update:2005.10.01  担当:成瀬 浩太郎
陶侃 子洪 瞻 夏 [王奇:021062] 旗 斌 稱 範 岱 兄子臻 臻弟輿
人物簡介
  陶侃(256〜332)は字を士行といい、[番β:039658]陽の人である。父は呉の揚武将軍陶丹。幼少に父を失い、非常に貧しい生活を送りながらも、独力で努力して役人となった。やがて彼の才能は多くの人士に認められ、孝廉に挙げられた。劉弘が荊州刺史となると、陶侃を引き立てて南蛮長史とし、強く信頼して職務を任せた。陶侃もこれに応えて大いに力を発揮し、陳敏の乱や杜[弓屮又:009748]の乱等の平定に功績があり、その功績によって荊州刺史にまで昇進した。後に、その功を憎んだ王敦により廣州刺史に左遷されたが、王敦が死ぬと荊州刺史に復帰し、征南大将軍・荊雍益梁四州の都督の官を加えられた。蘇峻の反乱に於いては荊州より諸軍を率いて東上してこれを平らげ、その功により侍中・太尉に昇り、長沙郡公に封ぜられた。陶侃は荊州の地にあっては自他共に厳しく身を律して職務を全うし、庶民のことを慈しんだので、人々は彼のことを愛して止まなかったという。咸和七年(332)に荊州にて病没、享年67歳。その最終官位は使持節・侍中・太尉・荊江雍益梁交廣寧八州都督・荊江二州刺史、爵位は長沙郡公にまで昇り、桓公と諡された。

(附伝の人物の紹介)
本文
  陶侃字士行,本[番β:039658]陽人也。呉平,徙家廬江之尋陽。父丹,呉揚武將軍。侃早孤貧,爲縣吏。[番β:039658]陽孝廉范逵嘗過侃,時倉卒無以待賓,其母乃截髮得雙[髪皮:045411],以易酒肴,樂飲極歡,雖僕從亦過所望。及逵去,侃追送百餘里。逵曰:「卿欲仕郡乎?」侃曰:「欲之,困於無津耳!」逵過廬江太守張[首止巳攵:005746],稱美之。[首止巳攵:005746]召爲督郵,領樅陽令。有能名,遷主簿。會州部從事之郡,欲有所按,侃閉門部勒諸吏,謂從事曰:「若鄙郡有違,自當明憲直繩,不宜相逼。若不以禮,吾能禦之。」從事即退。[首止巳攵:005746]妻有疾,將迎醫於數百里。時正寒雪,諸綱紀皆難之,侃獨曰:「資於事父以事君。小君,猶母也,安有父母之疾而不盡心乎!」乃請行。衆咸服其義。長沙太守萬嗣過廬江,見侃,虚心敬悦,曰:「君終當有大名。」命其子與之結友而去。
 陶侃は字を士行と言い、もともとは[番β:039658]陽の人であった。呉が平定されると、家を廬江の尋陽に移した。父陶丹は呉の揚武将軍であった。陶侃は早くに孤児となって貧乏していたが、やがて県の役人となった。[番β:039658]陽の孝廉であった范逵がかつて陶侃を訪問したことがあったが、突然の来客に賓客を迎える費用がなかったため、彼の母が髪を切って二つのかつらを作り、それをお金にかえて酒肴とし、おおいに飲酒を楽しませ、下男もまた所望に与った。范逵が去るとき、陶侃は彼を百余里先まで見送ったが、その時范逵が「君は郡で仕えたいと思いますか?」と尋ねると、陶侃は「仕えたいと思いますが、つてがないのです。」と言った。すると范逵は廬江太守の張[首止巳攵:005746]を訪問し、陶侃のことを賞賛した。これを受けて張[首止巳攵:005746]は彼を召し出して督郵とし、樅陽の県令を兼任させた。そこで名をあげて、主簿に昇進した。ある時、州の部従事が訪れて、郡を巡察しようとしたが、陶侃は門を閉じ、諸吏に役割を与えて指示を出した後で、従事に対し、「もし私の郡に違法があれば、私が自らきまりに従って法律を正すべきであり、人に逼られてするものではございません。もしあなたが無礼な態度を取れば、私はあなたを拒み遮るでしょう。」と言うと、従事はすぐさま退散した。またある時、張[首止巳攵:005746]の妻が病を患うと、数百里先の医者を迎えに行こうとした。この時、まさに寒雪の季節であり、部下達はみな行くのを引き止めたが、陶侃は独り「父に仕え助けるように、主に仕えるものだ。その主の奥様は母上と同じである。どうして父母の病に対して心を尽くさずにはいられようか。」と言い、自らが行くことを願ったので、人々はみなその義理堅さに感服した。長沙太守の萬嗣は廬江を通過したときに陶侃を見て、心から敬い悦び、「君は大いに名をあげて終わるであろう」と言い、その子を陶侃と交友を結ばせて去ったという。
  [首止巳攵:005746]察侃爲孝廉,至洛陽,數詣張華。華初以遠人,不甚接遇。侃毎往,神無忤色。華後與語,異之。除郎中。伏波將軍孫秀以亡國支庶,府望不顯,中華人士恥爲掾屬,以侃寒宦,召爲舍人。時豫章國郎中令楊[日卓:013976],侃州里也,爲郷論所歸。侃詣之,[日卓:013976]曰:「易稱『貞固足以幹事』,陶士行是也。」與同乘見中書郎顧榮,榮甚奇之。吏部郎温雅謂[日卓:013976]曰:「奈何與小人共載?」[日卓:013976]曰:「此人非凡器也。」尚書樂廣欲會荊揚士人,武庫令黄慶進侃於廣。人或非之,慶曰:「此子終當遠到,復何疑也!」慶後爲吏部令史,舉侃補武岡令。與太守呂岳有嫌,棄官歸,爲郡小中正。
 張[首止巳攵:005746]は陶侃を孝廉に推挙した。陶侃は洛陽に到着すると、度々張華を訪問したが、張華は初めは遠国の人としてあまりもてなさなかった。しかし陶侃は行くたびごと、全く恨む様子はなかった。後に張華は陶侃と語り合い、これを優れていると思うようになった。やがて郎中に任命された。伏波将軍の孫秀は亡国(呉)の一族であったために、官府での人望が高くなく、中央の文化人が彼の部下になる事を恥と考えるだろうと思い、身分の低い陶侃を召して舎人とした。時に豫章国の郎中令の楊[日卓:013976]は陶侃と同郷で、郷里での評判を一身に受ける人物であったが、陶侃が彼を訪問した時、楊[日卓:013976]は「易(経)では『心正しく堅固であることは、事を立派に成し遂げることができる』と言っているが、君はまさにその人である。」と言い、車に同乗させて、中書郎の顧栄に引き合わせたところ、顧栄も彼を大変優れた人物だと評価した。吏部郎の温雅は楊[日卓:013976]に「何故そのような小人と同乗しているのかね」と言うと、楊[日卓:013976]は「彼は非凡な才能を持つ人物です」と言い返した。又、尚書の楽広は荊揚の人士を集めようとした時、武庫令の黄慶は楽広に陶侃を薦めた。この人事を批判する人もいたが、黄慶は「この人の才能はきっと奥深いものを持っている、何も疑うことは無い」と言い、後に吏部令史になった時、陶侃を推挙し武岡の令とした。しかし太守の呂岳と不仲であった為に、官を棄てて帰郷し、後に郡の小中正となった。
  會劉弘爲荊州刺史,將之官,辟侃爲南蠻長史,遣先向襄陽討賊張昌,破之。弘既至,謂侃曰:「吾昔爲羊公參軍,謂吾其後當居身處。今相觀察,必繼老夫矣。」後以軍功封東郷侯,邑千戸。
 劉弘が荊州刺史となり、任地に赴こうとするときに、陶侃を招聘して南蛮長史とし、先に襄陽に向かわせて賊の張昌を討たせ、これを撃破させた。劉弘がまもなく到着すると、陶侃に対し「私が昔羊公(羊[示古:024671])の参軍であった時、私の後は必ず君が居るべきだ、とおっしゃった。今君を観察したが、私の後を継ぐ者は必ず君だ。」と言ったという。後に軍功によって東郷侯に封ぜられ、食邑は千戸であった。
  陳敏之亂,弘以侃爲江夏太守,加鷹揚將軍。侃備威儀,迎母官舍,郷里榮之。敏遣其弟恢來寇武昌,侃出兵禦之。隨郡内史扈[王懷:021336]間侃於弘曰:〔六〕「侃與敏有郷里之舊,居大郡,統強兵,脱有異志,則荊州無東門矣。」弘曰:「侃之忠能,吾得之已久,豈有是乎!」侃潛聞之,遽遣子洪及兄子臻詣弘以自固。弘引爲參軍,資而遣之。又加侃爲督護,使與諸軍并力距恢。侃乃以運船爲戰艦,或言不可,侃曰:「用官物討官賊,但須列上有本末耳。」於是撃恢,所向必破。侃戎政齊肅,凡有虜獲,皆分士卒,身無私焉。後以母憂去職。嘗有二客來弔,不哭而退,化爲雙鶴,沖天而去,時人異之。
 陳敏の乱が起きると、劉弘は陶侃を江夏太守とし、鷹揚将軍を加えた。陶侃は威儀を備えて、官舎に母を迎えたので、郷里の人々はこれを栄誉と考えた。陳敏は弟の陳恢を遣して武昌を攻めたが、陶侃は兵を出してこれを防いだ。随郡内史の扈[王懷:021336]は劉弘に陶侃のことを讒言し、「陶侃と陳敏は郷里の旧知であり、彼は大郡に在って強兵を統べております。もし彼に謀反の気持ちがあれば、荊州の東門は無いに等しいでしょう」と言ったが、劉弘は「私は陶侃の忠義と才能を知ってから久しい。どうしてそのようなことがあろうか。」と言った。陶侃はひそかにこれを聞くと、すみやかに自分の子の陶洪と、兄の子の陶臻を劉弘のもとに遣して、自らの叛意の無い事を伝えた。すると劉弘は彼らを引き立てて参軍とし、物資を与えて陶侃の元へ返した。又陶侃に督護を加え、諸軍と力を合せて陳恢を距ませた。陶侃は運搬船を戦艦とし、ある者がこれを不可としたが、陶侃は「官物を用いて官賊を討つことが、ただ唯一の行うべき優れたことなのだ」と言い、これにより陳恢を撃ち、向かう所すべてを討ち破った。陶侃の軍政は厳粛であり、敵から得た物はすべて士卒に分配し、私服することはなかった。後に母がなくなり、服喪の為に職を去った。嘗て二人の客が弔問に訪れ、哭礼せずに退室したが、その後彼らは二匹の鶴となり天に去っていった。時の人はこれを不思議なことだと言いあったという。
