不為公門所重。導見悦輒喜,見恬便有怒色。州辟別駕,不行,襲爵即丘子。
 王恬は字を敬予といった。若くから武を好んでいたので、官僚たちに重んぜられなかった(39)。王導は王悦を見るといつも喜び、王恬を見るとたちまち機嫌が悪くなった。州が別駕として招いたが赴かず、即丘子の爵位を継いだ。
  性慠誕,不拘禮法。謝萬嘗造恬,既坐,少頃,恬便入内。萬以為必厚待己,殊有喜色。恬久之乃沐頭散髮而出,據胡牀於庭中曬髮,神氣慠邁,竟無賓主之禮。萬悵然而歸。晩節更好士,多技藝,善弈棊,為中興第一。
 尊大な性格で、礼儀や規則に拘らなかった。謝万がかつて王恬のもとを訪れて、〔座敷に〕座ってから少し経つと、王恬が中に入ってきた。謝万はきっと自分を手厚くもてなしてくれるだろうと思っていたので、とりわけ嬉しげな顔をしていた。〔しかしながら〕王恬はしばらくすると頭を洗って振り乱しながら〔部屋から〕出て行き、庭の腰掛けに座って髪の毛を乾かし始めてしまい、表情も尊大で勝手気ままな様子で、ついに賓客をもてなす礼儀を見せなかった。謝万はがっかりして帰った。晩年には改めて士人を好むようになり、身に着けた芸事が多く、囲碁が得意で、中興より第一〔の腕前〕であった(40)
  遷中書郎。帝欲以為中書令,導固讓,從之。除後將軍、魏郡太守,加給事中,領兵鎮石頭。導薨,去官。俄起為後將軍,復鎮石頭。轉呉國、會稽内史,加散騎常侍。卒,贈中軍將軍,諡曰憲。
 中書郎に遷った。皇帝は中書令にしようと思ったが、王導が強く辞退したのでそれに従った。後将軍・魏郡太守に昇進し、給事中を加えられ、軍隊を率いて石頭を治めた。王導が薨去すると、〔喪に服するために〕官を去った。しばらくして出仕して後将軍となり、再び石頭を治めた。呉国・会稽内史に転任し、散騎常侍を加えられた。亡くなると、中軍将軍を贈られ、諡して憲といった。
  洽字敬和,導諸子中最知名,與荀羨倶有美稱。弱冠,歴散騎、中書郎、中軍長史、司徒左長史、建武將軍、呉郡内史。徴拜領軍,〔四〕尋加中書令,固讓,表疏十上。穆帝詔曰:「敬和清裁貴令,昔為中書郎,吾時尚小,數呼見,意甚親之。今所以用為令,既機任須才,且欲時時相見,共講文章,待以友臣之義。而累表固讓,甚違本懷。其催洽令拜。」苦讓,遂不受。升平二年卒於官,年三十六。二子:珣、珉。
 王洽は字を敬和といい、王導の息子たちの中で最も名を知られて、荀羨とともに良い評判を得ていた。二十歳頃までに、散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武将軍・呉郡内史を歴任した。〔中央に〕呼ばれて領軍を拝命し、まもなく中書令を加えられることになったが、強く辞退して〔その考えを述べた〕文書を十回も提出した。〔すると〕穆帝が詔して言った。「敬和(王洽の字)は風采美しく身分も高いものである。〔その上〕その昔、中書郎であった際、当時の私はまだ小さかったので何度も呼び出しては会ったもので、王洽のことをとても親しく感じている。〔これこそが〕今、登用して中書令とする理由であり、もとより機密を扱う重職には才能が必要とされているし、またしばしば顔を合わせて共に文章を論じ、友人のような臣下として待遇したいと思っている。それなのに何度も表して辞退するとは、私の気持ちに著しく背くものである。王洽を促して拝命させよ。」〔王洽はそれでも〕しきりに辞退して、ついに受けなかった。升平二(358)年、在官中に亡くなり、三十六歳であった(41)。二人の息子、王珣と王珉がいる。
