update:2002.10.02  担当:成瀬浩太郎
晋書巻六十六

 列伝第三十六

劉弘
人物簡介
 劉弘(二三六〜三〇六)(1)は字を和季といい、沛国相県の人である。祖父は魏の揚州刺史劉馥、父は鎮北将軍劉靖である。武帝司馬炎と同年で幼馴染であったことから次々と昇進し、太安年間に張昌が反乱を起こすと、荊州刺史として任地に赴き、その平定に功績を挙げた。劉弘は荊州に在っては良く農耕養蚕を奨励し、刑罰を緩め賦役を省いたので、人々は彼を慕い、また適材適所に人徳の士人を抜擢して配置させたので、皆が彼の為に人事を尽くしたという。永興三年(三〇六)、昇進して使持節・侍中・車騎将軍・都督荊州諸軍事・南蛮校尉・荊州刺史・開府儀同三司となった。光熙元年(三〇六)に襄陽にて病没した。享年七十一。新城郡公を追贈され、元公と諡された。
本文
  劉弘字和季,沛國相人也。祖馥,魏揚州刺史。父靖,鎭北將軍。弘有幹略政事之才,少家洛陽,與武帝同居永安里,又同年,共研席。以舊恩起家太子門大夫,累遷率更令,轉太宰長史。張華甚重之。由是爲寧朔將軍、假節、監幽州諸軍事,領烏丸校尉,甚有威惠,寇盜屏迹,爲幽朔所稱。以勳徳兼茂,封宣城公。
 劉弘は字を和季といい、沛国相の人である。祖父の劉馥は魏の時代、揚州刺史であった。父の劉靖は鎮北将軍であった。劉弘は才幹と知略、政治の才能があり、幼少時に洛陽に家があり、武帝(司馬炎)と同じ永安里に居住し、また同い年で、共に学問を学んだ。そのため旧恩を以って太子門大夫より起家し、次々と昇進して率更令となり、やがて太宰長史に転任した。時に張華は甚だ彼を重んじた。これによって寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉に任命され、甚だ威光と恩恵が有り、盗賊は姿を隠し、幽北で賞賛を受けた。その勲徳(立派な手柄と人徳)ともに立派であったので、宣城公に封ぜられた。
  太安中,張昌作亂,轉使持節、南蠻校尉、荊州刺史,率前將軍趙驤等討昌,自方城至宛、新野,所向皆平。及新野王[音欠:016139]之敗也,以弘代爲鎭南將軍、都督荊州諸軍事,餘官如故。弘遣南蠻長史陶侃爲大都護,參軍[艸朋刀:031601]恒爲義軍督護,〔一〕牙門將皮初爲都戰帥,進據襄陽。張昌并軍圍宛,敗趙驤軍,弘退屯梁。侃、初等累戰破昌,前後斬首數萬級。及到官,昌懼而逃,其衆悉降,荊土平。
 太安年間(三〇二〜三〇三)に、張昌が乱を為したため、使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任し、前将軍の趙驤らを率いて張昌を討ち、方城(河南省南陽市の東北)より宛・新野に至り、向かうところすべて平定した。新野王[音欠:016139]が張昌に敗れると、〔朝廷は〕劉弘を以って鎮南将軍・都督荊州諸軍事に代わらせ、余官(使持節・校尉・刺史)は旧のままとした。劉弘は南蛮長史の陶侃を大都護に、参軍の[艸朋刀:031601]恒を義軍督護に、牙門将の皮初を都戦帥に任命し、襄陽に進軍させた。張昌は軍を併せて宛を包囲して趙驤軍を破り、そのため劉弘は退いて梁城に駐屯した。陶侃や皮初らは次々戦って張昌を破り、前後して数万級の首を斬った。荊州の官府に到着すると、張昌は懼れて逃亡し、その衆はことごとく降伏し、荊州は平定された。