  服[門癸:041430],參東海王越軍事。江州刺史華軼表侃爲揚武將軍,使屯夏口,又以臻爲參軍。軼與元帝素不平,臻懼難作,託疾而歸,白侃曰:「華彦夏有憂天下之志,而才不足,且與琅邪不平,難將作矣。」侃怒,遣臻還軼。臻遂東歸於帝。帝見之,大悦,命臻爲參軍,加侃奮威將軍,假赤幢曲蓋[車召:038272]車、鼓吹。侃乃與華軼告絶。
 服喪期間が明け、東海王司馬越の参軍となった。江州刺史華軼は表を奉って陶侃を揚武将軍に任命し夏口を守らせ、又陶臻を参軍とした。華軼は元帝と日頃より不仲であり、陶臻は華軼が謀反することを懼れ、病気と称して帰り、陶侃に「華彦夏(軼の字)は天下を憂える心がありますが、才能が不足しており、又瑯邪王(元帝)と不仲なので、必ず乱を起こすでしょう」と言った。すると陶侃は大いに怒り、陶臻を華軼のもとに還らせたが、陶臻はそのまま東の元帝のもとに帰した。元帝は彼を見ると大いに喜び、陶臻を参軍に任命し、陶侃に奮威将軍の号を付け加え、赤幢(赤い旗)・曲蓋(柄の曲った傘)のついた[車召:038272]車(一頭馬車)と鼓吹(軍楽を行う権限)を与えた。陶侃はやがて華軼に絶縁を告げた。
  頃之,遷龍驤將軍、武昌太守。時天下饑荒,山夷多斷江劫掠。侃令諸將詐作商船以誘之。劫果至,生獲數人,是西陽王[羊永:057378]之左右。侃即遣兵逼[羊永:057378],令出向賊,侃整陣於釣臺爲後繼。[羊永:057378]縛送帳下二十人,侃斬之。自是水陸肅清,流亡者歸之盈路,侃竭資振給焉。又立夷市於郡東,大收其利。而帝使侃撃杜[弓屮又:009748],令振威將軍周訪、廣武將軍趙誘受侃節度。侃令二將爲前鋒,兄子輿爲左甄,撃賊,破之。時周[豈頁:043614]爲荊州刺史,先鎭潯水城,賊掠其良口。侃使部將朱伺救之,賊退保[シ令:017306]口。侃謂諸將曰:「此賊必更歩向武昌,吾宜還城,晝夜三日行可至。卿等誰能忍饑鬥邪?」部將呉寄曰:「要欲十日忍饑,晝當撃賊,夜分捕魚,足以相濟。」侃曰:「卿健將也。」賊果増兵來攻,侃使朱伺等逆撃,大破之,獲其輜重,殺傷甚衆。遣參軍王貢告捷于王敦,敦曰:「若無陶侯,便失荊州矣。伯仁方入境,便爲賊所破,不知那得刺史?」貢對曰:「鄙州方有事難,非陶龍驤莫可。」敦然之,即表拜侃爲使持節、寧遠將軍、南蠻校尉、荊州刺史,領西陽、江夏、武昌,鎭于沌口,又移入[シ眄:017207]江。遣朱伺等討江夏賊,殺之。賊王沖自稱荊州刺史,據江陵。王貢還,至竟陵,矯侃命,以杜曾爲前鋒大督護,進軍斬沖,悉降其衆。侃召曾不到,貢又恐矯命獲罪,遂與曾舉兵反,撃侃督護鄭攀於沌陽,破之,又敗朱伺於[シ眄:017207]口。侃欲退入[シ員:017980]中,部將張奕將貳於侃,詭説曰:「賊至而動,衆必不可。」侃惑之而不進。無何,賊至,果爲所敗。賊鉤侃所乘艦,侃窘急,走入小船。朱伺力戰,僅而獲免。張奕竟奔于賊。侃坐免官。王敦表以侃白衣領職。
 しばらくして龍驤将軍・武昌太守に転任した。この頃天下は飢饉に見舞われ、多くの山夷が長江を跨いで強奪を繰り返していた。陶侃は諸将に囮の商船を作らせて、山夷を誘い出させた。果して賊が来ると、これを数人生け捕りにしたが、見ると彼らは西陽王[羊永:057378]の配下であった。陶侃はすぐに兵を出して西陽王に逼り、賊に立ち向かわせ、自ら釣台に陣地を整えて後続したので、西陽王は配下二十名を縛り上げて陶侃のもとに送り、陶侃はこれを斬り殺した。これ以後は水陸とも粛然とし、陶侃のもとに帰した流浪者が道に満ちあふれ、陶侃は資産を尽くして彼らに施しを行った。又郡東に夷市を起こして、大きな利益を得た。元帝は陶侃に杜[弓屮又:009748]を撃たせ、振威将軍の周訪と広武将軍の趙誘に陶侃の指令を受けるよう命じた。陶侃は二将を前鋒とし、又兄の子陶輿を左翼として賊を撃たせ、これを破った。この頃、周[豈頁:043614]は荊州刺史であったが、彼が守っていた潯水城の良民が賊の掠奪を受けた。陶侃は部下の朱伺にこれを救援させると、賊は退却して[シ令:017306]口に逃れた。陶侃は諸将に対し、「賊は必ず進路を変えて武昌に向かうであろう。私は城に還るべきだと思うが、昼夜を徹すれば三日で行くことができる。君達の中で誰か飢えに耐え忍んで戦える者があるか。」と言うと、武将の呉奇が「もし仮に十日飢えに耐えようと思えば、昼に賊を撃ち、夜には兵を分けて魚を捕れば、これで両方事足りるでしょう」と言ったので、陶侃は「君は強く勇ましい将軍だ」と言った。果して賊は兵を増して攻め寄せてきたが、陶侃は朱伺らに賊に反撃させ、これをさんざんに撃破し、その輜重を奪い、多くの賊兵を殺傷した。又陶侃は参軍の王貢を王敦のもとに遣って勝利の報告をさせたが、これに対し王敦は「もし陶侃殿がいなければ、すぐさま荊州を失うところであった。伯仁(周[豈頁:043614]の字)は荊州に入った途端、賊に打破されてしまった。私には誰が荊州の刺史に相応しいか分からない。」と言うと、王貢は「荊州はまさに前途多難であり、陶龍驤のほかに適任はおりません。」と答えた。王敦もこれをもっともだとして、すぐに表を奉り、陶侃を使持節・寧遠将軍・南蛮校尉・荊州刺史に任命し、西陽・江夏・武昌の三郡の太守を兼任させて、沌口を守らせ、やがて[シ眄:017207]江に移動させた。陶侃は朱伺を派遣して江夏の賊を討伐させて、これを殺した。時に賊の王沖は荊州刺史と自称し、江陵に拠していたが、参軍の王貢が陶侃のもとへ帰還する途中、竟陵に至った時に、陶侃の命令と偽って杜曾を前鋒大都護に任命し、軍隊を進軍させて王沖を斬り、その衆を尽く降伏させた。しかし陶侃が杜曾を召しても従わなかったので、王貢は陶侃の命令と偽ったために罪を得ることを恐れ、遂に杜曾と共に兵を挙げて反乱をおこし、陶侃の督護鄭攀を沌陽に討ち破り、又朱伺を[シ眄:017207]口にて破った。陶侃は[シ員:017980]中に退却しようとしたが、部下の張奕が陶侃に背こうとし、「賊が至って動くのは、大軍にとっては絶対にしてはなりません」と偽って述べた。陶侃はこれを聞いて混乱し、進むことができず、程なくして賊が至り、遂には敗退した。賊は陶侃の戦艦に鉤を掛けたので、切迫した陶侃は小船に移って逃走した。朱伺は力戦して僅かに難を逃れ、張奕は賊に投降した。この敗戦によって、陶侃は官職を免ぜられたが、王敦は上表し、陶侃に無官のまま職務を継続させた。
  侃復率周訪等進軍入湘,使都尉楊舉爲先驅,撃杜[弓屮又:009748],大破之,屯兵于城西。侃之佐史辭詣王敦曰:「州將陶使君孤根特立,從微至著,忠允之功,所在有效。出佐南夏,輔翼劉征南,前遇張昌,後屬陳敏,侃以偏旅,獨當大寇,無征不克,群醜破滅。近者王如亂北,杜[弓屮又:009748]跨南,二征奔走,一州星馳,其餘郡縣,所在土崩。侃招攜以禮,懷遠以徳,子來之衆,前後累至。奉承指授,獨守危阨,人往不動,人離不散。往年董督,徑造湘城,志陵雲霄,神機獨斷。徒以軍少糧懸,不果獻捷。然杜[弓屮又:009748]慴懼,來還夏口,未經信宿,建平流人迎賊倶叛。侃即迴軍溯流,芟夷醜類,至使西門不鍵,華圻無虞者,侃之功也。明將軍愍此荊楚,救命塗炭,使侃統領窮殘之餘,寒者衣之,饑者食之,比屋相慶,有若挾絖。江濱孤危,地非重險,非可單軍獨能保固,故移就高[艸作:031036],以避其衝。賊輕易先至,大衆在後,侃距戰經日,殺其名帥。賊尋犬羊相結,并力來攻,侃以忠臣之節,義無退顧,被堅執鋭,身當戎行,將士奮撃,莫不用命。當時死者不可勝數。賊衆參伍,更息更戰。侃以孤軍一隊,力不獨禦,量宜取全,以俟後舉。而主者責侃,重加黜削。侃性謙沖,功成身退,今奉還所受,唯恐稽遲。然某等區區,實恐理失於内,事敗於外,豪[釐毛:016952]之差,將致千里,使荊蠻乖離,西嵎不守,脣亡齒寒,侵逼無限也。」敦於是奏復侃官。