  珣字元琳。弱冠與陳郡謝玄為桓温掾,倶為温所敬重,嘗謂之曰:「謝掾年四十,必擁旄杖節。王掾當作黒頭公。皆未易才也。」珣轉主簿。時温經略中夏,竟無寧歳,軍中機務並委珣焉。文武數萬人,悉識其面。從討袁真,封東亭侯,轉大司馬參軍、琅邪王友、中軍長史、給事黄門侍郎。
 王珣の字は元琳といった。二十歳頃に陳郡の謝玄とともに桓温の掾となり、二人とも桓温に敬い重んじられた。〔桓温は〕常に彼らに言っていた。「謝掾(謝玄)は四十歳になれば、きっと軍隊を統率して節を受けているだろう。王掾(王珣)はおそらく黒い髪の〔若々しい〕公となるだろう。二人とも代わりのいない俊才である。」王珣は主簿に転任した。時に、桓温は中原を攻め取ろうとして、とうとう落ち着いた日々がなかったので、軍中の重要な政務は全て王珣に任せていた。〔それゆえに王珣は〕文官武官数万人について、全てその顔を知っていた。袁真の討伐に従ったことで、東亭侯に封じられ、大司馬参軍・琅邪王友・中軍長史・給事黄門侍郎へと転任した。
  珣兄弟皆謝氏壻,以猜嫌致隙。太傅安既與珣絶婚,又離珉妻,由是二族遂成仇釁。時希安旨,乃出珣為豫章太守,不之官。除散騎常侍,不拜。遷祕書監。安卒後,遷侍中,孝武深杖之。轉輔國將軍、呉國内史,在郡為士庶所悦。徴為尚書右僕射,領吏部,轉左僕射,加征虞將軍,復領太子詹事。
 王珣の兄弟はみな謝氏の婿であったが、妬みから仲違いをするようになっていた。太傅の謝安は王珣と姻族関係を絶ち、また王珉の妻を離縁させたので、このことから両方の一族はついに仇敵となってしまった。当時は謝安の意向が望まれたので、王珣を〔外任に〕出して予章太守としようとしたが、〔王珣は〕任地に向かわなかった。散騎常侍に任命されたが、拝命しなかった。秘書監に移った。謝安が亡くなって後、侍中に移って、孝武帝がとても彼を頼るようになった。輔国将軍・呉国内史に転任し、郡にあっては人々に喜ばれていた。〔中央に〕呼び寄せられて尚書右僕射となり、吏部を兼任し、左僕射に転任して、征虜将軍を加えられた。また、太子詹事を兼任した。
  時帝雅好典籍,珣與殷仲堪、徐邈、王恭、郗恢等並以才學文章見昵於帝。及王國寶自媚於會稽王道子,而與珣等不協,帝慮晏駕後怨隙必生,故出恭、恢為方伯,而委珣端右。珣夢人以大筆如椽與之,既覺,語人云:「此當有大手筆事。」俄而帝崩,哀冊諡議,皆珣所草。
 時に、孝武帝は書籍を好んでいたので、王珣と殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢らはみな学識や文才によって孝武帝に親しくしてもらっていた。王国宝が会稽王道子に媚びへつらうようになると、王珣らと上手くいかなかったので、孝武帝は自分が亡くなって後にきっと仲違いが起こるだろうと心配し、そのために王恭と郗恢を出して地方長官とし、王珣に重任を委ねることにした。王珣は、人が〔屋根瓦を支える〕たるきほどもある大きな筆を彼に与える夢を見て、目を覚ますと、人に語って言った。「これはきっと大いに文筆を振るうことがある、ということであろう。」しばらくして孝武帝が崩御すると、哀冊文や諡議の文は、全て王珣が起草することになった。
  隆安初,國寶用事,謀黜舊臣,遷珣尚書令。王恭赴山陵,欲殺國寶,珣止之曰:「國寶雖終為禍亂,要罪逆未彰,今便先事而發,必大失朝野之望。況擁強兵,竊發於京輦,誰謂非逆! 國寶若遂不改,惡布天下,然後順時望除之,亦無憂不濟也。」恭迺止。既而謂珣曰:「比來視君,一似胡廣。」珣曰:「王陵廷爭,陳平慎默,但問歳終何如耳。」恭尋起兵,國寶將殺珣等,僅而得免,語在國寶傳。二年,恭復舉兵,假珣節,進衛將軍、都督琅邪水陸軍事。事平,上所假節,加散騎常侍。
 隆安初(397)年
