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update:2022.12.13 担当:解體晉書
晋書巻六十五
列伝第三十五
王導 子悦 洽子珣 劭子謐
人物簡介

王導(276〜339)は字を茂弘といい、光禄大夫王覧の孫、鎮軍司馬王裁の子である。親交のあった琅邪王司馬睿(後の元帝)を支えて、東晋王朝の成立に大きな功績があり、侍中・司空・仮節・録尚書に昇進した。一族の王敦が反乱を起こすと、一時苦しい立場におかれたが、恭順を貫くことで許された。司馬睿の死後は、遺命を受けて明帝・成帝を補佐し、とりわけ成帝からは他に類を見ないほどの礼遇を受けた。咸康五年(339)に薨去した。享年六十四。葬儀に与えられた特例も、東晋の臣下で較べられるものがないほどであった。文献と諡された。

王悦(生没年不詳)は字を長予といい、王導の子である。両親に孝養を尽くして王導にも期待されていた。呉王友や中書侍郎を歴任したが、父より先に亡くなり、王導とその妻曹氏をひどく悲しませた。貞世子と諡された。

王恬(生没年不詳)は字を敬予といい、王導の子である。兄と王悦と違い、尊大な性格だったので、王導は彼を見ると機嫌を悪くしたという。また囲碁の名手であった。中書令に昇進する際には、王導の辞退により止められた。後に呉国と会稽の内史となり、散騎常侍を加えられた。亡くなると中軍将軍を追贈され、憲と諡された。

王洽(323〜358)は字を敬和といい、王導の子である。若くして呉郡内史などを歴任したが、中書令の辞令を受けた際には、穆帝直々の要請を受けたものの、結局拝命しなかった。在官中の升平二年(358)に亡くなった。享年三十六。

王協(生没年不詳)は字を敬祖といい、王導の子である。撫軍参軍となり、武岡侯を継いだが、早くに亡くなった。

王劭(生没年不詳)は字を敬倫といい、王導の子である。丹陽尹などを歴任し、吏部尚書・尚書僕射に移り、建威将軍・呉国内史となった。亡くなると、車騎将軍を追贈され、簡と諡された。

王薈(生没年不詳)は字を敬文といい、王導の子である。栄誉を求めず、飢饉の際には人々に食事を提供したこともあった。呉国内史などを歴任し、会稽内史に転任して散騎常侍を加えられた。在官中に亡くなると、衛将軍を追贈された。

王珣(349〜400)は字を元琳といい、王導の孫、王洽の子である。陳郡謝玄とともに桓温の掾となり、将来は「黒頭公」になると称えられた。謝安と仲違いをして一時期不遇であったが、謝安の死後、侍中に移り、孝武帝に信頼されるようになった。王恭が王国宝らに対して再び挙兵すると、衛将軍・都督琅邪水陸軍事となった。隆安四年(400)に病のため職を解かれ、同年五月丙寅に亡くなった。享年五十二。車騎将軍・開府を追贈され、献穆と諡された。

王珉(351〜388)は字を季琰といい、王導の孫、王洽の子である。行書に巧みで、そのためか王献之とも名声が等しかったという。黄門侍郎や侍中などを歴任し、後には中書令を兼任した。太元十三年(388)に亡くなった。享年三十八。太常を追贈された。

王謐(360〜407)は字を稚遠といい、王導の孫、王劭の子である。黄門侍郎や侍中などを歴任し、桓玄に信頼されて中書監に移され、司徒を兼任した。桓玄の簒奪の際には、皇帝の玉璽と冊命の文書を東晋朝廷から取ってくる役目を果たした。桓玄が簒奪すると、武昌県開国公に封じられた。後に桓玄を倒した劉裕を恐れて逃げ出したが、以前に劉裕を誉めたことがあったため、疎んじられることなく職務を任された。義煕三年(407)に亡くなった。享年四十八。侍中・司徒を追贈され、文恭と諡された。

本文

王導は字を茂弘といい、光禄大夫王覧の孫である。父の王裁は、鎮軍司馬であった。王導は若い頃から品格と識見を備え、その度量も奥深いものであった。十四歳の時、陳留の高名な士である張公という人物が、彼と会って優秀だと思ったので、王導の従兄の王敦に言った。「この子の容貌や意気込みは、将軍や宰相の器といえよう。」初めは祖父の爵位である即丘子を引き継いだ。ついで、司空の劉寔が〔彼を〕招いて東閤祭酒とし、秘書郎・太子舎人・尚書郎へと辞令が移ったが、全て受けなかった。後に東海王越の軍事に入った。

当時、〔後の〕元帝は琅邪王となっており、王導とも以前から親交を深め合っていた。王導は天下がすでに乱れていることを見定めると、ついに〔元帝に〕心を寄せて主君として押し戴き、〔晋朝〕再興の意志を心密かに抱くようになっていた。元帝もまた気品があって振舞いも落ち着いており、〔王導とは〕気心の知れた友人のように息が合っていた。元帝が洛陽にあった時には、王導は常に〔洛陽を離れて〕封国に向かうよう勧めていた。たまたま元帝が下邳に移って治めることになると、王導を招いて安東司馬とし、軍事上の作戦や機密の計画に〔王導が〕関与しないことはなかった。建康に治所を移したところ、〔旧の〕呉の人々は〔元帝に〕従おうとせず、一月あまり経過しても、〔元帝のもとに〕やって来る者がいなかったため、王導はこのことを心配していた。ちょうど王敦が来ていたので、王導は彼に言った。「琅邪王閣下は仁徳の厚い御方ではありますが、その名声がまだまだ軽いのです。〔その点〕兄上の威厳はすでに広まっていますから、どうか助けて頂きたい。」たまたま三月の上巳の日だったので、元帝は自ら禊の様子を見学することにし、肩輿に乗って従者をそなえ、王敦や王導など人望の高い人が皆で騎馬して従うことにした。呉の人の紀瞻や顧栄はどちらも江南の名士であるが、ひそかにこの行列〔の様子〕を窺い、これほどの〔盛大な威儀をそなえている〕様子に皆驚いてしまい、〔人々を〕引き連れあって道端で〔元帝らに〕拝礼することにした。王導は、そこで進言した。「古えの王は、有徳の老人を客人としてもてなし、〔地域の〕風習を見舞って、虚心に人の意見を聞き入れて俊才を招くようにしなかったことなどありませんでした。まして、〔今は〕天下が混乱して全土は分裂し、大業も緒に就いたばかりで早急に人材を獲得しておかなければならない〔時期な〕のですから、なおさらでしょう! 顧栄・賀循はこの地の名士ですから、彼らを〔味方に〕引き入れて〔呉の〕人心を得ておくに越したことはありません。二人が来てさえくれれば、やって来ない者などなくなるでしょう。」元帝はそこで、王導自らに賀循と顧栄のもとへ向かわせたところ、二人とも命に応じてやって来た。このことによって呉の社会はなびくように従い、庶民も心を寄せるようになった。この後、しだいに〔元帝を〕尊び奉るようになり、君臣の礼儀も始めて定まった。