 陶侃は再び周訪らを率い、軍を進めて湘に入り、都尉の楊挙を先鋒として杜[弓屮又:009748]を撃ち、これを大破し、軍を城西に駐屯させた。陶侃のある佐史(刺史の属官)が王敦の許を訪れてこう訴えた、「州の将軍である陶君は孤児の身から起って独り立ちし、卑賤より著名となり、彼のまことの功績は所々で大いに国家の役に立ちました。南夏(荊州)に出征して劉征南(劉弘)を助け、前に張昌に遭遇し、後に陳敏に出会いましたが、陶侃は一軍を以って独力で大きな敵と向かい合い、征伐して勝たない事は無く、多くの悪人を滅ぼしました。近くは王如が北方を乱し、杜[弓屮又:009748]が南方に拠り、両者は奔走して、一州を星のごとく駆け巡り、その他の郡県は所々、土が崩れるように崩壊しました。しかし陶侃は礼を以って賢者を招き引き立て、徳を以って遠方の民を懐け従わせましたので、子が親を慕ってやって来るかのように、人々が前後して続々と至りました。又命令を押し頂いて、独りで危険な地を守りましたが、配下の者は妄りに動かず、離散することもございませんでした。先年、総指揮を任されると、直ちに湘城に至り、その志は大空をしのぎ、優れたはかりごとは自らの力で行われました。ただ、兵が少なく食糧も乏しく、結果として戦勝を報告することができませんでした。しかしながら、杜[弓屮又:009748]は恐れ怯えて夏口へ逃げ帰り、未だ二晩と眠ることができず、建平の流民等が彼を迎えて反乱を起こすに至りましたが、陶侃はすぐに軍を返して長江を遡り、悪人どもを除き平らげました。荊州の西門は鍵を掛ける必要も無く、中華千里四方の民が心配無く暮らせるのは、陶侃の功績であります。あなたは荊・楚の民ことを愍れみ、塗炭の苦しみより彼等の命を救わんとされ、陶侃に命じて窮した残りの者を統率させ、寒さに苦しむ者には衣服を、飢えている者には食物を与えられましたので、家々は互いに君の温情に喜び合い、それは身に綿を付けているようあります。江濱は孤立して危険な状況であり、土地は険阻ではなく、一軍単独でよくこの地を固守することはできませんので、故に高地に移動して交通の要衝を避けました。すると、賊は我々を軽んじ侮り先にやって来て、大軍がその後に続きましたが、陶侃は彼等を拒んで戦うこと数日で、その大将を殺しました。賊はやがてつまらぬ者共と結託し、力を併せて来襲しましたが、陶侃は忠臣の節義によって、その立派な立ち振る舞いは退いて顧みることは無く、堅固な鎧を身に着け、鋭い武器を持ち、わが身をもって敵に立ち向かったので、将兵は奮撃し、命令を守らない者はおりませんでした。当時、敵の死者はとうてい数えることができない程でしたが、賊衆はかわるがわるに休み、かわるがわる戦いました。これに対して陶侃の孤立した一軍を以ってしてでは、力を尽くしてさえもこれを守り抜くことができず、軍を全うすべきだと考え、機会を待ちました。しかしながらあなたは陶侃の責任を追及し、重い黜削(身分を下げ、官位を削る事)を加えられました。陶侃は謙虚で、功績を挙げればすぐさま身を退く性格であり、今受けた物を奉還していますのは、唯だ遅延することを恐れた為です。私どもは取るに足らない者でありますが、内においては陶侃のような人物が罰せられることで、道理が失われ、外においては賊等に敗れる事を恐れています。些細な事でも影響は千里に広がり、荊州の蛮族達を背き離れさせます。これにより西の片隅を守る事はできず、『唇滅びて歯寒し』の譬えのように中央に危険を及ぼします。侵し逼ることに限りはありません。」と。これを聞いた王敦は上奏して、陶侃の官職を復活させた。
  [弓屮又:009748]將王貢精卒三千,〔七〕出武陵江,誘五谿夷,以舟師斷官運,徑向武昌。侃使鄭攀及伏波將軍陶延夜趣巴陵,潛師掩其不備,大破之,斬千餘級,降萬餘口。貢遁還湘城。賊中離阻,杜[弓屮又:009748]遂疑張奕而殺之,衆情益懼,降者滋多。王貢復挑戰,侃遙謂之曰:「杜[弓屮又:009748]爲益州吏,盜用庫錢,父死不奔喪。卿本佳人,何爲隨之也?天下寧有白頭賊乎!」貢初横脚馬上,侃言訖,貢斂容下脚,辭色甚順。侃知其可動,復令諭之,截髮爲信,貢遂來降。而[弓屮又:009748]敗走。進克長沙,獲其將毛寶、高寶、梁堪而還。
 杜[弓屮又:009748]は王貢に三千の精鋭を与えて武陵江に出撃させて五谿夷を誘い、船団をもって官運を断ち、すぐさま武昌へ向かった。陶侃は鄭攀と伏波将軍の陶延に巴陵へ夜行させ、密かに軍隊を発動させて敵の不備を衝き、これを大破し、千余の首を斬り、萬余人を降伏させた。王貢は湘城へ逃げ帰った。この後、賊の中で仲間割れが生じ、杜[弓屮又:009748]は張奕を疑ってこれを殺し、部下たちは益々恐れおののき、降伏する者が続出した。王貢は再び挑戦してきたが、陶侃は遠くから彼に対し、「杜[弓屮又:009748]は益州の役人に過ぎないのに、官庫の銭を盗用し、父の死に際しても喪に駆けつけなかった。君は本来佳人であり、何故あのような者に従うのか?この天下にどうしてあの様な老いぼれた賊が存在できようか」と言った。この時王貢は最初馬上にて脚を横たえていたが、陶侃の言葉が終わると、王貢は態度を改めて脚を下へ落とし、言葉や顔色は甚だ従順であった。陶侃は彼の心を動かせると知ると、再びこれを説得し、自分の髪を切って信義を明らかにしたところ、王貢は遂に降伏した。このため杜[弓屮又:009748]は敗走し、軍を進めて長沙を攻め落とし、その将軍の毛宝、高宝、梁堪らを捕らえて帰還した。
  王敦深忌侃功。將還江陵,欲詣敦別,皇甫方回及朱伺等諫,以爲不可。侃不從。敦果留侃不遣,左轉廣州刺史、平越中郎將,以王[广異:009478]爲荊州。侃之佐吏將士詣敦請留侃。敦怒,不許。侃將鄭攀、蘇温、馬雋等不欲南行,〔八〕遂西迎杜曾以距[广異:009478]。敦意攀承侃風旨,被甲持矛,將殺侃,出而復迴者數四。侃正色曰:「使君之雄斷,當裁天下,何此不決乎!」因起如廁。諮議參軍梅陶、長史陳頒言於敦曰:「周訪與侃親姻,如左右手,安有斷人左手而右手不應者乎!」敦意遂解,於是設盛饌以餞之。侃便夜發。敦引其子瞻爲參軍。侃既達豫章,見周訪,流涕曰:「非卿外援,我殆不免!」侃因進至始興。
 王敦は陶侃の功績を深く恨むようになった。陶侃は江陵に帰還する前に、王敦のもとを訪れて別れの挨拶をしようとした。皇甫方回や朱伺らがこれを諌め、行かぬよう進言したが、陶侃はこれに従わなかった。果して王敦は陶侃を拘留して返さず、廣州刺史・平越中郎将に左遷し、代りに従弟の王[广異:009478]を荊州刺史とした。陶侃の属官・将士達は王敦のもとを訪れて陶侃の留任を請願したが、王敦は怒ってこれを許さなかった。陶侃の将軍である鄭攀・蘇温・馬儁等は、陶侃とともに南へ行く事を欲せず、遂に西の杜曾を迎えて王[广異:009478]の荊州入りを拒んだ。王敦は鄭攀が陶侃の意思を受けたものと思い、甲冑を被い、矛を持ち出して、陶侃を殺そうとし、出たり入ったりすることが四度に及んだ。陶侃は顔色を厳正にし、「あなたの雄断をもってすれば、まさに天下をも裁く事ができるのに、私を殺すのに何故迷うことがあるのですか?」と言いはなち、立ち上がって便所に行ってしまった。諮議参軍の梅陶や長史の陳頒は王敦に、「周訪と陶侃は親しい姻族(陶侃の子陶瞻の妻は周訪の娘)で、左右の手のようであり、どうして人の左手を切ったときに、右手が反応しないことがありましょうか。」と言ったので、王敦の怒りの気持ちも治まり、ここにおいて盛大な餞別の宴会を設けて侃をもてなし、陶侃はすぐさま夜に出発した。また王敦は陶侃の子の陶瞻を自分の参軍に抜擢した。陶侃は豫章に到着した時に周訪に出会うと、涙を流し、「あなたの外援が無ければ、私の命は風前の灯であったでしょう」と言った。その後進んで始興に到着した。
  先是,廣州人背刺史郭訥,迎長沙人王機爲刺史。機復遣使詣王敦,乞爲交州。敦從之,而機未發。會杜弘據臨賀,因機乞降,勸弘取廣州,〔九〕弘遂與温邵及交州秀才劉沈倶謀反。或勸侃且住始興,觀察形勢。侃不聽,直至廣州。弘遣使僞降。侃知其詐,先於封口起發石車。俄而弘率輕兵而至,知侃有備,乃退。侃追撃破之,執劉沈於小桂。又遣部將許高討機,斬之,傳首京都。諸將皆請乘勝撃温邵,侃笑曰:「吾威名已著,何事遣兵,但一函紙自足耳。」於是下書諭之。邵懼而走,追獲於始興。以功封柴桑侯,食邑四千戸。
 これに先立ち、廣州の人々は刺史の郭訥に背き、長沙出身の王機という者を迎えて刺史に擁立していた。王機はまた使者を王敦のもとに遣り、交州刺史の位を求めていたが、王敦がこれを許しても、未だ出発しようとしなかった。杜[弓屮又:009748]の残党であった杜弘が臨賀に拠していたが、王機は杜弘に降伏を乞い、又杜弘に廣州を取ることを勧めた。杜弘はこれに従い、遂に温邵及び交州の秀才である劉沈と共に謀反を起こした。このため或る者が陶侃にしばらく始興に止まり、形勢を観察するよう進言したが、陶侃はこれに従わず、すぐさま廣州に向かった。杜弘は使者を遣して偽りの降伏を装ったが、陶侃はこれを偽りと察知し、先に封口という地に発石車を配置しておいた。杜弘は軽兵を率いてやって来たものの、陶侃に備えがあるのを知って退却し、陶侃はこれを追撃して破り、劉沈を小桂で捕虜とした。また部将の許高を遣して王機を討たせ、これを斬首し、首級を都に送った。諸将はみな勝ちに乗じて温邵を撃つよう請うたが、陶侃は笑って、「私の威光と名誉はすでに明らかであり、どうして兵を遣す必要があろうか。ただ一通の手紙で十分足りるだろう。」と言い、書面を以って温邵を諭したところ、温邵は懼れをなして逃走し、これを追って始興にて捕らえた。この功により柴桑侯に封ぜられ、食邑は四千戸となった。
