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update:2021.01.18 担当:成瀬 浩太郎
晋書巻六十六
列伝第三十六
劉弘
人物簡介

劉弘(236〜306)(1)は字を和季といい、沛国相県の人である。祖父は魏の揚州刺史劉馥、父は鎮北将軍劉靖である。武帝司馬炎と同年で幼馴染であったことから次々と昇進し、太安年間に張昌が反乱を起こすと、荊州刺史として任地に赴き、その平定に功績を挙げた。劉弘は荊州に在っては良く農耕養蚕を奨励し、刑罰を緩め賦役を省いたので、人々は彼を慕い、また適材適所に人徳の士人を抜擢して配置させたので、皆が彼のために人事を尽くしたという。永興三年(306)、昇進して使持節・侍中・車騎将軍・都督荊州諸軍事・南蛮校尉・荊州刺史・開府儀同三司となった。光熙元年(306)に襄陽にて病没した。享年七十一。新城郡公を追贈され、元公と諡された。

本文

劉弘は字を和季といい、沛国相県の人である。祖父の劉馥は魏の時代、揚州刺史であった。父の劉靖は鎮北将軍であった。劉弘は才幹と知略、政治の才能があり、幼少時に洛陽に家があり、武帝(司馬炎)と同じ永安里に居住し、また同い年で、共に学問を学んだ。そのため旧恩を以って太子門大夫より起家し、次々と昇進して率更令となり、やがて太宰長史に転任した。時に張華は甚だ彼を重んじた。これによって寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉に任命され、甚だ威光と恩恵が有り、盗賊は姿を隠し、幽北で賞賛を受けた。その勲徳(立派な手柄と人徳)ともに立派であったので、宣城公に封ぜられた。

太安年間(302〜303)に、張昌が乱を為したため、使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任し、前将軍の趙驤らを率いて張昌を討ち、方城(河南省南陽市の東北)より宛・新野に至り、向かうところすべて平定した。新野王司馬歆が張昌に敗れると、〔朝廷は〕劉弘を以って鎮南将軍・都督荊州諸軍事に代わらせ、余官(使持節・校尉・刺史)は旧のままとした。劉弘は南蛮長史の陶侃を大都護に、参軍の蒯恒を義軍督護に、牙門将の皮初を都戦帥に任命し、襄陽に進軍させた。張昌は軍を併せて宛を包囲して趙驤軍を破り、そのため劉弘は退いて梁城に駐屯した。陶侃や皮初らは次々戦って張昌を破り、前後して数万級の首を斬った。荊州の官府に到着すると、張昌は懼れて逃亡し、その衆はことごとく降伏し、荊州は平定された。

初め、劉弘が〔梁に〕引いた時、范陽王司馬虓は長水校尉の張奕を遣わして荊州を占領させようとした。劉弘がやって来ても張奕は代わろうとはせず、兵を派遣して劉弘の進入を拒んだ。劉弘は軍を遣して張奕を討って、これを斬り、朝廷に表を奉ってこう述べた。「臣は凡才ながらも、間違って国恩を担う事になり方州(刺史の治める領域)に役所を起こすことになり、辞令を奉じて罪を討ちましたが、威勢を振るって万里を駆け巡る事ができず、軍は敗れて宛に退き、死刑に処せられる所でありましたが、有難くもお許しを蒙り、荊州の地に遣わされましたので、即座に鎮府に進達致しました。しかしながら、范陽王司馬虓は先に前の長水校尉の張奕を遣わし、荊州を統べさせようとし、臣が至ってもその節度を受けようとはせず、擅に兵を挙げて臣を拒みました。今張昌の姦党が初めて平定されましたが、張昌は未だ討ち滅ぼせず、益・梁州の流人達はわらわらと群集まり、無頼の徒が侮って扇動し合い、旋風のように乱れ騒いで、人民を大いに苦しめております。卑しくも之を憂うのならば、どうして至らないことがありましょうや。之(范陽王司馬虓の行為)に対しては必ず上表すべきではありますが、時機を失う事を慮し、すぐさま兵を遣わして張奕を討ち、その首を曝しものと致しました。張奕は貪婪で害毒をなさんとしたとはいえ、臣は劣弱であり、その任務に耐えられず、張奕を好き勝手にさせ、資材を浪費したのは、まさに皿に盛った食物をひっくり返すような罪に当たり、甘んじて専殺(勝手に人を殺した罪)の刑をお受けいたします。」その返事の詔書に言う、「将軍は文武両面に素質を兼ね備え、前に方鎮を任せており、宛城を守れなかったのは趙驤に責任がある。将軍の遣わした諸軍は群賊を討ち滅ぼし、張奕は禍を貪り、君命を拒み違えた。将軍がこれを討ち、首を御所の庭に曝したのは、それを請わなかった罪が有るとはいえ、古人にも独断の正義が有る。其の広い計略で南海の地を慰撫したのは、推轂(人を助けて事業を完成させる)の栄誉が加わったといえよう。」後に張昌は下雋山に逃竄したが、劉弘は軍を遣わして張昌を討ち、これを斬り、余の衆は皆降伏した。

