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update:2021.11.03 担当:衛攸之
晋書巻六十九
列伝第三十九
劉隗 孫波
人物簡介

劉隗(273〜333)は字を大連といい、彭城郡の人である。前漢の楚の元王・劉交の子孫。若い頃から文才に優れた。元帝の中興に参与し、主に刑法を掌り、従事中郎、丞相司直、御史中丞を経て侍中・都郷侯・丹楊尹へ累進した。尚書令の刁協とともに元帝の寵愛を受け、東晋政権の制度固めに多大な貢献をした。しかし君主権確立のために王敦、王導ら琅邪王氏を初めとする豪強らの排除や抑圧を図ったため彼等の忌避を買い、永昌元年(322)、王敦の造反のときには挙兵の理由として刁協とともに「佞臣」として名指しされた。王導ら朝廷に残る王氏の誅殺を進言するも退けられ、王敦の勝利によって華北の石勒の下へ亡命した。後趙の太子太傅となり、亡命先の後趙で卒した。享年六十一。

劉波(?〜390)は字を道則といい、彭城郡の人である。劉隗の孫。石虎の部将・王洽の参軍を務めたが、石虎の死後、王洽と共に東晋に降った。冠軍将軍・南郡相に累進したが、太元四年(379)、前秦の苻融が襄陽を攻撃したとき救援を命じられながら撤退したため官を免じられた。間もなく復官し、淝水の戦いのあと督淮北諸軍・冀州刺史に任ぜられたが、病気のため赴任できず、政治の現状を憂慮する上奏をした後に卒した。

本文

劉隗は字を大連といい、彭城郡の人であり、楚の元王・劉交(前漢高祖の弟)の後裔である。父の劉砥は、東光令であった。劉隗は若くして文才があり、秘書郎となって仕官し、累進して冠軍将軍・彭城内史となった。中原の戦乱を避けて長江を渡り、元帝(司馬睿)は劉隗を従事中郎とした。

劉隗は文学・歴史に通じており、主君の意思をよく汲み取ることができたために、帝は彼を厚遇した。丞相司直に移り、刑法の執行を委ねられた。ちょうどそのころ建康の尉が護軍に所属する兵士を収監したところ、護軍府の将官達によって奪還されるということがあった。劉隗は護軍将軍の戴若思(戴淵)の免官を奏請した。また世子文学の王籍之が叔母の喪に服している期間中に結婚した。劉隗はこれについても帝に上奏した。帝は命令を下して述べた。「『詩経』に『礼を省いての婚礼は、男女はいるけれども役夫のいない家に許される(1)』という文言がある。今回はこの文言が適用される時だろう。今回限りは服喪中の婚姻を禁止としないことにする。これより後は、この禁止規定を守るように。」しかし東閤祭酒の顔含は叔父の喪にあるにもかかわらず女を娶った。劉隗はまたこのことを上奏した。盧江太守の梁龕は明日妻の服喪期間を終えるという日に、客を招いて宴会を催し、丞相長史の周顗等三十余人が招待されて参加した。劉隗は上奏して述べた。「そもそも正夫人・長男の服喪期間中は皆廬に籠もると申します。それゆえかつて周の景王が三年喪に服さねばならないのに、早く切り上げて宴会を催したことを、『春秋』は謗っております(2)。ましてや梁龕は〔天子たる景王とくらべ〕匹夫に過ぎません。喪の終了日の前日夜に宴会を催し翌日さらに服喪期間終了の祝いをするのは、服喪に対する怠慢と申すもの。服喪の礼は厳重に正すべきです。どうか梁龕の官の免じ、侯の爵位を剥奪するようお願い申し上げます。また周顗等は梁龕が服喪期間中にあるのを知りながら、礼に合わない宴会に参加することを良しとしました。ここは罰として彼らの年棒のうち一月分を没収し、彼らの間違いを正すべきです。」帝はこの提言を受け入れた。丞相行参軍の宋挺は、もともと揚州刺史の劉陶の門人であった。劉陶が亡くなると、宋挺は劉陶の愛妾を娶って自分の妾とした。また建興年間、宋挺は官布六百余匹を盗んだかどで、棄市に処せられるところを、たまたま赦免された。ちょうどそのころ奮武将軍の阮抗が彼を召して長史とした。劉隗は弾劾の上奏をして述べた。「宋挺は死んだ主君を侮り、その愛妾を自分の思いのままにしました。これは人として尊ばねばならない三つの義(父に対する孝・師に対する順・主君に対する忠)をことごとく踏み外し、人倫の秩序を破壊させる所業です。まさしく彼は〔古代の極悪人の〕四裔(3)の仲間として追放し魔よけの役目を与えるべき者といえます。どうか彼を朝廷から除籍し、終身禁錮に処してくださいますように。また奮武将軍・太山太守の阮抗はそのような彼を召して長史としました。阮抗は文武の官を兼ね備え、東方の軍政の全権を任せられております。故に忠良の臣を任用し、仁義に厚い賢才と親しくしなければならないのに、賄賂を欲し、頑迷な者を推挙し愚鈍な者を任用しております。阮抗もまた官を免じ、獄に下して罪を問うようお願い申し上げます。」上奏は受け入れられたが、直後宋挺は病死してしまった。劉隗は再び上奏した。「ご指示によりますれば、宋挺は既に病死したために、罰を執り行なわないとのこと。愚考しますと、それでは正義を示すことができないのではないでしょうか。かつて鄭の人々は〔主君を殺した〕子家の棺おけを死後掘り出して〔見せしめのために〕割り(4)、後漢の明帝は〔前漢の武帝を悪く書いた〕史遷(司馬遷)を故人にもかかわらず追討しました(5)。また春秋や各伝の褒貶が、当時の数百年前にまでさかのぼって書かれているのは、ただ当時の世の乱れを正そうと考えたわけではなく、教訓として将来に伝えようとしたからです。今日明日に亡くなったからといって〔罪人に罰を加えなかったとしたならば〕、善悪の区別など無くなってしまいます。担当部署に前の命令のとおり宋挺を除籍して庶民に落とし、例の妾は解放して本籍に返し、悪人を明示して、遠近に対する範とするようご命令していただきたくお願い申し上げます。」帝はこの言葉に従った。南中郎将の王含は有力貴族出身(6)なのをいいことに、驕り高ぶりほしいままに振舞っていた。参佐及び配下の太守・県令長二十人ばかりの採用を一斉に要請し、ほとんどの者がその職に相応しい才能の者ではなかった。劉隗は弾劾の上奏をしたがその文章は大変厳しく、このことは沙汰やみになったものの、王氏は彼を深く忌避した。劉隗が弾劾の上奏をする際に強者を恐れない様は、皆このようであった。