  初,弘之退也,范陽王[九虎:032684]遣長水校尉張奕領荊州。弘至,奕不受代,舉兵距弘。弘遣軍討奕,斬之,表曰:「臣以凡才,謬荷國恩,作司方州,奉辭伐罪,不能奮揚雷霆,折衝萬里,軍退於宛,分受顯戮。猥蒙含宥,被遣之職,即進達所鎭。而范陽王[九虎:032684]先遣前長水校尉張奕領荊州,臣至,不受節度,擅舉兵距臣。今張昌姦黨初平,昌未梟擒,益梁流人蕭條猥集,無頼之徒易相扇動,飆風駭蕩,則滄海横波,苟患失之,無所不至。比須表上,慮失事機,輒遣軍討奕,即梟其首。奕雖貪亂,欲爲荼毒,由臣劣弱,不勝其任,令奕肆心,以勞資斧,敢引覆[食束:044180]之刑,甘受專輒之罪。」詔曰:「將軍文武兼資,前委方夏,宛城不守,咎由趙驤。將軍所遣諸軍,克滅羣寇,張奕貪禍,距違詔命。將軍致討,傳首闕庭,雖有不請之嫌,古人有專之之義。其恢宏奧略,鎭綏南海,以副推轂之望焉。」張昌竄于下雋山,〔二〕弘遣軍討昌,斬之,悉降其衆。
 初め、劉弘が(梁に)引いた時、范陽王[九虎:032684]は長水校尉の張奕を遣わして荊州を占領させようとした。劉弘がやって来ても奕は代わろうとはせず、兵を派遣して劉弘の進入を拒んだ。劉弘は軍を遣して奕を討って、これを斬り、朝廷に表を奉ってこう述べた。「臣は凡才ながらも、間違って国恩を担う事になり方州(刺史の治める領域)に役所を起こすことになり、辞令を奉じて罪を討ちましたが、威勢を振るって万里を駆け巡る事ができず、軍は敗れて宛に退き、死刑に処せられる所でありましたが、有難くもお許しを蒙り、荊州の地に遣わされましたので、即座に鎮府に進達致しました。しかしながら、范陽王[九虎:032684]は先に前の長水校尉の張奕を遣わし、荊州を統べさせようとし、臣が至ってもその節度を受けようとはせず、擅に兵を挙げて臣を拒みました。今張昌の姦党が初めて平定されましたが、張昌は未だ討ち滅ぼせず、益・梁州の流人達はわらわらと群集まり、無頼の徒が侮って扇動し合い、旋風のように乱れ騒いで、人民を大いに苦しめております。卑しくも之を憂うのならば、どうして至らないことがありましょうや。之(范陽王[九虎:032684]の行為)に対しては必ず上表すべきではありますが、時機を失う事を慮し、すぐさま兵を遣わして奕を討ち、その首を曝しものと致しました。奕は貪婪で害毒を為さんとしたとはいえ、臣は劣弱であり、その任務に耐えられず、奕を好き勝手にさせ、資材を浪費したのは、まさに皿に盛った食物をひっくり返すような罪に当たり、甘んじて専殺(勝手に人を殺した罪)の刑をお受けいたします。」その返事の詔書に言う、「将軍は文武両面に素質を兼ね備え、前に方鎮を任せており、宛城を守れなかったのは趙驤に責任がある。将軍の遣わした諸軍は群賊を討ち滅ぼし、張奕は禍を貪り、君命を拒み違えた。将軍がこれを討ち、首を御所の庭に曝したのは、それを請わなかった罪が有るとはいえ、古人にも独断の正義が有る。其の広い計略で南海の地を慰撫したのは、推轂(人を助けて事業を完成させる)の栄誉が加わったといえよう。」後に張昌は下雋山に逃竄したが、劉弘は軍を遣わして張昌を討ち、これを斬り、余の衆は皆降伏した。
  時荊部守宰多闕,弘請補選,帝從之。弘迺敍功銓徳,隨才補授,甚爲論者所稱。乃表曰:「被中詔,敕臣隨資品選,補諸缺吏。夫慶賞刑威,非臣所專,且知人則哲,聖帝所難,非臣闇蔽所能斟酌。然萬事有機,豪[釐毛:016952]宜愼,謹奉詔書,差所應用。蓋崇化莫若貴徳,則所以濟屯,故太上立徳,其次立功也。頃者多難,淳朴彌凋,臣輒以徴士伍朝補零陵太守,庶以懲波蕩之弊,養退讓之操。臣以不武,前退於宛,長史陶侃、參軍[艸朋刀:031601]恒、牙門皮初,勠力致討,蕩滅姦凶,侃恒各以始終軍事,初爲都戰帥,忠勇冠軍,漢[シ眄:017207]清肅,實初等之勳也。司馬法『賞不踰時』,欲人知爲善之速福也。若不超報,〔三〕無以勸徇功之士,慰熊羆之志。臣以初補襄陽太守,侃爲府行司馬,使典論功事,恒爲山都令。詔惟令臣以散補空缺,然[シ示:017248]郷令虞潭忠誠烈正,首唱義舉,舉善以教,不能者勸,臣輒特轉潭補醴陵令。南郡廉吏仇勃,母老疾困,賊至守衞不移,以致拷掠,幾至隕命。尚書令史郭貞,張昌以爲尚書郎,欲訪以朝議,遁逃不出,昌質其妻子,避之彌遠。勃孝篤著於臨危,貞忠[厂萬:003041]於強暴,雖各四品,皆可以訓獎臣子,長益風教。臣輒以勃爲歸郷令,貞爲信陵令。皆功行相參,循名校實,條列行状,公文具上。」朝廷以初雖有功,襄陽又是名郡,名器宜愼,不可授初,乃以前東平太守夏侯陟爲襄陽太守,餘並從之。陟,弘之壻也。弘下教曰:「夫統天下者,宜與天下一心;化一國者,宜與一國爲任。若必姻親然後可用,則荊州十郡,安得十女壻然後爲政哉!」乃表「陟姻親,舊制不得相監。皮初之勳宜見酬報」。詔聽之。
