(1)『晋書』には劉弘の享年は記載されていないが、『資治通鑑』巻八十六「恵帝紀」光熙元年(306)八月の条に「成都王司馬穎は武関より新野へ奔った。ちょうどこの頃、新城元公の劉弘が卒し、司馬の郭勱は叛乱を起こし、司馬穎を迎えて主に推戴しようとした。」という記事があり、『晋書』の記事と一致するため、劉弘の没年を光熙元年(306)と考える。生年は晋の武帝と同年ということで青龍四年(236)とし、以上から劉弘の享年を七十一歳とする。
(2)『三国志』魏書第二十九「方伎伝」参照。