建興年間、丞相府の督運令史の淳于伯を斬ったところ流れ出た血が逆流するということがあった。劉隗はまた上奏して述べた。「古において罪人を獄に下す際は必ず五回にわたって聴取し、三公九卿はそれでもって民情をうかがったと申します。内政に明達していたとしても、なかなか刑罰は定めなかったものです。死んだ者は生き返らず、刑罰をうけた者は〔罰によって切られた手足を〕接ぐことができません。このために古の名君は刑を用いることをためらい、曹参は斉を去る際に、市場と獄をもって後任者に注意しました(7)。しかしこのごろは人心が荒廃し、殺戮が制限を失い、同じ罪にもかかわらず判決は異なり、刑罰は適切さを欠いております。謹んで考えてみますと行督運令史の淳于伯の血が柱に現れ、それが上に向けて流れ出し柱の根元から二丈三尺(約5.7m)のところまで流れて止まった後、さらに下へ四尺五寸(約1.1m)流れたとのこと。人民は騒ぎ合い、男女ともに事態を伺って、皆口々に淳于伯の無実を言い立てております。淳于伯の子・淳于忠も訴え出て父の無実を言い、淳于伯の担当した運送の仕事は二月に終わり、その仕事が終わるとすぐに後任者と代わって帰ってきている、運送の停滞があったはずがない、と申しております。賄賂を受けて人を勝手に使役したとて、その罪は死罪とはなりません。また運送先の軍とは〔国土防衛のための〕駐屯軍であり、征伐におもむいている軍ではありません。それなのに軍に対する輸送の怠慢を以て罪とするのは、道理から言っても冤罪だと申せましょう。この四年間というもの、運送に関して、諸々の租調労役が徴発されましたが、皆停滞がありました。しかし軍法を以て罪を問われることはありませんでした。ここに来て例え淳于伯が罪を犯したとしても、どうして彼一人罪を問うことができましょうや。獄での鞭による拷問を前にして、罪人は否応なく、鞭の痛みを恐れ、ありもしない罪を認めてしまうのです。理曹(丞相府の裁判を担当する役所)は、国家の重要な掟をつかさどるものですが、淳于忠等に冤罪を証明してほしいと訴えられる羽目に陥りました。謹んで考えてみますと従事中郎の周莚、法曹参軍の劉胤とその属官の李匡は主君の厚恩を蒙り、並んで諸曹職に就いた者達です。彼等の役割は政道を遵奉することに専念し、法律を明らかにして死罪の執行を慎み、人民を冤罪に陥れないようにし、人々からそのことで訴えられないようにすることにあります。しかし彼等は淳于伯にかつての周青(8)と同じような冤罪をかぶせ、無実の魂を冥界の都に送り、黄泉の国の法廷に訴えるようにさせてしまいました。遺族の嘆きは春秋時代の斉の杞梁の妻(9)のそれを超え、柱に現れた血の怪異は〔杞梁の妻の嘆きによって〕崩れた城壁の故事を超えるものがあります。ましてや夫に死なれた未亡人や、夜中に泣く幽霊も出てくることでしょう。古の鄭の伯有は死後絵に現れ(10)、斉の彭生は死後豚となりました(11)。これは死罪が的を射なかったために、怪異や禍が起こっているのです。昔と今の事例を比べてみても、このことは一致しております。これは周莚等がその任務にふさわしくないことが原因です。どうか全員の官を免じていただくようお願い申し上げます。」この事態を受けて右将軍の王導等は上表して罪を請い、免職を請うた。帝は言った。「政治や刑罰が的を得ないのは、皆私の見識が暗いためである。ここは〔罪が当たらなかったことを〕恐れ、忠告に耳を傾け、私の欠点を補っていきたいと考えている。君達が責任を取って退任することは、私の望むことではない。」これによって王導等の罪はそろって不問に付された。