 時に荊州の所轄地域の地方官の多くが欠員となっており、劉弘は之を補充することを請い、帝はこれを許した。劉弘は徳を基準とし、才能に従って官職を与えたので、人々はこの行為を大いに賞賛した。また劉弘は表を奉って、「陛下の詔をお受けし、私は素質に従って等級付けし、欠員の官吏を補充致しました。恩賞と刑罰は臣下が勝手に行うものではなく、人を知ることはすなわち賢者であり、聖帝でも難しいところでありますのに、まして愚かな私にはとうてい処理できるものではございません。しかしながら、すべての事にははずみというものがあり、僅かながらも謹んで詔書を奉り、時と場合に沿って処理しております。尊重すべきものは身分に高さでは無く、苦しみを救う事であり、故に聖人は徳を完成させることを第一とし、その次に勲功を樹立致しました。現在は多難であり、純朴な者はますます凋落しておりますので、私は士人の伍朝を召して零陵太守とし、波風のように乱れた弊害を懲らしめ、謙譲の美徳を養うことを願いました。私は武力に乏しく、前に無様にも宛城に退却致しましたが、長史の陶侃や参軍の[艸朋刀:031601]恒、牙門の皮初らは力を合せて姦凶を討ち滅ぼし、侃や恒は各々軍事に終始し、初は都戦帥として忠義と勇敢さは軍で並ぶものが無く、漢[シ眄:017207]の地が良く治まったのは、ひとえに皮初等の功績であります。『司馬法(戦国斉時代に書かれた兵法書。春秋の名将司馬穰苴の兵法を編集したもの)』に中に『恩賞は時間を置いてはならない』という言葉があります。人を知り、速やかにこれを賞賛することが大切で、もし速やかにこれに報いることができなければ、一命を投げ打って働く士を励まし、勇猛の士の心を慰める事はできません。私は皮初を襄陽太守とし、陶侃を荊州府司馬として論功の事を掌らせ、[艸朋刀:031601]恒を山都令と致しました。また詔書は私に欠員の補充を命じておりますが、これに対しては漂郷令の虞潭は忠誠心があって公正で、率先して正義を唱え、善行に努めて人の模範となり、能力の無い者も喜んで彼に従いました。私はすぐさま潭を醴陵令に任じました。また南郡の廉吏の仇勃は、母が老いと病気で苦しむ中で賊の来襲に遭ったが、最後まで母を守り抜き、逃げることをしなかった為、賊の掠奪に遭い、危うく命を落とす所でありました。尚書令史の郭貞は張昌が尚書郎に任命しようとし、朝議にはかろうとしたが、逃げ出して姿を見せなかった。張昌がその妻子を人質として脅すと、さらに遠くへ避けて屈服することはありませんでした。仇勃の孝篤は危機においても著しく、郭貞の忠義は強暴に対しても激しく、二人とも四品の官であるといえ、臣子の鑑と言うべきで、長く風俗と教化に有益となるでしょう。そこで私はすぐさま勃を帰郷令に任命し、貞を信陵令に任命致しました。皆の功行を伝え、その名を顕し功業に報いるため、その行状をを列挙し、公式の文章で上申致します。」と言った。朝廷は皮初が功績を立てたといえども、襄陽は名郡であり、それ相応の人物がなるべきであるとして初には授けず、前の東平太守の夏侯陟を襄陽太守に任命し、その他については劉弘の意見に従った。陟は劉弘の婿であったが、劉弘は下々に文章を下して、「天下を統率する者は、天下と心を一つにすべきであり、また一国を教え導く者は、一国を任せられる者でなくてはならない。もしも必ず親族の者を用いなければならないとするならば、荊州十郡は十人の婿がいれば政治を安定させることができるのか」と言い、朝廷に上表して、「陟は私の親族であり、旧来の制度ではお互い監察し合うことはできません。皮初の勲功は報われるべきであります」と述べたので、朝廷もこれを許した。