しばらくして洛陽が崩壊すると、中原の人々で混乱を江南の地に避けようとやって来る者が、六・七割にもなり、王導はその中の賢人を採用して、彼らと作戦を練るよう元帝に勧めた。当時、荊州や揚州の地は〔華北と違って〕安らかに治まっており、人口も増えていた。王導は政治を行う時には穏やかに落ち着いているよう務め、常に元帝には私欲に打ち勝って己を磨くように勧めて、君主を助け国家を安泰にしていた。そこで最も信頼されるようになり、〔人々との〕親交も日ごとに深まって、朝野の人々は彼を慕って「仲父」と呼ぶようになった(1)。元帝は、かつてくつろぎながら王導に言った。「あなたは私にとっての蕭何だ(2)。」〔王導が〕答えて言った。「その昔、秦が非道〔な行為〕を行い、庶民は世の乱れに疲れ、大悪人が乱暴を働いていましたので、人々は漢の徳を慕っており、天命を革めて正道に戻すにしても成功を遂げ易かったといえます。〔しかしながら〕魏王朝以来、〔西晋武帝の〕太康年間までの間、大臣や豪族たちは贅沢を誇りあい、政治や道の教えを侮り捨てさって決まりごとに従わなくなっていましたし、諸侯や士人たちは平穏な日々に飽いてしまい、ついには悪人たちに隙に乗じさせて、正しい道を損なうところがあったのです。しかしながら、閉塞状況が極まればそれを打開する方向へと事態が変わっていくのは、天道の常というものです。大王がこの上ない勲功を立てて天下を治めるようになられて初めて、管仲や楽毅もそこに現われたと言うべきで(3)、どうして小さな国の臣下ごときが喩えられることなどありましょうか! どうかお考えを深められ、広く良才の人を採用するようにして下さい。顧栄・賀循・紀瞻・周玘は、皆江南の優秀な人物ですから、どうか厚く礼儀を尽くすようにして下さい。そうすれば天下は治まることでしょう。」元帝は〔その意見を〕受け入れた。

永嘉の末年になって、丹楊太守に移り、輔国将軍を加えられた。王導は手紙を送って言った。「その昔、魏武(曹操)は政治に熟達した君主でした。荀文若(荀彧)は功臣の最たるものでしたが、その封爵は亭侯に過ぎません(4)。倉舒(鄧哀王沖)は最愛の子でしたが、贈られたのは別部司馬に過ぎません(5)。このことから全てのことを究めてみれば、その足跡に近付こうとしないでなどいられましょうか! 近頃、郡〔の人々〕を見ていると賢愚や貴賎を問わず、皆に重い称号を与えており、〔彼らは〕しばしば〔高官に見られるような〕儀衛を備えていて、ややもすると〔それが〕標準になっているかのようです。時に〔儀衛を〕備えていないような者がいると、あるいは恥ずかしいと感じているほどです。百官〔の序列〕が乱れているため、朝廷の名声も崩れ落ちようとしています。私は忝くも重任を与えられていますが、山や海を崇めてよく通ずるようにすることができず、さらには混乱のもとを開いて名声と地位を貪り、人として守るべき道を乱すようなことをしていますので、謹んで儀衛や加えて頂いた特権を返上することを、〔まずは手本として〕私より始めさせて頂きたいと存じます。どうか雅なるものと俗なるもので区別をさせて、名士たちが戸惑うことのなきようにして下さい。」元帝が命令を下して言った。「王導は人徳は重いし勲功も高く、私の深く信頼するものであり、本来は特別な礼遇で表彰すべきものである。しかしながら、あらためて自分を抑えて拘らない心を持ち、進んで正しいことを成し遂げようと考え、身をもって人々を従えていこうとしているのであるから、その高尚な志に従い、そうして塞がっていた道〔のように良くない状況〕を打開するための機会とすることを許そう。」寧遠将軍を拝命し、ついで振威将軍を加えられた。愍帝が即位すると、吏部郎として〔都に〕呼び寄せられたが、任命を断った。

晋国が成立すると、王導を丞相軍諮祭酒とした。桓彝は初めて長江を〔南に〕渡った際、〔元帝の〕朝廷が小さくて弱々しいのを見ると、周顗に言った。「私は中原が紛乱ばかりであったから、こちらへ来て命を保とうと考えていたのに、これほどまでに弱々しいようでは、どうして〔命を保つことなど〕成し遂げられるだろうか!」思い悩んで〔何事にも〕楽しめなかった。王導のもとを訪問し、世の中の出来事を思うまま語り合ってから帰ると、周顗に言った。「たった今、管夷吾(管仲)を見てきた。もう心配することなどないぞ(6)。」江南を渡ってきた士人は、休みの日になるといつも、互いに誘い合って新亭に行って宴会をしていた。周顗が宴の途中で嘆いて言った。「〔一見すると〕風景は違っていないようだが、目を上げてみれば〔やはり〕長江と黄河の違いはあるものですな。」〔それを聞くと〕皆、互いに見て涙を流した。ただ王導だけは顔色を変えて言った。「共に王室のために力を合わせて中原を回復すべきなのであって、どうして楚の囚われ人となって互いに泣き合ってなどいられるのですか!」人々は涙を収めて彼に謝った。しばらくして右将軍・揚州刺史・監江南諸軍事を拝命し、驃騎将軍に移り、散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・録尚書事・仮節を加えられ、〔揚州〕刺史は元のままとした。王導は、王敦が六つの州を統治していることから、中外都督については強く辞退した。後に、事件に連座して仮節を除かれた。

当時は戦争が止まず、学校〔制度〕も修復できないでいたので、王導は上書して言った(7)

そもそも、教化の本は人としての道を正すことにあり、人の道の矯正は学校を設けることにあります。学校が設けられ、五常の教えが明らかになり(8)、道徳と礼教が行き渡り、不変の道理が秩序付けられ、そうして〔ようやく〕羞恥心と風格を持つようになります。父子、兄弟、夫婦、長幼の序が道理に適うようになり(9)、そうして〔ようやく〕君臣の義も固まるのです。〔これこそ〕『周易』に言っている「家庭の秩序が上手くいくようになって、天下が定まる(10)」ということです。そのゆえに聖王は正しい道へと修養させられて(11)、幼少から教育を受け、心の内に潤いを与えて、学習して天性とし、善に遷って罪を遠ざけるようになっても自らは意識することなく、行いを正して人徳を立て、そうして後に彼を評価して位を授けるのです。王の世継ぎであっても大夫の子弟と列を同じくし、道徳を理解させて後に〔ようやく〕貴くなるのです。良才を取り賢士を用いるには、みな先に学習に基づきます。それゆえに『周礼』では、公卿や大夫が優れた書を王に献上すれば、王は拝礼してこれを受け取るとあり(12)、〔それは〕道理を尊び士人を貴ぶからなのです。人々は、士人の高貴さが道理〔をわきまえているかどうか〕によって定まるのであることを知ったならば、〔ひとまず〕引き下がって自分自身を修養して、〔それを〕家庭に及ぼし、その家庭を正して〔さらにそれを〕郷里に及ぼし、郷里で学を修め、そうして朝廷に登用されると、始めに戻って再び〔修養〕する〔人が現れる〕のです。〔そうなれば〕それぞれが修養して出世することを自分に求め、情に厚く飾らない行為が評判を得るようになり、うわべだけの飾り合いはなくなるでしょうが、〔それは〕教育がそうさせているのです。それゆえに、学習を受けて君主に仕えるようになれば忠義となれますし、教育の成果で下〔の者たち〕に臨めば仁愛でいられるのです。〔これこそ〕孟子が言っている「仁愛を持ちながらその親を打ち捨てたり、道義を知りながらその主君を後回しにするような人はいない(13)」ということになります。