晋国が建国されると(317)、劉隗は御史中丞に任命された。周嵩が女を嫁がせると、その配下の門生達は〔婚礼の行列のために〕街路を勝手に遮断し〔通行に邪魔な〕店舗を破壊して、二人の人間に切りつけ傷つけた。建康の左尉が騒乱を聞きつけやってきたが、彼も斬りつけられた。劉隗は周嵩の兄・周顗を弾劾して言った。「周顗は主君の厚恩を蒙り、公卿に列しております。まさに法律を尊び、上下の者達と協力し、左右の腹心を厳しく律し、国家を安泰させるべき地位にいるのです。しかしながら、彼は配下の取るに足らない者達を勝手気ままにさせ、彼らに凶悪を行なわせ、公の都の街路において白昼尉を斬りつけさせました。遠近ともにこのことで混乱し、人々は騒ぎ合い、風紀や朝廷への希望を損なったことは、長く放っておけるものではありません。既に周顗に大臣の職を担当する節義はなく、主君のご命令を行なうことはできません。周顗に罪を加え、その違法を正すべきと考えます。」周顗は罪に坐して官職を免ぜられた。

太興年間の初め、朝廷の長として侍中を兼ね、都郷侯の爵位を賜った。まもなく薛兼に代わって丹楊尹となり、尚書令の刁協とともに元帝の寵臣となって、朝廷内の豪強らの排除や抑圧をしようと考えた。このころの諸々の煩瑣な制度は、すべて劉隗・刁協が作ったといわれている。劉隗は朝廷の外にいたが、政治の万機に関わりすべてについて聞かされていた。鎮北将軍・都督青・徐・幽・平四州軍事・仮節に任命され、散騎常侍を加えられ、兵一万人を率いて泗口に駐屯した。