  弘於是勸課農桑,寛刑省賦,歳用有年,百姓愛悦。弘嘗夜起,聞城上持更者歎聲甚苦,遂呼省之。兵年過六十,羸疾無襦。弘愍之,乃謫罰主者,遂給韋袍複帽,轉以相付。舊制,[山見:008106]方二山澤中不聽百姓捕魚,弘下教曰:「禮,名山大澤不封,與共其利。今公私并兼,百姓無復[厂昔:002961]手地,當何謂邪!速改此法。」又「酒室中云齊中酒、聽事酒、猥酒,同用麹米,而優劣三品。投醪當與三軍同其薄厚,自今不得分別」。時益州刺史羅尚爲李特所敗,〔四〕遣使告急,請糧。弘移書贍給,而州府綱紀以運道懸遠,文武匱乏,欲以零陵一運米五千斛與尚。弘曰:「諸君未之思耳。天下一家,彼此無異,吾今給之,則無西顧之憂矣。」遂以零陵米三萬斛給之。尚頼以自固。于時流人在荊州十餘萬戸,羈旅貧乏,多爲盜賊。弘乃給其田種糧食,擢其賢才,隨資敍用。時總章太樂伶人,避亂多至荊州,或勸可作樂者。弘曰:「昔劉景升以禮壞樂崩,命杜[首止巳攵:005746]爲天子合樂,樂成,欲庭作之。[首止巳攵:005746]曰:『爲天子合樂而庭作之,恐非將軍本意。』吾常爲之歎息。今主上蒙塵,吾未能展效臣節,雖有家伎,猶不宜聽,況御樂哉!」乃下郡縣,使安慰之,須朝廷旋返,送還本署。論平張昌功,應封次子一人縣侯,弘上疏固讓,許之。進拜侍中、鎭南大將軍、開府儀同三司。
 劉弘は農業と養蚕を推奨し、刑罰を緩和し、賦役を省いたので、一年の費用で数年分を賄うことができ、百姓は皆これを喜んだ。また劉弘はあるとき夜に目を覚まし、城上の見張役の大変苦しみに満ちた嘆き声を聞いたので、これを呼んだ。するとその者は六十を越えており、疲労でやつれ服もろくに着ていなかった。劉弘はとてもこれを哀れに思い、すぐさま彼に見張りをさせた者を咎めて処分し、彼に衣服と帽子を与えて、別の部署につかせた。旧制では、[山見:008106]方の二山の沢では民衆が魚を捕えるのを禁じていたが、劉弘は文章を下して、「礼記では名山の大沢は封鎖すべきではなく、民衆とその利益を共有するべきである。今公府がひそかに兼併して民衆が恩恵に与れないのは、まさに不当というべきで、速やかにこの法律を改正すべきである。」と言った。また「酒蔵の中には斎中(神仏に供える用の)酒、聴事(政務や訴えを聞く庭、転じて役所用の)酒、猥酒(民衆向けの酒)が有り、同じ麹米を用いても優劣はこのように三つに分かれてしまう。しかし、どぶろくを入れて3つの薄厚を同じにすれば分別はつかなくなる」と言った。 時に益州刺史の羅尚が李特に敗れた時、尚は使者を派遣して劉弘に危急を告げ、食糧を求めた。返書して救援しようとしたが、州府の綱紀(主簿の異称)は運搬に道が遠く、荊州の官吏への俸給が乏しい状況なので、零陵の米五千斛を羅尚に送ることを欲した。これに対し劉弘は「諸君は思いやりが無い。天下は一つの家と同じであり、お互いに区別は無く、今私がこれを助けることは、すなわち西顧の憂いを無くすことでもあるのだ。」と言い、遂に零陵の米三万斛を尚に与えたので、尚はこれを頼りにして自守した。また、当時荊州に十余万戸の流民がおり、長旅で貧乏しており、多くが盗賊に身を落としていた。劉弘は彼等に田種と糧食を与えたり、その才能に沿って官吏に登用した。時に総章・太楽・伶人(楽官の名)が乱を避けて荊州に逃れてきていたが、ある者が劉弘に音楽を作れる者を勧めた。