(42)、王国宝が権力を握るようになると、もともとの臣下を退けようと図って、王珣を尚書令に移した。王恭は皇帝の陵墓に赴いて、王国宝を殺そうと思ったが、王珣は彼を止めて言った。「王国宝は最後には禍いを起こすでしょうが、罪業を求めてもまだ現れてはいませんから、今王国宝が失敗するのに先んじて軍隊を進発させたならば、きっと朝野の〔人々の〕期待を失ってしまうでしょう。ましてや強兵を擁しておいて、ひそかに首都へと進発させるようでは、誰が反逆ではないなどと言えるでしょうか! 王国宝がもし改めることなく、悪行を天下に広めてしまい、その後に世の期待に沿って彼を除こうとするのであれば、また失敗を恐れる必要はなくなります。」王恭はそこで思い止まった。しばらくして王珣に言った。「近頃、君を見ているが、全く胡広にそっくりだ(43)。」王珣が言った。「王陵は朝廷で諌言し、陳平は黙っていましたが、ただその終わりがどうなったかを考えているだけです(44)。」王恭はまもなく兵を起こし、王国宝は王珣たちを殺害しようとしたが、危ういところで逃れることが出来た。その話は王国宝伝にある。〔隆安〕二(398)年、王恭は再び挙兵すると、王珣に節を貸し与え、衛将軍・都督琅邪水陸軍事に昇進させた。事態が収まると、貸し与えられた節を返却し、散騎常侍を加えられた。
  四年,以疾解職。歳餘,卒,時年五十二。追贈車騎將軍、開府,諡曰獻穆。桓玄與會稽王道子書曰:「珣神情朗悟,經史明徹,風流之美,公私所寄。雖逼嫌謗,才用不盡;然君子在朝,弘益自多。時事艱難,忽爾喪失,歎懼之深,豈但風流相悼而已! 其崎嶇九折,風霜備經,雖頼明公神鑒,亦識會居之故也。卒以壽終,殆無所哀。但情發去來,置之未易耳。」玄輔政,改贈司徒。
 〔隆安〕四(400)年、病のために職を解かれた。一年余りして亡くなり、五十二歳であった(45)。車騎将軍・開府を贈られ、諡して献穆といった。桓玄が会稽王道子に書簡を送って言った。「王珣は顔つきからして賢明で、経典や史書に明るく、風流の美〔を備えた人〕として公私に頼られていました。中傷に迫られても、その才能には尽きることがありません。それゆえに〔王珣のような〕君子が朝廷にあると、益を増すことが自然に多くなっていましたので、時局が大変な時に、にわかに亡くなってしまい、〔私の抱く〕嘆きの深さは、ただ風流について悼んでいるだけではないのです! 不幸に曲がりくねった人生で、風や霜〔のような苦しさ〕を全て経験し、あなたの観察眼によるものとはいえ、〔王珣のような優れた人材が現われた〕上手い具合の巡りあいであったことも感じています。ついに天寿を全うして亡くなったのですから、〔そのことに関しては〕ほとんど悲しむことはありません。しかし、気持ちがあちこちと揺れ動いてしまい、容易には落ち着けられないでいます。」桓玄が政権を執ると、改めて〔王珣に〕司徒を贈った。
  初,珣既與謝安有隙,在東聞安薨,便出京師,詣族弟獻之,曰:「吾欲哭謝公。」獻之驚曰:「所望於法護。」於是直前哭之甚慟。法護,珣小字也。珣五子:弘、虞、柳、〔五〕孺、曇首,宋世並有高名。
 以前、王珣がすでに謝安と仲違いしていた頃、東の地に謝安が薨去したことを聞くと、〔王珣は〕すぐに建康を出て、族弟の王献之のところへ行って述べた。「私は謝公(謝安)〔の死〕を声を出して哀悼しようと思う。」王献之は驚いて言った。「法護殿が〔そのようなことを〕望まれるとは。」そこで、まっすぐ前に向かって声を挙げて激しく哀悼の意を表した。法護は、王珣の小字である。王珣には五人の息子、王弘・王虞・王柳・王孺・王曇首がおり、宋の世にみな高い名声を得た。