かつて、劉隗は王敦の威権が大いに盛んなさまを見て、このままでは彼を抑えきれなくなるだろうと考え、帝に対し腹心の臣下を地方に出し四方を鎮撫させることを勧めた。そこで帝は譙王の司馬承を湘州刺史に任じ、また劉隗・戴淵を都督に任じた。王敦はこれを憎み、劉隗に手紙を送って述べた。「このごろ陛下はあなたの言葉を信頼しているとのこと。現在大賊は未だ滅ぼされず、中原は沸き立つように混乱している。あなたや周生(周顗)等の人々とともに王室の安泰に尽力し、いっしょに天下を平定したいと考えている。〔私とあなた方との関係が〕安泰ならば、晋王室は栄えることになるだろう。協力できなければ、天下の人々は失望することだろうな。」劉隗は答えて述べた。「魚は〔故郷の〕川や湖を忘れ、人間は歩んできた道のりを忘れると申します。股肱の臣の力を結集し、朝廷に忠義を尽すことこそ、私の志すところです。」王敦はこの返事を受け取って激怒した。このため王敦は反乱を起こす際、劉隗の討伐を名目とした。帝は詔を下して劉隗を召し都に帰らせ、百官に彼を迎えさせた。劉隗は親しげに会話を交わし自信溢れる言葉を述べ、余裕の表情であった。入殿して帝に謁見すると、刁協とともに王氏一族の誅殺を奏請したが、帝は従わなかったため、初めて恐れる表情が顔に出た。兵を率いて金城に駐屯した。王敦が石頭を陥落させると、劉隗はこれを攻めたが落とすことができず、引き返して宮殿に入り帝に別れの言葉を述べ、帝も涙ながらに彼と別れた。逃亡して淮陰に至ったとき、〔王敦に与する〕劉遐の軍に襲われ、妻子と側近二百余人とともに石勒の下に亡命した。石勒は劉隗を従事中郎・太子太傅に任じた。六十一歳で卒した。子の劉綏は、最初秀才に推挙され、駙馬都尉・奉朝請に叙任された。劉隗に従って石勒の下に奔り、卒した。劉隗の孫の劉波が後を継いだ。

劉波は字を道則という。はじめ石季龍(石虎)配下の冠軍将軍の王洽の参軍となった。石虎が死ぬと、王洽は劉波とともに東晋に降ってきた。穆帝は劉波を襄城太守に任命し、次第に昇進して桓沖配下の中軍諮議参軍に移った。大司馬の桓温が西部で反乱した袁真を討伐したため、朝廷が手薄になった。そこで劉波を建威将軍・淮南内史に任じ、五千人を率いさせて石頭に駐屯させた。〔反乱軍の本拠地の〕寿陽が平定されると、尚書左丞に任じられたが、劉波は拝命せず、冠軍将軍・南郡相に転任した。ちょうどその頃前秦の苻堅の弟の苻融が軍を率いて雍州刺史の朱序が籠る襄陽を包囲した。劉波は兵八千を率いて朱序を救おうとしたが、敵が強力なのを見て進もうとしなかった。そのために遂に襄陽は陥落し朱序は降伏してしまった。劉波は臆病を理由に官を免ぜられた。後に復官して冠軍将軍に任命され、散騎常侍に累遷した。

苻堅が〔淝水の戦いで〕敗れると、朝廷は乱れた華北を平定しようと考え、劉波を督淮北諸軍・冀州刺史として朝廷の外に出したが、劉波は病気のため赴任できないでいた。劉波は上表して述べた。

「わたくしは天地は広く人々を救うことで思いやりの心を実践し、君主の道においては支配下の人々を恵むことで徳の心を実践すると聞いております。そのため禹王や湯王は自ら率先して労働する功績があり、唐堯や虞舜は自らの跡を誰にゆずるかを問う言葉があったのです。彼らは能臣を用いてその恩恵を天下の人々に行き渡らせたので、その功績は後々まで記録されました。我が朝においては宣帝(司馬懿)が大いなる計画を始められ、天の命を受けて王朝の基礎を築かれました。また文帝(司馬昭)・武帝(司馬炎)の時代になると、天命は司馬氏のもとに明らかであったのに、虚心に臣下の節を守り、御自らを卑下して他人を厚く遇しました。天下統一後改めてこのお三方の行いを見てみると代々の魏朝に対する功績が重く、王室に対する忠誠に苦労され、かつ代々徳を広められ、〔有能な者に対する〕恩賞が手厚いさまがわかります。しかし恵帝(司馬衷)はこのことを思われず、政を内臣に委ねられ、その結果国家の神器を失わせ、三代の栄光を翳らせられました。天子の陵墓は黄泉の国を思わせるばかり、宮殿宗廟は異民族の馬蹄にかけられる有様。所謂『肉食之を朝に失い、黎庶骸を外に暴す(君主は国権を失い、庶民は死骸を郊外に曝す)(12)』状態となってしまったのです。ですが元帝の輝かしい武徳により機会をとらえ、晋朝の命脈は淮水一帯に復興し、一度衰えた国家の大綱を振るわせ、絶えた命運を再びつないで張り直されました。今陛下(孝武帝)は宣帝の開基の功績、元帝の中興の功績を受け継がれ、大いに国家の安定を保ち、兵器を納め乱を鎮めておられます。故に鱗のある巨大な鯨〔の様な強敵〕や、簒奪を狙う天をも恐れない敵(13)に、雲のような旗を示して意気を殺がせ、太陽をかざして不穏な霧を打ち払わせました。その徳は気高く大きく広大であり、人々も言葉にできないほどです。しかし最近、天文が異変を示し、怪異がしばしば起きるようになりました。会稽郡は先帝(簡文帝)のかつての封地でありますが、たびたび地震が起きております。昔周の文王・武王の東征の際に赤い烏が白い魚を捕まえる瑞兆がありましたが(14)、君臣ともに〔凶兆と考え〕このことに恐れおののいたのです。ましてや今災害・異変が集中して起こっており、どうしてこれを疑わないということがありましょうか。周公旦に他言を禁ずる戒め(15)があり、賈誼に積薪の喩え(16)があります。わたくしはその先例を鑑み、ひそかに今の世について考えたいと思っております。ここにあえてわたくしは自身の間違った見識を駆使し、遠慮なく直言する所存です。

