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晋書巻八十九
列伝第五十九
周該
人物簡介

周該(?〜322)は天門郡の人である。永昌元年(322)、王敦が挙兵すると、宜都内史である叔父の周級の命令を受けて共闘の打診のため譙王司馬承のもとに赴いた。帰途に王敦配下の魏乂に捕らえられ、拷問の末に死んだが、最後まで自白しなかったため、周級は難を逃れた。

本文

周該,天門人也。性果烈,以義勇稱。雖不好學,而率由名教。叔父級爲宜都内史,亦忠節士也。聞譙王承立義湘州,甘卓又不同王敦之舉,而書檄不至,級謂該曰:「吾嘗疾王敦挾陵上之心,今稱兵構逆,有危社稷之勢。譙王宗室之望,據方州之重,建旗誓衆,圖襲武昌。甘安南少著勇名,士馬器械當今爲盛,聞與譙王剋期舉義。此乃烈士急病之秋,吾致死之時也,汝其成吾之志,申款于譙王乎?」該欣然奉命,潛至湘州,與承相見,口陳至誠。承大悦。會王敦遣其將魏乂圍承甚急,該乃與湘州從事周崎間出反命,倶爲乂所執,考之至死,竟不言其故,級由是獲免王敦之難。

周該は天門郡の人である。その性格は果烈で、義勇で有名であった。好学ではなかったが、儒教の教えを守っていた。叔父の周級は宜都内史であり、同じく忠節の士であった。〔王敦が挙兵すると、〕譙王司馬承が湘州で義旗を上げており、甘卓もまた王敦の挙兵に同調しなかったのを聞き、〔彼らからの連絡の〕文書もない状況の下、周級は周該に言った。「私はかつて王敦が皇帝陛下を侵犯しようともくろんでいたのを憎んでいた。今彼は挙兵して反逆し、社稷を危うくする勢いがある。譙王は王室の希望で、州郡の重きを拠有しており、旗を立て軍勢を戒め、武昌を襲撃するのを計画している。甘安南将軍(甘卓)は若くして勇名が高く、兵士や軍馬や武器が現在盛んなほうで、譙王と期限を定め決起するらしい。これは烈士が困難を急ぐ時期で、私が死ぬべき時なのだ。あなたは私の志を全うし、譙王に私の誠意を申し上げてくれないか?」周該は欣然として命令をうけたまわり、密かに湘州に至り、司馬承と会い、至誠の意を口上した。〔そのため〕司馬承は大喜びした。ちょうど王敦が部将の魏乂を遣わして司馬承を攻囲するという甚だしく急迫な状況に遇ったので、周該は湘州従事の周崎と前後して復命をしに湘州を出たが、二人とも魏乂に捕らえられてしまった。拷問されて死に至ったが(1)、結局顛末を言わなかった。周級はそのために王敦の難を免れ得た。

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