近頃では朝廷の綱紀が失われ、太平を祝う声も聞こえてこなくなって、今日までに〔もはや〕二紀にもなろうとしています(14)。伝えにも「三年のあいだ礼を行わなければ、礼は必ず壊れるし、三年のあいだ音楽を奏しなければ、音楽は必ず潰えてしまう(15)」と言っていますが、ましてこれほどまでに〔途絶した時間が〕長くなっていればなおさらでしょう! 先任者たちは手を組み合わせる敬礼の仕方を忘れ、後任たちはただ軍鼓の響きを聞くことだけを考えるようになってしまい、戦争は毎日のように続けられ、祭礼用の器具は整えられることなく、先王の道からはますます遠ざかり、軽佻浮薄な風俗がついに盛んになってしまっており、根本を正し末節を止める理由と言われている状況ではなくなっています。殿下は類い稀れな資質によって、災禍の時運が続いても、礼儀と音楽と征伐で中興を支え成し遂げられました。誠にどうか昔の制度や計画で天下を治め、学業制度を整えて後進たちを訓育し、〔さらに〕これを進めて道義を教えて、文武の道が落ちていたのを再び興し、祭祀の儀礼が分からなくなっていたのを再びはっきりとさせるようにして下さい。今日では胡族が勢力盛んで、晋朝の恥辱もまだ雪ぐことができておらず、忠臣や義士が腕を強く握り締めて悲しみ嘆く原因ともなっています。かりにも礼儀が固まり、素直な気風がしだいに現れるようになれば、教化に感じるものは深く、恩徳を受けるものも多くなるでしょう。帝王の決まりが欠けていたのを再び補い、朝廷の綱紀が緩んでいたのをあらためて張りなおせば、獣のような心の者も過ちを改め、欲深い人も気持ちを抑えるようになって、ひりくだっていながら四方の夷狄を下し、帯を緩めて〔くつろいで〕いながら天下が従ってくれるようになるでしょう。〔だとすれば〕その道を採ることが、どうして難しいでしょうか! それゆえに有虞氏(舜)は武の踊りを舞って三苗を教化し(16)、魯の僖公は学校を作って淮水の夷狄を従えるようになったのです(17)。斉の桓公や晋の文公の覇業は(18)、みな先に教化して、その後に戦っていたのです。今もし古えの教えに従って道徳と教化を復活させ、朝廷の子弟を選んでみな学校に入れて、博学で礼儀を修めた人を選んで彼らの先生としたならば、教化が成功して風俗も定まること、これに勝ることなどありません。

元帝はこの進言を非常に納得して採用した。

元帝が帝位に登って官僚を傍に従えるようになると、王導に命じて元帝の寝台に上がって一緒に座らせようとした。王導は強く辞退したが、〔命令が〕再三にわたったので言った。「もし太陽が降りてきて万物と同じようにしていたら、人々はどうやって光を浴びればよいというのですか!」元帝はそこで〔命令を〕止めた。驃騎大将軍・儀同三司に昇進した。華軼を討った功績により、武岡侯に封じられた。位を侍中・司空・仮節・録尚書に進め、中書監を兼任した。たまたま太山太守の徐龕が反旗を翻したので、元帝は〔王導に〕河南の地を守護できる者はいないかと尋ねると、王導は太子左衛率の羊鑒を推挙した。まもなく羊鑒が敗北して罪を受けることになった。王導は上疏して言った。「徐龕が反逆しましたが、しばらく征伐を延ばしていましたので、私は征討策を建議して羊鑒を推薦しました。〔しかしながら〕羊鑒は暗愚に臆病で軍隊を全滅させてしまい、担当官は極刑を主張していました。〔幸いにも〕陛下の恩恵が天と地に降り注がれて、羊鑒の首だけは全うすることが出来ました。しかしながら、私は大事な任務を受けて重要な官庁を束ねていながら、朝廷の軍隊を敗北させてしまったのですから、〔これらは〕私の責任です。どうか私自ら官職を下げて朝廷の官僚たちを納得させて頂けるようお願いいたします。」詔して許さなかった。ついで賀循に代わって太子太傅を兼任するようになった。当時は中興も緒に就いたばかりで、まだ史官を置いていなかったので、王導が始めて〔史官を〕立てるよう申し上げ、そこで書籍がたいへん具わるようになった。時に孝懐太子が胡族に殺害されて、初めて喪に服すことになったところ、担当官は天子は三日間声を挙げて哀悼を表し、臣下たちは一回悲しみの声を上げるだけでよいと奏上した。〔しかし〕王導は皇太子は天子に付き従うものであって、全ての人が〔その死に対して〕感じるところがあるだろうから、〔臣下たちも〕三日間の哀悼を同様に行うべきだと述べた。〔そこで〕王導の意見に従った。劉隗が権勢をふるうようになると、王導はしだいに疎んじられるようになったが、情勢に逆らわず分を守り、心安らかな様子であった。識者は皆、王導が順境にも逆境にも上手く身を処していることを褒め称えた。

王敦が反旗を翻すと、劉隗は元帝に〔王導を含む琅邪〕王氏一族を全て誅殺すべきだと勧めたので、時勢を論ずる者たちはこのために心の中で警戒するようになった。王導は兄弟子供など一族の二十余人を引き連れて、毎朝官庁まで出向いて処罰を待った。元帝は、王導が忠義心をもともと持っていることを分かっていたので、〔犯罪者と対するわけではないことを示すために〕特別に以前と変わらぬ礼服を着用して、彼らを招き入れて会見した。王導が頭を地に付けて謝罪して言った。「逆臣や悪党はいつの世でも無かったことはありませんが、今日まさか親しい私の一族から出てこようとは思いもいたしませんでした!」元帝は裸足で歩いていって彼の手をとると言った。「茂弘(王導の字)よ、今こそ皇帝の統帥権(19)をあなたに託そうと思っていた〔だけな〕のに、何を言い出すのだ!」そこで詔して言った。「王導は大義のために私情を絶つこととしたので、私が安東将軍だった時の節を彼に貸し与えようと思う。」王敦は〔朝廷の実権を奪い取るという〕野望を実現すると、王導に尚書令代行〔の職〕を加えた。当初、長安が壊滅状態になると、天下の人は君主〔の登場〕を願い、群臣や四方〔の諸侯たち〕はみな元帝に即位を勧めた。当時王氏は勢力が盛んで、天下を好きなように動かそうという気持ちを抱いていたので、王敦は元帝が賢明〔な人物〕であることを恐れて、あらためて即位させる人物を議論し直そうと思っていたが、王導が〔王敦の意見に〕強く言い争ったので中止されたのであった。この戦役が起こると、王敦は王導に言った。「私の意見に従わなかったから、危うく一族皆殺しに遭うところだったではないか。」王導はそれでも〔元帝を廃位させるべきではないという〕正しい意見を支持していたため、王敦は無理に変えさせることができなかった。

漢魏以来、諡号を賜る場合はたいてい封爵によっており、官位が高く人徳の厚い人物でも、生前に爵位が無ければ前例に従って諡号を加えなかった。王導がそこで上疏して述べた。「武官には爵位があるので必ず諡号が贈られましたが、大臣や近臣〔などの文官〕は爵位が無いので諡号が与えられません。〔これでは〕著しく制度の本意を損なっているというものです。」この意見に従った。後に公卿で爵位が無くても諡号が貰えるようになったのは、王導が建議したことによるのである。