  珉字季琰。少有才藝,善行書,名出珣右。時人為之語曰:「法護非不佳,僧彌難為兄。」僧彌,珉小字也。時有外國沙門,名提婆,妙解法理,為珣兄弟講毘曇經。珉時尚幼,講未半,便云已解,即於別室與沙門法綱等數人自講。法綱歎曰:「大義皆是,但小未精耳。」辟州主簿,舉秀才,不行。後歴著作、散騎郎、國子博士、黄門侍郎、侍中,代王獻之為長兼中書令。二人素齊名,世謂獻之為「大令」,珉為「小令」。太元十三年卒,時年三十八,追贈太常。二子:朗、練。義熙中,並歴侍中。
 王珉は字を季琰といった。若くして芸の才能があり、行書に巧みで、その評判は王珣の上に出ていた。当時の人はこのために語って言った。「法護(王珣)が良くないわけではないので、僧弥は兄とはなり難いだろう。」僧弥とは王珉の小字である。時に外国の仏教僧で、提婆という名の者がおり、仏教の道理に精通していたので、王珣兄弟のために毘曇経を解説した。王珉は当時まだ幼かったが、解説が半ばにもならないうちに、もう分かったと言い出した。そこで別室で僧侶の法綱ら数人に対して〔王珉〕自ら解説してみせた。法綱は感嘆して言った。「概ねの意味は全て合っている。ただいくらか詳しくない〔ところがある〕というだけだ。」州の主簿に招かれ、秀才に推挙されたが、断った。後に著作・散騎郎・国子博士・黄門侍郎・侍中を歴任し、王献之に代わって一族の長となって中書令を兼任した。二人は以前から名声が等しかったので、世の人は王献之を「大令」とし、王珉を「小令」と呼んだ。太元十三(388)年に亡くなり、三十八歳であった。太常を追贈された。二人の息子、王朗・王練がいる。義煕年間に、二人とも侍中を歴任した。
  協字敬祖,元帝撫軍參軍,〔六〕襲爵武岡侯,早卒,無子,以弟劭子謐為嗣。
 王協は字を敬祖といい、元帝の撫軍参軍となり、爵位の武岡侯を継いだが、早くに亡くなった。息子がなかったので、弟の王劭の子の王謐を後継ぎとした。
  謐字稚遠。少有美譽,與譙國桓胤、太原王綏齊名。拜祕書郎,襲父爵,遷祕書丞,歴中軍長史、黄門郎、侍中。及桓玄舉兵,詔謐銜命詣玄,玄深敬昵焉。拜建威將軍、呉國内史,未至郡,玄以為中書令、領軍將軍、吏部尚書,遷中書監,加散騎常侍,領司徒。及玄將簒,以謐兼太保,奉璽冊詣玄。玄簒,封武昌縣開國公,加班劍二十人。
 王謐は字を稚遠といった。若くから良い評判を受け、譙国の桓胤・太原の王綏と名声が等しかった。秘書郎を拝命し、父の爵位(武岡侯)を継ぎ、秘書丞に移り、中軍長史・黄門郎・侍中を歴任した。桓玄が挙兵すると、王謐に詔して使命を受けて桓玄のもとへ向かわせ、桓玄は〔王謐を〕敬い近付けた。建威将軍・呉国内史を拝命し、まだ郡に到着する前に、桓玄が中書令・領軍将軍・吏部尚書となし、中書監に移されて、散騎常侍を加えられ、司徒を兼任した。桓玄がいよいよ簒奪を行おうとすると、王謐に太保を兼任させ、玉璽と冊命の文書を受け取って桓玄のところへ持ち来たらせた。桓玄が簒奪すると、〔王謐は〕武昌県開国公に封じられ、班剣二十人を加えられた。
  初,劉裕為布衣,衆未之識也,惟謐獨奇貴之,嘗謂裕曰:「卿當為一代英雄。」及裕破桓玄,謐以本官加侍中,領揚州刺史、録尚書事。謐既受寵桓氏,常不自安。護軍將軍劉毅嘗問謐曰:「璽綬何在?」謐益懼。會王綏以桓氏甥自疑,謀反,父子兄弟皆伏誅。謐從弟諶,少驍果輕侠,欲誘謐還呉,起兵為亂,乃説謐曰:「王綏無罪,而義旗誅之,是除時望也。兄少立名譽,加位地如此,欲不危,得乎!」謐懼而出奔。劉裕牋詣大將軍。武陵王遵,遣人追躡。謐既還,委任如先,加謐班劍二十人。義熙三年卒,時年四十八。追贈侍中、司徒,諡曰文恭。三子:瓘、球、琇。入宋,皆至大官。