時に荊州の所轄地域の地方官の多くが欠員となっており、劉弘は之を補充することを請い、帝はこれを許した。劉弘は徳を基準とし、才能に従って官職を与えたので、人々はこの行為を大いに賞賛した。また劉弘は表を奉って、「陛下の詔をお受けし、私は素質に従って等級付けし、欠員の官吏を補充致しました。恩賞と刑罰は臣下が勝手に行うものではなく、人を知ることはすなわち賢者であり、聖帝でも難しいところでありますのに、まして愚かな私にはとうてい処理できるものではございません。しかしながら、すべての事にははずみというものがあり、僅かながらも謹んで詔書を奉り、時と場合に沿って処理しております。尊重すべきものは身分に高さでは無く、苦しみを救う事であり、故に聖人は徳を完成させることを第一とし、その次に勲功を樹立致しました。現在は多難であり、純朴な者はますます凋落しておりますので、私は士人の伍朝を召して零陵太守とし、波風のように乱れた弊害を懲らしめ、謙譲の美徳を養うことを願いました。私は武力に乏しく、前に無様にも宛城に退却致しましたが、長史の陶侃や参軍の蒯恒、牙門の皮初らは力を合せて姦凶を討ち滅ぼし、陶侃や蒯恒は各々軍事に終始し、皮初は都戦帥として忠義と勇敢さは軍で並ぶものが無く、漢沔の地が良く治まったのは、ひとえに皮初等の功績であります。『司馬法(戦国斉時代に書かれた兵法書。春秋の名将司馬穰苴の兵法を編集したもの)』に中に『恩賞は時間を置いてはならない』という言葉があります。人を知り、速やかにこれを賞賛することが大切で、もし速やかにこれに報いることができなければ、一命を投げ打って働く士を励まし、勇猛の士の心を慰める事はできません。私は皮初を襄陽太守とし、陶侃を荊州府司馬として論功の事を掌らせ、蒯恒を山都令と致しました。また詔書は私に欠員の補充を命じておりますが、これに対しては漂郷令の虞潭は忠誠心があって公正で、率先して正義を唱え、善行に努めて人の模範となり、能力の無い者も喜んで彼に従いました。私はすぐさま虞潭を醴陵令に任じました。また南郡の廉吏の仇勃は、母が老いと病気で苦しむ中で賊の来襲に遭ったが、最後まで母を守り抜き、逃げることをしなかったため、賊の掠奪に遭い、危うく命を落とす所でありました。尚書令史の郭貞は張昌が尚書郎に任命しようとし、朝議にはかろうとしたが、逃げ出して姿を見せなかった。張昌がその妻子を人質として脅すと、さらに遠くへ避けて屈服することはありませんでした。仇勃の孝篤は危機においても著しく、郭貞の忠義は強暴に対しても激しく、二人とも四品の官であるといえ、臣子の鑑と言うべきで、長く風俗と教化に有益となるでしょう。そこで私はすぐさま仇勃を帰郷令に任命し、郭貞を信陵令に任命致しました。皆の功行を伝え、その名を顕し功業に報いるため、その行状をを列挙し、公式の文章で上申致します。」と言った。朝廷は皮初が功績を立てたといえども、襄陽は名郡であり、それ相応の人物がなるべきであるとして皮初には授けず、前の東平太守の夏侯陟を襄陽太守に任命し、その他については劉弘の意見に従った。夏侯陟は劉弘の婿であったが、劉弘は下々に文章を下して、「天下を統率する者は、天下と心を一つにすべきであり、また一国を教え導く者は、一国を任せられる者でなくてはならない。もしも必ず親族の者を用いなければならないとするならば、荊州十郡は十人の婿がいれば政治を安定させることができるのか」と言い、朝廷に上表して、「夏侯陟は私の親族であり、旧来の制度ではお互い監察し合うことはできません。皮初の勲功は報われるべきであります」と述べたので、朝廷もこれを許した。