  侃在州無事,輒朝運百甓於齋外,暮運於齋内。人問其故,答曰:「吾方致力中原,過爾優逸,恐不堪事。」其勵志勤力,皆此類也。
 陶侃は州に在って暇をかこっていたが、毎朝百個の瓦を家の外に運んでは、夕方になるとそれを家の中に戻していた。ある人がその理由を聞いたところ、陶侃はこれに答えて、「私はまさに中原でその力を発揮しようと考えているが、このように安楽な生活が過ぎると、いざという時に任務に堪えられないことを恐れているのだ」と言ったが、彼の自分の志を励まし、心力を尽くす姿は皆このようであった。
  太興初,進號平南將軍,尋加都督交州軍事。及王敦舉兵反,詔侃以本官領江州刺史,尋轉都督、湘州刺史。敦得志,上侃復本職,加散騎常侍。時交州刺史王諒爲賊梁碩所陷,侃遣將高寶進撃平之。以侃領交州刺史。録前後功,封次子夏爲都亭侯,進號征南大將軍、開府儀同三司。及王敦平,遷都督荊、雍、益、梁州諸軍事,領護南蠻校尉、征西大將軍、荊州刺史,餘如故。楚郢士女莫不相慶。
 太興(318〜321)の初め、平南将軍に昇進し、都督交州軍事の官を加えられた。王敦が挙兵して謀反を起こすと、詔があり陶侃を現在の官のまま江州刺史を兼任させ、やがて湘州都督・湘州刺史に転任した。王敦が建康を陥落させると、陶侃を本職(広州刺史)に戻し、散騎常侍を加えるよう上奏した。この頃交州刺史の王諒は賊の梁碩に攻め落とされたが、陶侃は将軍の高寶を遣して進撃させ、これを平らげた。この功で陶侃は交州刺史を兼任することになり、また前後の功績が取り上げられ、次男の陶夏は都亭侯に封じられ、また陶侃も征南大将軍・開府儀同三司に昇進した。王敦の叛乱が平定されると、都督荊・雍・益・梁州諸軍事、領護南蛮校尉、征西大将軍、荊州刺史に転任し、現官位は元のままであった。楚郢の男も女もこれを慶ばない者は無かったという。
  侃性聰敏,勤於吏職,恭而近禮,愛好人倫。終日斂膝危坐,[門困:041329]外多事,千緒萬端,罔有遺漏。遠近書疏,莫不手答,筆翰如流,未嘗壅滯。引接疏遠,門無停客。常語人曰:「大禹聖者,乃惜寸陰,至於衆人,當惜分陰,豈可逸遊荒醉,生無益於時,死無聞於後,是自棄也。」諸參佐或以談戲廢事者,乃命取其酒器、[艸捕:031610]博之具,悉投之于江,吏將則加鞭[才卜:011779],曰:「樗[艸捕:031610]者,牧導奴戲耳!老莊浮華,非先王之法言,不可行也。君子當正其衣冠,攝其威儀,何有亂頭養望自謂宏達邪!」有奉饋者,皆問其所由。若力作所致,雖微必喜,慰賜參倍;若非理得之,則切[厂萬:003041]訶辱,還其所饋。嘗出遊,見人持一把未熟稻,侃問:「用此何爲?」人云:「行道所見,聊取之耳。」侃大怒曰:「汝既不田,而戲賊人稻!」執而鞭之。是以百姓勤於農殖,家給人足。時造船,木屑及竹頭悉令舉掌之,咸不解所以。後正會,積雪始晴,聽事前餘雪猶[滋土:017992],於是以屑布地。及桓温伐蜀,又以侃所貯竹頭作丁裝船。其綜理微密,皆此類也。
 陶侃の性格は聡明で、官吏の職務に勤勉であり、恭順で礼儀を重んじ、人としての道を愛好した。一日中膝を正して端座し、軍務が多忙な中でも、多くの事柄を遺漏無くこなしたという。遠近に問わず手紙は自らの手で書かないものは無く、その筆の運びは流れるように早く、未だ嘗て滞ることは無かった。親しくない者まで引接したので、彼の家の門には客がひっきりなしに訪れ、止むことが無かった。陶侃は常に人に「夏の聖者禹王は寸暇を惜しんで努力した。ましてや凡人に至っては、さらに一層そうすべきであり、どうして遊び呆け、酔いどれていられようか。生きて世の役に立たず、死んで後世に名を残さないのは、自分で自分を打ち棄てるようなものだ。」と言っていた。ある時、諸参佐が仕事を怠り戯れ遊んでいると、陶侃はその酒器、[艸捕:031610]博(サイコロ博打)の道具と奪って、すべて長江に投げ捨てるよう命じると、役人に鞭刑を加えようとし、「サイコロ博打は、豚飼いの奴隷がする遊びの何物でもない!老荘のような見かけばかりで実の無いものは、昔の聖王の礼法に適った言葉ではなく、行うべきではないのだ。君子はまさにその衣冠を正して、その威儀を備えねばならないのに、どうして髪を振り乱して名望を得ようと努力することで、自ら道理に通じていると謂えようか。」と言ったという。また食物を献上する者あると、皆それをどうやって得たのかを問い、もし丹精こめて作った物であれば、たとえ僅かでも必ず喜び、三倍の慰賜を行い、もしこれが不当に得たものである時は、厳しく叱責し、その食物を付き返したという。嘗て外に遊んだ際、ある人が一掴みの未熟な稲を持っているのを見て、「これを用いて何をするのだ?」と問うと、その人は「通り道で見つけたので、少し取っただけです」といったので、侃は激怒し「お前が耕した物でもないのに、戯れに人の稲を奪うのか」と言い、捕らえて鞭打った。これにより百姓は農業に励むようになり、各家はその家族を養うに足りるようになった。またある時は船を造った際に、木屑及び竹の切れ端をすべて取らせて保管させたが、皆理由を理解することはできなかった。後の元旦の朝儀の際に、積もっていた雪が晴れ始めたことによって、中庭が残雪でぬかるんでいたが、そこで陶侃は保管しておいた屑を地面に覆った。また後年桓温が蜀を討った際には、陶侃が貯えさせていた竹の切れ端で丁装船を造った。その理論をつくし、細かく行き届いた様は、まさにこのようなものであった。
  曁蘇峻作逆,京都不守,侃子瞻爲賊所害,平南將軍温[山喬:008488]要侃同赴朝廷。初,明帝崩,侃不在顧命之列,深以爲恨,答[山喬:008488]曰:「吾疆[土易:005194]外將,不敢越局。」[山喬:008488]固請之,因推爲盟主。侃乃遣督護[龍共:048837]登率衆赴[山喬:008488],而又追迴。[山喬:008488]以峻殺其子,重遣書以激怒之。侃妻[龍共:048837]氏亦固勸自行。於是便戎服登舟,星言兼邁,瞻喪至不臨。五月,與温[山喬:008488][广臾:009398]亮等倶會石頭。諸軍即欲決戰,侃以賊盛,不可爭鋒,當以歳月智計擒之。累戰無功,諸將請於査浦築壘。監軍部將李根建議,請立白石壘。侃不從,曰:「若壘不成,卿當坐之。」根曰:「査浦地下,又在水南,唯白石峻極險固,〔一〇〕可容數千人,賊來攻不便,滅賊之術也。」侃笑曰:「卿良將也。」乃從根謀,夜修曉訖。賊見壘大驚。賊攻大業壘,侃將救之,長史殷羨曰:「若遣救大業,歩戰不如峻,則大事去矣。但當急攻石頭,峻必救之,而大業自解。」侃又從羨言。峻果棄大業而救石頭。諸軍與峻戰陳陵東,〔一一〕侃督護竟陵太守李陽部將彭世斬峻於陣,賊衆大潰。峻弟逸復聚衆。侃與諸軍斬逸於石頭。
 蘇峻が叛乱を起こすと、首都建康を守れることができず、陶侃の子の陶瞻も賊に殺された。平南将軍の温[山喬:008488]は陶侃に一緒に建康の救援に向かうよう求めたが、かつて明帝が崩御した時に、顧命に与れなかったのを深く恨んでいたので、これに答えて、「私は国境の外将に過ぎず、この重要な局面を乗り切る事はできません。」と言ったが、[山喬:008488]は固くこれを要請し、ついに陶侃を推薦して盟主とした。陶侃はすぐさま督護の[龍共:048837]登を遣し、衆を率いて温[山喬:008488]のもとへ赴かせたが、温[山喬:008488]の後ろを追わせるのみであった。温[山喬:008488]は蘇峻が陶侃の子を殺害したことを、何度も書面にして送り、陶侃を激怒させるよう仕向け、また陶侃の妻の[龍共:048837]氏も固く自ら行くよう願った。そのためついに軍服を着けて船に乗り込み、星が流れるように素早く号令を発し、倍の速度を以って進軍し、陶瞻の遺体がやって来てもそれを見ることは無かった。五月には温[山喬:008488][广臾:009398]亮らとともに石頭に集結した。諸軍の武将はすぐに決戦を挑むことを欲したが、陶侃は賊の力がまだ盛んなので、まだ勝敗を決するべきではなく、長い時間をかけ、智略で彼等を捕らえるべきだと言った。度々戦ったが功績を立てられず、諸将は査浦に塁を築くよう請うたが、監軍武将の李根が建議し、白石に塁を立てるよう請うた。陶侃は従わず、「もし塁ができなければ、君がこの責任を負うのか。」と言うと、李根は「査浦は海抜下にあり、また長江の南にあって危険でありますが、ただ白石のみが峻厳にして険固であり、数千人を容れておれば、賊が来てもたやすく攻めることはできず、賊を滅ぼす事のできる戦術であります。」と言った。すると陶侃は笑って「あなたは良将である。」と言い、すなわち李根の作戦に従って、夜に白石塁を改修し、朝にはこれを完成させたので、賊はこれを見て大いに驚いた。賊は大業塁を攻撃し、陶侃はこれを救おうとしたが、長史の殷羨は「たとえ兵を遣して大業を救っても、歩兵では蘇峻に勝つことはできず、大事を失うことになります。但だ急ぎ石頭を攻撃すれば、蘇峻は必ずこれを救おうとするので、大業は自ずと解放されるでしょう。」と言ったので、陶侃はまた殷羨の言葉に従った。果して蘇峻は大業を棄てて石頭を救おうとし、諸軍は蘇峻と陳稜の東で戦闘し、陶侃の督護であった竟陵太守李陽の武将彭世が蘇峻を陣中にて斬り、賊軍は大いに壊滅した。蘇峻の弟蘇逸は再び衆を集めたが、陶侃と諸軍は蘇逸を石頭にて斬った。