 以前、〔後の宋の武帝である〕劉裕が庶民だったので、人々は彼のことを〔優秀な人物だとは〕知らなかったが、ただ王謐だけは彼を優れていると思い、かつて劉裕に言った。「あなたはきっと一代の英雄となられるでしょう。」劉裕が桓玄を破ると、王謐は元の官職に侍中を加えられ、揚州刺史・録尚書事を兼任した。王謐はすでに桓氏から寵愛を受けていたので、いつも〔劉裕から敵視されるのではないかと〕不安であった。護軍将軍の劉毅はかつて王謐に尋ねて言った。「天子の官印はどこにあるのだ?」王謐はますます恐れるようになった。ちょうど王綏は桓氏の甥に当たるところから疑心暗鬼となって、反旗を翻したため、父子兄弟みな誅殺されてしまった。王謐の従弟の王諶は若くして毅然として義を重んじる人柄で、王謐を誘って呉に帰り、挙兵して反乱を起こそうと思って、王謐を説得して言った。「王綏は罪もないのに朝廷の軍隊によって誅殺されましたが、これは当時の名望者が除かれたということです。兄上は若い頃から評判を立てられ、官位もこれほどまでに加えられていますから、危機に陥らないようにと思ったところで叶うものでしょうか!」王謐は怖がって逃げ出すことにした。劉裕は大将軍・武陵王遵に書簡を送り、人を派遣して〔王謐を〕追いかけさせた。王謐が帰ってくると、以前のように仕事を任せ、王謐に班剣二十人を加えた。義煕三(407)年に亡くなり
(46)、四十八歳だった。侍中・司徒を追贈し、諡して文恭といった。三人の息子、王瓘・王球・王琇がいた。宋〔の時代〕に入って、三人とも大官にまでなった。
  劭字敬倫,歴東陽太守、吏部郎、司徒左長史、丹陽尹。劭美姿容,有風操,雖家人近習,未嘗見其墮替之容。桓温甚器之。遷吏部尚書、尚書僕射,領中領軍,出為建威將軍、呉國内史。卒,贈車騎將軍,諡曰簡。三子:穆、默、恢。穆,臨海太守。默,呉國内史,加二千石。恢,右衛將軍。穆三子:簡、智、超。默二子:鑒、惠。義熙中,並歴顯職。
 王劭は字を敬倫といい、東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹を歴任した。王劭は身のこなしが美しく、信念があって、家の人や親しい者であっても、彼のだらけた姿は見たことがなかった。桓温は非常に彼のことを評価していた。吏部尚書・尚書僕射に移り、中領軍を兼任し、〔外任に〕出て建威将軍・呉国内史になった。亡くなると、車騎将軍を贈られ、諡して簡といった。三人の息子、王穆・王黙・王恢がいた。王穆は臨海太守となった。王黙は呉国内史となり、二千石を加えられた。王恢は右衛将軍となった。王穆には三人の息子、王簡・王智・王超がいた。王黙には二人の息子、王鑒・王恵がいた。義煕年間に、二人とも高官を歴任した。
  薈字敬文。恬虚守靖,不競榮利,少歴清官,除吏部郎、侍中、建威將軍、呉國内史。時年饑粟貴,人多餓死,薈以私米作饘粥,以飴餓者,所濟活甚衆。徴補中領軍,不拜。徙尚書,領中護軍,復為征虜將軍、呉國内史。頃之,桓沖表請薈為江州刺史,固辭不拜。轉督浙江東五郡、左將軍、會稽内史,進號鎮軍將軍,加散騎常侍。卒於官,贈衛將軍。
 王薈は字を敬文といった。心静かに穏やかであり、栄誉や利益を競うことはなく、若くから清官を歴任し、吏部郎・侍中・建威将軍・呉国内史に昇進した。当時は毎年の飢饉で穀物〔の価格〕が騰貴しており、人々の多くが餓死していた。〔そこで〕王薈は自家用の米で粥を作って、飢えた者に食べさせてやったので、命を救われた者が非常に多かった。〔中央に〕呼び寄せられて中領軍に任命されたが、受けなかった。尚書に移り、中護軍を兼任し、再び征虜将軍・呉国内史となった。しばらくして、桓沖が表して王薈に江州刺史となってくれるよう要請したが、辞退して受けなかった。督浙江東五郡・左将軍・会稽内史に転任し、号を鎮軍将軍に進め、散騎常侍を加えられた。在官中に亡くなり、衛将軍を贈られた。