劉弘は農業と養蚕を推奨し、刑罰を緩和し、賦役を省いたので、一年の費用で数年分を賄うことができ、百姓は皆これを喜んだ。また劉弘はあるとき夜に目を覚まし、城上の見張役の大変苦しみに満ちた嘆き声を聞いたので、これを呼んだ。するとその者は六十を越えており、疲労でやつれ服もろくに着ていなかった。劉弘はとてもこれを哀れに思い、すぐさま彼に見張りをさせた者を咎めて処分し、彼に衣服と帽子を与えて、別の部署につかせた。旧制では、峴方の二山の沢では民衆が魚を捕えるのを禁じていたが、劉弘は文章を下して、「礼記では名山の大沢は封鎖すべきではなく、民衆とその利益を共有するべきである。今公府がひそかに兼併して民衆が恩恵に与れないのは、まさに不当というべきで、速やかにこの法律を改正すべきである。」と言った。また「酒蔵の中には斎中(神仏に供える用の)酒、聴事(政務や訴えを聞く庭、転じて役所用の)酒、猥酒(民衆向けの酒)が有り、同じ麹米を用いても優劣はこのように三つに分かれてしまう。しかし、どぶろくを入れて3つの薄厚を同じにすれば分別はつかなくなる」と言った。時に益州刺史の羅尚が李特に敗れた時、羅尚は使者を派遣して劉弘に危急を告げ、食糧を求めた。返書して救援しようとしたが、州府の綱紀(主簿の異称)は運搬に道が遠く、荊州の官吏への俸給が乏しい状況なので、零陵の米五千斛を羅尚に送ることを欲した。これに対し劉弘は「諸君は思いやりが無い。天下は一つの家と同じであり、お互いに区別は無く、今私がこれを助けることは、すなわち西顧の憂いを無くすことでもあるのだ。」と言い、遂に零陵の米三万斛を羅尚に与えたので、羅尚はこれを頼りにして自守した。また、当時荊州に十余万戸の流民がおり、長旅で貧乏しており、多くが盗賊に身を落としていた。劉弘は彼等に田種と糧食を与えたり、その才能に沿って官吏に登用した。時に総章・太楽・伶人(楽官の名)が乱を避けて荊州に逃れてきていたが、ある者が劉弘に音楽を作れる者を勧めた。しかし劉弘は「昔劉表は当時礼楽が崩壊していたので、杜夔に命じて天子〔を迎えるため〕の音楽を作らせた。音楽ができ、それを庭で演奏させようと欲した。しかし杜夔は『天子のために音楽を為したのに、これを将軍の庭先で演奏する事は将軍の本意ではないでしょう(2)。』と言った。私はこれを聞いて常に嘆息させられる。今天子は乱に巻き込まれて難渋しておられるのに、私は臣下としての節義を全うすることができない。我が家の楽人ですら演奏させることができないでいるのに、ましてや天子を迎える音楽など作っていられようか。」と言い、郡県に命令を下して彼等を慰撫させ、朝廷の裁可を待ってこれを丁重に朝廷に送り返し、本来の所に戻させた。この頃朝廷は、劉弘に張昌平定の功績を以って、その次男を県侯に封じようとしたが、劉弘は上書してこれを辞退し、許された。また侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。