当初、元帝は琅邪王裒を寵愛していたために、嫡子〔の司馬紹〕を廃する議案を出そうと考え、王導に意見を求めることにした。王導が言った。「そもそも嫡子を立てる場合には年長によるものとされています。その上に、司馬紹殿は賢明な方でもあるのですから、改めるべきではありません。」元帝はそれでもこのことを迷っていた。〔そこで〕王導は昼となく夜となく諌言したので、太子はついに〔司馬紹に〕定まった。

明帝(司馬紹)が即位すると、王導は〔元帝の〕遺命を受けて政治を補佐することになり、揚州刺史を解かれて、司徒へと移ったが、〔これは〕全て陳群が魏を補佐した故事によるものである(20)。王敦が再び挙兵して、朝廷に対して軍を進めた。その時、王敦は当初から病に伏せていたので、王導はそこで子弟を引き連れて哀悼の儀式を行った。人々は〔このことを〕耳にして、王敦は死んだのだと思い込み、みな勇気を出せるようになった。明帝は王敦を討伐しようとすると、王導に節を貸し与えて諸軍を都督させ、揚州刺史を兼任させた。王敦の乱を平定すると、封爵を始興郡公に進め、邑三千戸と絹九千匹を贈られ、位を太保に進めて司徒は以前のままとした。剣履上殿入朝不趨賛拝不名〔の特権〕を許された。〔しかし、王導は〕強く辞退した。明帝が崩御すると、王導はまた庾亮らと同じく遺命を受けて、共同で幼い主君を補佐することになったが、この幼主が成帝である。羽葆鼓吹、班剣二十人を加えられた。石勒が阜陵に進行すると、詔して王導に大司馬・仮黄鉞を加え、出陣して石勒を討たせようとした。軍が江寧に駐屯すると、成帝は自ら郊外で見送りの宴を催した。しばらくして賊軍が退却したので、大司馬を解かれた。

庾亮はいよいよ蘇峻を召しだそうと考え、このことに対して王導から意見を求めた。王導が言った。「蘇峻は疑い深いので、きっと詔を受け入れないだろう。それに木の密生した山というのは悪いところも覆い隠してくれる〔と言われている〕のだから(21)、〔今まで通り、地方に置いて〕彼を包み込んでおいた方が良いでしょう。」強く言い争って承服しなかった。庾亮はついに蘇峻を召しだした。まもなく難事(蘇峻の乱)が起こり、朝廷の軍隊が敗退すると、王導は宮廷に入って成帝の側に付き従うことにした。蘇峻は王導の人望を考えて、あえて害を加えることはせず、なお本官では自分より上席に置いておいた。蘇峻はまた天子に迫って石頭に御幸させようとしたが、王導がこれに言い争ったので成功しなかった。蘇峻は日ごとに成帝の面前にやって来て汚らしい言葉を吐くので、王導は不測の事態が起こるのをひどく心配していた。その頃、路永・匡術・賈寧はみな蘇峻を説得して、王導を殺して大臣を全て誅殺し、あらためて腹心を〔その地位に〕据えようとしていた。〔しかし〕蘇峻は王導を敬って〔進言を〕聞き入れず、そのために路永たちは蘇峻に対して疑問を持つようになった。〔そこで〕王導は参軍の袁耽にひそかに路永らに誘いをかけさせ、成帝を奉じて正義の軍隊のもとへ逃げ出そうと計画していた。しかし蘇峻の警護が極めて厳しかったので、計画は結局成し遂げられなかった。王導はそのために二人の子を連れて、路永に従って白石へと逃れた。

賊軍が平定されると、宗廟や宮廷が全て灰燼に帰してしまったので、温嶠が予章に遷都するよう建議し、三呉(呉・呉興・会稽)の豪族たちは会稽に遷都するよう願い、二つの案で論争が起こって納得いく結論がでなかった。王導が言った「建康は古えの金陵であり、もともと皇帝の居所とされていました。また孫仲謀(孫権)や劉玄徳(劉備)が二人とも王者の住まいだと述べた〔とも言われています〕。古えの帝王は、豊かであったり貧しかったりということで都を遷したわけでは必ずしもありません。かりにも衛の文公の白布の冠〔の心意気〕を広めるつもりであれば、遷っても駄目だという地はありえません(22)。もしその麻を紡がないつもりなのであれば(23)、安楽の地であっても無意味になることでしょう。その上、華北の盗賊たちは命を保っており、我らの隙を窺っているのですから、一旦でも弱みを見せて蛮越の地に逃れ、そこで威望や実力を望んだとしても、おそらく良策とはいえません。今は特にこの地を安静に治めて、人々の感情を穏やかにさせるべきです。」これによって温嶠らの計画は、いずれも実行されなかった。

王導は状況ごとの対応に優れており、日常の利益は〔ほとんど〕なくても、年会計となると余裕があった。当時、国庫が尽きそうになっており、倉の中はただ麻布の織物が数千端あるだけで、この布を売ろうとしても買い手がつかなかったので、国費が賄えなかった。王導はこのことを心配し、そこで朝廷の人士たちと共に麻布で単衣を作っ〔て、みなで着用し〕たので、士人たちは突如として競い合ってこの服を身に着けようとするようになり、麻布〔の価格〕がついには高騰してしまった。そこで担当官に命じて〔倉の中の麻布の織物を〕売り出させたところ、端ごとに一金にもなった。その当時から羨望されていた様子はこの通りであった。

〔咸和〕六年(331)の冬、蒸〔の祭り〕があり、詔して神に供えた肉を王導に与えようとして言った。「跪いて拝礼する必要はない。」王導は病気を理由にあえて反対しなかった。当初、成帝は幼かったので、王導に会うと常に拝礼していた。また、常に王導に手紙を送る時は、〔成帝〕自ら筆をとる場合は「惶恐して言わく」と記し、中書に書かせる場合は「敬して問う」と記させ、そうして〔この書き方が〕決まりごとになっていた。〔成長して〕後の元日で王導が入ってきても、成帝はなお彼のために姿勢を起き上がらせていた。

時に大きな日照りが起こったので、王導は上疏して位を譲ろうとした。〔そのため〕詔して言う。「そもそも聖王の御世というものは、動きは最上の道徳に合致し、運勢には上手くいかないことがないという。それゆえに人の道は秩序付けられ、万物が上手く行くのである。朕は祖宗の重い使命を荷って、王公の〔さらに〕上(天子の位)を託されたものの、仰いで無為による教化を喜ばしく思うことも、俯いて宇宙を潤わせることもできず、日照りが長く続いて万民が怨恨を抱くようになっているが、国の不幸はただ予一人に〔責任が〕ある。あなたは正道を行って道理に通じ、その広大なさまは深遠で勲功は四海にいたり、三代を補佐して国家の制度を潰えさせなかったのは、実に仲山甫がこれを補佐したようなものである(24)。それなのにみだりに謙虚さを崇めて、責任を負って〔位を〕譲ろうとしている。〔もし、私がその申し出を認めて〕君主の過失の責任を宰相に押し付けるようでは、ただその過ちを増やすばかりになってしまう。〔その上にあなたが〕一切の政務に通暁しているからには、一日として〔職務を〕おろそかにすることはできないのである。あなたには、どうか謙譲の徳を行うなどという些細な節義を捨てて、国を治める遠大な計略に従っていただきたい。門下省は速やかに侍中以下の者を派遣して〔王導に〕言い聞かせなさい。」〔それでも〕王導は強く辞退した。〔そこで〕詔して度々彼に迫り、そうして後に〔ようやく〕職務をとらせることが出来た。