  子廞,歴太子中庶子、司徒左長史。以母喪,居于呉。王恭舉兵,假廞建武將軍、呉國内史,令起軍,助為聲援。廞即墨絰合衆,誅殺異己,仍遣前呉國内史虞嘯父等入呉興、義興聚兵,輕侠赴者萬計。廞自謂義兵一動,勢必未寧,可乘間而取富貴。而曾不旬日,國寶賜死,恭罷兵,符廞去職。廞大怒,迴衆討恭。恭遣司馬劉牢之距戰于曲阿,廞衆潰奔走,遂不知所在。長子泰為恭所殺,少子華以不知廞存亡,憂毀布衣蔬食。後從兄謐言其死所,華始發喪,入仕。
 子の王廞は、太子中庶子・司徒左長史を歴任した。母の喪のために呉で生活した。王恭が挙兵すると、王廞に建武将軍・呉国内史を命じ、軍隊を出して援軍の声を挙げさせようとした。王廞はそこで喪服を着たまま人を集め、敵対者を誅殺し、前呉国内史の虞嘯父らを派遣して呉興・義興に入らせて兵を集め、勇敢に集まって来る者が万を単位に数えられるほどになった。王廞は正義の兵が一度動けば、その勢いを止めることは出来ないので、〔争いの起こったこの〕隙に乗じて富貴を取るべきだと言っていた。しかし、十日も経たないうちに王国宝に死が言い渡され、王恭は挙兵を止めて、王廞に文書で職務を離れるよう伝えてきた。王廞は激怒し、軍の矛先を変えて王恭を討伐することにした。王恭は司馬の劉牢之を派遣して曲阿で防戦し、王廞の軍隊は壊滅して散り散りになり、ついには〔王廞の〕行方が分からなくなった。長男の王泰は王恭に殺され、幼い王華は王廞の生死が分からなかったために、悲しみに耐えられず粗衣粗食して体調を崩すほどだった。後に従兄の王謐が王廞の亡くなったところを伝えたので、王華は初めて喪に服し、〔喪の開けた後に〕出仕するようになった。
  初,導渡淮,使郭璞筮之,卦成,璞曰:「吉,無不利。淮水絶,王氏滅。」其後子孫繁衍,竟如璞言。
 以前に、王導は淮水を渡る時に郭璞にその吉凶を占わせたところ、卦が出て、郭璞が言った。「吉にして不利なことはありません。淮水が絶えるような〔ありえない〕ことがあって〔初めて〕、王氏も滅ぶでしょう。」その後、子孫は繁栄し、ついに郭璞の言った通りになった
(47)
  史臣曰:飛龍御天,故資雲雨之勢;帝王興運,必俟股肱之力。軒轅,聖人也,杖師臣而授圖;商湯,哲后也,託負鼎而成業。自斯已降,罔不由之。原夫典午發蹤,本于陵寡,金行撫運,無徳在時。九土未宅其心,四夷已承其弊。既而中原蕩覆,江左嗣興,兆著玄石之圖,乖少康之祀夏;時無思晉之士,異文叔之興劉;輔佐中宗,艱哉甚矣! 茂弘策名枝屏,叶情交好,負其才智,恃彼江湖,思建克復之功,用成翌宣之道。於是王敦内侮,憑天邑而狼顧;蘇峻連兵,指宸居而隼撃。實頼元宰,固懷匪石之心;潛運忠謨,竟翦呑沙之寇。乃誠貫日,主垂餌以終全;貞志陵霜,國綴旒而不滅。觀其開設學校,存乎沸鼎之中,爰立章程,在乎櫛風之際;雖則世道多故,而規模弘遠矣。比夫蕭曹弼漢,六合為家;奭望匡周,萬方同軌,功未半古,不足為儔。至若夷吾體仁,能相小國;孔明踐義,善翊新邦,撫事論情,抑斯之類也。提挈三世,終始一心,稱為「仲父」,蓋其宜矣。恬珣踵徳,副呂虔之贈刀;謐乃隤聲,慚劉毅之徴璽。語曰:「深山大澤,有龍有蛇。」實斯之謂也。