  初,[广臾:009398]亮少有高名,以明穆皇后之兄受顧命之重,蘇峻之禍,職亮是由。及石頭平,懼侃致討,亮用温[山喬:008488]謀,詣侃拜謝。侃遽止之,曰:「[广臾:009398]元規乃拜陶士行邪!」王導入石頭城,令取故節,侃笑曰:「蘇武節似不如是!」導有慚色,使人屏之。
 初め、[广臾:009398]亮は若くして高名が有り、明穆皇后の兄で顧命の重責を受ける身であったが、蘇峻の乱においては専ら彼に責任があった。石頭が平定された後、陶侃が自分を討とうとするのではないかと懼れていたが、[广臾:009398]亮は温[山喬:008488]の計略に従い、陶侃のもとを訪れて拝謝することになった。しかし陶侃はこれを押し止めて、「[广臾:009398]元規殿がどうして私のような者に拝礼するのでしょうか?」と言った。王導が石頭に入ると、古い節を回収させたが、陶侃は笑って「これらは蘇武の節と似ておりますが、このようなものではなかったでしょう」と言い、これを聞いた王導は大いに恥じ入り、人にこれを捨てさせたという。
  侃旋江陵,尋以爲侍中、太尉,加羽葆鼓吹,改封長沙郡公,邑三千戸,賜絹八千匹,加都督交、廣、寧七州軍事。以江陵偏遠,移鎭巴陵。遣諮議參軍張誕討五谿夷,降之。
 陶侃は江陵に戻ると、やがて侍中・太尉となり、羽葆鼓吹(車の覆いに鳥の羽根を綴った飾りを施し、軍楽を奏でる特権)を加えられ、長沙郡公に改封されて、その邑は三千戸となり、絹八百匹を賜った。また交・廣・寧などの七州の都督を加えられた。江陵が偏遠であるため、巴陵に鎮所を移動し、諮議参軍の張誕を遣して五渓蛮を討ち、これを降伏させた。
  屬後將軍郭默矯詔襲殺平南將軍劉胤,輒領江州。侃聞之曰:「此必詐也。」遣將軍宋夏、陳脩率兵據[シ盆:017832]口,侃以大軍繼進。默遣使送妓婢絹百匹,寫中詔呈侃。參佐多諫曰:u默不被詔,豈敢爲此事。若進軍,宜待詔報。」侃[厂萬:003041]色曰:「國家年小,不出胸懷。且劉胤爲朝廷所禮,雖方任非才,何縁猥加極刑!郭默[九虎:032684]勇,所在暴掠,以大難新除,威網寛簡,欲因隙會騁其從横耳。」發使上表討默。與王導書曰:「郭默殺方州,即用爲方州;害宰相,便爲宰相乎?」導答曰:「默居上流之勢,加有船艦成資,故苞含隱忍,使其有地。一月潛嚴,足下軍到,是以得風發相赴,豈非遵養時晦以定大事者邪!」侃省書笑曰:「是乃遵養時賊也。」侃既至,默將宗侯縛默父子五人及默將張丑詣侃降,〔一二〕侃斬默等。默在中原,數與石勒等戰,賊畏其勇,聞侃討之,兵不血刃而擒也,益畏侃。蘇峻將馮鐵殺侃子奔于石勒,勒以爲戍將。侃告勒以故,勒召而殺之。詔侃都督江州,領刺史,増置左右長史、司馬、從事中郎四人,掾屬十二人。侃旋于巴陵,因移鎭武昌。
 後将軍の郭黙が詔書を偽って平南将軍の劉胤を殺害し、勝手に江州を領有した。陶侃はこれを聞くと「これは必ず偽りである」と言い、将軍の宋夏・陳脩に兵を率いて[シ盆:017832]口に駐屯させ、自らも大軍を率いてこれに続いて進軍した。郭黙は使者を遣して妓女と奴婢、絹百匹を送り、写し取った詔書を陶侃に呈示した。属官らの多くが彼を諌め、「郭黙は詔書を得ずして、どうしてこのような事を敢えてするでしょうか?もし進軍されるのなら、本当の詔書待ってからにすべきではないでしょうか。」と言うと、陶侃は色をなして「帝は幼少であらせられ、心中を表面に表わされることができない。なおかつ劉胤は朝廷の信任を受けており、任務に耐えられないとはいえ、何の理由があってみだりに極刑を加える事ができようか!郭黙は猛勇で、任地では暴虐を極めており、蘇峻の大乱が新たに除かれたばかりで法律は緩慢になっており、その隙をついて自らの我儘を押し通そうとしているだけである。」と言い、使者を発して郭黙を討つ上表文を奉った。また王導に書を送って「郭黙は州刺史を殺して、即ち刺史になろうとしておりますが、もしこのようなことを許すのならば、宰相を殺せば、自ら宰相になれるということになるのでしょうか?」と言った。これに対して王導は「郭黙は上流の勢いがある所に居り、加えて戦艦を持ち資材も豊富である。だからここは隠忍自重してそのままその地に留めておくべきであり、一ヶ月後に密かに装備を整えてすぐさま軍隊を派遣すれば、風が起こるように軍は赴けるのであり、一時の愚かを取らないことで、まさに大事が定まるのだ。」と答えた。この書を見た陶侃は笑って「これはすなわち時の賊を養う策である」と言ったという。陶侃がすでに郭黙のもとに至ると、郭黙の武将の宗侯が郭黙とその子五人と将軍の張丑を縛って陶侃に投降し、陶侃は郭黙らを斬った。郭黙は中原に在って、度々石勒らと戦っていたので、彼らは大いに彼を恐れていたが、陶侃がこれを討ち、兵が血刃を交えることなく郭黙を捕らえたことを聞き、ますます陶侃を恐れたという。蘇峻の武将であった馮鉄は、陶侃の子を殺して石勒のもとへ奔り、石勒は彼を戍将としていたが、陶侃が石勒に彼の罪を告げると、石勒は馮鉄を召してこれを殺した。詔があり、陶侃を江州都督とし、江州刺史を兼任させ、左右長史と司馬、従事中郎の四人と掾属十二人を増置させた。陶侃は巴陵に帰り、やがて武昌に移転した。
  侃命張[首止巳攵:005746]子隱爲參軍,范逵子[王兆:020968]爲湘東太守,辟劉弘曾孫安爲掾屬,表論梅陶,凡微時所荷,一餐咸報。
 陶侃は張[首止巳攵:005746]の子張隠を参軍に、范逵の子范[王兆:020968]を湘東太守に命じ、劉弘の曾孫劉安を掾属に招聘し、梅陶を表論したが、これは陶侃が貧しかった時に世話になった人々で、一回の称賛でこれらに報いた。
  遣子斌與南中郎將桓宣西伐樊城,走石勒將郭敬。使兄子臻、竟陵太守李陽等共破新野,遂平襄陽。拜大將軍,劍履上殿,入朝不趨,讚拜不名。上表固讓,曰:「臣非貪榮於疇昔,而虚讓於今日。事有合於時宜,臣豈敢與陛下有違;理有益於聖世,臣豈與朝廷作異。臣常欲除諸浮長之事,遣諸虚假之用,非獨臣身而已。若臣杖國威靈,梟雄斬勒,則又何以加!」
 陶侃は子の陶斌と南中郎将の桓宣を遣して西の樊城を討たせ、石勒の将軍郭敬を逃走させた。また兄の子陶臻と竟陵太守李陽らに命じ、共に新野を破らせ、遂に襄陽を平定させた。これにより、陶侃は大将軍に任命され、剣履上殿(剣を帯びたまま宮殿に上がることができる権利)・入朝不趨(入朝の際に小走りで入らなくてもよい)・讃拝不名(拝礼の際に名前を呼ばれない)の特権を与えられた。しかし陶侃は上表してこれを固辞し、「私は昨日に栄誉を貪っておきながら、今日に謙譲を偽っているのではございません。もし今私に与えられた恩恵は時宜に適っているのであれば、私はどうして陛下と意見を違えることがありましょうか。また道として聖なる御世に益があるのであれば、どうして朝廷と意見を異なることがありましょうか。私が常に諸々の行き過ぎた官位を除き、諸々のうわべだけの特権を捨て去ろうと考えるのは、これらの功績が私一人の功績ではないからです。もし私が国家の尊いお力により、李雄を梟首し、石勒を斬ることができたならば、その時には一体何を加えて頂けますのでしょうか!」と言った。
  咸和七年六月疾篤,〔一三〕又上表遜位曰:
 咸和七年(332)六月に、陶侃が重病に陥ると、また表を奉ってその位を譲ろうとし、
    臣少長孤寒,始願有限。過蒙聖朝歴世殊恩、陛下睿鑒,寵靈彌泰。有始必終,自古而然。臣年垂八十,位極人臣,啓手啓足,當復何恨!但以陛下春秋尚富,餘寇不誅,山陵未反,所以憤愾兼懷,不能已已。臣雖不知命,年時已邁,國恩殊特,賜封長沙,隕越之日,當歸骨國土。臣父母舊葬,今在尋陽,縁存處亡,無心分違,已勒國臣修遷改之事,刻以來秋,奉迎[穴屯:025438][穴夕:025413],葬事訖,乃告老下藩。不圖所患,遂爾綿篤,伏枕感結,情不自勝。臣間者猶爲犬馬之齒尚可小延,欲爲陛下西平李雄,北呑石季龍,是以遣[毋:016721]丘奧於巴東,授桓宣於襄陽。良圖未敘,於此長乖!此方之任,内外之要,願陛下速選臣代使,必得良才,奉宣王猷,遵成臣志,則臣死之日猶生之年。