王導は素朴で欲に乏しく、倉庫には穀物の蓄えがないし、衣服も絹を重ね着するようなことはなかった。成帝はこのことを知ると、布一万匹を与えて、王導個人の費用に充てさせた。王導は持病を持っており、朝廷での会見に堪えられなくなると、成帝は彼の府まで御幸して、思う存分酒を飲んで音楽を演奏させ〔て見舞いをし〕、後には車に乗って宮殿に入ることを許した。その敬われることはこれほどであったのである。

石季龍(石虎)が騎兵で略奪して歴陽に至ると、王導は出陣してこれを討たせてくれるよう要請した。大司馬・仮黄鉞・中外諸軍事を加えられ、左右の長史・司馬を置き、布一万匹を贈られた。しばらくして賊軍が退却すると、大司馬を解き、また中外大都督に転任して、位を太傅に進め、また丞相を拝命し、漢の制度に従って司徒の官を止めて丞相職に併せることとした。〔その任命の〕冊に言う。「朕は早くから不幸にも帝位に登ることとなったが、いまだに問題の多さに堪えられず、禍や世の乱れがあまねく興ってしまっている。あなたは文では九功を統べており(25)、武では七徳を成し遂げて(26)、外に向かっては四海をまとめ、内に対しては八政を整えている(27)。〔そのおかげで〕天地は穏やかに、人々の心は和やかになっており、業績は伊尹と同じく、道徳は周公より高いものである(28)。仰いでは尭・舜を慕って(29)、俊才を登用して百官に任命し、諸々の職務を上手く行かせている。朕はその深謀に頼り、普く救済する遠大な計画を思って、古えの例を考えてあなたを上公となして永く晋の補佐としようと思う。進んでこの職に臨み、謹んで道の教えを広めて、天の職務を助けるわけである。また立派でないことがあろうか! あなたはこのことを胸に刻んでおくように!」

この年、妻の曹氏が卒し(30)、金章と紫綬を贈られた。もともと曹氏は嫉妬深い性格で、王導は非常に彼女のことを恐れていたので、ひそかに別館を建てて、〔そこに〕多くの妾を置いていた。〔しかし〕曹氏が〔このことを〕知ってしまい、〔自分でその館へ〕向かおうとした。王導は妾が辱めを受けることを恐れて、慌ただしく車を用意させたが、それでもまだ〔曹氏より到着が〕遅れることを心配して、持っていた麈尾の柄の部分で牛を叩き急かしながら進んだ。司徒の蔡謨がこのことを聞きつけ、王導をからかって言った。「朝廷ではあなたに九錫を加えようとしているそうです。」王導はからかわれているとは覚らず、ただ控え目に辞退するばかりであった。蔡謨が言った。「他の物は聞いていませんが、ただ轅の短い犢車と柄の長い麈尾があるようですよ(31)。」王導は激しく怒って〔別の〕人に言った。「私が以前に名士たちと共に洛陽で遊学していた時には、何がどうして、蔡克に子供がいるなどとは聞いたこともなかったものだ。」

時に庾亮は人望が厚く門地も〔琅邪王氏に〕迫っており、外任に出て統治していた。南蛮校尉の陶称は秘密裏に庾亮に挙兵して〔建康に〕軍を進めるよう説得し、一方で王導には庾亮の挙兵に備えるよう勧めていた。王導が言った。「私と元規(庾亮の字)とは、喜びも患いも同じ〔ように感じている仲〕であり、落ち着いて話し合うことで、小賢しい者の讒言を絶てばよいのである。それゆえ、もし君の言う通り、元規が〔軍隊を率いて〕やって来るのならば、私は〔隠者の〕頭巾を被って家に帰るだけで、また何を恐れることがあるだろうか!」また、陶称に手紙を送って、庾亮は成帝の義理のおじに当たるから、彼によく仕えるようにと伝えた。こうして〔二人の間での〕讒言はついに止んだ。当時、庾亮は外任にあったけれども、朝廷の実権を握って〔長江の〕上流〔で、いつでも速やかに建康に攻め下ることのできる地〕に拠点を置き、強力な軍隊を擁していたので、取り入ろうとする者の多くが彼の下へと集まった。王導は内心穏やかでなく、いつも西風が塵を巻き上げるのに出会うと、扇を挙げて顔を覆いながらゆっくりと言った。「元規の塵は人を汚す。」

漢魏以来、臣下たちは皇帝の陵墓を参拝していなかった。王導は、元帝が地位に拘らない親交を結んでくれて、単なる君臣の間柄だけではなかったので、常にずっと〔元帝陵に〕崇め登っていたので、みな参拝して〔その死の〕悲しみに耐えられなくなっていた。それによって百官に詔して陵墓を〔正式に〕参拝させるようになったが、これは王導から始まったのである。

咸康五年(339)に薨じ、六十四歳であった。成帝は朝廷において三日のあいだ哀悼の意を表し、大鴻臚に節を持たせて葬儀を執り行わせ、車馬や衣服を与える礼は全て漢の博陸侯(霍光)や安平献王(司馬孚)の故事に従った(32)。葬儀になると、九本の垂飾りの輼輬車に〔皇帝専用の〕黄色い傘と垂れ幕飾りを付けて、前後の羽葆鼓吹・武賁班剣百人を提供し、中興の名臣でも〔この特例に〕較べられるものはいなかった。哀冊文に言う。「そもそも高い位というのは美しい徳に酬いたものであり、厚い爵位というのは大きな功労に答えたものである。棺桶を閉じて功績を決める時になっても、〔王導の〕爵号に勝るものはなく、百代に飛び抜けた雅やかさというものは、彼のもとに帰しているのだ。あなたのことを思い返すに、脱俗にして雑念がなく、洞察力に極めて優れ、落ち着いた性格で心を律し、仁を行うことでその恩恵を広めたのである。仕事以外のことに楽しんでも名声が中華の間に傑出し、時勢に応じて世俗を離れても密かな計画をひとりでめぐらしていた。その昔、我が中宗(司馬睿)・粛祖(司馬紹)が中興の基礎を築かれた時には、〔皇帝自らは〕帳を降ろして書物を読んで〔学習するだけで、実際の政治は王導を〕信用して、江南を平定し、〔皇帝は〕手をこまねいて〔王導を〕信頼することで、数々の治績は全て上手くいった。それゆえに威信の振るうところでは残忍な人も心を改め、教化の響くところでは凶悪な人でも性格を変えさせることができたのである。陰陽の和を調えて常に守るべき道を貫き、遼東と隴西も教化を受け、丹穴〔のような僻遠の地〕も懐き慕うようになった(33)。上古の〔人々が成し遂げた〕功績よりも高く、宣帝(司馬懿)や武帝(司馬炎)の治績を回復して、古えの制度を失うことなく、あなたはその計画を整えた。皇帝の遺命を荷って朕のような幼い者を助け、困難に遭っても順境と逆境に逆らうことなく順応し、その滅亡を救って道理を広め、その転覆を支えて仁を広め、三代の朝廷に統治を行って奥深い道はいよいよ明らかになろうとしているようであった。〔それゆえに〕いよいよこれから〔王導の〕高遠な計画に頼って四海を安んじようと思っていたのに、天は憐みをかけて下さらず、にわかに亡くなってしまったので、朕は心が痛むほど悲しんでいる。殷が伊尹を失い(34)、周が周公と召公を無くしたといっても(35)、どうして〔今の〕この気持ちに喩えられるだろうか!今、使持節・謁者僕射の任瞻を遣わして諡号を贈って文献とし、〔牛・羊・豚の犠牲を全て備えた〕太牢によって祀らせようと思う。魂となっても心があるのであれば、この栄誉を喜んでくれ!」

