(1)「仲父」とは、もともと春秋斉の桓公が管仲を呼ぶ時に使用した尊称。王導を管仲になぞらえることは、後に出てくる桓彝の話など、他にもいくつか見ることができる。
(2)蕭何は前漢高祖を支えた名臣で、漢の三傑の一人に数えられる。
(3)管仲は春秋斉の名臣。楽毅は戦国燕の名将。
(4)「文若」は荀彧の字。『三国志』巻十「荀彧伝」に、建安八年(203)に万歳亭侯に封じられたことが見える。
(5)「倉舒」は『三国志』巻二十に伝のある鄧哀王沖の字。ただし、同伝では別部司馬を贈られたことは見えないようである。
(6)「温嶠伝」では、桓彝を温嶠として、同様の話を載せている。
(7)以下の文、『宋書』巻十四「礼志一」にも収められており、若干の異同がある。
(8)「五常の教え」とは、『春秋左氏伝』「文公十八年」によれば、父の義・母の慈・兄の友・弟の恭・子の孝のこと。
(9)『尚書』「洪範」に「鳴呼,箕子。惟天陰騭下民,相協厥居,我不知其彝倫攸敍」とあるのによった表現。
(10)『周易』「家人」に見える言葉。
(11)『周易』「蒙」に「蒙以養正,聖功也。」とあるのによった表現。
(12)『周礼』「地官司徒・郷大夫」に見える言葉。
(13)『孟子』「梁恵王章句上」に見える言葉。
(14)十二年が一紀。あるいは皇帝の一代が一紀だという。
(15)『論語』「陽貨篇」に見える言葉。
(16)『尚書』「大禹謨」に「帝乃誕敷文徳。舞干羽于兩階。七旬有苗格。」とあるのを指している。
(17)『詩経』「魯頌・泮水」に「明明魯侯,克明其徳。既作泮宮,淮夷攸服。」とあるのを指している。
(18)斉の桓公・晋の文公はいずれも春秋の覇者。
(19)原文「百里之命」は『論語』「泰伯篇」に「曾子曰,可以託六尺之孤,可以寄百里之命。」とあるのによった表現。
(20)陳群は『三国志』巻二十二に伝のある人物。魏の文帝の遺詔を受けて司馬懿らと共に明帝を補佐した。
(21)『春秋左氏伝』「宣公十五年」に「川澤納汙,山藪藏疾。」とあるのによった表現。
(22)『春秋左氏伝』「閔公二年」に「衛文公大布之衣,大帛之冠,務材,訓農,通商,惠工,敬教,勸學,授方,任能。」とあるのを指している。衛は一度滅亡しかかっていたのを、斉の桓公によって別に楚丘の地に再建された国であり、文公はその時の君主。粗末な白布の冠を着用して、政治に務めた名君とされている。
(23)『詩経』「陳風・東門之枌」に「不績其麻,市也婆娑。」とあるのによった表現。婦人が生業の麻紡ぎをせず、踊り遊んでいることを批判した詩であるという。
(24)仲山甫は周の宣王を支えて、中興を成し遂げた名臣。
(25)「九功」とは六府三事のこと。『春秋左氏伝』「文公七年」には「六府三事,謂之九功。水,火,金,木,土,穀,謂之六府。正徳,利用,厚生,謂之三事。」とある。
(26)「七徳」とは『春秋左氏伝』「宣公十二年」によると「夫武,禁暴,戢兵,保大,定功,安民,和衆,豐財者也。」杜預注「此武七徳。」とある。
(27)「八政」は『尚書』「洪範」によると「三,八政。一曰食,二曰貨,三曰祀,四曰司空,五曰司徒,六曰司寇,七曰賓,八曰師。」とある。ただし、『礼記』によるものなど諸説あるという。
(28)伊尹は商(殷)の湯王、周公は周の武王・成王を、それぞれ補佐した名臣。
(29)尭と舜はいずれも五帝の一人とされる伝説の名君。
(30)『世説新語』「徳行篇」の劉孝標注に引く『王氏譜』によると、彭城の曹韶の娘で、曹淑という名であったという。
(31)「犢車」とは子牛の牽く車のこと。「輿服志」によれば、犢車を含む牛車は後漢の霊帝・献帝頃から、一般的な乗り物となったという。轅は車箱から牛を結び付けるくびきへと、前に伸ばされた柱のこと。この部分が短ければ、繋いだ牛と車箱までの長さが短くなり、長い柄の麈尾(払子のようなもの)と合わせることで、牛を駆って進むのも楽になる。したがって、あんなことがあった王導殿には必須のアイテムでしょう、と蔡謨はからかったわけである。
(32)博陸侯霍光は『漢書』巻六十八に伝のある人物で、昭帝・宣帝の時の重臣。安平献王司馬孚は巻三十七に伝のある人物で、宣帝司馬懿の弟。