  「私は幼少より成長するまで身寄りが無くて貧しく、始めは自分の願いには限りがあると思っていましたが、聖朝の代々より過分な恩義を蒙り、また陛下より下された幸福はとても深く、大きなものであります。始まりがあれば、かならず終わりがあることは、古えより明らかなことであります。私の歳はもうすぐ八十にならんとしておりますが、位は人臣でのそれを極め、死しても何の恨みがありましょうや。ただ陛下はお年もお若く、将来がございますのに、残存の寇賊を誅滅することができず、山陵の蛮族は未だ反乱は起こしていないものの、私は憤慨の気持ちを胸に抱き、癒すことができません。私は天命を知るに至っていないとはいえ、歳はすでに老いに達しており、国家からの特別な恩義により長沙の地を賜りましたが、わが身が死ぬ日には、当然その地に骨を帰すべきであります。私の父母は過去に葬儀し、亡骸は今尋陽に在りますが、縁者も居らず、そのことをひと時も忘れた事はありません。すでに国臣になったけじめとして、長沙へ亡骸を移したく思います。来秋に父母の棺を迎え、改葬が終った暁には、乃ち告老(老年を理由に辞職を願い出ること)し、封地の長沙に帰りたいと思います。図らずとも病気は重くなって命も危うく、枕に伏してわが身の終りを感じると、心に耐えることができません。私はこの頃でもなお、老いた犬馬の歯が少しながらも延びるように、お役に立ちたいと思っております。陛下の為に西の李雄を平定し、北の石虎を併呑しようと思い、[毋:016721]丘奥を巴東に遣し、また桓宣に襄陽を任せました。良いはかりごとはすぐに述べなければ、道理にそむくことになります。巴東・襄陽の地での任務は、内外の要であり、陛下が速やかに私の代わりの者を選び、必ず良才の人物を選んで帝王のはかりごとをお与えになり、私の志を手本として頂きたく思います。さすれば私が死ぬ日でも尚、生きている私がいるかのごとく平穏無事でありましょう。
    陛下雖聖姿天縱,英奇日新,方事之殷,當頼群雋。司徒導鑒識經遠,光輔三世;司空鑒簡素貞正,内外惟允;平西將軍亮雅量詳明,器用周時,即陛下之周召也。獻替疇諮,敷融政道,地平天成,四海幸頼。謹遣左長史殷羨奉送所假節麾、幢曲蓋、侍中貂蝉、太尉章、荊江州刺史印傳[戸攵木:014965]戟。仰戀天恩,悲酸感結。
  陛下はその聖なるお姿は天より与えられたものであり、優れた才気は日々新たになっておられますが、四方の事を善く処理なされるには、まさに諸々の賢者を頼るべきであります。司徒の王導はその鑑識が遠くまで行き届き、威徳は三世に渡っておりますし、司空の[希β:039413]鑒は簡素で節操があり、内外の人士の中では最も誠実でありますし、平西将軍の[广臾:009398]亮の度量は詳しく明らかで、機を捕らえるのが器用であり、彼らはすなわち陛下の周公旦、召公(周の武王を補佐した賢臣)であります。善を勧め、悪を除く事を諮り、遍く政道をお広めになれば、地は平らぎ、天は定まり、四海に幸福を与える事ができるでしょう。謹んで左長史の殷羨を遣し、お借りしておりました節麾(指揮する際に使用する旗)、幢曲蓋(旗矛と朱の傘)、侍中貂蝉(侍中が付ける、てんの尾とセミの羽で作った冠)、太尉の印章、荊江二州刺史の印鑑・割符・及び[戸攵木:014965]戟(儀礼用に使う木製の矛)をお送り致します。天から授かった御恩を尊敬し慕い、悲しみは心を強く打ちます。」と述べた。
以後事付右司馬王愆期,加督護,統領文武。
 そののち、後事を右司馬の王愆期に託し、督護の官を与えて文武を統括させた。
  侃輿車出臨津就船,明日,薨于樊谿,時年七十六。成帝下詔曰:「故使持節、侍中、太尉、都督荊江雍梁交廣益寧八州諸軍事、荊江二州刺史、長沙郡公經徳蘊哲,謀猷弘遠。作藩于外,八州肅清;勤王于内,皇家以寧。乃者桓文之勳,伯舅是憑。方頼大猷,俾屏予一人。前進位大司馬,禮秩策命,未及加崇。昊天不弔,奄忽薨[歹且:016408],朕用震悼于厥心。今遣兼鴻臚追贈大司馬,假蜜章,祠以太牢。魂而有靈,嘉茲寵榮。」又策諡曰桓,祠以太牢。侃遺令葬國南二十里,〔一四〕故吏刊石立碑畫像於武昌西。
 陶侃は輿車にて臨津に出て船に乗ったが、翌日に樊谿にて亡くなった。その歳七十六であった。成帝は詔を下し、「故人となった使持節、侍中、太尉、都督荊江雍梁交廣益寧八州諸軍事、荊江二州刺史、長沙郡公の積み重ねた徳は奥深くて明るく、はかりごとは広く深い。外地に藩を作るや八州は粛清し、内に王家に心力を尽くせば皇家は安らかになった。過去の桓・文(春秋時代の斉桓公と晋文公)のような勲功を立てるには、あなたが拠り所であった。まさにあなたの大略を頼りにしていたが、あなたは私を捨てて逝ってしまった。前に大司馬に位を進め、礼儀上の待遇と辞令書を与えたが、いまだここに及んで君に敬意を加えていない。天は彼の死を愍れむ事無く、突然あなたは亡くなり、私は心を病み、悲しみ悼んでいる。今鴻臚を遣してあなたに大司馬の位と仮の官印を追贈し、太牢(天子や諸侯が神を祭る時に備える三種の供物)を以って祭る。あなたの魂に人の心が有るのであれば、私が与えた栄誉を喜んで欲しい。」と述べた。また策(指令書)を下して陶侃に桓公の諡を与え、太牢を以って祭った。陶侃は遺言して、長沙国の南二十里に葬らせたが、故吏たちが武昌の西で石を刻んで碑を立て、肖像画を描いたという。
  侃在軍四十一載,雄毅有權,明悟善決斷。自南陵迄于白帝數千里中,路不拾遺。蘇峻之役,[广臾:009398]亮輕進失利。亮司馬殷融詣侃謝曰:「將軍爲此,非融等所裁。」將軍王章至,曰:「章自爲之,將軍不知也。」侃曰:「昔殷融爲君子,王章爲小人;今王章爲君子,殷融爲小人。」侃性纖密好問,頗類趙廣漢。嘗課諸營種柳,都尉夏施盜官柳植之於己門。侃後見,駐車問曰:「此是武昌西門前柳,何因盜來此種?」施惶怖謝罪。時武昌號爲多士,殷浩、[广臾:009398]翼等皆爲佐吏。侃毎飲酒有定限,常歡有餘而限已竭,浩等勸更少進,侃悽懷良久曰:「年少曾有酒失,亡親見約,故不敢踰。」議者以武昌北岸有[朱β:039366]城,宜分兵鎭之。侃毎不答,而言者不已,侃迺渡水獵,引將佐語之曰:「我所以設險而禦寇,正以長江耳。[朱β:039366]城隔在江北,内無所倚,外接群夷。夷中利深,晉人貪利,夷不堪命,必引寇虜,迺致禍之由,非禦寇也。且呉時此城乃三萬兵守,今縱有兵守之,亦無益於江南。若羯虜有可乘之會,此又非所資也。」後[广臾:009398]亮戍之,果大敗。季年懷止足之分,不與朝權。未亡一年,欲遜位歸國,佐吏等苦留之。及疾篤,將歸長沙,軍資器仗牛馬舟船皆有定簿,封印倉庫,自加管鑰,以付王愆期,然後登舟,朝野以爲美談。將出府門,顧謂愆期曰:「老子婆娑,正坐諸君輩。」尚書梅陶與親人曹識書曰:u陶公機神明鑒似魏武,忠順勤勞似孔明,陸抗諸人不能及也。」謝安毎言「陶公雖用法,而恒得法外意」。其爲世所重如此。然[騰−馬+女:006575]妾數十,家僮千餘,珍奇寶貨富於天府。或云「侃少時漁於雷澤,網得一織梭,以挂于壁。有頃雷雨,自化爲龍而去」。又夢生八翼,飛而上天,見天門九重,已登其八,唯一門不得入。[門昏:041383]者以杖撃之,因墜地,折其左翼。及寤,左腋猶痛。又嘗如廁,見一人朱衣介[巾責:009058],斂板曰:「以君長者,故來相報。君後當爲公,位至八州都督。」有善相者師圭謂侃曰:「君左手中指有豎理,當爲公。若徹於上,貴不可言。」侃以針決之見血,灑壁而爲「公」字,以紙[亠邑衣:034317]手,「公」字愈明。及都督八州,據上流,握強兵,潛有窺[穴兪:025582]之志,毎思折翼之祥,自抑而止。