二人の弟、王穎と王敞がいた。若くから王導とともに名を知られ、当時の人は王穎を温嶠と較べ、王敞を鄧攸と比べたが、二人とも早くに卒した(36)。王導には六人の息子、王悦・王恬・王洽・王協・王劭・王薈がいる。

王悦は字を長予といい、二十歳の頃には高い名声があった。親にはその気持ちを推し量るように仕えていたので、王導は彼をとても可愛がっていた。王導は以前に王悦と囲碁を打ち、布石を争うようになると、王導は笑って言った。「お互いに瓜と葛〔のように親しい間柄〕であるのに、どうしてそんなことができるんだ!(37)」王導は倹約性で、帳下が果物を腐らせると、これを捨てさせて言った。「大郎(王悦)には知らせるな。」

王悦は若くして皇太子に学問を教え、呉王友・中書侍郎を歴任したが、王導より先に卒し、貞世子と諡した。以前、王導は人が百万銭で王悦を買い取ろうとする夢を見たので、ひそかに祈祷者を揃えていた。まもなく地を掘ったところ、銭百万が出てきたので、ひどくうらめしく思って全て仕舞い込んでおいた。王悦の病が篤くなると、王導は心配で堪らなくなり、何日も食事が喉を通らなかった。突然、一人の体格がとても大きく、鎧を着て刀を持ったものが現れたので、王導は尋ねた。「あなたは誰ですか?」〔その人が〕言った。「僕は蒋侯だ。あなたの子の体調が優れないので、命乞いをしてやろうと思って来たのだ。あなたはもう心配しなくてもよい。」そのため食事を求め、ついに数升分も食べてしまった。食事が終わると、出し抜けに王導に言った。「中書〔侍郎である王悦〕の病は、救える物ではなかったようだ。」言い終わると見えなくなり、王悦もまた亡くなってしまった。王悦は王導と話す際には、常に注意〔して聞くように〕することから始めていた。王導が〔自宅から〕官庁に戻ろうと出かける際には、王悦が〔王導の〕車の後に来て見送らないようなことはなかった。また、常に母の曹氏のために箱の中の物を整理整頓していた。王悦が亡くなって後、王導は官庁に戻る際、王悦がいつも見送ってくれていた所から泣きながら城門に辿り着くほどだったし、その母は長いあいだ箱を閉じたままにしてしまい、また開けてみるということに堪えられなかった。

王悦には息子がなかったので、弟の王恬の子の王琨を後継ぎとし(38)、王導の爵位である丹楊尹を継いで、卒すると、太常を贈られた。子の王嘏が継いで、鄱陽公主を娶り、中領軍・尚書を歴任した。卒すると、子の王恢が継ぎ、義煕の末年に游撃将軍となった。

王恬は字を敬予といった。若くから武を好んでいたので、官僚たちに重んぜられなかった(39)。王導は王悦を見るといつも喜び、王恬を見るとたちまち機嫌が悪くなった。州が別駕として招いたが赴かず、即丘子の爵位を継いだ。

尊大な性格で、礼儀や規則に拘らなかった。謝万がかつて王恬のもとを訪れて、〔座敷に〕座ってから少し経つと、王恬が中に入ってきた。謝万はきっと自分を手厚くもてなしてくれるだろうと思っていたので、とりわけ嬉しげな顔をしていた。〔しかしながら〕王恬はしばらくすると頭を洗って振り乱しながら〔部屋から〕出て行き、庭の腰掛けに座って髪の毛を乾かし始めてしまい、表情も尊大で勝手気ままな様子で、ついに賓客をもてなす礼儀を見せなかった。謝万はがっかりして帰った。晩年には改めて士人を好むようになり、身に着けた芸事が多く、囲碁が得意で、中興より第一〔の腕前〕であった(40)

中書郎に遷った。皇帝は中書令にしようと思ったが、王導が強く辞退したのでそれに従った。後将軍・魏郡太守に昇進し、給事中を加えられ、軍隊を率いて石頭を治めた。王導が薨ずると、〔喪に服するために〕官を去った。しばらくして出仕して後将軍となり、再び石頭を治めた。呉国・会稽内史に転任し、散騎常侍を加えられた。卒すると、中軍将軍を贈られ、諡して憲といった。

王洽は字を敬和といい、王導の息子たちの中で最も名を知られて、荀羨とともに良い評判を得ていた。二十歳頃までに、散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武将軍・呉郡内史を歴任した。〔中央に〕呼ばれて領軍を拝命し、まもなく中書令を加えられることになったが、強く辞退して〔その考えを述べた〕文書を十回も提出した。〔すると〕穆帝が詔して言った。「敬和(王洽の字)は風采美しく身分も高いものである。〔その上〕その昔、中書郎であった際、当時の私はまだ小さかったので何度も呼び出しては会ったもので、王洽のことをとても親しく感じている。〔これこそが〕今、登用して中書令とする理由であり、もとより機密を扱う重職には才能が必要とされているし、またしばしば顔を合わせて共に文章を論じ、友人のような臣下として待遇したいと思っている。それなのに何度も表して辞退するとは、私の気持ちに著しく背くものである。王洽を促して拝命させよ。」〔王洽はそれでも〕しきりに辞退して、ついに受けなかった。升平二年(358)、在官中に卒し、三十六歳であった(41)。二人の息子、王珣と王珉がいる。

王珣の字は元琳といった。二十歳頃に陳郡の謝玄とともに桓温の掾となり、二人とも桓温に敬い重んじられた。〔桓温は〕常に彼らに言っていた。「謝掾(謝玄)は四十歳になれば、きっと軍隊を統率して節を受けているだろう。王掾(王珣)はおそらく黒い髪の〔若々しい〕公となるだろう。二人とも代わりのいない俊才である。」王珣は主簿に転任した。時に、桓温は中原を攻め取ろうとして、とうとう落ち着いた日々がなかったので、軍中の重要な政務は全て王珣に任せていた。〔それゆえに王珣は〕文官武官数万人について、全てその顔を知っていた。袁真の討伐に従ったことで、東亭侯に封じられ、大司馬参軍・琅邪王友・中軍長史・給事黄門侍郎へと転任した。

王珣の兄弟はみな謝氏の婿であったが、妬みから仲違いをするようになっていた。太傅の謝安は王珣と姻族関係を絶ち、また王珉の妻を離縁させたので、このことから両方の一族はついに仇敵となってしまった。当時は謝安の意向が望まれたので、王珣を〔外任に〕出して予章太守としようとしたが、〔王珣は〕任地に向かわなかった。散騎常侍に任命されたが、拝命しなかった。秘書監に移った。謝安が亡くなって後、侍中に移って、孝武帝がとても彼を頼るようになった。輔国将軍・呉国内史に転任し、郡にあっては人々に喜ばれていた。〔中央に〕呼び寄せられて尚書右僕射となり、吏部を兼任し、左僕射に転任して、征虜将軍を加えられた。また、太子詹事を兼任した。