かつて先帝は奥深い道理を以て天下を掌られ、諸侯に治績を挙げることを要求されました。天の示す命運に従い、順序に従って人々を教化されました。このため日々の功績はあがらないものの、結果的には長期的な功績をあげることができました。今礼楽制度や征伐の命令は天子より発せられ、補佐をする相王(宰相である王の会稽王・司馬道子のこと)は賢明であられます。万民は一致団結し、天下は教化を受けて、徳が響き渡っております。しかしながら古の釣台の歌(太公望が釣をしながら諸侯の登用を待った故事)は聞こえず、景亳の命令(?)は施行されておりません。群臣がこのことを示さないので、陛下は賢才を用いることに意を尽くすことができないのでしょうか?

およそ聖王が教化を及ぼすにあたり、忠信の臣下を尊ばないということはなく、正義を残し邪悪を捨てると申します。教化を傷つけ風俗を乱す者は、例え親族や貴族であったとしても、必ず彼らを疎んじて遠ざけなければなりません。社会を清め道徳を修める者は、例え卑しい身分の者であっても、必ず彼らと親しみ近づけなければならないのです。しかし現状はそうではありません。この雰囲気は既に変わり、互いに利益を争うこと甚だしく、党派を組んで争い、互いに褒め合い貶し合っております。上司に取り入ることはいよいよ進み、人々の希望は失われつつあります。賢者と称された者が本当の賢才の上に立ち、そのために才に似合わない分量の俸禄を受けております。上司の意に沿うことのみに働いて奉公と称し、また互いに褒め合ってそのことを忠節と称しております。朝廷のこのような有様を見て、誰が正しい提言をするでしょうか。陛下が改めなくてはならない事柄を知らずにおられるのは真実を示す道を絶ち伝えない者がいるからです。その者は長く現状に慣れ親しんだために変革を嫌いそのために陛下に真実を伝えないのです。また苻堅が滅亡したといっても、すでに五年が経ち、旧都は荒廃し、天子の陵墓に衛兵は無く、人民は苦しんでおり、未だ救う機会ではありません。どうか陛下におかれましては遠く漢魏が衰亡した理由、近くは西晋朝が転覆した理由を鑑み、いったん北伐の意志を変えられ、これまで申しました未解決の事柄に取り組まれましたならば、晋朝の根本は固まり、社稷に恐れなどなくなるでしょう。わたくしは別に朝廷の人々が忠節を尽くしていないと誣告しているわけではありません。ただ今はその才に相応しくない者が職に就き、本当に必要な者が職に就いていないということを申し上げたいのです。

今政治は煩瑣で労役は数多く、領内は疲弊しております。官庫は空っぽで、国家の財政は尽きています。庶民は搾取され、流亡する者が相次いでおります。戸口を調べてみますと、咸安年間以来、十分の三が失われております。人々は逃亡することを願い、下泉のかつての周の都に対する思いと同じ思いを抱いております(17)。昔漢の宣帝に『私とともに天下を治める者は、賢明なる群太守たちであろうか』(18)という言葉がございます。これはすなわち庶民と直接向き合う地方の太守たちには名誉と恩賞を与えて重んじ、法を乱用して政治を乱す者には刑罰を緩めつつも赦免しないということです。こうすることで上に立つ朝廷の制度は簡潔なものとなり、支配下の人々も喜ぶことができたのです。しかし現状は違います。職を請う者に対してはその家が貧乏であるのを理由にして登用せず、施しをする者に対しては〔褒美として〕公の爵位を与えております。古は人々のために領主を立て、彼に任せて人々を統治させました。今は人々の貢賦によって領主を養わせ、領主は人々を食い物にするばかり。税を貪って搾取する者を称して熱心に勤務している者といい、法に則って統治する者を称して勤務をおろそかにしている者というのです。古の道理に返ったはずなのにどうしてこのような状況に至ってしまったのでしょうか?