しかし劉弘は「昔劉表は当時礼楽が崩壊していたので、杜[首止巳攵:005746]に命じて天子(を迎えるため)の音楽を作らせた。音楽ができ、それを庭で演奏させようと欲した。しかし杜[首止巳攵:005746]は『天子の為に音楽を為したのに、これを将軍の庭先で演奏する事は将軍の本意ではないでしょう。(『三国志』巻二十九「方伎傳」)』と言った。私はこれを聞いて常に嘆息させられる。今天子は乱に巻き込まれて難渋しておられるのに、私は臣下としての節義を全うすることができない。我が家の楽人ですら演奏させることができないでいるのに、ましてや天子を迎える音楽など作っていられようか。」と言い、郡県に命令を下して彼等を慰撫させ、朝廷の裁可を待ってこれを丁重に朝廷に送り返し、本来の所に戻させた。この頃朝廷は、劉弘に張昌平定の功績を以って、その次男を県侯に封じようとしたが、劉弘は上書してこれを辞退し、許された。また侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司に昇進した。
  惠帝幸長安,河間王[禺頁:043599]挾天子,詔弘爲劉喬繼援。弘以張方殘暴,知[禺頁:043599]必敗,遣使受東海王越節度。時天下大亂,弘專督江漢,威行南服。前廣漢太守辛冉説弘以從横之事,〔五〕弘大怒,斬之。河間王[禺頁:043599]使張光爲順陽太守,南陽太守衞展説弘曰:「彭城王前東奔,有不善之言。張光,太宰腹心,宜斬光以明向背。」弘曰:「宰輔得失,豈張光之罪!危人自安,君子弗爲也。」展深恨之。
 恵帝は長安に御幸し、(帝を長安へ拉致した)河間王[禺頁:043599]は天子を擁し、詔を為して劉弘に豫州刺史劉喬の後方の援助を為すよう命じた。しかし劉弘は河間王の配下で権力を握る張方の悪辣ぶりを見て、王は必ず敗れると判断し、河間王打倒の兵を挙げた東海王越に使者を送って彼の節度を受けた。この時天下は大いに乱れていたが、劉弘の治める江漢は、その威恵が多くの民衆に支持されていた。前の広漢太守辛冉は劉弘にこの地で独立するよう勧めたが、劉弘は激怒して冉を斬り捨てた。また、河間王は部下の張光を順陽太守としたが、南陽太守の衛展は劉弘に「先の彭城王が東へお逃げになった時、光の言葉に良からぬ発言がありました。また、光は河間王の腹心であるので、これを斬って態度を明確になさいますように」と進言したが、劉弘は王の失政は張光の罪では無く、むやみに人を危機に曝して自らの安全を図るべきではないと言った。これにより展は劉弘を恨むようになった。
  陳敏寇揚州,引兵欲西上。弘乃解南蠻,以授前北軍中候蒋超,統江夏太守陶侃、武陵太守苗光,以大衆屯于夏口。又遣治中何松領建平、宜都、襄陽三郡兵,屯巴東,爲羅尚後繼。又加南平太守應[瞻−目:035458]寧遠將軍,督三郡水軍,繼蒋超。侃與敏同郡,又同歳舉吏,或有間侃者,弘不疑之。乃以侃爲前鋒督護,委以討敏之任。侃遣子及兄子爲質,弘遣之曰:「賢叔征行,君祖母年高,便可歸也。匹夫之交尚不負心,何況大丈夫乎!」陳敏竟不敢[門規:041467]境。永興三年,詔進號車騎將軍,開府及餘官如故。
 当時江南で反乱を起こした陳敏は揚州を攻略し、兵を率いて西上しようとしていたが、劉弘は自ら南蛮校尉の職を解いて、前の北軍中候蒋超に与え、江夏太守陶侃・武陵太守苗光らを統べ、大軍を率いて夏口を守らせた。また治中の何松に建平・宜都・襄陽の三郡の兵を率いて巴東を守らせ、羅尚の後援とした。また南平太守応[瞻−目:035458]を寧遠将軍とし、三郡の水軍を率いて蒋超に従うよう命じた。陶侃と陳敏は同郡出身で同年に官吏になった間柄で、ある者が侃のことを中傷したが、劉弘はこれを全く疑わず、侃を前鋒督護に任命し、陳敏討伐の任を委せた。陶侃はこれを聞き、息子と兄の子を人質として劉弘のもとに遣ったが、劉弘はこれを返して、「君の父が出征し、祖母上が高齢であるのに、どうして留めておけようか。取るに足らない人物同士の交誼でもその心に背かないのに、まして大丈夫同士の交誼ではなおさらである。」と言ったという。陳敏は結局その国境を犯すことができなかった。永興三年(三〇六)、車騎将軍に昇進し、旧官はもとのままであった。