 陶侃は軍にあること四十一年、その雄々しく強いさまは人をまとめる力があり、物事を明確に判断し、善い決断を下した。南陵より白帝にいたるまでの数千里中に、道に落ちているものを拾う者はなかったという。蘇峻の乱においては[广臾:009398]亮が軽々しく進んだために敗退したが、[广臾:009398]亮の司馬であった殷融は陶侃のもとを訪れて謝罪し、「将軍がこれを対処して下さい。私どもの裁ける問題ではございません。」と言った。これに対して将軍の王章は陶侃のもとに行くと、「私がみずから対処するので、将軍のお力は必要ございません」と言った。これを聞いた陶侃は、「昔は殷融が君子で、王章は小人だと思っていたが、今は王章が君子で、殷融が小人であるな」と言ったという。また陶侃は感情が細かな性格で、よく質問をしたが、まさに趙広漢(前漢時代の良吏、日々官吏や庶民に会って彼らの声を聞きながら職務を果したという)のようであった。かつて諸営に柳を植えるように命令したが、都尉の夏施は官物である柳を盗んで、自分の門に植えた。陶侃は後にこれを見て車を止めると、夏施に向かって、「これは武昌西門前の柳である。どうしてこのような物を盗んで、ここに植えたのか。」と問うたので、夏施は恐れおののき謝罪した。当時武昌は名士が多い土地と号され、殷浩や[广臾:009398]翼らは皆陶侃の佐吏となっていた。陶侃は毎度飲酒には限度を設け、常に余りがあっても限度にくれば飲むのを止めた。殷浩らがもう少し飲むように進めると、陶侃は悲しみの気持ちを露にし、しばらくして「若い頃はよく酒により失敗したが、亡き親との約束があるので、故に限度を超えないようにしているのだ。」と言ったという。ある者が武昌北岸の[朱β:039366]城に、兵を分けて守備するよう進言した。陶侃はいつもこれに答えなかったが、その者は進言を止めなかった。すると陶侃は長江を渡って猟へ出かけ、そこで将佐を呼ぶと、彼に語りかけて、「私が要害に堅固な防備を設けて防御するのは、まさに長江のみでよいと思う。[朱β:039366]城は江北に在るが、内に頼りにする所がなく、外は諸々の夷狄と接している。夷狄は欲深く、晋人が利を貪ると、夷狄はその性に耐えられず、必ず連れ立って攻め込んでくるので、すなわち禍を呼び込むの原因であり、防御する必要はない。呉の時代にこの城に三万の兵を置いて守備していたというが、今いたずらに兵を置いても、江南にとって無益である。もしこれが羯虜に付け込まれるようなことになれば、これはまた我々にとり利益になることはない。」と言った。後に[广臾:009398]亮がこの地に屯営を置いたが、果して大敗を喫した。晩年は分をわきまえる事を胸に抱き、朝権に関与する事はなかったという。亡くなる一年前に、位を譲って封国に帰ろうとした時、佐吏達が必死に彼を慰留したと言われ、病が篤くなると、まさに長沙に帰ろうとし、軍資・武器・牛馬・戦艦などを皆名簿に記し、倉庫を封印して自ら鍵をかけて、これらを王愆期に託し、然る後に船に乗り込んだが、これを朝野の人々は美談とした。まさに府門を出ようとした時、顧みて王愆期に、「君達の姿をみて私も安心だよ」と言ったという。尚書の梅陶は親しい曹熾に書を送った時、「陶公の神のような機略と優れた見識は魏の武帝曹操と似ており、忠順でよく骨を折り、務めたことは諸葛孔明と似ており、陸抗(三国時代の呉の名将)ら諸々の人物で彼に及ぶ者はいないであろう」と絶賛し、謝安はいつも「陶公は法律を用いるとはいえ、常に法の枠にとらわれない考えも持っている。」と述べており、世の人々が彼を重んじていたのはまさにこのようであった。しかし、彼は腰元を数十人、召使いを千余人も持ち、珍奇な宝貨は府庫に満ち溢れていたという。また或る者は「陶侃は若い時に雷澤で漁をしていた時、網に一つの梭(機織り器具のひとつで、横糸を縦糸に通すための木製の道具)がかかっているのを見つけ、それを壁に掛けていた。後に雷雨が起こり、その梭が龍に化けて去っていった。」と言った。又或るとき、身体に八つの翼が生え、空を飛んでいる夢を見た。天界の門が九つあり、すでに八つは登ったが、ただ一つの門だけ入ることができなかった。すると門番が杖で彼を撃ち、そのため彼は地に落ち、その左翼が折れた。そこで目が覚めたが、左の腋になお痛みが残っていたと言う。またかつて便所に行くと、朱の衣をまとい、大きな頭巾をかぶった人に出合い、彼は斂板(死者を葬る時に、棺の中に収める札)を見せたが、そこには「君は長者であるので、その報いがある。君は後に公の位に登り、官位は八州の都督に至るであろう」と書かれていた。また人相見を善くする師圭という人物が、陶侃に「君の左手の中指に縦の筋があるのは、まさに公爵に登る証しであり、若しこの筋が上まで突き通っていれば、君の高位は言う事ができない程にまで至ったであろう」と言い、陶侃が針を刺し、流れ出る血を壁に押し付けると、それは「公」という字になり、紙の文袋に手を付けると、「公」という字がはっきりと映し出されたという。後に八州の都督になって上流に拠し、強兵を擁することになった時、密かに建康を狙う心も有ったが、その都度、翼が折れた夢を思い出し、自制してその考えを止めたという。
  侃有子十七人,唯洪、瞻、夏、[王奇:021062]、旗、斌、稱、範、岱見舊史,餘者並不顯。
 陶侃には十七人の子供があったが、ただ洪・瞻・夏・[王奇:021062]・旗・斌・稱・範・岱の九人が旧史に見えるのみで、ほかの子供達はみな顕かではない。

  辟丞相掾,早卒。
 陶洪は丞相の掾に召されたが、早くに亡くなった。
  字道真,少有才器,歴廣陵相,廬江、建昌二郡太守,遷散騎常侍、都亭侯。爲蘇峻所害,追贈大鴻臚,諡愍悼世子。以爲世子。及送侃喪還長沙,夏與斌及稱各擁兵數千以相圖。既而解散,斌先往長沙,悉取國中器仗財物。夏至,殺斌。[广臾:009398]亮上疏曰:「斌雖醜惡,罪在難忍,然王憲有制,骨肉至親,親運刀鋸以刑同體,傷父母之恩,無惻隱之心,應加放黜,以懲暴虐。」亮表未至都,而夏病卒。詔復以瞻息弘襲侃爵,仕至光祿勳。卒,子綽之嗣。綽之卒,子延壽嗣。宋受禪,降爲呉昌侯,五百戸。
 陶瞻は字を道真といい、幼少より才知と器量が有り、広陵の相や廬江・建昌二郡の太守を歴任し、やがて散騎常侍・都亭侯に移った。しかし後に蘇峻により殺害され、大鴻臚を追贈され、愍悼世子と諡された。これにより陶夏が世子に立てられた。陶侃の遺体を送って長沙に帰った時、陶夏や陶斌・陶稱らは各々数千の兵を擁し、互いによからぬ企てを立てていた。その後みなが解散すると、陶斌は先に長沙へ行き、国中の武器や財物を尽く奪ったが、陶夏によって殺された。[广臾:009398]亮は天子に上書し、「陶斌は醜悪な人物であり、陶夏を罪にするには忍びない。しかしながら、天子の法律には決まりごとがあり、肉親が自ら武器を取って同族の者を罰するのは、父母の恩義に傷をつける行為であり、そのような哀れみ悼む心が無い者は、罪によって追放すべきであり、もって暴虐を懲らしめるべきであります。」と述べた。しかし[广臾:009398]亮の上表文が都に届かないうちに、陶夏は病で亡くなった。詔書が下され、再び陶瞻の子の陶弘が陶侃の爵位を継ぎ、彼は朝廷に仕えて光禄勲にまで至り、亡くなった。子の陶綽之が後を継ぎ、陶綽之が亡くなると、子の陶延壽が継いだ。劉宋が東晋より禅譲を受けると、陶延壽は爵位を降ろされ、五百戸の呉昌侯となった。
  [王奇:021062]司空掾。
 陶[王奇:021062]は司空の掾となった。
  歴位散騎常侍、[林β:039484]縣開國伯。咸和末,爲散騎侍郎。性甚凶暴。卒,子定嗣。卒,子襲之嗣。卒,子謙之嗣。宋受禪,國除。
 陶旗は散騎常侍、[林β:039484]縣開国伯などを歴任し、咸和の末年に散騎侍郎となったが、その性格は非常に凶暴であったという。彼が亡くなると、子の陶定が後を継ぎ、陶定が亡くなると、子の陶襲之が継ぎ、陶襲之が亡くなると、子の陶謙之が継いだが、宋の受禅により、国は除かれた。
  尚書郎。
 陶斌は尚書郎となった。
  東中郎將、南平太守、南蠻校尉、假節。性[九虎:032684]勇不倫,與諸弟不協。後加建威將軍。咸康五年,[广臾:009398]亮以稱爲監江夏隨義陽三郡軍事、南中郎將、江夏相,以本所領二千人自隨。到夏口,輕將二百人下見亮。〔一五〕亮大會吏佐,責稱前後罪惡,稱拜謝,因罷出。亮使人於閤外收之,棄市。亮上疏曰:「案稱,大司馬侃之[薛子:007047]子,父亡不居喪位,荒耽于酒,昧利偸榮,擅攝五郡,自謂監軍,輒召王官,聚之軍府。故車騎將軍劉弘曾孫安寓居江夏,及將楊恭、趙韶,並以言色有忤,稱放聲當殺,安、恭懼,自赴水而死,韶於獄自盡。將軍郭開從稱往長沙赴喪,稱疑開附其兄弟,乃反縛懸頭於帆檣,仰而彈之,鼓棹渡江二十餘里,觀者數千,莫不震駭。又多藏匿府兵,收坐應死。臣猶未忍直上,且免其司馬。稱肆縱醜言,無所顧忌,要結諸將,欲阻兵構難。諸將惶懼,莫敢酬答,由是姦謀未即發露。臣以侃勳勞王室,是以依違容掩,故表爲南中郎將,與臣相近,思欲有以匡救之。而稱豺狼愈甚,發言激切,不忠不孝,莫此之甚。苟利社稷,義有專斷,輒收稱伏法。」