恵帝は長安に御幸し、〔恵帝を長安へ拉致した〕河間王司馬顒は天子を擁し、詔を為して劉弘に豫州刺史劉喬の後方の援助を為すよう命じた。しかし劉弘は河間王の配下で権力を握る張方の悪辣ぶりを見て、王は必ず敗れると判断し、河間王打倒の兵を挙げた東海王司馬越に使者を送って彼の節度を受けた。この時天下は大いに乱れていたが、劉弘の治める江漢は、その威恵が多くの民衆に支持されていた。前の広漢太守辛冉は劉弘にこの地で独立するよう勧めたが、劉弘は激怒して辛冉を斬り捨てた。また、河間王は部下の張光を順陽太守としたが、南陽太守の衛展は劉弘に「先の彭城王が東へお逃げになった時、張光の言葉に良からぬ発言がありました。また、張光は河間王の腹心であるので、これを斬って態度を明確になさいますように」と進言したが、劉弘は王の失政は張光の罪では無く、むやみに人を危機に曝して自らの安全を図るべきではないと言った。これにより衛展は劉弘を恨むようになった。

〔当時江南で反乱を起こした〕陳敏は揚州を攻略し、兵を率いて西上しようとしていたが、劉弘は自ら南蛮校尉の職を解いて、前の北軍中候蒋超に与え、江夏太守陶侃・武陵太守苗光らを統べ、大軍を率いて夏口を守らせた。また治中の何松に建平・宜都・襄陽の三郡の兵を率いて巴東を守らせ、羅尚の後援とした。また南平太守応詹を寧遠将軍とし、三郡の水軍を率いて蒋超に従うよう命じた。陶侃と陳敏は同郡出身で同年に官吏になった間柄で、ある者が陶侃のことを中傷したが、劉弘はこれを全く疑わず、陶侃を前鋒督護に任命し、陳敏討伐の任を委せた。陶侃はこれを聞き、息子と兄の子を人質として劉弘のもとに遣ったが、劉弘はこれを返して、「君の父が出征し、祖母上が高齢であるのに、どうして留めておけようか。取るに足らない人物同士の交誼でもその心に背かないのに、まして大丈夫同士の交誼ではなおさらである。」と言ったという。陳敏は結局その国境を犯すことができなかった。永興三年(306)、車騎将軍に昇進し、旧官はもとのままであった。

劉弘は守相の任命や解任のたびに、自ら手書して与え、それが丁寧で親密であったので、人々は大いに喜び、争って彼のもとを訪れ、「劉公に一枚の文章を頂くのは、十枚の従事のそれに勝る」と言ったという。東海王が恵帝を迎えると、劉弘は参軍の劉盤を遣わしてこれを警備させ、諸軍を率いてこれに会した。劉盤が帰還すると、劉弘は老齢を以って刺史と校尉の官を返上し、適宜に分けて所部に授けるよう、朝廷に書を奉ったが、それが朝廷に至る前に襄陽にて卒した。荊州の士女は皆非常に悲しみ、それは親しい者を失うかのような感じであったという。

以前、戦に敗れた成都王司馬穎は、南に逃走し、本国〔の成都郡〕に帰ろうとしたが、劉弘はこれを拒んだ。劉弘の死後、司馬の郭勱は司馬穎を擁して主としようと考えたが、劉弘の子の劉璠は父の遺志を尊重し、墨絰(喪服をつける際に着ける喪章)を付け、府兵を率いて郭勱を討ってこれを斬ったので、人々は安定した。朝廷は劉弘・劉璠父子の行動を喜び、東海王司馬越は自ら文章を書いて劉璠を賞賛し、また劉弘を新城郡公に封じ、元公という諡を贈った。

高密王司馬略が劉弘に代わって刺史となったが、盗賊の跳梁を抑えられなかった。そこで朝廷は詔を下して劉璠を順陽内史に任命したので、江漢の民心が一つになったという。司馬略が死去し、山簡がこれに代わると、山簡は劉璠が民心を得ているのを知り、民が彼を擁立するのを懼れ、上表してこれを朝廷に述べた。これにより劉璠は越騎校尉として都に帰され、劉璠もその意図を察してすぐさま洛陽へ帰還し、後に一族のもとへ迎えを遣らせた。僑人の侯脱・路難らは彼らを護衛して都に送り、その後に去った。この後荊州の地は大いに乱れた。荊州の父老たちが劉弘を思慕したことは、甘棠の歌(周の召公の善政を称えた歌)を歌った当時の民衆のようであった。

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