時に、孝武帝は書籍を好んでいたので、王珣と殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢らはみな学識や文才によって孝武帝に親しくしてもらっていた。王国宝が会稽王の司馬道子に媚びへつらうようになると、王珣らと上手くいかなかったので、孝武帝は自分が亡くなって後にきっと仲違いが起こるだろうと心配し、そのために王恭と郗恢を出して地方長官とし、王珣に重任を委ねることにした。王珣は、人が〔屋根瓦を支える〕たるきほどもある大きな筆を彼に与える夢を見て、目を覚ますと、人に語って言った。「これはきっと大いに文筆を振るうことがある、ということであろう。」しばらくして孝武帝が崩ずると、哀冊文や諡議の文は、全て王珣が起草することになった。

隆安初年(397)(42)、王国宝が権力を握るようになると、もともとの臣下を退けようと図って、王珣を尚書令に移した。王恭は皇帝の陵墓に赴いて、王国宝を殺そうと思ったが、王珣は彼を止めて言った。「王国宝は最後には禍いを起こすでしょうが、罪業を求めてもまだ現れてはいませんから、今王国宝が失敗するのに先んじて軍隊を進発させたならば、きっと朝野の〔人々の〕期待を失ってしまうでしょう。ましてや強兵を擁しておいて、ひそかに首都へと進発させるようでは、誰が反逆ではないなどと言えるでしょうか!王国宝がもし改めることなく、悪行を天下に広めてしまい、その後に世の期待に沿って彼を除こうとするのであれば、また失敗を恐れる必要はなくなります。」王恭はそこで思い止まった。しばらくして王珣に言った。「近頃、君を見ているが、全く胡広にそっくりだ(43)。」王珣が言った。「王陵は朝廷で諌言し、陳平は黙っていましたが、ただその終わりがどうなったかを考えているだけです(44)。」王恭はまもなく兵を起こし、王国宝は王珣たちを殺害しようとしたが、危ういところで逃れることが出来た。その話は王国宝伝にある。〔隆安〕二年(398)、王恭は再び挙兵すると、王珣に節を貸し与え、衛将軍・都督琅邪水陸軍事に昇進させた。事態が収まると、貸し与えられた節を返却し、散騎常侍を加えられた。

〔隆安〕四年(400)、病のために職を解かれた。一年余りして卒し、五十二歳であった(45)。車騎将軍・開府を追贈され、諡して献穆といった。桓玄が会稽王道子に書簡を送って言った。「王珣は顔つきからして賢明で、経典や史書に明るく、風流の美〔を備えた人〕として公私に頼られていました。中傷に迫られても、その才能には尽きることがありません。それゆえに〔王珣のような〕君子が朝廷にあると、益を増すことが自然に多くなっていましたので、時局が大変な時に、にわかに亡くなってしまい、〔私の抱く〕嘆きの深さは、ただ風流について悼んでいるだけではないのです! 不幸に曲がりくねった人生で、風や霜〔のような苦しさ〕を全て経験し、あなたの観察眼によるものとはいえ、〔王珣のような優れた人材が現われた〕上手い具合の巡りあいであったことも感じています。ついに天寿を全うして亡くなったのですから、〔そのことに関しては〕ほとんど悲しむことはありません。しかし、気持ちがあちこちと揺れ動いてしまい、容易には落ち着けられないでいます。」桓玄が政権を執ると、改めて〔王珣に〕司徒を贈った。

以前、王珣がすでに謝安と仲違いしていた頃、東の地に謝安が薨じたことを聞くと、〔王珣は〕すぐに建康を出て、族弟の王献之のところへ行って述べた。「私は謝公(謝安)〔の死〕を声を出して哀悼しようと思う。」王献之は驚いて言った。「法護殿が〔そのようなことを〕望まれるとは。」そこで、まっすぐ前に向かって声を挙げて激しく哀悼の意を表した。法護は、王珣の小字である。王珣には五人の息子、王弘・王虞・王柳・王孺・王曇首がおり、宋の世にみな高い名声を得た。

王珉は字を季琰といった。若くして芸の才能があり、行書に巧みで、その評判は王珣の上に出ていた。当時の人はこのために語って言った。「法護(王珣)が良くないわけではないので、僧弥は兄とはなり難いだろう。」僧弥とは王珉の小字である。時に外国の仏教僧で、提婆という名の者がおり、仏教の道理に精通していたので、王珣兄弟のために毘曇経を解説した。王珉は当時まだ幼かったが、解説が半ばにもならないうちに、もう分かったと言い出した。そこで別室で僧侶の法綱ら数人に対して〔王珉〕自ら解説してみせた。法綱は感嘆して言った。「概ねの意味は全て合っている。ただいくらか詳しくない〔ところがある〕というだけだ。」州の主簿に招かれ、秀才に推挙されたが、断った。後に著作・散騎郎・国子博士・黄門侍郎・侍中を歴任し、王献之に代わって一族の長となって中書令を兼任した。二人は以前から名声が等しかったので、世の人は王献之を「大令」とし、王珉を「小令」と呼んだ。太元十三年(388)に卒し、三十八歳であった。太常を追贈された。二人の息子、王朗・王練がいる。義煕年間に、二人とも侍中を歴任した。

王協は字を敬祖といい、元帝の撫軍参軍となり、爵位の武岡侯を継いだが、早くに卒した。息子がなかったので、弟の王劭の子の王謐を後継ぎとした。

王謐は字を稚遠といった。若くから良い評判を受け、譙国の桓胤・太原の王綏と名声が等しかった。秘書郎を拝命し、父の爵位(武岡侯)を継ぎ、秘書丞に移り、中軍長史・黄門郎・侍中を歴任した。桓玄が挙兵すると、王謐に詔して使命を受けて桓玄のもとへ向かわせ、桓玄は〔王謐を〕敬い近付けた。建威将軍・呉国内史を拝命し、まだ郡に到着する前に、桓玄が中書令・領軍将軍・吏部尚書となし、中書監に移されて、散騎常侍を加えられ、司徒を兼任した。桓玄がいよいよ簒奪を行おうとすると、王謐に太保を兼任させ、玉璽と冊命の文書を受け取って桓玄のところへ持ち来たらせた。桓玄が簒奪すると、〔王謐は〕武昌県開国公に封じられ、班剣二十人を加えられた。

以前、〔後の宋の武帝である〕劉裕が庶民だったので、人々は彼のことを〔優秀な人物だとは〕知らなかったが、ただ王謐だけは彼を優れていると思い、かつて劉裕に言った。「あなたはきっと一代の英雄となられるでしょう。」劉裕が桓玄を破ると、王謐は元の官職に侍中を加えられ、揚州刺史・録尚書事を兼任した。王謐はすでに桓氏から寵愛を受けていたので、いつも〔劉裕から敵視されるのではないかと〕不安であった。護軍将軍の劉毅はかつて王謐に尋ねて言った。「天子の官印はどこにあるのだ?」王謐はますます恐れるようになった。ちょうど王綏は桓氏の甥に当たるところから疑心暗鬼となって、反旗を翻したため、父子兄弟みな誅殺されてしまった。王謐の従弟の王諶は若くして毅然として義を重んじる人柄で、王謐を誘って呉に帰り、挙兵して反乱を起こそうと思って、王謐を説得して言った。「王綏は罪もないのに朝廷の軍隊によって誅殺されましたが、これは当時の名望者が除かれたということです。兄上は若い頃から評判を立てられ、官位もこれほどまでに加えられていますから、危機に陥らないようにと思ったところで叶うものでしょうか!」王謐は怖がって逃げ出すことにした。劉裕は大将軍・武陵王遵に書簡を送り、人を派遣して〔王謐を〕追いかけさせた。王謐が帰ってくると、以前のように仕事を任せ、王謐に班剣二十人を加えた。義煕三年(407)に卒し(46)、四十八歳だった。侍中・司徒を追贈し、諡して文恭といった。三人の息子、王瓘・王球・王琇がいた。宋〔の時代〕に入って、三人とも大官にまでなった。