 陶稱は東中郎将・南平太守・南蛮校尉・仮節となった。その性格は勇猛で並々ならぬものがあったが、兄弟達とは不仲であった。後に建威将軍を加えられた。咸康五年(339)、[九虎:032684]亮は稱を監江夏、隨、義陽三郡軍事・南中郎将・江夏相に任命し、本所領の二千人の随行を許した。しかし夏口に至った時、陶稱は軽装の兵士二百人ばかり率いて[九虎:032684]亮に引見した。[九虎:032684]亮は吏佐たちと会した際に、陶稱の前後の罪を責め、陶稱が謝罪したために、止めて退出させた。しかし[九虎:032684]亮は人を役所の外に遣して陶稱を捕らえさせ、これを処刑し、上疏して、「陶稱のことを勘案しますに、大司馬陶侃の庶子でありながら、父の死に際しては、喪に服するための住居に居らずに深く酒に溺れ、利益を貪って栄華を盗み取り、ほしいままに五郡を統べて、自ら監軍と称し、勝手に王官を召しては、彼らを自分の軍府に集めました。故車騎将軍劉弘の曾孫劉安が江夏に居しておりましたが、陶稱は彼や将軍の楊恭・趙韶らを烈しい言動にて脅迫し、殺すと触れ回ったために、劉安や楊恭は懼れ慄いて自ら入水して死に、趙韶は獄中にて自殺致しました。将軍の郭開は陶稱に従って長沙に行き、喪に服しようとしましたが、陶稱は郭開が自分の兄弟に附くのではないかと疑い、すなわち彼を後手に縛り、帆柱に首を懸け、仰ぎ見てこれを弓で射殺し、そのまま船を漕いで長江を渡る事二十余里、その光景を見たものは数千に及びましたが、これを見て震憾しない者はありませんでした。また多くの府兵を隠匿したことは、まさに死罪に相当します。しかしながら私は、なお殺すには忍びず、その司馬の官を免じました。それなのに、陶稱は好き勝手に醜い恨み言を述べて憚る事なく、諸将と結託し、兵を頼みとして乱を起こそうと図りました。諸将は恐惶し、敢えて答える者はなく、そのためこの姦謀は未だ発しないうちに露見致しました。私は陶侃が王室に勲労があったので、陶稱に対しては寛容な態度で扱い、故に南中郎将に任命して私の傍に置き、彼を匡正させようと思いました。しかしながら陶稱の貪欲さはますます深まり、その発言は非常に厳しく、彼の不忠不孝は類を見ない程ひどいものであります。苟しくも社稷の利を思うに、義を以って自ら専断し、すなわち陶稱を捕らえて法に伏させました。」と述べた。
  最知名,太元初,爲光祿勳。
 陶範は兄弟中最も名を知られており、太元(376〜396)の初年に光禄勲に任命された。
  散騎侍郎。
 陶岱は散騎侍郎となった。

  字彦遐,有勇略智謀,賜爵當陽亭侯。咸和中,爲南郡太守、領南蠻校尉、假節。卒官,追贈平南將軍,諡曰肅。
 陶臻は字を彦遐と言い、勇猛で智略が有り、當陽亭侯を賜った。咸和年間に南郡太守・領南蛮校尉・仮節に任命された。在官のまま亡くなり、平南将軍を追贈され、粛侯と諡された。

  弟輿,果烈善戰,以功累遷武威將軍。初,賊張奕本中州人,元康中被差西征,遇天下亂,遂留蜀。至是,率三百餘家欲就杜[弓屮又:009748],爲侃所獲。諸將請殺其丁壯,取其妻息,輿曰:「此本官兵,數經戰陣,可赦之以爲用。」侃赦之,以配輿。及侃與杜[弓屮又:009748]戰敗,賊以桔槹打沒官軍船 艦,軍中失色。輿率輕舸出其上流以撃之,所向輒克。賊又率衆將焚侃輜重,輿又撃破之。自是毎戰輒克,賊望見輿軍,相謂曰:「避陶武威。」無敢當者。後與杜[弓屮又:009748]戰,輿被重創,卒。侃哭之慟,曰:「喪吾家寶!」三軍皆爲之垂泣。詔贈長沙太守。
 陶臻の弟陶輿は、勇敢で激しい気性を持ち、戦上手であり、功績により次々昇進して武威将軍にまで至った。初め、賊の張奕は、元は中原の出身であったが、元康年間に西征軍として遣わされ、その時に天下の大乱に遭ったため、そのまま蜀に留まった。ここに至って三百余の家を率いて杜[弓屮又:009748]に附こうとした所を、陶侃に捕われた。諸将はその壮年の者を殺し、その妻女を奪おうと進言したが、陶輿は「彼らはもと官軍の兵士であり、度々戦陣を経験している者達であるので、彼らを赦して自軍に参加させるべきだ」と言ったので、陶侃は彼らを赦し、これを陶輿に与えた。陶侃が杜[弓屮又:009748]との戦いで敗れた時、賊は桔槹(井戸のはねつるべ)で官軍の戦艦を打ち壊そうとしたので、軍中の人々はみな度を失ったが、陶輿は小船に乗って先に上流に出てこれを撃ち、向かうところすべて勝利した。賊はまた、衆を率いて陶侃の食糧を焼こうとしたが、陶輿はまたこれを打ち破った。これにより毎回の戦闘に勝ち、賊は陶輿の軍を見て、互いに「陶武威は避けよ」と言い合い、敢えて近づこうとする者はなかったという。後に杜[弓屮又:009748]と戦って重傷を負い、亡くなったが、陶侃は激しく慟哭して「我が家の宝を失った!」と言い、三軍の兵士は皆涙を流したという。詔書が下って長沙太守の位を贈られた。

  史臣曰:古者明王之建國也,下料疆宇,列爲九州,輔相玄功,咨于四岳。所以仰希齊政,俯寄宣風。備連率之儀,威騰[門困:041329]外;總頒條之務,禮縟區中。委稱其才,甘棠以之流詠;據非其徳,讎餉以是興嗟。中朝叔世,要荒多阻,分符建節,並紊天綱。和季以同里之情,申盧綰之契,居方牧之地,振呉起之風。自幽徂荊,亟斂豺狼之跡;舉賢登善,窮[才双双:012241]孔翠之毛。由是吏民畢力,華夷順命,一州清晏,恬波於沸海之中;百城安堵,靜[示浸:024713]於稽天之際。猶獨稱善政,何其寡歟!易云「貞固足以幹事」,於征南見之矣。〔一六〕士行望非世族,俗異諸華,拔萃陬落之間,比肩髦雋之列,超居外相,宏總上流。布澤懷邊,則嚴城靜柝;釋位匡主,則淪鼎再寧。元規以戚里之崇,[才邑:012105]其膺而下拜;茂弘以保衡之貴,服其言而動色。望隆分陝,理則宜然。至於時屬雲屯,富逾天府,潛有包藏之志,顧思折翼之祥,悖矣!夫子曰「人無求備」,斯言之信,於是有徴。
 史臣は言う、昔の賢王は建国に際して、国境を画定して九つの州に分け、功績を上げる方策を四方の地方長官に相談したといわれる。それによって安定した政治を行い、教化が広く敷き渡らせることができたのである。連率(一地方の諸侯をまとめて統率する長官のこと)の儀礼を備えることで、その威勢は境界の外まで広まり、法令を公布する務めを守ることで、繁雑な礼式を整理する事ができる。才能のある者を抜擢し、任せることで、人々はその徳を慕って「甘棠の歌」(周公の善政を称えて、人々が以前、彼が腰掛けていた甘棠の木の前で歌った賞賛の歌)を歌いあうようになるが、徳の無い政治を行うと、人はわずかの間に恨みの声を広めるのだ。まさに当時は乱世であり、中央から遠く離れた土地は多くが険しく、各人が符節を分け持って争ったので、天下の綱紀は大いに乱れた。劉弘は武帝と同郷であったことにより盧綰の契り(漢高祖が幼馴染の盧綰を信頼し、高官に引き上げた)を受けて地方の要衝を任されたが、その姿はさながら呉起の風格があった。幽州より荊州に移ると、速やかに犬狼のような悪人共を取り締まり、賢者を推薦し、また善行ある者を登用し、孔雀や川蝉のような美しい行いをしたため、官吏や民衆はこぞって力を合わせ、蛮夷は良く命令に従い、ついに荊州は清く安らかに治まり、中国全土が荒れ狂う海のように乱れる中、独り平穏であったという。すべての街が安堵し、天の果てから降り立った災いが静まったことを、善政と賞賛して何が悪かろう。易経に『心が正しく堅固であることにより、立派に事を成し遂げることができる』と言っているが、まさに彼のことを指すのであろう。陶侃は家柄が代々世禄を受ける家ではなく、その習俗も中国のそれとは異なっているが、村里の中より抜きんで、当時の優れた人物の列に肩を並べることになり、ついには身分を飛び越えて外相となり、長江の上流地域を統べるに至った。恩恵を広く行き渡らせて辺境の地を懐柔したので、城は警備するのに拍子木を必要とせず、位を捨てて主君を救うことにより、崩れかけた帝業は再び安寧を取り戻した。[广臾:009398]亮は外戚という崇敬を受ける身でありながら、その胸の中の気持ちを抑えて陶侃に拝謝し、王導は宰相の高位に居る身でありながら、不愉快ながらも彼の言葉に従った。また彼は自分の望みに限度をわきまえており、その筋目は明らかであった。時に兵士が雲のように集まり、富は天府のものを越え、彼は密に心に秘めた志があったが、翼が折れる夢を顧みたのは、誤りであった!孔子はかつて「人は完全さを要求することは無い」と言ったが、このことの証は、まさに彼のことで証明されるであろう。
  贊曰:和季承恩,建[旗−其+與:013709]南服。威靜荊塞,化揚江澳。戮力天朝,匪忘忠肅。長沙勤王,擁旆戎場。任隆三事,功宣一匡。[医殳糸:027853]頼之重,匪伊舟航。
 賛に言う、劉弘は天子より恩義を受けて、南方に国家の旗を打ち立てた。その威勢は荊州の辺境を静め、長江の水際に教化を広めた。力を合わせて天朝を助け、忠義の心を忘れなかった。陶侃は勤王の士であり、先駆けの部隊を率いて戦場を駆け巡った。文・武・忠義の三つを守って、天下を一つにまとめるという功績を打ち立てた。頼みとするものは、ただ舟だけではないのだ。

更新履歴
2005.10.01:第一版。
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