 史臣が言う。空飛ぶ龍に乗って天下を制すると言われ、そのために雲や雨の勢いを借りようとするものなのである。帝王が時運を起こそうとすれば、必ず股肱の臣の力を期待しなければならない。軒轅(黄帝)は聖人であるが(48)、〔それでも〕大臣に頼って〔統治の〕方策を受けたのであるし、商の湯王は賢明な主君であるが、〔それでも〕鼎を負う伊尹を信頼して大業を成し遂げたのである(49)。これ以降、この賢臣を恃むという方法によらなかったものはない。もともと晋朝がその兆しを現したのは、君主を侮ったことに基き、〔晋朝の〕金徳が時運に順応するようになったといっても、当時に徳があったわけではないのである。全土はいまだその心を〔晋朝に〕寄せていないし、四方の夷狄はすでにその害毒を引き継ごうとしていた。すでに中原(の西晋)は壊滅し、江南で再興しようとして、その兆しが玄石の図に現われたといっても(50)、少康の夏を祀る故事とは違うし(51)、当時は晋朝を思ってくれる士人もいなかったわけだから、劉秀が劉氏を再興した場合とも異なるのであって(52)、中宗(司馬睿)を補佐することはあまりにも困難だったのだ! 王導は朝廷のために献身して支え、気持ちを通じて親交を結び、その才能と知力を引提げて、あの長江や湖の〔要害の〕地を恃んで、回復の功を打ち立てることを考え、そうして補佐して広めるという道を成し遂げようとしたのである(53)。この時に王敦は内向きに侮り、首都を占拠して狼のように貪欲な目つきをし、蘇峻は兵隊を連ねて、帝王の居城を指して隼のごとく猛烈な攻撃をしかけた。〔そこで〕実に丞相に頼って、固く石のように変わらない気持ちを抱き、ひそかに忠義の謀をめぐらして、ついに地を侵略する逆賊を切り取ったのである。その忠誠が日を貫く天象を起こし、君主は〔危険なところに〕餌を置くような目に遭っても終わりを全うすることができたし(54)、しっかりした決意は何者をも恐れることなく、国は危難に陥っても滅びなかった。その学校を開設したことを見ても、動乱の時勢に行われたことであり、そこに制度や法規を立てたことも、風で髪をすく〔ような苦労をする〕時に行われたことであって(55)、世が移り代わり多事多難であったにもかかわらず、〔王導の手がけた政務の〕範囲は遠大なものであった。蕭何や曹参が漢を助けて天下を〔一つの〕家としたことや(56)、召公や太公望が周を補佐して全世界を統一したことと比較したならば(57)、〔王導の〕功績は古えの半分にも満たないので、同類とするには十分ではない。〔しかしながら〕管仲が仁を行ってよく〔斉のような〕小国の宰相として務めたことや(58)、諸葛亮が義を実践してよく〔蜀のような〕新興国家を助けたこと〔と比較する〕に至るのであれば(59)、情勢を考え事情を述べてみても、そもそも〔王導は〕彼らの類だとすることができよう。三代〔の皇帝〕を補佐して、〔忠義の〕一心を貫いたのであるから、「仲父」と呼ばれたというのも、もとより当然のことであろう。王恬・王珣は〔王導の〕人徳を踏襲し、呂虔が刀を贈ったことと釣り合っていた(60)。王謐になって名声を損ない、劉毅が玉璽を求めたことを恥じることとなった。〔ある人は〕語って言っている。「深い山や大きな沢であれば、龍もいるし蛇もいるものだ(61)。」真にその述べる通りである。
  贊曰:贙嘯猋馳,龍升雲映。武岡矯矯,匡時緝政。懿績克宣,忠規靡競。契叶三主,榮逾九命。貽刀表祥,筮水流慶。赫矣門族,重光斯盛。
 賛に言う。贙が啼き暴風は起こり(62)、龍が昇り雲は映える。武岡〔公となった王導は〕超然として、時局を正して政治を調う。立派な功績はよく広がり、心を尽くした謀は競うものもない。契りを三人の主君と交わし、栄誉は九命を超えた(63)。刀を贈っては幸いを表し、川を占っては慶びが流れる。その一族は輝いて、代々光り続けて隆盛した。


更新履歴
2005.10.27:第一版。
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