王劭は字を敬倫といい、東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹を歴任した。王劭は身のこなしが美しく、信念があって、家の人や親しい者であっても、彼のだらけた姿は見たことがなかった。桓温は非常に彼のことを評価していた。吏部尚書・尚書僕射に移り、中領軍を兼任し、〔外任に〕出て建威将軍・呉国内史になった。卒すると、車騎将軍を贈られ、諡して簡といった。三人の息子、王穆・王黙・王恢がいた。王穆は臨海太守となった。王黙は呉国内史となり、二千石を加えられた。王恢は右衛将軍となった。王穆には三人の息子、王簡・王智・王超がいた。王黙には二人の息子、王鑒・王恵がいた。義煕年間に、二人とも高官を歴任した。

王薈王薈は字を敬文といった。心静かに穏やかであり、栄誉や利益を競うことはなく、若くから清官を歴任し、吏部郎・侍中・建威将軍・呉国内史に昇進した。当時は毎年の飢饉で穀物〔の価格〕が騰貴しており、人々の多くが餓死していた。〔そこで〕王薈は自家用の米で粥を作って、飢えた者に食べさせてやったので、命を救われた者が非常に多かった。〔中央に〕呼び寄せられて中領軍に任命されたが、受けなかった。尚書に移り、中護軍を兼任し、再び征虜将軍・呉国内史となった。しばらくして、桓沖が表して王薈に江州刺史となってくれるよう要請したが、辞退して受けなかった。督浙江東五郡・左将軍・会稽内史に転任し、号を鎮軍将軍に進め、散騎常侍を加えられた。在官中に卒し、衛将軍を贈られた。

子の王廞は、太子中庶子・司徒左長史を歴任した。母の喪のために呉で生活した。王恭が挙兵すると、王廞に建武将軍・呉国内史を命じ、軍隊を出して援軍の声を挙げさせようとした。王廞はそこで喪服を着たまま人を集め、敵対者を誅殺し、前呉国内史の虞嘯父らを派遣して呉興・義興に入らせて兵を集め、勇敢に集まって来る者が万を単位に数えられるほどになった。王廞は正義の兵が一度動けば、その勢いを止めることは出来ないので、〔争いの起こったこの〕隙に乗じて富貴を取るべきだと言っていた。しかし、十日も経たないうちに王国宝に死が言い渡され、王恭は挙兵を止めて、王廞に文書で職務を離れるよう伝えてきた。王廞は激怒し、軍の矛先を変えて王恭を討伐することにした。王恭は司馬の劉牢之を派遣して曲阿で防戦し、王廞の軍隊は壊滅して散り散りになり、ついには〔王廞の〕行方が分からなくなった。長男の王泰は王恭に殺され、幼い王華は王廞の生死が分からなかったために、悲しみに耐えられず粗衣粗食して体調を崩すほどだった。後に従兄の王謐が王廞の亡くなったところを伝えたので、王華は初めて喪に服し、〔喪の開けた後に〕出仕するようになった。

以前に、王導は淮水を渡る時に郭璞にその吉凶を占わせたところ、卦が出て、郭璞が言った。「吉にして不利なことはありません。淮水が絶えるような〔ありえない〕ことがあって〔初めて〕、王氏も滅ぶでしょう。」その後、子孫は繁栄し、ついに郭璞の言った通りになった(47)

史臣が言う。空飛ぶ龍に乗って天下を制すると言われ、そのために雲や雨の勢いを借りようとするものなのである。帝王が時運を起こそうとすれば、必ず股肱の臣の力を期待しなければならない。軒轅(黄帝)は聖人であるが(48)、〔それでも〕大臣に頼って〔統治の〕方策を受けたのであるし、商の湯王は賢明な主君であるが、〔それでも〕鼎を負う伊尹を信頼して大業を成し遂げたのである(49)。これ以降、この賢臣を恃むという方法によらなかったものはない。もともと晋朝がその兆しを現したのは、君主を侮ったことに基き、〔晋朝の〕金徳が時運に順応するようになったといっても、当時に徳があったわけではないのである。全土はいまだその心を〔晋朝に〕寄せていないし、四方の夷狄はすでにその害毒を引き継ごうとしていた。すでに中原(の西晋)は壊滅し、江南で再興しようとして、その兆しが玄石の図に現われたといっても(50)、少康の夏を祀る故事とは違うし(51)、当時は晋朝を思ってくれる士人もいなかったわけだから、劉秀が劉氏を再興した場合とも異なるのであって(52)、中宗(司馬睿)を補佐することはあまりにも困難だったのだ! 王導は朝廷のために献身して支え、気持ちを通じて親交を結び、その才能と知力を引提げて、あの長江や湖の〔要害の〕地を恃んで、回復の功を打ち立てることを考え、そうして補佐して広めるという道を成し遂げようとしたのである(53)。この時に王敦は内向きに侮り、首都を占拠して狼のように貪欲な目つきをし、蘇峻は兵隊を連ねて、帝王の居城を指して隼のごとく猛烈な攻撃をしかけた。〔そこで〕実に丞相に頼って、固く石のように変わらない気持ちを抱き、ひそかに忠義の謀をめぐらして、ついに地を侵略する逆賊を切り取ったのである。その忠誠が日を貫く天象を起こし、君主は〔危険なところに〕餌を置くような目に遭っても終わりを全うすることができたし(54)、しっかりした決意は何者をも恐れることなく、国は危難に陥っても滅びなかった。その学校を開設したことを見ても、動乱の時勢に行われたことであり、そこに制度や法規を立てたことも、風で髪をすく〔ような苦労をする〕時に行われたことであって(55)、世が移り代わり多事多難であったにもかかわらず、〔王導の手がけた政務の〕範囲は遠大なものであった。蕭何や曹参が漢を助けて天下を〔一つの〕家としたことや(56)、召公や太公望が周を補佐して全世界を統一したことと比較したならば(57)、〔王導の〕功績は古えの半分にも満たないので、同類とするには十分ではない。〔しかしながら〕管仲が仁を行ってよく〔斉のような〕小国の宰相として務めたことや(58)、諸葛亮が義を実践してよく〔蜀のような〕新興国家を助けたこと〔と比較する〕に至るのであれば(59)、情勢を考え事情を述べてみても、そもそも〔王導は〕彼らの類だとすることができよう。三代〔の皇帝〕を補佐して、〔忠義の〕一心を貫いたのであるから、「仲父」と呼ばれたというのも、もとより当然のことであろう。王恬・王珣は〔王導の〕人徳を踏襲し、呂虔が刀を贈ったことと釣り合っていた(60)。王謐になって名声を損ない、劉毅が玉璽を求めたことを恥じることとなった。〔ある人は〕語って言っている。「深い山や大きな沢であれば、龍もいるし蛇もいるものだ(61)。」真にその述べる通りである。

賛に言う。贙が啼き暴風は起こり(62)、龍が昇り雲は映える。武岡〔公となった王導は〕超然として、時局を正して政治を調う。立派な功績はよく広がり、心を尽くした謀は競うものもない。契りを三人の主君と交わし、栄誉は九命を超えた(63)。刀を贈っては幸いを表し、川を占っては慶びが流れる。その一族は輝いて、代々光り続けて隆盛した。

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