(33)伝説中の地名。南方の太陽の真下にあたるところに存在すると考えられていた。
(34)原文「保衡」は伊尹の尊称。
(35)原文「二南」は、本来『詩経』の「周南」「召南」の二つの篇のこと。転じて、ここでは周建国を支えた周公と召公を指す。
(36)『世説新語』「品藻篇」の劉孝標注に引く『王氏譜』によれば、王穎の字は茂英で、位は議郎に至り、二十歳で亡くなったといい、王敞の字は茂平で、丞相祭酒に任命されたが就かず、堂邑公を継ぎ、二十二歳で亡くなったという。
(37)原文「爭道」の部分を、『世説新語』「排調篇」には「丞相欲舉行,長豫按指不聽。」とする。待ったを掛けた、という意味であろうか。
(38)『世説新語』「排調篇」の劉孝標注に引く『王氏譜』には、王混の字は奉正で、注将軍王恬の子であり、仕えて丹陽尹に至ったとある。おそらく同一人物であろう。
(39)原文「公門」は本来は「官署、衙門」という意味のようだが、『世説新語』「徳行篇」の劉孝標注に引く『文字志』には同所を「不為導所重。」としているので、あるいはここは「王公(=王導)の一門」という意味であろうか。
(40)『世説新語』「方正篇」の劉孝標注に引く范王『棊品』には、王恬を第一品、王導を第五品にランク付けしている。
(41)『世説新語』「賞誉篇」の劉孝標注に引く『中興書』では、二十六歳で亡くなったとしている。
(42)原文は「隆安初」とあるのみだが、後文に「二年」とあるので、ここは元年と考える。
(43)胡広は六人の皇帝に仕えた後漢の重臣。政治に益することの多かった人物だが、宦官の丁粛と姻戚関係を結ぶなど、正道を常に守るという人物ではなかったようである。
(44)王陵・陳平ともに前漢高祖を支えた功臣。高祖亡き後、呂后が一族を王に立てようとすると、王陵は正論に従って反対し、敢然と辞職したのに対し、陳平は賛成して表面上呂后に従って自らの地位を守った。しかし、最終的に呂氏一族を滅ぼす功績を立てたのは、陳平の方であった。
(45)「安帝紀」によれば、隆安四年五月丙寅の日に亡くなったとある。
(46)『宋書』巻一「武帝紀上」によれば、義煕三年十二月に亡くなったとある。
(47)『南史』巻二十四の論賛によれば、後に南朝の陳が滅亡した年に、実際に淮水の流れが絶え、郭璞の予言通りになったという。
(48)黄帝は五帝の一人で、伝説上の天子。
(49)原文「負鼎」は伊尹のこと。伊尹は鼎と俎を背負って、料理を出すことをきっかけとして、湯王と会うようになったという。
(50)「元帝紀」によれば、『玄石図』というものに、「牛が馬の後を継ぐ」という予言が書かれていたという。
(51)少康は夏王朝の王。寒浞を滅ぼして、断絶状態にあった夏王朝を再興したとされる。
(52)原文「文叔」は劉秀の字。劉秀は新を滅ぼして、漢王朝を再興させた後漢の光武帝のこと。
(53)原文「翌宣」の語は不明。ここでは「翼宣」の誤りと推定して訳しておいた。
(54)原文「垂餌」は「釣り糸を垂れること」を意味するが、しっくりこないので、ここでは司馬遷「與任少卿書」に見える「垂餌虎口」を省略したものと考えて訳しておいた。
(55)『荘子』「天下篇」に「沐甚雨,櫛疾風」とあるのによった表現。
(56)蕭何・曹参はいずれも前漢高祖の時の功臣。
(57)召公・太公望はいずれも周の建国を支えた功臣。
(58)管仲は管夷吾ともいう。春秋の覇者斉の桓公を補佐した名宰相。
(59)原文「孔明」は諸葛亮の字。諸葛亮は三国蜀を支えた名宰相。
(60)「王覧伝」に、呂虔のいわくつきの刀が、王祥、王覧(王導の祖父)へと受け継がれたことが見える。
(61)『春秋左氏伝』「襄公二十一年」に、晋の宰相叔向の母が、「深山大澤,實生龍蛇」と言ったことが見える。
(62)贙は、『爾雅』「釈獣」に「贙,有力。」とあり、郭璞注ではさらに、西海大秦国に飼いならす者がいて、犬に似ているが力が強いのだと記している。
(63)「九命」は、周代の九等級の官爵の内の最高のものであるという。『周礼』「春官・典命」には「上公之九命為伯。」とある。