陛下ご自身が例え節約にいそしみ、上に立たれて人々を憐れられましたとしても、周囲の側近が欲望をほしいままにし、下に対して勝手に振舞ったとしたら、六部の役所はやる気を失い、三公の職にある者も〔助言する気を失って〕黙ってしまうでしょう。このために有識者は朝廷の人事を見るたびに歎息し、怪異災害が起きるたびに恐れるのです。昔宋の景公は熒惑星の凶兆を退け(19)、殷の高宗は鼎に雉がとまる怪異を消し去る(20)ことができました。どうか陛下におかれましては禹王の家の門から出る際の誓い(21)を仰ぎ見、商の辛(紂王)が快楽におぼれた失敗を察せられ、『詩経』国風の恭公の風刺(22)を思い、定姜の小臣の喩え(23)を参考にされますように。また陛下の恩恵を天下に施し、諸侯とよく協議され、賢人を招き、得失を明らかにされますように。群臣にその職を全うさせ、臣下に自由に損益について言えるような場を作られますように。そしてその臣下の発言の真意を察し、意図を考え、他の臣下とも協議し、その提言を現状にふさわしい形に定められますように。古の聖人について思いをめぐらし、そうすることで天の命に答えられますように。さすれば人々は心を休ませることができ、天下にとってこの上ない幸福となることでしょう。

わたくしの亡き祖父・劉隗は、かつて先帝の寵愛を受け、わが身を顧みず忠節を尽してきました。その点に関しては古い歴史書にあるような行跡でありましたが、志はあっても時を得ることができず、恨みを黄泉の国に残すこととなりました。わたくしは〔祖父と比べても〕平凡愚劣でありますが、無窮の恩を蒙り、結果的に親子そろって朝廷より厚恩を受けることとなりました。しかしわたくしはまったく取るに足らない者であり恩寵に対して何も報いることができませんでした。以前にも上表させていただきましたが、通ることができなかったようです。今重い病気にかかり、明日にでも死ぬかもしれないことを恐れつつ、なんとか小康を得て、わたくしの愚かな見解をお伝えしたいと考えてまいりました。今や気力は疲れきり、自分自身で語ることもできません。」

上表した後すぐに卒した。前将軍を追贈された。子の劉淡が後を継いだ。〔劉淡は〕元熙年間の初めに、盧江太守となった。

劉隗の伯父の劉訥は、字を伯言といい、道理に通じ観察眼に優れた。初めは洛陽に入り、諸名士と会ってため息をつきながら言った。「王夷甫(王衍)は一際精彩を放ち、楽彦輔(楽広)は私の敬う人物で、張茂先(張華)は私の理解の及ぶところでない。周弘武(周恢)は短所を生かして用いることが上手で、杜方叔(杜育)は長所を用いることが得意ではないな。」司隷校尉となって終わった。

子の劉疇は字を王喬という。若くして名声があり、清談で論理を説くことがうまかった。かつて乱に巻き込まれ砦に逃げていたとき、異民族の者数百人がこれを襲ってきた。劉疇は恐れる風もなく、あしぶえを演奏して、出塞と入塞の音楽を奏で、彼らの望郷の思いをかきたてた。そのため異民族の者達は泣きながら攻撃をやめて去っていった。永嘉年間、司徒左長史となったが、のちに閻鼎によって殺された。司空の蔡謨は常々嘆いて言った。「もし劉王喬を南方へ逃れさせることができたならば、司徒に最もふさわしい候補であったのに。」また王導が初めて司徒に任命されたとき、ある人に言った。「劉王喬がもし長江を越えることができたならば、どうして私一人が公の職に就くことがあっただろう。」劉疇が名士に尊敬された様子はこのとおりであった。

劉疇の兄の子・劉劭は才能があり、琅邪王(元帝・司馬睿)から丞相掾として召された。咸康年間、御史中丞・侍中・尚書・予章太守を歴任し、俸禄は中二千石を得た。

劉劭の族子・劉黄老は、太元年間、尚書郎となった。字句解釈の学問に優れ、『慎子』と『老子』に注釈をつけ、それはともに世間に伝わっている。

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