  弘毎有興廢,手書守相,丁寧款密,所以人皆感悦,爭赴之,咸曰:「得劉公一紙書,賢於十部從事。」及東海王越奉迎大駕,弘遣參軍劉盤爲督護,率諸軍會之。盤既旋,弘自以老疾,將解州及校尉,適分授所部,未及表上,卒于襄陽。士女嗟痛,若喪所親矣。
 劉弘は守相の任命や解任のたびに、自ら手書して与え、それが丁寧で親密であったので、人々は大いに喜び、争って彼のもとを訪れ、「劉公に一枚の文章を頂くのは、十枚の従事のそれに勝る」と言ったという。東海王が恵帝を迎えると、劉弘は参軍の劉盤を遣わしてこれを警備させ、諸軍を率いてこれに会した。盤が帰還すると、劉弘は老齢を以って刺史と校尉の官を返上し、適宜に分けて所部に授けるよう、朝廷に書を奉ったが、それが朝廷に至る前に襄陽にて卒した。荊州の士女は皆非常に悲しみ、それは親しい者を失うかのような感じであったという。
  初,成都王穎南奔,欲之本國,弘距之。及弘卒,弘司馬郭[萬力:002459]欲推穎爲主,弘子[王番:021247]追遵弘志,於是墨[糸至:027445]率府兵討[萬力:002459],戰於濁水,斬之,襄[シ眄:017207]肅清。初,東海王越疑弘與劉喬貳于己,雖下節度,心未能安。及弘距穎,[王番:021247]又斬[萬力:002459],朝廷嘉之。越手書與[王番:021247]贊美之,表贈弘新城郡公,諡曰元。
 以前、戦に敗れた成都王司馬穎は、南に逃走し、本国の成都の帰ろうとしたが、劉弘はこれを拒んだ。劉弘の死後、司馬の郭[萬力:002459]は司馬穎を擁して主としようと考えたが、劉弘の子の劉[王番:021247]は父の遺志を尊重し、墨[糸至:027445](喪服をつける際に着ける喪章)を付け、府兵を率いて郭[萬力:002459]を討ってこれを斬ったので、人々は安定した。朝廷は劉弘・劉[王番:021247]父子の行動を喜び、東海王は自ら文章を書いて[王番:021247]を賞賛し、また劉弘を新城郡公に封じ、元公という諡を贈った。
  以高密王略代鎭,寇盜不禁,詔起[王番:021247]爲順陽内史,江漢之間翕然歸心。及略薨,山簡代之。簡至,知[王番:021247]得衆心,恐百姓逼以爲主,表陳之,由是徴[王番:021247]爲越騎校尉。[王番:021247]亦深慮逼迫,被書,便輕至洛陽,然後遣迎家累。僑人侯脱、路難等相率衞送至都,然後辭去。南夏遂亂。父老追思弘,雖甘棠之詠召伯,無以過也。
 高密王司馬略が劉弘に代わって刺史となったが、盗賊の跳梁を抑えられなかった。そこで朝廷は詔を下して劉[王番:021247]を順陽内史に任命したので、江漢の民心が一つになったという。司馬略が死去し、山簡がこれに代わると、山簡は劉[王番:021247]が民心を得ているのを知り、民が彼を擁立するのを懼れ、上表してこれを朝廷に述べた。これにより劉[王番:021247]は越騎校尉として都に帰され、劉[王番:021247]もその意図を察してすぐさま洛陽へ帰還し、後に一族のもとへ迎えを遣らせた。僑人の侯脱・路難らは彼らを護衛して都に送り、その後に去った。この後荊州の地は大いに乱れた。荊州の父老たちが劉弘を思慕したことは、甘棠の歌(周の召公の善政を称えた歌)を歌った当時の民衆のようであった。

更新履歴
2002.10.02:第一版。
この頁の最初へ
広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー