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update:2021.01.11 担当:菅原 大介
晋書巻八十九
列伝第五十九
麹允 焦嵩
人物簡介

 麹允(?〜316)は金城郡の人である。性格は情け深く親切だったが、威風や決断力がなかった。豪族の出身で、安夷護軍・始平太守になった。愍帝擁立に尽力した閻鼎を失脚させ、建興元年(313)に愍帝が即位すると、尚書左僕射・領軍将軍・持節・西戎校尉・録尚書事・雍州刺史になり、政権を掌握した。劉曜が長安に侵攻すると劉曜を撃破した。劉曜が北地郡を包囲すると、大都督・驃騎将軍となって救援に向かったが、劉曜の反間の計によって軍勢は壊滅し、大敗北を喫した。よこしまな人間を重用するなどして人心を失った。建興四年(316)、長安が劉曜によって包囲されると、打つ手なく飢餓に苦しんで降伏した。愍帝に随行して平陽に赴いたが、劉聡によって愍帝が侮辱されているのに憤慨して自殺した。劉聡によって車騎将軍を追贈され、節愍侯と諡された。

 焦嵩(生没年不詳)は安定郡の人である。当初は軍勢を率いて雍県に割拠していた。安定太守になり、鎮西将軍を加官された。劉曜が長安に迫ると長安救援に赴いたが、長安敗北後に焦嵩も侵攻を受けて壊滅した。

本文

麹允は金城郡の人である。游氏とともに代々豪族で、西部の州では次のように語っていた。「麹と游は〔飼っている〕牛と羊の頭数を数えない。南に朱い門を開き、北に青い高殿を望む。」

洛陽が陥落したので(311)、閻鼎らは長安にて秦王〔司馬鄴(愍帝)〕を皇太子として擁立し(312)、閻鼎は百官を統括した。麹允は当時安夷護軍・始平太守であったが、閻鼎の功績をねたみ、なおかつ権勢を求めていたので、閻鼎が京兆太守の梁綜を殺害すると、梁綜の弟である馮翊太守の梁緯らとともに閻鼎を攻めて敗走させた(1)。まもなく雍州刺史の賈疋が〔匈奴の〕屠各部によって殺されたので、麹允が雍州刺史に代わった。

愍帝が皇帝に即位すると(313)、麹允は尚書左僕射・領軍将軍・持節・西戎校尉・録尚書事になり、雍州刺史はこれまでどおり務めた。その時劉曜、殷凱(2)、趙染(3)が率いる数万の軍勢が長安に迫っていたが、麹允は劉曜らを撃破し、戦場にて殷凱を生け捕った。劉曜が今度は北地郡を攻撃すると、麹允は大都督・驃騎将軍になり、青白城(4)に駐屯して北地郡を救援した。劉曜は〔麹允の救援軍について〕聞くと方向を転じて上郡に侵攻したので、麹允は霊武に駐屯したが、兵が弱かったため思い切って進むことができなかった。劉曜はその後再び北地郡を包囲すると、〔北地〕太守の麹昌は使者を派遣して救援を求めたので、麹允は歩兵と騎兵を率いて救援に向かった。〔北地郡の郡〕城を離れること数十里であったが、多くの賊は城を囲んで火を放ち、立ち上る煙は空を覆い、〔麹允軍の間者に見せかけた〕偽の間者を送り出して麹允を騙して次のように伝えさせた。「〔北地郡の〕郡城はすでに陥落し、すでにすべて燃えつくし、〔救援は〕間に合いませんでした。」麹允はこの話を信じ、軍勢は恐れて壊滅した。数日の後、麹昌は包囲を突破して長安に赴いたが、北地郡は結局は陥落した。

麹允の性格は情け深く親切だったが、威風や決断力がなく、呉皮や王隠の輩は才能がなくよこしまな人間であったが、みな爵位を加重し、新平太守の竺恢、始平太守の楊像、扶風太守の竺爽、安定太守の焦嵩はみな四征や四鎮将軍に任じて節を与え、侍中や常侍を加官し、村の砦の指導者のような身分の低い者にも高い官職や将軍の号を与えて、大衆の心を慰撫して団結させようとした。しかし諸将は驕り高ぶり、恩恵は下級の人々には及ばず、人心はひどく離れていき、このため羌族や胡族はこれに乗じて跋扈し、関中は混乱し、劉曜は再び長安を攻めたので、民衆の飢餓は甚だしく、死者は人口の半数を優に超えた。しばらくして〔長安〕城中は逼迫し、愍帝は降伏する際に、悲嘆して言った。「私に事を誤らさせたのは麹允と索綝の二公だ。」愍帝は平陽に至ると、劉聡によって幽閉されて侮辱されたので、麹允は地に伏して泣き叫んで立ち上がることができなくなった。劉聡はたいへん怒って、麹允を牢獄に入れると、麹允は憤りを発して自殺した(5)。劉聡は麹允の忠烈を評価し、車騎将軍を追贈し、節愍侯と諡した。

焦嵩は安定郡の人である。当初は軍勢を率いて雍県に割拠していた。劉曜が長安に迫ると、麹允は焦嵩に危難を告げたが、焦嵩はもともと麹允を見下していたので、言った。「麹允は必ずや困迫するであろうから麹允を救援しなければならない。」〔そして救援に赴いた(6)。〕長安が敗北すると、まもなく焦嵩も〔劉曜の〕侵攻を受けて壊滅した。

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